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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
二つの世界の邂逅

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22/68

共犯者の誕生

 ()、桐山徹の目の前でフリント・ロックは息を呑んでいた。


 彼の掌で穏やかに脈動する翠色の光。それはつい先ほどまでただの黒い石ころだったものだ。

 俺の知性がこの世界の物理法則に直接介入し、無価値なガラクタの価値(・・)を再定義した動かぬ証拠。


 フリントの鋭い瞳が驚愕に見開かれている。

 その瞳に映っているのはもはや「迷子の貴族の嬢ちゃん」ではない。彼の理解を超えた未知の現象そのものだ。


「……ゼノ。あんた、一体……」


 絞り出すような声。

 彼の頭脳が俺という存在の価値とリスクを、猛烈な速度で再計算しているのが手に取るように分かった。


「言ったはずです。俺の知性には価値があると」


 俺は静かに答えた。

 この瞬間、俺とフリントの間の力学は完全に対等なものへと移行した。

 いや、あるいは俺が僅かに優位に立ったのかもしれない。

 彼は俺の知性がこの混沌とした世界において、無から有を生み出す本物の「通貨」であることをその身をもって理解したのだ。


 俺は彼に取引の完了を告げるため、懐から銀貨を一枚取り出した。

 屋敷から持ち出したなけなしの資金だ。


「これはあなたの労働に対する正当な対価です。銅貨一枚であの石を手に入れたあなたの交渉術は見事でした。これはその成功報酬です」


 俺の行動は純粋に論理的なものだった。

 契約に基づき提供された労働力に対して対価を支払う。それだけだ。


 だが、フリントは俺が差し出した銀貨を受け取らなかった。

 彼は掌で光る石と俺の顔を交互に見比べた。

 そしてやがてふっと息を吐くと、これまで見せたことのない真剣な、そしてどこか獰猛な光を瞳に宿して俺を真っ直ぐに見据えた。


「……いらねえよ、そんな端金」

「……なぜです? これはあなたの働きに対する正当な報酬のはずですが」

「はっ。正当な報酬、ね。嬢ちゃん……いや、ゼノ。あんたまだ分かってねえのか? 俺が欲しいのはそんなもんじゃねえ」


 フリントは俺の目の前にしゃがみ込み、その視線の高さを俺の翠眼に合わせた。


「俺が欲しいのは、あんたの『頭脳(・・)』だ」


 その言葉は俺の予測モデルを再び大きく逸脱した。


(……合理的ではない。彼は短期的な利益よりも、長期的だが不確定な利益を選択した。なぜだ? 俺の知性が将来的に銀貨一枚以上の価値を生み出すと彼は判断したのか? だが、その確率は現時点では算出不能なはずだ)


 俺の混乱を読み取ったかのようにフリントは続けた。


「いいか、ゼノ。あんたはとんでもねえ宝の山だ。だが、その宝の掘り方も売り方も何も知らねえ、ただの赤ん坊だ。あんたのその『論理』ってやつは学者先生の前じゃ通用するかもしれねえが、この煤壁通りじゃただのカモの鳴き声にしかならねえ。俺がいなけりゃあんたは、その頭脳ごと誰かに食い物にされて終わりだ」


 彼の言葉は乱暴だったが、その指摘は痛いほどに正確だった。

 俺はこの世界の物理法則は理解できる。だが、人間社会を動かす非合理的な法則――欲望、恐怖、嫉妬――を全く理解できない。

 フリントはその「裏社会の物理学」を生存本能でマスターしている。


「だから、取引しようぜ、ゼノ。俺があんたの『盾』になってやる。あんたを食い物にしようとするハイエナどもからあんたを守ってやる。あんたのそのイカれた頭脳が誰にも邪魔されずに好きなだけ研究できるように、俺が立ち回ってやる。その代わり」


 フリントはニヤリと笑った。


「あんたが生み出す『価値』の、三割を俺によこせ。銀貨一枚じゃねえ。これからあんたが生み出す全ての利益の、三割だ」


 それは奴隷契約でも雇用契約でもない。

 対等なビジネスパートナーとしての契約の提案だった。


 俺は彼の提案を、物理学者の頭脳で冷静に分析していた。


 仮説1:フリント・ロックは俺の知性を独占し、長期的な利益を最大化しようとしている。

 検証1:彼の要求は「三割」。これは独占ではなくパートナーシップを示唆する比率だ。彼が俺を完全に支配するつもりなら「五割」以上を要求するはずだ。


 仮説2:彼は俺の知性が持つリスクを正確に評価している。

 検証2:彼は俺の論理的なアプローチがこの世界では「カモの鳴き声」にしかならないと指摘した。これは俺の知性が社会的な防衛能力を持たないという脆弱性を、正確に見抜いている証拠だ。


