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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
二つの世界の邂逅

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19/61

煤壁通りの混沌

 ヴィリジアン邸の高い石壁から飛び降りた瞬間、()、桐山徹の世界は再定義された。


 これまで俺を囲んでいたのは、予測可能なパラメータで構成された閉鎖系の実験環境だった。

 父の恐怖、母の計算、侍女の善意。それらは全て俺の解析モデルの中で処理できる、既知の変数に過ぎなかった。

 だが、今は違う。

 壁一枚を隔てただけで、世界の複雑性は指数関数的に増大した。


(……素晴らしい。観測対象が無限に広がっている)


 俺は路地裏の物陰に身を潜めながら、自らの感覚器が収集する膨大な情報を処理していた。

 貴族街の整然とした石畳を打つ馬車の蹄の音、庭園から漂う手入れの行き届いた花の香り、衛兵たちの規則正しい足音。

 それら全てが秩序と予測可能性に満ちた、退屈なデータだった。

 俺が目指すのは、その対極。

 父の書斎で読み解いた古地図に記されていた王都の裏側。

 貴族街と商業区を隔てる煤に汚れた高い壁に沿って形成された、非合法な取引が横行するという裏市場。


 通称、煤壁通(すすかべどお)り。


 そこはこの王都という巨大なシステムにおける、公式には存在しないはずのバグであり、あらゆる混沌が許容される特異点だと俺は仮説を立てていた。

 そしてシステムの真の姿を理解するには、その最も歪んだ部分を観測するのが最も効率的だ。


 俺は三歳の幼児という完璧な擬態を維持しながら、人々の視線を巧みに避け目的地へと向かった。

 銀髪翠眼の幼女という外見は、この社会において「庇護されるべき無力な存在」という強力な認識フィルターを他者に与える。そのフィルターを利用しない手はない。

 時折、物珍しそうな視線を向けられるが、俺が怯えたような素振りで物陰に隠れると彼らは興味を失って立ち去っていく。


(人間の認知バイアスは実に扱いやすい変数だ)


 貴族街の境界を越え、商業区へと足を踏み入れた瞬間、世界のパラメータが劇的に変化した。

 まず、匂いが変わった。

 花の香りは消え、代わりに焼いた肉の香ばしい匂い、未知の香辛料のエキゾチックな香り、人々の汗と獣脂の匂い、そして微かな血の匂いが混じり合った混沌とした香りが鼻腔を突いた。


 次に、音が変わった。

 規則正しい蹄の音は、様々な言語の怒鳴り声、値切る声、そして得体の知れない弦楽器が奏でる物悲しい旋律の奔流に取って代わられた。


 そして、ついに俺はその壁の前に立った。

 高さは十メートル以上あるだろうか。長年にわたって工房の煤を浴び続けた壁は、その名の通り黒く、そしてどこか湿り気を帯びていた。

 壁に沿って粗末な屋台や露店が、まるで壁に寄生する菌類のように無秩序に連なっている。


 ここが、煤壁通り。


 俺は、その混沌の入り口に一歩、足を踏み入れた。

 その瞬間、俺の脳は情報の洪水に飲み込まれた。


(この混沌……! 貴族街の整理されたデータとは比較にならない情報量だ。非効率極まりないが、ここにはここだけの物理法則がある。欲望のベクトル、恐怖による斥力、そして金銭という名のエネルギー流動。……実に興味深い)


 視界に飛び込んでくる全てが、新たな観測対象だった。

 獣の耳と尻尾を持つ獣人(ビーストマン)の行商人。筋骨隆々とした体躯で巨大な斧を肩に担ぐ矮人(ドワーフ)の用心棒。肌の色の違う人々、見たこともない意匠の衣服、そして彼らが交わす俺がまだ解析していない未知の言語。


