表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
二つの世界の邂逅

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

26/68

信頼の変数

 煤と血の匂いが混じり合う路地裏。

 俺は、自らが引き起こした現象の結果を冷静に観測していた。


 地面には三人の男たちがまるで赤子のように蹲り、嘔吐と呻きを繰り返している。

 彼らの聴覚と平衡感覚を司る三半規管は、俺が放った指向性の超音波によって一時的に破壊された。

 物理的な接触を一切伴わない純粋に情報的な攻撃。彼らにとってこれは理解不能な呪詛か、あるいは神罰にしか見えないだろう。


 そしてその中央に立つ煤だらけの少年、フリント・ロック。

 彼は口の端から血を流しながらも、その瞳には恐怖ではなく、自らが手に入れた未知の兵器の性能を確かめたかのような獰猛な満足感と興奮を浮かべていた。


「……へっ。やっぱ、あんたは最高にイカれてるぜ、先生(・・)


 彼の言葉は俺の予測モデルに新たなデータを入力した。

 俺の知性は金銭を生み出すための『頭脳』であると同時に、彼の生存を保障するための『暴力装置(・・・・)』としても機能しうる。そして彼はその事実を肯定的に受け入れている。


「ただの物理学ですよ」


 俺は以前と同じ言葉を繰り返した。

「あなたの『縄張り』という名の法則を、俺の物理学で少しだけハッキングさせてもらいました。非効率な暴力にはより効率的な物理法則で対抗する。合理的でしょう?」


「合理的、ね。そいつが聞ければもう十分だ」


 フリントは満足げに頷くと、倒れている男たちを一瞥し忌々しげに舌打ちした。


「さて、こいつらをどうするか。このまま放置しておくわけにもいかねえ」

「殺害は非推奨です。死体という物理的証拠を残すことは、我々の存在をこのシステムの管理者――王都の衛兵やギルドに通知するリスクを高めるだけです」


 俺は淡々と分析結果を述べる。俺の思考は常にリスクとリターンの最適化を計算している。


「へっ、分かってるよ。こいつらの懐から金目のモンを全部いただく。それが煤壁通りのルールだ。身ぐるみ剥がされて無一文になれば、こいつらも当分は俺たちに手出しできねえだろ」


 フリントは手際よく男たちの懐を探り、数枚の銀貨と汚れた革袋を抜き取った。

 その動きには一切の躊躇も罪悪感もない。それは彼がこの混沌とした世界で生き抜くために最適化された、生存本能そのものだった。


「行きましょう、フリント。ここはもう安全ではありません」


 俺は踵を返し、俺たちの活動拠点である打ち捨てられた倉庫へと向かった。

 フリントは手に入れた戦利品を無造作に懐に突っ込み、何事もなかったかのように俺の後に続いた。


 倉庫の薄暗がりの中、俺はフリントの傷の手当てを行っていた。

 月明かりが彼の腫れ上がった頬と、切れた唇から滲む血を照らし出している。


 俺は屋敷から持ち出した清潔な布を水で湿らせ、彼の傷口を慎重に拭う。

 前世の記憶――物理学者であると同時に、最低限の応急処置に関する知識も俺のデータベースには保存されている。


「……おい、何してんだよ」


 フリントは俺の唐突な行動に戸惑いの声を上げた。


「消毒です。傷口から細菌が侵入し感染症を引き起こす確率を低減させるための、基本的なリスク管理です。この世界の衛生環境を考慮すれば、この処置を怠ることは非合理的です」


 俺は彼の顔を押さえつけ、構わずに処置を続ける。

 フリントはしばらく抵抗していたが、やがて諦めたように大人しくなった。


「……あんた、本当に何者なんだよ。ガキのくせにやることなすこと、いちいち常識から外れてやがる」

「言ったはずです。私はゼノ・ヴィリジアン。あなたのビジネスパートナーです」


「ビジネスパートナーが、こんな手当てまでしてくれるのかよ」

「当然です」


 俺は即答した。

「あなたの身体は私の研究計画を遂行するための、現時点では代替不可能な極めて重要な資産(アセット)です。その資産価値が毀損することは私の計画全体に遅延と追加コストを発生させる。故にあなたの身体機能を正常に維持することは、私にとっての最優先事項の一つです。これは純粋なコスト計算に基づいた合理的な判断です」


 俺の完璧な論理。

 だが、それを聞いたフリントは呆れたように、そしてどこか面白そうに息を吐いた。


「……へっ。相変わらず可愛げのねえガキだな。だがよ、先生」


 フリントの鋭い目が月明かりの中で俺を真っ直ぐに捉えた。


「なんで助けた?」


 その問いは俺の予測モデルにない、単純でそして根源的なものだった。

「あの状況なら、あんたの言う『物理学』ってやつを使えば俺を見捨てて一人で逃げることもできただろ。そっちの方が、あんた自身の『リスク管理』としてはよっぽど合理的だったんじゃねえのか?」


