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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
二つの世界の邂逅

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29/68

無垢なる支配者

 時計塔での生活は、俺の精神にとってかつてないほどの知的興奮と平穏をもたらしていた。

 フリントという名の極めて優秀な外部インターフェースは、俺の研究に必要なあらゆるリソースを驚くべき効率で調達してくる。

 俺の知性はヴィリジアン邸という物理的・社会的な牢獄から解放され、この世界の根源法則の解析に何の障害もなく没頭できる環境を手に入れたのだ。


 だが、その平穏はある日、母ヘレナからもたらされた一通の招待状によって唐突に破られた。


「……茶会ですか」


 ヴィリジアン邸の自室。

 定期的な生存報告のために帰宅していた俺は、ヘレナから手渡された豪奢な羊皮紙を前に無表情のまま問い返した。


「ええ。エーデルシュタイン公爵家が主催する春の茶会よ。あなたももう四歳。ヴィリジアン家の娘として、そろそろ社交界に顔を見せておかなければなりません」


 ヘレナはいつものように冷静な、しかし有無を言わせぬ口調で言った。


(……非合理的だ。貴族の茶会などという生産性のない儀式に参加する時間的コストは、俺の研究計画に著しい遅延をもたらす)


 俺の思考は即座に拒絶の論理を組み立てる。だが、ヘレナの次の言葉がその論理を無効化した。


「この茶会には王族縁戚の方々も多く参加されます。あなたが将来アカデミーで自由に研究するためには、今のうちから有力な貴族とのコネクション(・・・・・・)を築いておくことが最も効率的な戦略です。そうでしょう?」


(……なるほど。彼女の思考は常に長期的かつ戦略的だ。これは単なる社交ではない。将来の研究環境を最適化するための政治的投資か)


 俺は彼女の提案の合理性を認めざるを得なかった。

 俺の知性がこの世界で機能するためには、フリントのような裏社会の物理学だけでなく、ヘレナが操る表社会の政治力学もまた解析し、利用すべき変数なのだ。


「……分かりました、母上。参加します」


 俺の返答にヘレナは満足げに微笑んだ。


 数日後。俺は侍女エリアナによって完璧に着飾られ、エーデルシュタイン公爵家の壮麗な庭園にいた。


 銀糸で繊細な刺繍が施された翠色のドレス。銀髪は複雑に編み込まれ、小さな宝石が星のようにきらめいている。

 四歳の幼児として完璧な擬態を維持している俺の外見は、この世界の基準では「庇護されるべき無力な存在」という極めて強力な認識フィルターを周囲に与える。


 庭園には俺と同じくらいの年頃の貴族の子女たちが、侍女や家庭教師に付き添われて集っていた。

 彼らの会話、服装、立ち居振る舞い。その全てが俺にとっては観測すべきデータだった。


(……興味深い。この子供たちの社会は成人のそれとは異なる独自の階層構造と行動規範によって支配されている。序列は親の爵位という絶対的なパラメータによって規定される。会話の内容は自らの優位性を誇示するための非効率な情報交換に終始している)


 俺はこの小さな生態系を冷静に分析しながら、誰とも関わることなくただ壁際で紅茶を口に運んでいた。

 俺の目的は、このシステムの観測とヘレナが指定した有力貴族への挨拶という最低限のタスクを完了させることだけだ。


 その時だった。


「まあ! なんて可愛らしいお人形さんでしょう!」


 甲高い、しかし鈴を転がすような無邪気な声が俺の鼓膜を揺した。

 声の主へと視線を向ける。そこに立っていたのは、俺よりも少しだけ背の高い蜂蜜色の髪を縦ロールにした少女だった。

 陽光を反射してきらめく豪奢なドレス、その瞳は一点の曇りもない空のような青色。

 彼女の周囲だけ空気が違う。まるで彼女一人だけがこの世界の物理法則から切り離されたかのような、絶対的な存在感。


(……個体を識別。感情パラメータ:純粋な好意、無垢。行動予測:不可能)


