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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
二つの世界の邂逅

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23/61

最初の依頼

 俺とフリント・ロック。

 俺たちの間に結ばれた契約は友情でも信頼でもない。互いの能力を商品として評価し、その利用価値に基づいて結ばれた純粋に合理的な共犯関係だ。


 その契約成立から数日。

 俺は再び、ヴィリジアン邸という名の静かで清潔で、そして何よりも退屈な牢獄に戻っていた。

 昼間は三歳の幼児ゼノ・ヴィリジアンとして侍女エリアナの過剰なまでの庇護を受け、夜は物理学者桐山徹として父の書斎から盗み出した文献の解析に没頭する。


 その二重生活は一つの大きな壁に突き当たっていた。


(……情報が足りない)


 俺は自室の机の上で、あの黒い石ころ――修復を施した『魔力安定化回路』を指でなぞりながら深い思考の海に沈んでいた。


 この古代文明の遺物は確かに俺の知的好奇心を刺激し、この世界の魔法物理学が俺の想像以上に深淵である可能性を示唆してくれた。

 だが、これ一つではただの美しい骨董品に過ぎない。


 この回路の真の価値は、その設計思想を完全に理解し現代の技術で再現、あるいは凌駕することにある。

 そのためにはこの回路が作られた時代の技術体系、使用された素材の物理的特性、そしてそれを記述したであろう古代の文献が必要不可欠だ。


(この石は完成された論文ではない。ただの一つの数式に過ぎない。この数式がどのような公理系の上で成り立っているのかを理解しなければ、真の応用は不可能だ)


 父の書斎にある本は全て読み尽くした。

 だが、そこに記されていたのはソラリア正教のドグマに汚染された非科学的な伝承ばかり。

 俺が求める純粋な物理法則を記述した文献は、一冊として存在しなかった。


 実験に必要な素材も同様だ。

 この回路を完全に修復しその性能を最大限に引き出すには、いくつかの特殊な鉱物が必要になる。

 例えば魔力の共振率を高めるための極めて純度の高い月長石の微粉末。あるいは瞬間的なエネルギーのバッファとして機能する深淵水晶の欠片。


 それらはヴィリジアン家のような下級貴族の屋敷に、存在するはずもないものだった。


 俺は窓の外に広がる王都の夜景に目をやった。

 無数の灯りがまるで星々のように瞬いている。あの光の一つ一つの下で、俺の知らない情報が、俺の知らない物質が取引されている。


(……俺一人では限界だ。この屋敷の中からでは必要なデータにアクセスすることさえできない)


 その結論に至った時、俺の脳裏にあの煤で汚れた少年の鋭い瞳が浮かんだ。

 フリント・ロック。


 彼は俺の知らないもう一つの物理学――『裏社会の法則』をマスターした生きた演算装置だ。

 そして彼は今や、俺の「外部インターフェース(そとづけツール)」でもある。


(……そうだ。彼を使おう。彼ならばこの牢獄の中からでは決して届かない、外の世界の情報にアクセスできるはずだ)


 俺は静かに立ち上がった。

 今夜、俺は俺たちの共犯関係における最初の「業務(・・)」を彼に依頼する。


 深夜。

 ヴィリジアン邸のセキュリティシステムは俺の前では無力だった。

 エリアナの安定した寝息をやり過ごし、警備兵の巡回ルートの死角を縫うように移動する。それはもはや日常的なルーチンワークと化していた。


 俺は屋敷の壁を乗り越え、再びあの混沌とした煤壁通りへと足を踏み入れた。

 昼間の喧騒が嘘のように静まり返った通りを俺は迷いなく進む。目的地はフリントがねぐらにしているという、打ち捨てられた倉庫だ。


 倉庫の扉を事前に決められた合図で三度、軽く叩く。

 数秒の沈黙の後、内側から閂が外れる音がして扉が僅かに開いた。隙間からフリントの警戒心に満ちた目が俺を捉える。


「……ゼノか。こんな時間に何の用だ」

「取引です」


 俺は単刀直入に告げた。

 フリントは俺のその言葉を聞くと、少しだけ呆れたように息を吐き中へと招き入れた。


 倉庫の中は月明かりだけが頼りの薄暗闇だった。

 床には藁が敷かれ、隅にはフリントのものと思われる粗末な毛布が丸められている。


「で、何の取引だ? まさかまたガラクタ拾ってきたのか?」


 フリントは木箱に腰掛けながら俺を見下ろした。

 俺は懐から一枚の羊皮紙を取り出し彼に手渡した。そこには俺がこの数日間でリストアップした必要な物品の名が、正確な文字で記されている。


「これは?」

「俺の研究に必要な物品のリストです。これをあなたに調達していただきたい」


 フリントは訝しげに眉を寄せながら、羊皮紙に視線を落とした。

 そしてそこに書かれた文字を読み上げる。


「……『公理の構築者(アクシオム・ビルダー)が遺した設計図の写本』? 『古代錬金術大系、第七巻』? ……おいおいなんだこりゃ。本ばっかじゃねえか。しかも聞いたこともねえようなやつばっかりだ」

