解析不能な父の憂鬱
揺り籠の上に大きな影が落ちた。
俺は思考を中断し、網膜が捉えた映像データを解析する。
個体を識別。サイラス・ヴィリジアン。この世界の俺の父だ。
彼は、この世界の人間が「愛情深い微笑み」と定義するであろう表情を浮かべ、俺を覗き込んでいる。
口角が上がり、目尻が下がる。彼の顔面を構成する筋肉群の極めて複雑な、しかしパターン化された動き。
それだけではない。俺の知覚は彼の身体から発せられる、より根源的な情報を捉えていた。
彼の魂の設計図、オドの流れだ。その流れは穏やかで温かい。
パラメータは安定しており、俺に対する強い保護欲と親愛の情を示している。
(感情パラメータ:愛情。出力は安定、高水準を維持。合理的だ。親が子を保護することは、自らの遺伝情報を次世代に継承するための最も基本的な生存戦略なのだから)
俺は彼の期待に応えるため、自らの顔面筋肉を制御し、乳児が示すとされる典型的な反応……「笑い」に似た表情を出力する。
口角を僅かに上げ、喉を震わせる。非効率な作業だ。
その瞬間、サイラスの表情が僅かに、しかし明確に強張った。
彼のオドの流れに高周波のノイズが混じる。愛情という安定した波形に、不規則で予測不能な乱れが生じた。
(……なんだ? 感情パラメータに異常を検知。愛情に加えて……恐怖? なぜだ。俺は彼の期待通りの反応を返したはずだ。生存戦略上の合理性が見出せない)
サイラスは俺の翠眼をただじっと見つめていた。
俺もまた彼を見つめ返す。彼の瞳孔の収縮率、眼球の微細な震え、涙腺の湿度。
その全てを客観的なデータとして収集し、解析する。
俺は彼に愛情を求めているのではない。彼という未知の観測対象を理解しようとしているだけだ。
その視線が彼には耐え難いものらしかった。
彼はまるで何か恐ろしいものから目を逸らすかのように、ふいと顔を背けた。
そして震える声で、部屋の隅にいた妻ヘレナに話しかけた。
「……ヘレナ。ゼノの目が……時々、怖くなる」
母ヘレナ・ヴィリジアンは読んでいた本から顔を上げ、静かに夫を見つめた。
彼女のオドはサイラスのそれとは対照的に、常に冷静で乱れが少ない。
「まあ、あなた。何を馬鹿なことを。あの子はただ聡明なだけですわ」
「聡明……? あれはそんな次元の話ではない。あの子の目は赤子の目ではない。まるで魂の奥底まで見透かすような……まるで我々を『観測』しているかのようだ」
(……正解だ。俺は君たちを観測している)
俺は内心で呟く。だが、それを伝える術はない。
ヘレナは静かに立ち上がると、サイラスの肩にそっと手を置いた。
「あなたは少しお疲れなのですよ。学者としてこの子の才能が理解できてしまうからこそ、恐ろしいのでしょう。ですが、その才能は太陽神が我がヴィリジアン家に与えてくださった祝福に他なりません」
彼女の言葉は合理的だった。
未知の現象を既存の信仰体系の中に位置づけることで、恐怖という非合理的な感情を抑制しようとする極めて高度な心理操作だ。
だが、サイラスの恐怖はそれだけでは収まらなかった。
「祝福……? ヘレナ、君には分からないのか。あの子は我々が百年かけて積み上げてきた魔法物理学の体系を、生まれながらにして嘲笑っているのだぞ。あの子の存在そのものが、我々の知性への冒涜だ」
彼は再び俺の方を向いた。
その目には愛情と、それを上回る畏怖と、そしてほんの少しの……嫉妬が混じっていた。
(なるほど。彼の恐怖の根源は、俺の知性が彼の理解と制御の範囲を超えているという事実か。彼は自らが信じる秩序が、俺というイレギュラーな存在によって破壊されることを恐れているのだ)
彼の非論理的な感情は俺の解析モデルを乱すノイズだ。
不快だ。
理解できない。なぜ新しい真理の可能性を前にして歓喜ではなく恐怖を抱く?
なぜ未知の現象を解析対象ではなく、脅威として認識する?
この男……父は学者でありながら探求者ではない。ただの古い秩序を守るだけの門番に過ぎない。
その瞬間、俺はこの家族という最小単位の社会において、最初の、そして決定的な断絶を予感した。
俺の知性は彼らにとって祝福ではない。
ただの理解不能な異物なのだ。
サイラスは何かを振り払うように首を横に振ると、俺に背を向け書斎へと足早に去っていった。
残されたヘレナは静かに俺の揺り籠に近づくと、その翠眼を覗き込んだ。
彼女の瞳には恐怖はない。ただ冷徹なまでの探究心だけが宿っていた。
「……ゼノ。あなたはいずれこの世界を変えるでしょう。良い方向にか、悪い方向にかは分かりませんが。私の役目はそのときまで、あなたという『力』をヴィリジアン家という器の中に留めておくこと……」
彼女はまるで自分自身に言い聞かせるかのように呟くと、俺の額にそっとキスを落とした。
その唇は驚くほど冷たかった。
(個体名:母。感情パラメータ:打算、そして……期待か。父よりは遥かに合理的で理解しやすい。だが、彼女もまた俺を『俺』としてではなく、何かの『道具』として見ている)
俺はゆっくりと目を閉じた。
この世界で俺はたった一人だ。
この揺り籠の中も、そしてこの世界のどこを探しても、俺の知性を、俺の魂をありのままに理解する者は誰一人としていない。
ならば俺は探求を続けるだけだ。
この非効率で非合理的な、感情という名のノイズに満ちた世界を、俺の知性で一つずつ解き明かしていくしかないのだから。