 結論:彼の提案は論理的に見て極めて合理的だ。


 俺にはこの世界の物理法則を解析する圧倒的な「知性」がある。

 彼にはこの世界の社会法則を生き抜く圧倒的な「生存術」がある。


 俺たちの能力は互いに補完関係にある。

 俺一人ではこの世界で研究を続けることは困難だ。彼一人では銅貨を稼ぐことはできても、金貨を生み出すことはできない。


 だが、俺たちが組めば。


(……なるほど。こいつは俺がこの非効率な社会システムと対話するための、極めて優秀な『外部インターフェース(・・・・・・・・・・)』になる。こいつは使える。俺の探求を加速させる最初の歯車として)


 俺は静かに頷いた。


「……合理的です。その取引、受け入れましょう」

「へっ、話が早くて助かるぜ」

「ただし、条件があります。第一に、私たちの関係は対等であること。あなたは私の盾であり、私はあなたの頭脳だ。どちらが上でも下でもない。第二に、私の研究にあなたは干渉しないこと。私の目的は金儲けではなく真理の探求です。金はそのための手段に過ぎない。第三に、契約の破棄は双方の合意があった場合のみ。よろしいですね?」


 俺の言葉にフリントは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに面白そうに笑った。


「……はっ。三歳児相手に本気の契約交渉する羽目になるとはな。いいぜ、それで。契約成立だ、相棒(・・)


 フリントは再び汚れた手を差し出した。

 俺はその手を今度は迷いなく、固く握り返した。


 この瞬間、俺とフリントは単なる取引相手から、運命を共にする「共犯者(・・・)」となったのだ。


「で、最初の『業務』は何だ? 先生」


 契約が成立するや否や、フリントは早速次の行動を促してきた。

 彼の思考は常に実利的で無駄がない。


「まずは活動拠点の確保とこの魔道具の完全な修復、そしてそれを換金するための準備です」


 俺たちは煤壁通りの外れにある打ち捨てられた倉庫へと移動した。

 そこはフリントがねぐらにしている場所の一つらしい。


「ここなら誰にも邪魔されねえ。で、どうするんだ?」


 俺は懐から羊皮紙とインクを取り出し、床に広げた。

 そして前世の記憶を頼りに、いくつかの数式と簡単な設計図を描き始めた。


「この『魔力安定化回路』を完全に修復するには、いくつかの特殊な鉱物と精密な加工が必要です。まずはそれを手に入れるための資金を作りましょう」


 俺が描いたのは、フリントの胸元で揺れていたあの『ラットウルフの牙』を、効率的に魔除けの護符へと加工するための簡易的な魔法陣だった。


「……なんだこりゃ? 訳の分からねえ模様だな」

「これは魔力を効率的に集め、牙の先端に付着したミスリルを触媒として活性化させるための設計図です。この通りに加工すれば銅貨五枚どころか、銀貨一枚でも売れる品質のものが安定して生産できます」


 フリントは俺が描いた設計図を食い入るように見つめていた。

 彼の目には俺の言葉がハッタリではないと、確信している色があった。


「……へっ。なるほどな。ガラクタを宝に変えるだけじゃねえ。宝の作り方そのものを生み出すってわけか。あんたの頭の中はどうなってやがるんだ」

「ただの物理学ですよ」


 俺は静かに答えた。

 こうして俺たちの最初の共同事業が始まった。


 俺は、この世界の法則を再定義する知の探求者。

 フリントは、その知性をこの混沌とした世界で通用する価値へと変換する唯一無二の交渉人。


 俺たちの前には旧弊な権威と、凝り固まった常識という名の巨大な壁がそびえ立っている。


(面白い。実に面白いじゃないか)


 俺はこれから始まる、この世界の非効率なシステムに対する最も効率的なハッキングに、心の底から興奮していた。

 俺の孤独な探求は終わった。

 今日から俺たちは、二人で一つの異端の知性となるのだから。

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