解析不能な論理
エーデルシュタイン公爵家の茶会から数日後。
俺は、城となった時計塔の最上階で一つの難問に頭を悩ませていた。
床に広げられた羊皮紙には『公理の構築者』が遺したであろう複雑な幾何学模様が描かれている。
だが、俺の思考はそこにはなかった。
俺の思考を占拠しているのは古代文明の超技術ではなく、たった一人の少女の予測不能な行動と思考アルゴリズムだった。
個体名、ロザリンド・フォン・エーデルシュタイン。
「……で、先生。そのお姫様が、そんなにヤベェのか?」
窓枠に腰掛け眼下に広がる煤壁通りを眺めながら、フリントが退屈そうに言った。
俺は彼に先日遭遇したこの未知の生命体に関する観測データを共有していた。
「ヤバイという表現は不正確です。正確には、解析不能なのです」
「解析不能ねぇ。先生のそのイカれた頭脳でも分かんねえことがあるってのか」
「ええ。彼女の思考OSは俺がこれまで観測してきた、いかなる人間のそれとも異なる。論理でも利益でもない。全く未知の公理系で稼働している。あれは…システムのバグだ。あるいは全く新しい物理法則そのものかもしれない」
俺の真剣な分析にフリントは心底どうでもよさそうに肩をすくめた。
「ふーん。ま、ガキなんてそんなもんだろ。俺の周りのチビどもも訳の分かんねえことばっか言ってるぜ。それより先生、次の儲け話はまだかよ?」
(……駄目だ。彼にはこの問題の重要性が理解できない。彼の思考モデルは生存と利益という、極めて実利的なパラメータに最適化されている。ロザリンドという存在は彼の観測範囲外の事象だ)
俺はため息をつき、再びロザリンドのデータ分析に戻った。
彼女の言動、表情、周囲の反応。その全てをパラメータとして入力し、彼女の行動原理を記述するための方程式を構築しようと試みる。
だが、何度計算しても結果は常にカオスに収束する。
この知的敗北感。前世の物理学者としての人生でも味わったことのない屈辱だった。
そしてその屈辱を再び味わう機会は、俺の予想よりも遥かに早く訪れた。
母ヘレナが再びエーデルシュタイン公爵家からの茶会の招待状を、俺の目の前に差し出したのだ。
再び、エーデルシュタイン公爵家の壮麗な庭園。
俺は前回と同じように完璧な令嬢として擬態し、壁際で紅茶を口に運びながらこの小さな生態系を観測していた。
だが、今日の俺には明確な目的があった。
(観測フェーズは終了した。今日、俺は実験フェーズへと移行する。ロザリンドという未知のシステムに対し複数の論理的アプローチを試み、その応答を観測することで彼女の思考OSの根幹にある公理を特定する)
俺が戦略を練っていると、その観測対象はまるで俺の思考を読んだかのように一直線にこちらへやってきた。
「ゼノちゃん! 今日もいらしていたのね! わたくし、あなたに会えるのを楽しみにしていましたのよ!」
蜂蜜色の縦ロールを揺らし一点の曇りもない青い瞳を輝かせながら、ロザリンドは俺の手を掴んだ。
その純粋な好意の質量に、俺の思考が一瞬圧迫される。
「さあ、ゼノちゃん! 今日はあちらで、一緒にお空の絵を描きましょう!」
(……好都合だ。彼女からの能動的なアプローチ。これは実験の絶好の機会だ)
俺はなすがままに彼女に手を引かれながら、最初の実験計画を実行に移した。
庭園の一角に用意されたイーゼルと画用紙の前に座らされると、ロザリンドは嬉しそうに青い絵の具をパレットに出した。
「見て見て、ゼノちゃん! この青、今日のお空の色とそっくりですわ! お空がこんなに青いのはきっと、太陽の神様が世界で一番美しい青色の絵の具を、雲の筆で塗ってくださったからに違いありませんわ!」
彼女は絶対的な真実を語る預言者のように胸を張って言った。
周囲の侍女たちが「まあ、なんて詩的な表現でしょう」と微笑ましげに頷いている。
(……実験を開始する。仮説1:彼女の非科学的な言明は単なる知識不足に起因する。論理的かつ平易な科学的真実を提示すれば、彼女の認識は修正されるはずだ)
俺は四歳の幼児という擬態を維持しつつ、可能な限り分かりやすい言葉を選んで彼女の仮説を訂正することにした。
「……ロザリンド様。空が青く見えるのは物理的な現象です。太陽の光には様々な色の光が含まれています。その中で青い光は空気中の小さな粒子にぶつかると、他の色よりも散乱しやすい性質を持っています。その散乱した青い光が我々の目に届くため、空は青く見えるのです。絵の具ではありません」
レイリー散乱の基本原理。前世ならば小学生でも理解できるレベルの科学的常識だ。
俺の完璧な説明にロザリンドは数秒間、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
(……データを受信中か? 新しい情報に基づき、自身の認識モデルを更新しているのか?)
