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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
二つの世界の邂逅

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25/68

縄張りという名の法則

 ゼノ・ヴィリジアンと、フリント・ロックという名の生きた演算装置(プロセッサ)との共犯関係が成立してから二週間が経過した。


 俺たちの最初の共同事業――北の鉱山ギルドによる市場独占の情報を利用した月長石(げっちょうせき)への投機的投資は、俺の予測モデルを遥かに上回る成果を上げた。

 フリントが持つ裏社会のネットワークを駆使し、市場価格が高騰する直前に大量の月長石を確保。そして価格がピークに達した瞬間に売り抜ける。

 その一連のプロセスは、まるで美しい数式が解かれていく様を見るように完璧で効率的だった。


 俺たちの手元には当初の軍資金とは比較にならないほどの資本が形成された。それは俺の研究を数段階先へと加速させるための強力なエネルギーだ。


「……で、先生。次の指示は?」


 俺たちの秘密基地――フリントがねぐらにしている煤壁通(すすかべどお)りの外れにある打ち捨てられた倉庫。

 その薄暗がりの中、フリントは木箱に腰掛け、まるで次のゲームを催促する子供のように言った。

 彼の目は金貨の輝きよりも、俺という未知の変数から次に何が生まれるのかという期待に満ちていた。


「焦る必要はありません。まずは先日あなたが入手してくれた文献の解析が最優先です。特に『公理の構築者(アクシオム・ビルダー)』の設計図の断片。あれを完全に解読できれば、俺たちの技術は飛躍的に進歩する」


 俺は床に広げた羊皮紙に視線を落としたまま淡々と答えた。

 そこには古代文明が遺した、この世界の物理法則を記述したであろう複雑怪奇な幾何学模様が描かれている。


「へっ、そいつは先生の仕事だろ。俺は頭脳労働より肉体労働の方が性に合ってるんでな。金の匂いがするところに俺を突っ込ませてくれりゃいい」

「あなたの役割はそれだけではありません、フリント。あなたは私の『社会的インターフェース』です。私の理論をこの非効率な世界で機能する『価値』へと変換するための、唯一無二の翻訳機でもある」


「……よく分かんねえが、要するに俺がいなきゃ先生は何もできねえってことだろ? 光栄なこった」


 フリントは悪戯っぽく笑った。その通りだ。

 彼の存在なくして俺の知性はヴィリジアン邸という牢獄の中で腐っていたに違いない。


 俺たちは互いの専門領域を尊重し、互いの能力を最大限に活用する極めて合理的な共生関係を築きつつあった。

 俺が理論を構築し、彼がそれを現実に適用する。その完璧な分業体制が俺たちの成功を支えていた。


「次の打ち合わせは三日後の深夜。それまでにこの設計図の一次解析を完了させておきます。あなたにはその結果に基づいて、新たな素材の調達をお願いすることになるでしょう」

「了解だ、先生。ま、せいぜい期待させてくれや」


 フリントはそう言うと倉庫の軋む扉を開け、闇の中へと溶けるように消えていった。

 俺は彼のその猫のような動きを冷静に観測しながら、再び古代の数式へと意識を集中させた。


 この時点では、俺の予測モデルに一つの重大な変数が欠落していることに気づいていなかった。

 この煤壁通りという混沌としたシステムには、俺がまだ知らないもう一つの物理法則が存在したのだ。

 それは暴力によって規定される、『縄張り(テリトリー)』という名の法則だった。


 三日後の深夜。約束の時刻を過ぎてもフリントは倉庫に現れなかった。


(……遅い。彼の行動アルゴリズムから、三十分以上の遅延は予測モデルの許容範囲外だ)


 俺の思考が警報を発する。

 フリントはその実利的(プラグマティック)な性格から時間を無駄にすることを極端に嫌う。約束を破るという非合理的な行動を取る確率は限りなくゼロに近い。


(結論:彼の行動を阻害する、予測不能な外部要因が発生した可能性が高い)


 俺は解析作業を中断し静かに立ち上がった。

 俺の貴重な「外部インターフェース」が機能不全に陥っている。これは俺の研究計画全体に影響を及ぼしかねない重大なエラーだ。

 原因を特定し、迅速に排除する必要がある。


 俺は倉庫を出て、再び煤壁通りの混沌の中へと足を踏み入れた。

 夜の闇に包まれた通りは昼間の喧騒とは異なる、より危険なエネルギーに満ちていた。

 酔っ払いの怒声、どこかで起こる小競り合いの音、そして闇に紛れて獲物を探す捕食者たちの気配。


 俺はフリントが利用している情報網の末端――物乞いの少年たちに接触し、銅貨数枚を対価として情報を引き出した。


「フリントの兄貴なら…さっき、『灰色の猟犬(アッシュ・ハウンド)』の連中に路地裏に連れていかれたぜ」


(灰色の猟犬…? 俺のデータベースに存在しない識別名だ)


 俺はさらに情報を引き出す。

 灰色の猟犬とは最近この煤壁通りで急速に勢力を拡大している新たな情報屋グループらしい。

 彼らの手法は既存の情報屋を暴力で屈服させ、その縄張りを奪うという極めて原始的で非効率なものだという。


(…なるほど。俺たちの月長石への投資が、彼らの縄張りを荒らす結果になったと看做(みな)されたのか)


