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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
二つの世界の邂逅

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20/60

最初の取引相手

 煤に汚れた顔、ボロ切れのような服。

 ()、桐山徹の前に立つ少年は、この混沌とした市場の風景に完璧に溶け込んでいた。

 だが、その瞳だけが異質だった。全てを値踏みし、利用価値を瞬時に計算するような冷徹な光。

 それは、この無秩序な環境に適応進化し、その法則を完全に掌握した捕食者の目だ。


(……個体を識別。感情パラメータ:強い警戒心、計算高さ。目的:俺から金銭を搾取すること。……面白い。この少年はこの混沌とした市場の物理法則を経験則で完全に理解している。彼自身がこの市場というシステムの、生きた演算装置だ)


 俺は三歳の幼児という外見に不釣り合いな、純粋に分析的な視線で目の前の少年を観測していた。


 少年は俺の銀髪と、平民のそれとは明らかに違う仕立ての良い服を一瞥すると、ニヤリと口の端を吊り上げた。

 その笑みは友好的なものではない。獲物を見つけた狼のそれだ。


「へぇ。迷子の貴族のお嬢ちゃんか。ここは、お前さんみたいなのが来るところじゃねえぜ」


 その声には子供らしい無邪気さの欠片もなかった。ただ、冷徹な事実の陳列。

 この少年は、俺がこの世界の法則に適合していない「異物」であることを一目で見抜いていた。

 俺は無言で少年を見つめ返した。

 恐怖はない。ただ興味があるだけだ。

 この生きた演算装置が、俺という未知の変数に対してどのような処理を行うのか。


「金目のモンでも持ってるのか? なら、身ぐるみ剥がされる前にとっとと帰った方がいい。ま、もう手遅れかもしれねえがな」


 少年は俺が先ほどスリに遭ったことを示唆するように、俺の腰元に視線を走らせた。

 彼の情報収集能力と状況判断の速さは、驚嘆に値する。

 だが、俺は動じない。

 俺の目的は感傷に浸ることでも、失った銅貨を嘆くことでもない。


 俺は無言のまま少年の視線を無視して、露店のガラクタの山の一点を指差した。


「あれが欲しい」


 俺が指差したのは、他の者にはただの黒い石ころにしか見えないであろう古代文明の遺物。『劣化した魔力安定化回路』だ。

 少年は俺の唐突な要求に一瞬だけ虚を突かれたような顔をしたが、すぐに嘲るような笑みを浮かべた。


「はっ。嬢ちゃん、目が肥えてるのか、ただのアホなのか。どっちだ? そんな石ころ、そこらの道端にでも転がってるぜ」

「あれは、ただの石ころではありません。正しく修復すれば金貨100枚……いえ、それ以上の価値を生み出す高度な魔道具です」


 俺は淡々と事実だけを告げた。

 感情を排し、ただ情報の価値を提示する。それが俺の唯一の交渉術だ。

 少年は俺の言葉に、初めてその鋭い瞳を興味深そうに細めた。


「金貨100枚、ねぇ。威勢のいいこった。で? そのお宝とやらを、どうやって手に入れるってんだ? あんた、さっきケツの毛まで抜かれたばかりだろ」

「だから、あなたに取引を提案します」


 俺は真っ直ぐに少年の目を見据えた。


「あなたが、あの石を可能な限り安価で手に入れてください。成功報酬として、修復後に得られる利益の三割をあなたに譲渡します」


 沈黙が、路地の喧騒の中で俺と少年の間にだけ生まれた。

 少年は俺の顔を、まるで未知の生物でも観察するかのようにじっと見つめている。

 彼の頭脳が、俺という存在の価値とリスクを猛烈な速度で計算しているのが分かった。

 やがて少年は肩をすくめた。


「口約束だけじゃ信用できねえな。あんたがどこの誰かも知らねえ。それに、俺が苦労して手に入れた後、あんたがとんずらするかもしれねえだろ」


(……合理的だ。契約における信頼性の担保を要求している。当然の思考プロセスだ)


「俺の価値を、どうやって証明する?」と、少年は続けた。

 その問いは試しているのだ。俺が金銭以外にどのような価値を持つのかを。


 俺は彼の問いに答える代わりに、彼の胸元を指差した。

 彼が首から下げている、汚れた革紐に通された小さな獣の牙。おそらく彼が初めて狩った獲物の牙か、あるいは、お守りの類だろう。


「その牙。材質は低級な魔物『ラットウルフ』のものですね。ですが、その先端に極微量のミスリル鉱石が付着しています。おそらく、この煤壁通りのどこかの工房でミスリルを加工した際に出た削りカスが、風に乗って飛来し偶然付着したのでしょう。そのミスリルを抽出し触媒として利用すれば、この牙は低級な魔除けの護符として銅貨五枚で売れます。現在の価値はゼロですが」


 俺はただ観測した事実を述べただけだ。

 だが、少年の顔から初めて嘲るような色が消えた。

 代わりに浮かんだのは驚愕と、そしてより深い探求の色だった。


 彼は自らの胸元の牙を掴み、それをまじまじと見つめた。


「……あんた、一体、何者だ?」

「見ての通り、ただの三歳の幼児です。ですが、私の知性(・・)には価値がある。そうでしょう?」


 俺は初めて彼に対して問いかけた。

 それは俺の知性が、この混沌とした世界で「通貨」として機能するかを試す最初の実験だった。


 少年はしばらくの間、俺の顔と手の中の牙を交互に見比べていた。

 そしてやがてふっと息を吐くと、これまでで最も面白い玩具を見つけた子供のような獰猛な笑みを浮かべた。


「……いいぜ。乗った。その取引、受けてやる」


 彼は俺に向かって汚れた手を差し出した。


「俺はフリント。フリント・ロックだ。あんたは?」

「ゼノ。ゼノ・ヴィリジアン」


 俺はその小さな手を握り返した。

 それは貴族社会の儀礼的な握手ではない。互いの利益が一致したことによる、純粋に合理的な契約の成立を意味する最初の調印だった。


(個体名、フリント・ロック。彼の交渉術は再現性のない、全く非科学的なものだ。だが、結果は最適解に近い。……なるほど。こいつは、俺がこの非効率な社会システムと対話するための、極めて優秀な『外部インターフェース(・・・・・・・・・・)』になる。こいつは使える。俺の探求を加速させる、最初の歯車として)


 こうして俺は、この混沌とした煤壁通りで最初の取引相手を見つけた。

 それは友情でも信頼でもない。

 ただ互いの能力を認め、互いの利益のために協力するという、極めて合理的で、そして何よりも強固な共犯関係の始まりだった。

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