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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
二つの世界の邂逅

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28/60

異なる世界の友人

 俺たちの新たな(アジト)となった時計塔は、驚くべき速度でその姿を変えていった。


 煤と埃に覆われていた内部は、フリントが煤壁通りから調達してきた安価な労働力――つまりは彼を慕う浮浪児たち――によって徹底的に清掃された。

 彼らにとって銀貨数枚の報酬は破格であり、その働きぶりは目を見張るものがあった。

 俺は、その光景を純粋な経済活動のサンプルとして冷静に観測していた。


 時計塔の最上階は俺の研究室兼作戦司令室となった。

 床には巨大な羊皮紙が広げられ、そこには俺が解析中の『公理の構築者(アクシオム・ビルダー)』の設計図の断片が精密に描き写されている。

 壁際にはフリントが調達してきた様々な鉱石や禁書が、彼がどこからか盗んできたのであろう木箱に分類されて整然と並べられていた。


 フリントはこの拠点の物理的セキュリティを担当した。

 唯一の入り口である一階の扉には彼が考案した複数の罠が仕掛けられている。

 侵入者を検知するための単純なワイヤー式の警報装置から、侵入者の足を砕くための巧妙な落とし穴まで。

 その設計思想は俺の科学的アプローチとは全く異なる、経験則と生存本能に基づいた極めて実利的(プラグマティック)なものだった。


 俺が理論を構築し、彼が現実を操作する。

 その完璧な分業体制は、この時計塔という俺たちの小宇宙において一つの完成された生態系を形成しつつあった。


「……で、先生。そいつは金になるのか?」


 月明かりが差し込む窓辺で、フリントが床に積み上げられた金貨の山を数えながら俺に問いかけた。

 その金貨は先日の月長石への投機的投資によって得られた、俺たちの最初の莫大な利益だ。


 俺は彼の問いには答えず、床に広げた羊皮紙の一点を指差した。


「……この部分の幾何学構造。これは単なるエネルギー伝達回路ではない。情報の暗号化(エンコード)復号(デコード)を行うための極めて高度な論理ゲートだ。前世の半導体技術に匹敵する…いや、それ以上の思想がここにはある」


 俺はフリントが墓守から手に入れた『古代錬金術大系、第七巻』の写本と設計図の断片を照合しながら、この世界の失われた物理法則の解析に没頭していた。


「へっ、さっぱり分かんねえな。要するに、そのガラクタはまだ金にはならねえってことか」


 フリントは肩をすくめると金貨の勘定に戻った。

 彼にとって俺の理論は理解不能な呪文に過ぎない。彼が理解できるのはその理論が生み出す『結果』――つまりは金貨の枚数だけだ。


 俺はそんな彼を観測しながら、一つの思考実験を行っていた。


(個体名、フリント・ロック。彼との共生関係における現時点での損益分岐点を再計算する。初期投資:金貨三枚。追加報酬:金貨十枚。彼が提供したリソース:禁書、鉱石、そして月長石の市場価格変動に関する情報。その情報によって得られた利益:金貨三百枚以上。結論:投資対効果は現時点で予測モデルの許容範囲を遥かに超える、極めて高い数値を記録している)


 合理的だ。この関係は現時点では完璧に機能している。

 俺は解析作業を続け、フリントは金貨を数え続ける。

 静かな時間が流れる。聞こえるのは羊皮紙の上を走るペン先の音と、金貨が擦れ合う微かな音だけ。


 やがて金貨を数え終えたフリントが、満足げなため息をついて立ち上がった。

 彼は俺の隣に無造作に腰を下ろすと、窓の外に広がる王都の夜景をぼんやりと眺め始めた。


 無数の灯りがまるで地上に広がる星空のように瞬いている。

 その中には俺が脱出してきたヴィリジアン邸の明かりも見えるはずだ。秩序と権威に守られた光り輝く牢獄。


 そして俺たちの足元には、闇に沈む煤壁通(すすかべどお)りが広がっている。欲望と暴力が支配する混沌とした自由な無法地帯。


 俺たちはその二つの世界の境界線に立つこの時計塔の頂上から、全てを俯瞰(ふかん)していた。


「……なあ、先生」


 不意にフリントが呟いた。その視線は夜景に固定されたままだ。


「あんたみたいな変な貴族がいなけりゃ、俺はとっくに野垂れ死んでたかもな」


 その言葉はいつものような皮肉や冗談めかした響きではなく、どこか静かで客観的な事実の陳列のように聞こえた。


 俺は羊皮紙から顔を上げずに淡々と答えた。


「あなたという優秀なインターフェースがなければ、私の研究は十年は遅れていたでしょう」


 これもまた俺の計算に基づいた客観的な事実だ。

 彼の持つ『裏社会の物理学』という名の知識体系とそれを実行に移すための行動力は、俺の知性がこの世界で機能するために不可欠な唯一無二のOSだった。


 俺もフリントも、互いに視線を合わせることはなかった。

 ただ同じ夜景を、それぞれの瞳に映しているだけだ。


 だが、その沈黙の中には言葉以上の情報が交換されていた。

 世界の物理法則も社会の常識も超えた、確かな共犯者としての空気が俺たちの間に流れていた。


(……友人(・・)…?)


 その非論理的な単語が、俺の思考にノイズのように浮かび上がった。


(……定義を試みる。友人とは血縁関係や契約関係に基づかず、相互の好意という極めて曖昧で定量化不可能なパラメータによって維持される人間関係の一形態。行動予測:互いの利益を度外視した非合理的な利他行動を偶発的に発生させる可能性がある。結論:非論理的だ。俺たちの関係は互いの利益が一致したことによる合理的な契約に過ぎない)


 俺の思考は常に論理的な最適解を求める。感情という変数は可能な限り排除すべきノイズだ。


(……だが、認めざるを得ない)


 俺は窓の外の夜景に視線を移した。フリントの横顔が視界の端に映る。


(この少年と共有するこの時間は、俺の計算上最も『予測不能(・・・・)』で、そして最も『価値のある(・・・・・)』変数だ)


 『信頼』という名の解析不能なバグ。

 それは俺の完璧な論理体系を静かに侵食し、そして俺がまだ知らない新たな次元へと俺の思考を導こうとしていた。


「……先生、腹減らねえか? さっき手に入れた金で、何か美味いモンでも買ってこようか?」


 フリントが不意にこちらを向いて、悪戯っぽく笑った。


「……非合理的です。この時間は研究に充てるべきです」


 俺は無表情にそう答えながらも、自らの腹部から極めて正直な物理現象――腹の虫が鳴る音――が発生したのを正確に観測していた。


 フリントはその音を聞き逃さなかった。彼は腹を抱えて大笑いし始めた。


「ぶははは! なんだよ先生、腹は正直じゃねえか! 合理的な判断とやらで腹の虫は止められねえのかよ!」

「……これはただの生理現象です。俺の論理とは関係ない」


 俺はそう反論しながらも、自らの頬が僅かに熱を帯びるのを感じていた。

 体温の上昇。これもまた、解析すべき新たなデータだ。


 俺たちの奇妙な共犯関係は、まだ始まったばかりだった。

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