二人の秘密基地
「灰色の猟犬」との一件から数日が経過した。
俺と、俺の唯一無二の相棒であるフリント・ロックとの間には、一つの明確な共通認識が生まれていた。
この打ち捨てられた倉庫は、もはや安全な活動拠点ではない。
「……セキュリティ・パラメータが低すぎる」
俺は倉庫の薄暗がりの中、床に広げた古代文献の写本から顔を上げ静かに呟いた。
俺の思考は常に現状を分析し、リスクを定量化しようと試みる。
(分析を開始する。拠点としての『倉庫』の脆弱性評価。第一に、物理的防御力の欠如。木製の扉と閂のみでは組織的な襲撃に対して1分と持たない。第二に、地理的劣位性。煤壁通りの路地裏という立地は不特定多数の個体による偶発的発見のリスクを常に内包する。第三に、環境的ノイズ。研究に必要な精密な魔力操作を行う上で、この場所の不衛生な環境と外部からの音響的干渉は許容できない誤差を生じさせる)
「先生、またブツブツ言ってんのか? そろそろ俺にも分かる言葉で頼むぜ」
木箱に腰掛けナイフの手入れをしていたフリントが、呆れたように言った。
「結論を述べます。我々は新たな活動拠点を確保する必要があります。より安全で、機能的で、そして何よりも秘匿性の高い拠点を」
「……だろうな。俺もそう思ってたところだ」
フリントはナイフを鞘に収め、立ち上がった。彼の目はいつものように現実を冷静に見据えている。
「この倉庫はしょせん俺一人が寝泊まりするための仮のねぐらだ。あんたみたいな『お宝』を隠しておくにはあまりにも不用心すぎる。それに、あんたの研究道具も増えて手狭になってきた。何より、この前の『猟犬』どもだ。あいつらが嗅ぎつけたってことは、他の連中もいずれここを嗅ぎつける」
彼の言葉は俺の分析結果と完全に一致していた。彼は論理ではなく経験則で、俺と同じ結論に達している。
「何か心当たりは?」
「いくつか候補はある。だが、あんたの言う『研究』とやらができる場所となると条件が厄介だ。そこらの空き家じゃ、あんたが何かやらかすたびにすぐに衛兵が飛んでくるだろうからな」
フリントは顎に手を当てしばし思考を巡らせた後、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「……一つ、面白い物件がある。煤壁通りの外れに打ち捨てられてる、古い時計塔だ」
(時計塔…? 興味深い。高層建築物は戦略的優位性を確保する上で極めて有効な選択肢だ)
「なぜ、打ち捨てられているのですか?」
「さあな。曰く付きの物件でな。『幽霊が出る』だの『てっぺんから身を投げた役人の呪いだ』の、くだらねえ噂が絶えねえ。おかげで誰も寄り付かねえ、煤壁通りでも指折りの不人気物件だ。ま、俺たちみたいな裏の住人にはむしろ好都合だがな」
幽霊。呪い。非科学的な迷信だ。
だが、その非合理的な恐怖が物理的な防壁として機能しているというのなら、これほど合理的な選択肢はない。
「行きましょう。今すぐその物件を観測します」
俺の即断にフリントは満足げに頷いた。
煤壁通りの最も外れ、王都の城壁が間近に迫る場所にその時計塔はあった。
月明かりに照らされたその姿は、まるで巨大な墓標のように静かに、そして不気味にそびえ立っている。高さは目測で約三十メートル。石造りの壁は蔦に覆われ、文字盤の針はとうの昔に動きを止めていた。
「……どうだ、先生。気味の悪いとこだろ?」
フリントは俺の反応を面白そうに窺っている。
(……素晴らしい)
俺は物理学者の目で、その建築物をスキャンしていた。
(構造分析を開始する。第一に、その立地。煤壁通りの外れに位置し王都の主要区画から物理的に隔離されている。これにより外部からの偶発的な侵入リスクは極めて低い。第二に、その構造。石造りの堅牢な外壁と唯一の出入り口。これは防御拠点として理想的な設計だ。第三に、その高さ。最上階からは煤壁通り全体、ひいては王都の一部までを俯瞰できる。これは情報収集における圧倒的な制圧地点となりうる。第四に、その内部空間。複数の階層に分かれているため研究室、倉庫、居住区といった機能の区画化が可能だ。結論:ここは俺たちの活動拠点として、現時点で考えうる最適解である)