 俺の思考が初めてフリーズした。

 彼女の瞳には俺の知性や出自を値踏みするような光は一切ない。

 ただショーウィンドウに飾られた美しい人形を見つけた時のような、純粋な喜びと所有欲だけが浮かんでいた。


 少女は俺の返事を待たずにずんずんとこちらに歩み寄ってくると、俺の両手をむんずと掴んだ。


「あなた、お名前はなんていうの? わたくしはロザリンド! ロザリンド・フォン・エーデルシュタインよ! 今日からあなた、わたくしのお友達ね!」


 一方的な宣言。有無を言わせぬ決定。

 それはまるで世界の法則そのものが、そうであると規定したかのような絶対的な響きを持っていた。


(……なんだこの生物は? 俺の解析モデルが全く機能しない。彼女の行動原理は論理でも利益でもない。これは…バグ(・・)だ。修正不能なシステムのバグだ)


 俺は、この未知の変数に対してどう対処すべきか最適解を導き出せずにいた。


「……私はゼノ・ヴィリジアンです」


 かろうじて俺は自己紹介という、この社会における基本的なプロトコルを実行した。

 だが、ロザリンドはそんなことには一切興味がないようだった。


「ゼノちゃんね! 可愛い名前! ねぇゼノちゃん、あっちで一緒におままごとをしましょう? わたくしがお姫様で、ゼノちゃんはわたくしを守る勇敢な騎士様よ!」


 おままごと。騎士。非論理的で非生産的で非効率な遊戯。


「……お断りします。私はそのような非合理的な活動に時間を費やす趣味はありません」


 俺は俺の論理に基づき、最も率直な回答を返した。

 この世界の貴族社会では婉曲的な表現が好まれることは理解している。だが、この四歳の幼児という外見ならば多少の無礼は許容されるはずだ。


 しかし、俺の完璧な論理は彼女の前では全く意味をなさなかった。

 ロザリンドは俺の拒絶の言葉をまるで聞いていなかったかのように、ぱあっと顔を輝かせた。


「まあ、素敵! 騎士様は少し無口でクールな方がもっと素敵ですわ! さあ、行きましょう、ゼノちゃん!」


 彼女は俺の手をぐいぐいと引き、庭園の一角に設けられた子供たちのための遊戯スペースへと向かう。

 俺の抵抗は彼女の純粋な善意と圧倒的な身体能力の前に全くの無力だった。


 周囲の大人たち――侍女や貴婦人たちはその光景を微笑ましげに眺めている。

 誰もこの無垢なる暴君を止めようとはしない。それどころか公爵令嬢であるロザリンドに気に入られた俺を、羨望の眼差しで見ている者さえいる。


(……理解不能だ。俺の論理的な拒絶はなぜ『クールな騎士』という全く異なる情報に変換された? 彼女の思考OSは外部からの入力信号を全て自らにとって都合の良い情報へと書き換える、特殊なフィルターでも搭載しているのか?)


 俺は生まれて初めて、知的敗北というものを味わっていた。

 俺の知性は、この世界の物理法則をハッキングし裏社会の経済法則さえも操作した。

 だが、このロザリンド・フォン・エーデルシュタインというたった一人の少女の前では、何の役にも立たないガラクタに過ぎなかった。


 彼女は論理ではない。

 彼女は利益ではない。

 彼女は法則そのものだ。


 彼女が「素敵」だと思えば、それがこの場の真実となる。

 彼女が「お友達」だと決めれば、それがこの場の関係性となる。

 彼女こそがこの貴族社会という小さな箱庭を支配する、無垢なる支配者(・・・・・・・)だったのだ。


 俺はなすすべもなく彼女に引きずられながら、思考の海に沈んでいた。


(……この個体は危険だ。フリント以上に俺の探求を根底から脅かす最大の障害となりうる。彼女の行動原理を記述する方程式を早急に構築しなければならない。さもなければ俺は…この無垢なる混沌に飲み込まれる)


 俺の孤独で合理的な探求の道に、予測不能で非合理的で、そして何よりも厄介な新しい変数が加わった瞬間だった。

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