だが、次の瞬間、彼女の口から出力されたのは俺の予測を完全に裏切る言葉だった。
「まあ、ゼノちゃんは物知りですのね! でも、わたくしの考えの方が、素敵じゃない!?」
(……エラー。論理的整合性が完全に崩壊している)
俺の頭脳が警報を発した。
彼女は俺の提示した論理的正しさを理解した上で、それを自らの『素敵』という極めて主観的で定義不可能な価値基準によって棄却したのだ。
「神様が絵の具で塗ってくださった方がずっとロマンチックで、夢があって素敵ですわ! ゼノちゃんの言う『さんらん』? は、なんだか難しくてちっとも素敵ではありませんもの!」
彼女はそう言うときゃっきゃと笑いながら、画用紙に真っ青な空を描き始めた。
俺の論理は彼女の世界では、ただの「素敵じゃない、つまらないお話」として処理された。これが知的生命体同士の対話だというのか?
(……仮説1、棄却。彼女の思考OSは客観的真実よりも、主観的な『素敵』という感情パラメータを最上位の公理として設定している可能性が高い。ならばアプローチを変更する。実験2を開始)
俺は別のテーマで彼女の論理構造を探ることにした。
俺は庭園に咲き誇る一輪の深紅の薔薇を指差した。
「ロザリンド様。あの薔薇はなぜあのように良い香りがするのだと、お考えですか?」
「まあ、簡単なことですわ! それは夜の間に花の妖精さんが、魔法の香水を振りかけてくださったからですわ! だから朝のお花は一番良い香りがするのよ!」
(……妖精。香水。またしても非科学的な説明だ。だが、今度は訂正しない。彼女の論理に一度乗ってみる)
「なるほど。では、なぜ妖精さんは香水を振りかけるのですか? その行動の目的は?」
俺は彼女の物語の内部から、その論理的整合性を問うた。これならば彼女も答えられるはずだ。
だが、ロザリンドはきょとんとした顔で首を傾げた。
「目的? そんなもの、ありませんわ」
「……ありません、とは?」
「妖精さんはお花が大好きだから、お花がもっと素敵になるように香水を振りかけてあげるのですわ。そこに理由なんてありません。好きだから、する。ただそれだけですわ!」
(……目的のない行動。純粋な好意に基づく非合理的な利他行動。理解不能だ。全ての行動には生存戦略上の目的と、それに伴うコスト計算が存在するはずだ。この個体の論理は因果律そのものを無視している)
俺の思考が再び迷宮に迷い込む。俺の知性は目的のない現象を、どう処理すればいいのか分からない。
やがて侍女がおやつの時間だと告げ、テーブルに美しいケーキが運ばれてきた。
ロザリンドは嬉しそうにそれを頬張り、至福の表情を浮かべている。
「んー、美味しいですわ! このケーキがこんなに美味しいのは、パティシエさんがわたくしたちのために愛情をいーっぱい込めて作ってくださったからですわね!」
(……愛情。またしても定量化不可能な変数だ。だが、これが最後の実験だ)
俺は最後の力を振り絞って彼女に問いかけた。
「ロザリンド様。その『愛情』というパラメータはケーキの味覚に、具体的にどのような影響を与えるのですか? 例えば糖度や食感を、どのように変化させるのですか?」
俺の問いにロザリンドはもぐもぐとケーキを咀嚼するのをやめ、心底不思議そうな顔で俺を見つめた。
そして飲み込むと、こう言った。
「ゼノちゃんは、本当に難しいことをお考えになるのね」
彼女はそう言うと、ふふっと悪戯っぽく笑った。
「愛情は全部を美味しくする魔法ですわ。理屈なんてありません。だってその方が、幸せじゃない!」
その瞬間、俺は完全に理解した。
俺の敗北だ。
俺は彼女の論理を解析しようとしていた。だが、それは根本的な間違いだった。
彼女の世界に俺が知るような『論理』は存在しないのだ。
彼女の世界を支配する唯一の法則。それは『素敵』であること。『ロマンチック』であること。『好き』であること。そして『幸せ』であること。
それらの感情が客観的な真実や物理法則よりも常に優先される。彼女の思考OSはそういう風に設計されている。
いや、違う。彼女自身がその法則の体現者なのだ。
俺の知性は、この世界の物理法則をハッキングし裏社会の経済法則さえも操作した。
だが、このロザリンド・フォン・エーデルシュタインというたった一人の少女が作り出す、あまりにも個人的であまりにも絶対的な法則の前では、何の役にも立たないガラクタに過ぎなかった。
俺はなすすべもなく、彼女が差し出してきたケーキの一切れをただ黙って口に運んだ。
甘い。確かに美味しかった。
茶会が終わりヴィリジアン邸への帰りの馬車の中、俺は窓の外を流れる景色を眺めながらぐったりと疲弊していた。
隣に座る母ヘレナが俺の様子を窺うように、静かに問いかけてきた。
「ゼノ。今日は何か新しい『発見』はありましたか?」
その声には全てを見透かしたような、微かな笑みが含まれていた。
俺は母の顔を見ることなく、ただ一言呟いた。
「……母上。この世界は俺が思っていた以上に、非合理的です」
俺の孤独で合理的な探求の道に、予測不能で非合理的で、そして何よりも厄介な新しい壁が立ちはだかった瞬間だった。