 沈黙が落ちる。

 彼の指摘は痛いほどに正確だった。


(……観測と思考の再構築を開始する。彼の問いは俺の行動原理の根幹に触れている)


 俺の頭脳が猛烈な速度で自己分析を開始する。


 仮説1:フリント・ロックという『外部インターフェース』を失うことによる将来的な機会損失を計算した結果、彼の救出が最適解であると判断した。

 検証1:合理的だ。だが、不十分だ。あの瞬間、俺の思考は、そのような長期的な利益計算よりも、より短期的な衝動的な判断に支配されていた。


 仮説2:『灰色の猟犬』という敵対勢力に俺たちの活動拠点が露見するリスクを回避するため、彼らを無力化する必要があった。

 検証2:これも合理的だ。だが、フリントを救出せずとも彼らを無力化する手段は存在した。


(……駄目だ。どの論理モデルを適用しても計算結果に誤差が生じる。あの瞬間、俺の思考には一つの絶対的な制約条件が課せられていた。『フリントを(・・・・・)失うことは(・・・・・)許容できない(・・・・・・)』。それはまるで物理法則のように、俺のあらゆる計算の前提となっていた。これは…バグか? 俺の思考OSに未知のバグが紛れ込んでいるのか?)


 俺はフリントの問いに答えるための、最も論理的でそして最も誠実な言葉を探した。


「……あなたを失うことは、現時点での俺の計画において許容できない損失だと判断したからです。それ以上でも、それ以下でもありません」


 それは俺が導き出せる唯一の答えだった。

 それを聞いたフリントはしばらくの間、俺の顔をじっと見つめていた。

 彼の瞳が俺の言葉の裏にある、俺自身でさえまだ言語化できていない何かを探っているのが分かった。


 やがて彼はふっと笑った。

 それはこれまでの嘲るような笑みでも獰猛な笑みでもない。何かを理解し、受け入れたかのような穏やかな笑みだった。


「……へっ、そりゃどうも。ま、せいぜい俺を失わないように、あんたのそのイカれた頭脳でしっかり守ってくれや、相棒(・・)


(相棒…パートナー。契約者とは異なる、非論理的な関係性を示唆する言葉だ)


 フリントが何気なく口にしたその言葉が、俺の思考に新たなパラダイムシフト(・・・・・・・・)を引き起こした。

 俺たちの関係は利益の三割を分配するという、純粋に合理的な契約に基づいている。だが、先ほどの出来事はその契約だけでは説明できない。


 フリントは俺を庇って深手を負った。それは自らの身体という資産を危険に晒す非合理的な行動だ。

 俺は彼を助けるために自らの切り札である異端の技術を行使した。それは自らの存在を危険に晒す非合理的な行動だ。


(……非合理的な行動の応酬。だが、その結果として俺たちは二人とも生き残り、敵対勢力は無力化された。これは…偶然か? いや、違う)


 俺は一つの仮説にたどり着いた。


(人間社会における『信頼(・・)』とは、予測不能なリスクに対する最も効率的な保険なのかもしれない。互いが互いの生存を自らの利益計算よりも優先するという非論理的な前提条件を共有することで、個々の合理性を超えたより高次の生存戦略を可能にするシステム。…なるほど。これは解析する価値のある、新しい物理法則だ)


 俺はフリント・ロックという存在を再定義する必要があった。

 彼は単なる『外部インターフェース』ではない。彼は俺の予測モデルに『信頼』という、これまで欠落していた最も重要な変数を教えてくれる唯一無二の観測対象であり、そして――


「ええ。任せてください、相棒」


 俺は静かに、しかしはっきりとそう答えた。

 フリントは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに満足げにニヤリと笑った。


「おう。で、次の『業務』は何だ? 俺の身体はあんたの言う『資産』なんだろ? 遊ばせとくのは非効率ってもんじゃねえのか?」


 彼はもう俺の合理性を揶揄しない。それを俺たちの共通言語として受け入れている。

 俺は頷いた。


「その通りです。今回の件でこの倉庫が安全な活動拠点ではないことが証明されました。より安全で機能的な『拠点』を確保する必要があります。それが私たちの次の業務です」


 俺たちの共犯関係は、この瞬間、新たな次元へと移行した。

 俺の知性が理論を構築し、彼の知性が現実を操作する。

 その二つの歯車の間に『信頼』という名の、非論理的でしかし何よりも強固な潤滑油が注がれたのだ。


 この世界の非効率なシステムに対する俺たちの最も効率的なハッキングは、まだ始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