おままごとの地獄
ロザリンド・フォン・エーデルシュタインという名の解析不能な論理法則に遭遇してからというもの、俺の思考の大部分は彼女という名の超難解な数式の解明に費されていた。
時計塔の最上階で『公理の構築者』の設計図を解析している時間でさえ、俺の思考のバックグラウンドでは常に彼女の行動予測シミュレーションが走り続けていた。
だが、全ての計算はエラーを吐き出し予測モデルはことごとく崩壊する。
彼女の思考OSは、俺が知るいかなる論理体系とも異なっていた。
そして今日、俺は再びあの知的戦場――エーデルシュタイン公爵家の茶会へと送り込まれていた。
母ヘレナによる「政治的投資」という抗いがたい合理的理由によって。
「先生、本当に大丈夫かよ。顔色がこの前の『灰色の猟犬』どもより悪いぜ」
ヴィリジアン邸の門前で、俺を馬車に乗せる侍女エリアナの死角からフリントが心配そうに声をかけてきた。
彼は俺の護衛と称して、最近では頻繁に屋敷の周辺を嗅ぎ回っている。
「問題ありません。これは未知の物理法則を観測するための重要なフィールドワークです」
「ふーん。ま、死ぬなよ先生。あんたの頭脳はまだ俺の資産なんだからな」
フリントはそう言うと煤壁通りの闇へと溶けていった。
彼の言う通りだ。これは俺の知性の生存を賭けた、極めて危険な実験なのだ。
庭園に到着すると、その懸念は即座に現実のものとなった。
俺の姿を認めたロザリンドが、蜂蜜色の縦ロールを揺らし満面の笑みで駆け寄ってくる。
「ゼノちゃん! 今日も会えましたわね! さあ、今日はわたくしとおままごとをいたしましょう!」
(……来たか。予測されていた最悪のシナリオだ)
おままごと。目的も勝利条件も論理的整合性も存在しない、純粋な混沌のシミュレーション。
前回の茶会で俺の論理を完膚なきまでに破壊した、あの非生産的遊戯。
だが、今日の俺は違う。前回の敗北から俺は新たな戦略を構築した。
(今日の俺は、このゲームの支配権を奪う。目的とルールを俺が再定義し、可能な限り効率的にこの無意味な時間を終了させる)
俺はなすがままに彼女に手を引かれながら、内心で冷徹な計算を始めていた。
庭園の一角に設けられた子供たちのための遊戯スペース。そこには小さなテーブルと椅子、そして木製の食器や人形が並べられている。
ここが今日の俺の戦場だ。
「では、決めましたわ! わたくしがお姫様で、ゼノちゃんはわたくしを守る勇敢な騎士様ですわ!」
ロザリンドは一方的に役割を宣告した。
俺の思考は、その非合理的な設定を即座に解析し最適解を導き出す。
(役割設定を観測。お姫様と騎士。なるほど。ならばこのゲームの目的は『姫の護衛』。勝利条件は『姫を脅かす脅威の排除』。シンプルだ。これならば速やかに終了させられる)
「さあ、騎士様! あそこにわたくしたちのお城を襲おうとしている、悪のドラゴンがいますわ! やっつけてくださいまし!」
ロザリンドが指差したのは庭の植え込みだ。もちろん、そこにドラゴンなど存在しない。
(敵の存在を確認。脅威度はゼロ。迎撃の必要はない。最も効率的な解決方法は『仮想的な迎撃』を演じ、彼女の満足度を最大化し速やかにゲームを終了させることだ)
俺は近くに落ちていた手頃な木の枝を拾い上げ、それを剣に見立てて構えた。
そして植え込みに向かって、前世で見た映画の殺陣を参考に数回、形式的に振り下ろす。
「……迎撃完了。ドラゴンの排除を確認しました。これにて任務終了です」
俺は木の枝を捨て、完璧な任務完了報告を行った。これでこの非生産的な時間は終わるはずだ。
だが。
ロザリンドは俺の完璧なロジックを、まるで存在しないかのように無視した。
「まあ、大変! 今のはただの斥候でしたわ! 本隊である魔王様の大軍団が、もうすぐこのお城に攻めてきますのよ!」
(……エラー。勝利条件が満たされていない? いや、違う。勝利条件そのものが、リアルタイムで書き換えられた?)
