論理の迷宮
『おままごとの地獄』から生還した俺の精神は、深刻な知的ダメージを負っていた。
俺の思考OSは、ロザリンド・フォン・エーデルシュタインという名の予測不能なバグによって、その処理能力の限界を露呈したのだ。
時計塔の最上階。俺たちの城と化したその場所で、俺は床に広げた羊皮紙を前に腕を組んで瞑目していた。
羊皮紙に描かれているのは『公理の構築者』の設計図ではない。
そこに描かれているのは、俺が記憶の限りを尽くして再現したロザリンドの行動フローチャートと、彼女が発した非論理的な言明の数々だった。
「……先生、まだそのお姫様のことを考えているのかよ。あんたのそのイカれた頭脳が、本気で壊れちまったんじゃないだろうな?」
窓枠に腰掛けナイフを研ぎながら、フリントが呆れたように言った。
彼は俺がこの数日間、古代文明の解析よりも優先して一人の少女の分析に没頭していることを、不可解なものとして観測していた。
「問題ありません。これは私の論理体系に紛れ込んだバグを修正するためのデバッグ作業です。前回の敗因は、私が彼女のゲームにおいて受動的な観測者に徹してしまったことにあります。今回は違う」
俺は静かに目を開き、フリントに、そして何よりも自分自身に宣言した。
「今回は私がゲームのルールを定義する。目的、勝利条件、行動の制約を最初に設定し、彼女という混沌を私の論理の支配下に置く。これは、そのためのシミュレーションです」
俺の言葉に、フリントはナイフを研ぐ手を止め、心底信じられないものを見るような目で俺を見つめた。
「……嵐に『ルール通りに吹け』って交渉するようなもんだぜ、そりゃ。ま、あんたがそれで満足なら、俺は止めねえがな」
彼の言うとおりだ。常識的に考えれば、無謀きわまりない試みだろう。
だが、俺は物理学者だ。未知の現象を前にして観測と実験を放棄するという選択肢は、俺の思考OSには存在しない。
そして、運命の日は再び訪れた。
母ヘレナによる『政治的投資』という名の強制召喚状によって、俺は3度、エーデルシュタイン公爵家の茶会へと足を踏み入れていた。
今日の俺は、ただの参加者ではない。この非論理的な空間を俺の論理で再構築するための、挑戦者だ。
案の定、俺の姿を認めたロザリンドが、蝶のようにひらひらと駆け寄ってくる。
「ゼノちゃん! お待ちしておりましたわ! さあ、今日はどんな素敵な遊びをいたしましょう?」
その無垢な瞳が、俺を再びあの混沌の迷宮へと誘おうとしている。だが、俺は彼女のペースに乗る前に先手を打った。
「ロザリンド様。本日の遊戯を開始する前に、まずその構造を定義しませんか?」
俺は、4歳の幼児という擬態を完璧に維持しながら、可能な限り丁寧な、しかし明確な論理的提案を彼女に提示した。
「構造、ですの?」
ロザリンドは不思議そうに小首を傾げた。彼女の語彙データベースに、その単語は存在しないのかもしれない。
「ええ。つまり、遊びのルールを最初に決めるのです。第一に、この遊びの目的は何か。第二に、どうなれば勝ち、つまり『終了』となるのかという勝利条件。第三に、行ってはいけない行動、つまり行動の制約。これらを最初に設定すれば、我々はより効率的に、そして論理的に、遊戯を楽しむことができるはずです」
完璧な提案だ。ゲーム理論の基礎。
これならば、あの無限に続く『おままごとの地獄』を回避できるはずだ。
俺の完璧な論理。それを聞いたロザリンドは、数秒間ぱちぱちと瞬きを繰り返した。彼女の思考OSが、俺の入力した未知のコマンドを処理しようとしているのか。
(……いけるか? 俺の論理が、彼女のシステムに届くか?)