「ええ。実に合理的で、素晴らしい物件です」
俺の評価にフリントは目を丸くした。
「はぁ? どこがだよ。どう見てもただのボロい廃墟じゃねえか」
「あなたは、この建築物が持つ戦略的価値を理解していない。ここはただの建物ではない。我々の研究と生存を保障するための完璧な『要塞』です」
俺はフリントの困惑を無視し、唯一の出入り口である分厚い樫の木の扉へと向かった。
扉には錆びついた巨大な錠前がかけられている。
「鍵はねえぞ。どうするんだ? ぶっ壊すか?」
「物理的破壊は痕跡を残す。非合理的です」
俺は錠前の構造を冷静に分析する。
(……材質、鉄。内部構造、旧式のピンタンブラー錠。経年劣化による金属疲労が各所に見られる。ならば…)
俺は懐から研究用に持ち歩いていた小さな音叉を取り出した。
そして錠前の鍵穴に先端を差し込み、指で軽く弾く。
キィン、という澄んだ音が静かな夜に響き渡った。
俺はその音叉が発する固有振動数に合わせ、自らのオドを極めて微細に共振させる。その振動を音叉を通じて錠前の内部へと送り込む。
(目標は内部のピン。共振現象を利用しピンの振動を増幅させる。金属の疲労限界点を超えた瞬間、ピンは内部から破断するはずだ)
数秒後。カチリ、という乾いた音が錠前の内部から聞こえた。
俺が扉に手をかけると、ギィィという重い音を立てて数十年は開かれていなかったであろう扉がゆっくりと開いた。
「……おいおい、嘘だろ」
フリントは信じられないものを見る目で、俺と扉を交互に見比べている。
「ただの物理学ですよ。共振という単純な現象を応用しただけです」
俺はこともなげに言うと、躊躇なく時計塔の内部へと足を踏み入れた。
時計塔の内部は埃とカビの匂いに満ちていた。床には瓦礫が散乱し、壁には蜘蛛の巣が張り巡らされている。
中央には巨大な振り子と錆びついた無数の歯車で構成された時計の駆動装置が、巨大な骸骨のように鎮座していた。
「……ひでえ有様だな。こりゃ掃除するだけで一苦労だぜ」
フリントは鼻をつまみながら悪態をつく。
だが、俺の目にはこの空間が無限の可能性を秘めた実験室に見えていた。
俺たちは螺旋階段を上り、最上階へと向かった。
最上階はかつて鐘が吊るされていたであろう、吹き抜けの空間になっていた。
四方の壁には文字盤の裏側にあたる大きな円形の窓が開いており、そこから王都の夜景が一望できた。
無数の灯りがまるで地上に広がる星空のように瞬いている。
その中には俺が脱出してきたヴィリジアン邸の明かりも見えるはずだ。
「……すげえ。煤壁通りが全部見えやがる」
フリントが感嘆の声を漏らした。彼の目には自らが生きる世界の全体像が、初めて映し出されていた。
「ここからなら衛兵の巡回ルートもギルドの連中の動きも、全部丸見えだ。情報の価値が桁違いに跳ね上がるぜ…」
「その通りです。ここは我々の『眼』となる場所です」
俺はこの新たな拠点の価値を再確認していた。
ここはヴィリジアン邸という閉鎖された『知的な牢獄』でもなければ、煤壁通りの混沌に満ちた『無法地帯』でもない。
秩序と混沌、その両方を俯瞰し、分析し、そして介入するための完璧な観測拠点。
俺の知性とフリントの生存術。その二つを融合させ、この世界の法則をハッキングするための最初の城。
「……決めたぜ、先生」
フリントが夜景から俺へと視線を戻し、ニヤリと笑った。
「今日からここが俺たちの城だ。誰にも邪魔されねえ、俺とあんた、二人だけの秘密基地だ」
(秘密基地…? 子供じみた非論理的な言葉だ。だが、その定義は我々の活動の本質を極めて正確に表現している)
俺は彼の言葉を否定しなかった。
「ええ。合理的です。では、相棒。早速ですが、この『秘密基地』の機能拡張に関する最初の業務を開始しましょう」
俺は懐から『公理の構築者』の設計図の写本を取り出した。
月明かりがその古代の数式を静かに照らし出す。
俺たちの本当の研究は、今、この場所から始まるのだ。