 俺たちの成功がこの混沌とした生態系のバランスを崩し、新たな捕食者を引き寄せてしまった。予測すべきだった変数だ。


 俺は少年が指差した路地裏へと音もなく向かった。

 路地裏の最奥。月明かりが照らす僅かな空間で俺は信じがたい光景を目の当たりにした。


 フリントが三人の大柄な男たちに囲まれ、壁に押さえつけられていた。

 彼の顔は腫れ上がり口の端からは血が流れている。だが、その瞳だけはまだ少しも屈していなかった。


「……へっ、これがてめえらのやり方かよ。三人掛かりでガキ一人をいたぶるのがな」


 フリントは苦しい息の下から嘲るように言った。


「うるせえぞ、クソガキ。最近随分と羽振りがいいじゃねえか。俺たちのシマで勝手な商売しやがって。稼いだ金、全部置いていきな。そうすりゃ命だけは助けてやる」


 リーダー格の男がフリントの腹を容赦なく蹴り上げた。

 フリントの身体が「く」の字に折れ曲がり呻き声が漏れる。


(……観測を終了。状況を分析。敵個体数、三。いずれも成人男性。武装はナイフ。フリントの戦闘能力ではこの状況を打破する確率は0.1パーセント未満。俺が直接介入した場合の成功確率も、この三歳の肉体では算出不能なほど低い)


 暴力は最も非効率な問題解決手段だ。だが、この裏市場の物理法則においては時に最も有効なプロトコルとなる。


(ならば最小限のエネルギーで最大限の効果を出すのが合理的だ。物理的な破壊ではない。敵の感覚器官という『センサー(・・・・)』を一時的に無力化すれば、戦闘そのものを回避できる)


 俺は物陰に隠れたまま懐から小さな魔道具を取り出した。

 それは俺がフリントとの連絡用に試作していた単純な音響発生装置だ。

 掌サイズの金属の箱に魔力を増幅させるための水晶の欠片がはめ込まれているだけの簡素な作り。


 俺はその魔道具に僅かな魔力を流し込み、周波数を調整していく。


(目標は人間の三半規管。特定の周波数の超音波――非可聴域(ひかちょういき)の高周波振動を断続的に照射することで、平衡感覚を司るリンパ液を強制的に共振させる。結果、対象は強烈なめまいと吐き気を催し、立っていることさえ困難になる)


 前世の音響学の知識を応用した非殺傷性の指向性音響兵器。この世界の人間にとっては理解不能な呪いか、あるいは神の怒りにしか見えないだろう。


 俺は男たちの背後から静かに魔道具を起動させた。

 キィン、という人間には聞こえないはずの脳に直接響くような甲高い音が路地裏の空間を支配した。


 最初に異変に気づいたのはリーダー格の男だった。


「……なんだ? 急に頭が…ぐらぐら…」


 男はふらつき壁に手をついた。その様子に部下の男たちも訝しげな顔をする。


「どうしたんですか、兄貴?」

「わからねえ…世界が回って…お、ぇ…」


 リーダーの男はその場に膝から崩れ落ち、胃の内容物を激しく嘔吐した。

 その光景に残りの二人も蒼白になる。


「な、なんだよ、急に…!」

「う、おぇぇ…! き、気持ち悪ぃ…!」


 一人、また一人と男たちは立っていることもできなくなり、地面に蹲って嘔吐を繰り返した。

 彼らの目には何が起きているのか全く理解できないという、純粋な恐怖の色が浮かんでいた。


 その隙をフリントが見逃すはずがなかった。

 彼は壁を蹴って体勢を立て直すと、最も近くにいた男の顎に全体重を乗せた蹴りを叩き込んだ。

 ゴッ、という鈍い音と共に男は白目を剥いて昏倒する。


「……てめえら、俺を誰だと思ってやがる」


 フリントは残りの二人を血に濡れた獰猛な笑みで見下ろした。

 平衡感覚を奪われまともに動くこともできない彼らは、もはやフリントの敵ではなかった。


 数分後。路地裏には無様に伸びる三人の男たちと、その中央に立つ煤だらけの少年だけが残されていた。


 俺は物陰から静かに姿を現した。


「……ゼノ。てめえ、今のは…」


 フリントは驚愕と、そして僅かな畏怖の混じった目で俺を見つめていた。


「ただの物理学ですよ」


 俺は以前と同じ言葉を繰り返した。

「あなたの『縄張り』という名の法則を、俺の物理学で少しだけハッキングさせてもらいました。非効率な暴力にはより効率的な物理法則で対抗する。合理的でしょう?」


 フリントはしばらくの間、呆然と俺と倒れた男たちを見比べていたがやがてふっと息を吐いて笑った。


「……へっ。やっぱ、あんたは最高にイカれてるぜ、先生(・・)


 その顔にはもはや恐怖の色はなかった。

 代わりにあったのは自らが手に入れた「兵器」の底知れない性能を再確認したことに対する、純粋な満足感と興奮だった。


 この日、俺たちの共犯関係はまた一つその形を変えた。

 俺の知性はもはや単なる金儲けの道具ではない。それはフリントの生存を、そして俺たちの縄張りを守るための最も強力な「暴力装置(・・・・)」となったのだから。

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