だが、次の瞬間。彼女の顔は、ぱあっと、これまでで一番の笑顔に輝いた。
「まあ、素敵なお話ですわ! さすがはわたくしの騎士様! そんなに難しいことをお考えになれるのね!」
(……違う。そうじゃない。俺の提案の論理性を評価しろ。俺の知性を褒めるな)
俺の思考が警報を発するが、もう遅い。彼女は俺の提案を、その論理的内容ではなく、ただ「難しいことを言っている」という表層的な事実だけを抽出し、それを『素敵』という彼女自身の価値基準で評価してしまったのだ。
そして、彼女は俺の論理的上書きを、その天真爛漫さで完全に、そして無慈悲に無効化した。
「では、決めましたわ! 今日はゼノちゃんの素敵なお話にちなんで、お花でお城を作るゲームにしましょう!」
(……エラー。エラーだ。俺の入力したコマンドが全く予期せぬ結果を出力した。なぜだ? なぜ『ルールの定義』という提案が、『花でお城を作る』という全く別のゲームの開始トリガーになる? 論理的接続が完全に欠落している)
俺はなすすべもなく彼女に手を引かれながら、思考の迷宮へと深く沈み込んでいった。
(駄目だ。この個体のOSは、外部からの論理的なコマンドを受け付けない仕様になっている)
(ならば、アプローチを変える。彼女の行動を直接制御しようとするのではなく、彼女の『欲求』をこのシステムの揺るぎない公理として設定し、その公理に基づいて彼女の次の行動を予測するモデルを構築する)
(そうだ。彼女の行動はランダムに見えるが、その根底には『素敵』『楽しい』といった彼女自身の欲求を満たすという明確な目的があるはずだ。その欲求のパターンを読み解けば、予測は可能になるはずだ)
俺は、新たな戦略を構築した。今日の俺は、挑戦者ではない。純粋な観測者だ。
彼女の行動の一つひとつをデータとして収集し、その背後にある『ロザリンド公理系』を解き明かす。
俺たちは庭園の一角で、色とりどりの花びらを摘み始めた。ロザリンドは、嬉々として赤い薔薇の花びらを集めている。
(観測を開始する。彼女は現在、赤色を優先的に収集している。仮説1:彼女の現在の美的嗜好は『赤』である。予測:彼女は次に、同じく赤色のチューリップへと向かう)
だが、ロザリンドは俺の予測を嘲笑うかのように、次に手に取ったのは青色の勿忘草だった。そして、その隣に咲いていた黄色のタンポポを摘み、満足そうに頷いている。
(……予測失敗。色の連続性はない。ならば、仮説2:形状か? 薔薇、勿忘草、タンポポ……形状にも一貫性が見られない)
俺の思考が混乱する中、ロザリンドは突然花びらを集めるのをやめ、足元の小さな白い石ころを拾い上げた。
「まあ、見てくださいまし、ゼノちゃん! この石ころ、まるで雲のようですわ! お城のてっぺんに飾りましょう!」
(……石? なぜここで石ころというパラメータが介入する? 花でお城を作るという当初の目的設定はどこへ行った? 目的そのものが、リアルタイムで変異しているのか?)
俺の思考が、再びフリーズする。
(……いや、待て。その公理そのものが観測するたびにランダムに変動している。これはシステムではない。これは、完全な混沌だ)
その結論に至った瞬間、俺の背筋を前世で超新星爆発の論文を読んだ時以来の知的戦慄が駆け抜けた。
俺は、とんでもない勘違いをしていた。
俺は、彼女を『解析』しようとしていた。だが、それは嵐の気まぐれな動きを一本の方程式で記述しようとするのと同じくらい、愚かな試みだったのだ。
彼女は、論理ではない。
彼女は、法則ではない。
彼女は、ただ、そこに存在する、純粋なカオスそのものだ。
俺の知性は、秩序を解析し法則を見出すことには特化している。だが、法則のない純粋な混沌を前にしては、何の役にも立たない。
俺は、完全に敗北した。
俺がすべての思考を放棄し、ただ無心で花びらを並べていると、ロザリンドが俺の作った幾何学的に完璧な円形の花壇を覗き込み、悲しそうに眉を寄せた。
「まあ、ゼノちゃんのお城は、なんだか寂しそうですわね」
彼女はそう言うと、どこからか持ってきた一枚の緑の葉っぱを、俺の円の中心にぽつんと置いた。
「こうすれば、もっと可愛らしくなりますわ!」
その瞬間、俺の完璧な円は、ただの「葉っぱが置かれた円」になった。俺の秩序は、彼女の『可愛い』という一言でいとも容易く破壊された。
だが、その破壊された円はなぜだろう。確かに、先ほどよりもどこか『生きている』ように見えた。
(……これが、彼女の論理なのか? 秩序を破壊し予測不能な変数を加えることで、新たな『価値』を生み出す。…いや、違う。そこに論理などない。ただ、彼女がそう感じた。それだけだ。それだけのことが、この世界では絶対的な真実としてまかり通るのか)
茶会が終わり、ヴィリジアン邸への帰りの馬車の中、俺は窓の外を流れる景色を眺めながら、ぐったりと座席に身を沈めていた。
隣に座る母ヘレナが、俺の様子を窺うように静かに問いかけてきた。
「ゼノ。今日は、何か新しい『発見』はありましたか?」
その声には、すべてを見透かしたような微かな笑みが含まれていた。
俺は母の顔を見ることなく、ただ一言、絞り出すようにつぶやいた。
「……母上。私は、出口のない迷宮を発見しました」
俺の孤独で合理的な探求の道に、ロザリンド・フォン・エーデルシュタインという名の、出口のない、そしておそらくは解くことのできない迷宮が立ちはだかった瞬間だった。




