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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
二つの世界の邂逅

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21/68

価値の再定義

 ()、桐山徹とフリント・ロックと名乗った少年。

 二人の間に交わされた握手は、この混沌とした煤壁通りにおいて極めて異質な契約の成立を意味していた。

 友情でも信頼でもない。互いの能力を商品として評価し、その利用価値に基づいて結ばれた純粋に合理的な共犯関係の始まりだ。


 俺は三歳の幼児の小さな手を、フリントの煤で汚れた手から引き抜いた。


「では、フリント。早速ですが最初の業務を開始してください」

「業務、ね。へっ、面白い言い方する嬢ちゃん……いや、ゼノだな」


 フリントは俺の大人びた口調を面白がるように口の端を吊り上げたが、その瞳はもはや俺をただの子供としては見ていなかった。

 彼の目は、俺という存在を「未知だが価値のある情報源」として正確に再評価している。


(……彼の思考アルゴリズムは極めて柔軟だ。新しいデータに基づき、即座に自身の行動モデルを最適化している。この適応能力の高さこそが、彼がこの混沌とした環境で生き残ってきた要因か)


 俺は再び露店のガラクタの山に積まれた、あの黒い石ころ――『劣化した魔力安定化回路』を指差した。


「目標はあれです。あなたの交渉術を駆使し、可能な限り低いコストで入手してください。成功すれば、あなたは約束通り将来得られる利益の三割を得る権利を手にします」

「利益の三割、ね。そいつは景気のいい話だが、まだ絵に描いた餅だ。で、交渉術って言ってもよ。俺にどうしろってんだ?」


 フリントは腕を組み、試すような目で俺を見た。

 彼は俺の「知性」が、この具体的な状況においてどのような指示を出力するのかを値踏みしているのだ。


 俺は前世の物理学者としての思考をフル回転させた。

 交渉とは情報の非対称性を利用したゲームだ。俺たちはあの石の真の価値を知っている。店主は知らない。

 ならば取るべき戦略は一つ。


「簡単です。まず、あの石の真の価値を店主に論理的に説明します。修復後の推定市場価格、その技術的な希少性、そしてそれを我々が正当な価格で買い取る意思があることを明確に伝える。彼はガラクタだと思っていますから、例えば金貨一枚でも彼にとっては莫大な利益です。我々にとっては研究開発費を考えれば破格の安値。双方にとって利益のある合理的な取引が成立するはずです」


 俺の完璧な論理。

 だが、それを聞いたフリントは一瞬きょとんとした後、腹を抱えて笑い出した。


「ぶっ、はははは! なんだそりゃ! 嬢ちゃん、あんた本物の貴族だな! そんなお綺麗なやり方がこんな場所で通用すると思ってんのか?」

「……なぜです? 論理的に双方に利益があると証明できれば、交渉は成立するはずですが」

「あのな、ゼノ。ここは煤壁通りだ。てめえのその頭脳がどれだけのもんか知らねえが、ここの連中が信じるのは『論理』じゃねえ。『欲望』だ。あんたが今言った通りにやったらどうなるか、教えてやろうか? あのオヤジはこう思うぜ。『こいつら、ガラクタのはずの石に金貨一枚出す気だ。ってことは、本当はもっと価値があるに違いねえ。なら、もっとふっかけてやろう』ってな。あんたのやり方は相手の欲望を刺激するだけの、最悪の交渉術だ」


 フリントの言葉に、俺は初めて自らの思考モデルに重大な欠陥がある可能性を認識した。

 俺のモデルは交渉相手が「合理的な判断を下す」ことを前提としている。だが、この世界の人間は必ずしも合理的ではない。


(……なるほど。彼の指摘は正しい。俺のシミュレーションには『人間の非合理性』という最も重要な変数が欠落していた。この少年はそれを経験則で理解している。これが彼が言う『裏社会の物理学』か……)


 俺が沈黙したのを肯定と受け取ったのだろう。

 フリントは「ま、見とけよ先生。こっから先は俺の専門分野だ」と言うと、悪戯っぽい笑みを浮かべて一人で露店へと歩み寄っていった。


 俺は少し離れた場所から、フリントの「非効率な交渉術」を観測することにした。


 フリントは露店に近づくと、まずガラクタの山には目もくれず店主の男に親しげに話しかけた。


「よぉ、オヤジ。相変わらずガラクタばっか並べてんな。そんなんで商売になるのかよ」

「うるせえ、クソガキ。てめえに言われる筋合いはねえ。冷やかしなら帰りな」


 店主はフリントを追い払おうとする。だが、フリントは全く動じない。

 彼は店主が腰に下げている古びた短剣に目をつけた。


「へぇ、その短剣、年代物だな。どっかの遺跡からでも掘り出してきたのか? 刃こぼれがひでえ。そんなもん、銅貨一枚でも買い手がつかねえだろ」

「……何が言いてえ」


 店主の眉がぴくりと動く。フリントは相手が興味を示したのを見逃さなかった。


「俺のダチに腕のいい研ぎ師がいる。そいつに頼めばこの刃こぼれも綺麗になるぜ。そうすりゃ銅貨五枚……いや、十枚で売れるかもしれねえ。どうだ? 俺がそいつに繋いでやってもいい。手数料は売れた時の二割でいいぜ」