俺の思考に初めて予測不能なエラーが発生した。
このゲームのルールは固定されていない。彼女の気まぐれという完全にランダムな変数によって、常に変異し続けるのだ。
「さあ、騎士様! 戦の前に腹ごしらえをしなければなりませんわ! 勇敢な騎士様のために、わたくしが心を込めて美味しいお弁当を作ってあげますわね!」
(……なんだと? ゲームのジャンルが戦闘シミュレーションから、突然料理シミュレーションへと移行した? 論理的接続が皆無だ)
ロザリンドはそう言うと、テーブルの上に庭の花びらや葉っぱ、そしてそこらの土を並べ始めた。
「さあ、ゼノちゃんも手伝って! これは美味しいお肉ですわよ!」
彼女が俺に差し出したのは泥の塊だった。
(……これは地獄だ)
俺は生まれて初めて、論理の通用しない純粋な狂気の世界に足を踏み入れたことを自覚した。
俺の知性は、この泥の塊を「食材」として認識することを頑なに拒絶している。だが、ロザリンドの無垢な瞳は俺に選択の余地を与えない。
俺は生まれて初めて、自らの意志とは無関係に泥をこね始めた。
(……この泥の塑性限界は…。いや、違う。これは食材だ。ならば最適な調理法は…焼く? 煮る? そもそもこの世界の細菌学的なリスクを考慮すれば、経口摂取は…)
俺の思考が現実と虚構の境界で、激しい混乱を起こしている。
俺が物理学者としての知識を総動員して最も衛生的な泥団子を作ろうと試みていると、ロザリンドが俺の手元を覗き込み不満そうに頬を膨らませた。
「まあ、ゼノちゃん! そんな作り方では美味しくなりませんわ! もっと愛情を込めなければ!」
愛情。またしてもあの定量化不可能な変数。
彼女はそう言うと、俺が作った完璧な球形の泥団子をぐしゃりと潰しそこに雑草を突き刺した。
「こうですわ! こうすればもっと可愛くて、もっと美味しくなりますの!」
俺の最適化された泥団子は無残なオブジェへと変貌した。
知的敗北。それは俺がこの世界に来てから何度目かの屈辱だった。
泥の弁当が完成するとロザリンドは満足そうに手を叩き、そしてまたしても唐突に新たなルールを追加した。
「さあ、お弁当もできましたし、次はお城の飾り付けですわ! 兵士さんたちの士気を上げるために、お城をもっと素敵にしなければなりませんもの!」
(……もう何も言うまい。このシステムのOSはカオス理論そのものだ。予測は不可能。観測し、受け入れ、そして耐えるしかない)
俺は完全に思考を放棄した。
俺たちは近くに落ちていた小石や花びらで、存在しない城の飾り付けを始めた。
俺は全ての論理的思考をシャットダウンし、ただロザリンドの指示に従うだけの単純な作業機械と化した。
「まあ、素敵! ゼノちゃんは本当にセンスがありますわね!」
俺がただ無心で並べただけの石ころを、彼女は心の底から賞賛する。
その純粋な好意が俺の精神をさらに蝕んでいく。
どれくらいの時間が経っただろうか。
俺のCPUは、この無限に続く非論理的なタスクの連続によって完全にオーバーヒート寸前だった。
(……なぜだ? なぜ終わらない? このゲームの終了条件はどこにある? 敵はいない。勝利もない。ただ無意味なタスクが次から次へと生成されていくだけだ。これは…これは拷問だ。知的生命体に対する最も残酷な拷問だ)
俺は前世で聞いたシーシュポスの神話を思い出していた。
山頂まで岩を運び上げると、その岩は麓まで転がり落ちる。それを永遠に繰り返す。
今の俺はまさにそれだった。
論理という岩を彼女の非論理という山の頂まで運び上げようとするたびに、彼女の「その方が素敵じゃない?」という一言で無慈悲に突き落とされる。
その時だった。
「ロザリンドお嬢様、ゼノ様。お茶会の終了のお時間でございます」
侍女の声がまるで天からの啓示のように響き渡った。
(……終了? この地獄に終わりが…存在するのか?)
俺の思考がようやく再起動を始める。
「まあ、もうそんな時間ですの? 仕方ありませんわね。ゼノちゃん、今日は本当に楽しかったですわ! また今度、この続きをいたしましょうね!」
ロザリンドは心底名残惜しそうにそう言うと、俺の手をぎゅっと握った。
(……続き、だと…?)
その言葉は俺の魂に、絶望という名の新たな呪いを刻み込んだ。
ヴィリジアン邸への帰りの馬車の中、俺は窓の外を流れる景色を眺めながらぐったりと座席に身を沈めていた。
肉体的な疲労は皆無だ。だが、精神的な消耗は奈落の底で魔物と死闘を繰り広げた時の比ではなかった。
俺の知性は、この世界の物理法則をハッキングし裏社会の経済法則さえも操作した。
だが、ロザリンド・フォン・エーデルシュタインというたった一人の少女が作り出す、あまりにも個人的であまりにも絶対的な『おままごと』という名の法則の前では、何の役にも立たないガラクタに過ぎなかった。
(……フリントに報告しなければ。俺たちの計画に新たな、そして最大の脅威が確認された、と。その名はロザリンド。彼女は俺の知性そのものを内部から破壊する、最強の兵器だ)
俺の孤独で合理的な探求の道に、予測不能で非合理的で、そして何よりも恐ろしい新しい壁が立ちはだかった瞬間だった。