「ええ。それらは、おそらく王立図書館の禁書庫か、あるいはこの煤壁通りで秘密裏に取引されている非合法な文献でしょう」

「禁書庫に非合法ね。無茶言うなよ。で、こっちのリストは……『月長石の微粉末』、『深淵水晶の欠片』、『飛竜の涙腺石』……? おいゼノ。あんた本気で言ってるのか? こんなもん、どこで手に入れるんだよ。飛竜の涙腺石なんざ本物なら金貨何枚になるか分かったもんじゃねえぞ」


 フリントは呆れたように頭を振った。


「分かっています。だからこそあなたに依頼するのです。あなたならこのリストにあるものを正規のルート、あるいは非正規のルートを通じて入手できる可能性がある。そうでしょう?」


 俺の言葉にフリントはぐっと黙り込んだ。

 俺は畳み掛けるように懐から小さな革袋を取り出し、彼の目の前の木箱の上に置いた。

 チャリン、と重い金属がぶつかり合う音が静かな倉庫に響く。


「これは?」

「前金です。金貨三枚。これであなたの情報収集と初期の購入費用を賄ってください。成功報酬は別途支払います」


 フリントの目が驚愕に見開かれた。

 金貨三枚。それはこの煤壁通りで生きる孤児にとっては、一生かかっても手にできないかもしれない大金だ。


 彼は恐る恐る革袋に手を伸ばし、その中身を掌にこぼした。

 月明かりを浴びて鈍く輝く三枚の金貨。


「……本気なんだな」

「ええ。俺はいつでも合理的です」


 フリントはゴクリと唾を飲み込み、金貨と俺の顔を交互に見比べた。


「……分かった。引き受ける。だが一つ聞かせろ。あんたこんなガキの見た目で一体何者なんだ? こんなリスト、普通の貴族の嬢ちゃんが書けるもんじゃねえ」

「言ったはずです。私はゼノ・ヴィリジアン。ただの三歳の幼児です。そしてあなたのビジネスパートナーだ」


 俺はそれ以上は何も答えなかった。

 フリントはしばらくの間俺の顔をじっと見つめていたが、やがて諦めたように息を吐くと金貨を懐にしまい、立ち上がった。

 その顔はもはやただの悪ガキではない。依頼を受けたプロの「情報屋」の顔だった。


「……いいだろう。期限は? 予算の上限は?」

「期限は可能な限り早く。予算はまず金貨三枚の範囲で。それ以上が必要な場合は事前に私に報告し承認を得てください。連絡方法は、この倉庫に特定の暗号を記した紙を置いておくことで行います」

「……分かった。やってやるよ。ただしこいつは高くつくぜ、先生」

「構いません。コストに見合うリターンは必ずお支払いします」


 俺たちの間に再び契約が成立した。


 フリントに依頼を終え、俺は再びヴィリジアン邸へと戻った。

 自室のベッドに滑り込み、目を閉じる。


(彼の情報収集能力はこの裏市場における極めて効率的な検索エンジンだ。金銭という対価コストを支払うことで、俺が物理的に動く時間とリスクを最小限に抑え必要なデータを入手できる。これは極めて合理的な投資だ)


 俺の知性は理論を構築し、世界の法則を解析することに特化している。

 だが、その理論を検証するためのデータを収集するには物理的な制約が多すぎた。


 フリントはその制約を取り払ってくれる、俺にとっての最初の、そして最も重要な「観測装置」だ。


 俺は彼がどのような「データ」を持ち帰ってくるのか、純粋な知的好奇心に胸を躍らせていた。

 俺の孤独な探求は終わった。

 今日から俺たちは、二人で一つの異端の知性となるのだから。


 揺り籠の中の物理学者はこうして、自らの手足を初めて外の世界へと伸ばした。

 その一歩がこの世界の常識を根底から覆す巨大な連鎖反応の、最初のトリガーとなることをまだ誰も知らなかった。

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