(……なるほど。彼はまず相手の利益になる情報を提供することで警戒心を解き、交渉のテーブルに着かせたのか。極めて非論理的だが効果的なアプローチだ)


 店主はしばらくフリントを疑わしげに見ていたが、やがて「……チッ。話だけだぞ」と交渉に応じる姿勢を見せた。


 そこから先はフリントの独壇場だった。

 彼は研ぎ師の話をしながら、さりげなくガラクタの山を物色し始めた。

 そして目的の石ころを手に取ると、それを鼻で笑った。


「しかし、オヤジも物好きだな。こんな呪われた石まで仕入れてくるとは」

「なっ!? の、呪われてなんかいねえ! ただの黒い石だ!」

「嘘つけよ。俺には分かるんだ。こいつからは不吉な魔力が漏れ出てる。こいつをここに置いとくからオヤジの商売も上手くいかねえんだ。どうだ? 俺がこいつを『処分』してやろうか? もちろんタダでとは言わねえ。処分料として銅貨二枚でどうだ?」


(……脅迫と欺瞞。そして心理誘導。彼の行動は全てが非論理的な変数の組み合わせだ。だが、店主の表情が恐怖と、そして僅かな希望に揺れている。フリントの言葉が彼の思考を支配し始めている)


 店主は唾を飲み込み、フリントと彼が持つ石ころを交互に見た。


「……ま、まけろ。銅貨一枚だ。それで持ってけ」

「はっ、欲張りなオヤジだな。しょうがねえ。じゃあ銅貨一枚で、この呪われた石を『買って』やるよ。これでオヤジの店も繁盛するぜ、きっと」


 フリントはそう言うと懐から銅貨を一枚取り出し、店主の手に握らせた。

 そして何でもないように石ころを懐にしまうと、俺の元へと戻ってきた。


 その間、わずか十分。

 金貨一枚を提示しようとしていた俺の論理的なアプローチとは、比較にならないほどの最適解だった。


「どうだ先生。これが煤壁通りのやり方だ」


 フリントは得意げに笑いながら、懐から黒い石ころを取り出した。


「……見事です。あなたの交渉術は俺の予測モデルを遥かに超えていました。これは俺の知らない、もう一つの『物理学』ですね」


 俺の率直な賞賛に、フリントは少し照れたように鼻を掻いた。


「ま、まあな。で、こいつが本当に金貨100枚になるって話、本当なんだろうな?」

「ええ。ですが、このままではただの石ころです。修復が必要です」


 俺はフリントから石ころを受け取った。

 表面は滑らかだが、内部に刻まれた古代の魔法回路は魔力の流れが断絶し、完全に沈黙している。


「修復って、どうやるんだよ」

「見ていれば分かります」


 俺はその石ころを左の掌に乗せ、右手の指先をそっと触れさせた。

 そして自らのオドを極めて微細な針のように練り上げ、石の内部へと侵入させていく。


(……内部構造をスキャン。魔力回路の断線箇所を特定。原因は長期間の魔力供給停止による回路の結晶化か。ならばやることは一つ。外部から高純度の魔力をパルス状に流し込み、結晶化を破壊、回路を再接続する)


 俺はフリントにだけ聞こえるように、静かに告げた。


「フリント。今から、この石の価値(・・)を再定義します」


 その言葉と同時に、俺は指先に集中させたオドを魔素に変換し、石の内部へと一気に流し込んだ。


 瞬間。


 フリントの手の中にあったただの黒い石ころが、淡い翠色の光を放ち始めた。

 石の表面に今まで見えなかった複雑で美しい幾何学模様が、光の線となって浮かび上がる。

 そして石全体が、まるで心臓のようにトクン、トクンと穏やかに脈動し始めた。


「なっ……!?」


 フリントが息を呑むのが分かった。彼の鋭い瞳が驚愕に見開かれている。


「これは……ただの応急処置です。回路の断線を一時的に繋いだだけ。ですが、これでこの石がただのガラクタではないことは証明できたでしょう?」


 俺は光を放つ石をフリントの手に握らせた。石はほんのりと温かい。


 フリントはしばらくの間、掌の中で脈動する光の石を信じられないものを見るように見つめていた。

 やがて彼は顔を上げ、俺を真っ直ぐに見つめ返した。

 その瞳にはもはや嘲りも値踏みするような色もなかった。ただ純粋な畏怖と、そして抑えきれない興奮の色だけが浮かんでいた。


「……ゼノ。あんた、一体……」

「言ったはずです。私の知性には価値があると」


 俺は静かに答えた。

 この瞬間、俺とフリントの間の契約は新たなステージへと移行した。

 彼は俺の「知性」が、この混沌とした世界において無から有を生み出す本物の「通貨」であることを、その身をもって理解したのだ。


 俺たちの共犯関係は、今、本当の意味で始まった。

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