 露店に並ぶ品々も貴族街のそれとは全く異なっていた。

 出所不明の宝石、錆びついた古代の魔道具の部品、効果不明の怪しげな薬草。その全てが俺の知的好奇心を暴力的に刺激する。


 人々が浮かべる表情も貴族たちのそれとは全く違った。

 彼らの顔に浮かんでいるのは洗練された社交辞令の笑みではない。剥き出しの欲望、猜疑心、そして一瞬の油断が死に繋がるという、生存競争の只中にいる生物特有の緊張感。


 ここは美しい秩序で塗り固められた貴族社会とは、全く異なるOSで稼働している。

 俺はこの混沌としたシステムを解析するために、ゆっくりと、しかし注意深く歩を進めた。

 三歳の幼児という外見はここでは目立つ。だが、同時に「価値のない存在」として多くの人間の認識から弾かれる。好都合だ。


 俺はある露店の前で足を止めた。そこにはガラクタ同然の魔道具の部品が山と積まれている。店主は片目のない屈強な男だ。

 俺は、そのガラクタの山を物理学者の目でスキャンしていく。


(……この歯車、材質はオリハルコンの合金か? 現代の技術では生成不可能なレベルの代物だ。だが魔力回路が完全に焼き切れている。修復は困難だが不可能ではない。その隣の水晶……内部に封入されているのは高純度の魔素結晶か。エネルギー源として転用できる。そして、これは……)


 俺の視線が、一つの石ころに釘付けになった。

 他の者にはただの黒い石にしか見えないだろう。だが、俺の目にはその内部に刻まれた、極めて微細で信じられないほどに高度な魔法回路が見えていた。


(……古代文明の遺物。『劣化した魔力安定化回路』……! なんてことだ。こんなものが無造作に転がっているとは)


 この世界の魔法技術は魔力の出力を安定させることに多大なコストをかけている。

 この回路を修復しその構造を解析できれば、俺の理論は飛躍的に進歩する。

 俺は、その石ころを手に入れようと一歩前に出た。

 その時だった。


 ドン、と背中に軽い衝撃。

 振り返ると、俺よりも少しだけ背の高い痩せた少年が立っていた。年の頃は七歳か八歳といったところか。


「ご、ごめんなさい」


 少年はそう言うと素早く俺の横を駆け抜け、人混みの中へと消えていった。

 俺は、その少年の動きを冷静に分析していた。


(……衝突時の運動エネルギーと彼の質量、速度に僅かな誤差を観測。意図的な接触。目的は……)


 俺は腰に下げていた小さな革袋に手をやった。

 中には屋敷から持ち出してきた数枚の銅貨が入っているはずだった。

 だが、その革袋は綺麗に切り取られ、中身ごと消えていた。


(……なるほど。これがこの世界の『摩擦』か)


 盗まれたことに対する怒りはない。ただ自らの予測モデルの甘さに、僅かな不快感を覚えただけだ。

 俺はこの世界の物理法則の解析に夢中になるあまり、社会法則の観測を怠っていた。


(良い教訓だ。この混沌とした系の中では、常に複数のパラメータを同時に観測し続けなければならない)


 俺は再びガラクタの山に視線を戻した。

 銅貨は失ったが、目的の『魔力安定化回路』はまだそこにある。だが、今の俺にはそれを手に入れるための通貨がない。


(……どうするか。店主との直接交渉は三歳の幼児では成功確率が低い。別の手段を模索する必要がある)


 俺が新たな問題解決のための思考に没頭していた、その時。


「よう、嬢ちゃん。そんなガラクタを睨みつけて、何が面白いんだ?」


 不意に横から声がかけられた。

 俺はゆっくりと声の主へと視線を向けた。

 そこに立っていたのは、俺とさほど変わらない背丈の痩せた少年だった。

 年の頃は十歳前後か。煤で汚れた顔、ボロ切れのような服。だが、その瞳だけがこの混沌とした通りの中で、異様なほどに鋭く、そして全てを見透かすような光を宿していた。


(……個体を識別。感情パラメータ:強い警戒心、計算高さ。目的:俺の価値の査定。……面白い。この少年はこの混沌とした市場の物理法則を経験則で完全に理解している。彼自身がこの市場というシステムの、生きた演算装置だ)


 俺は無言で少年を見つめ返した。

 少年は俺の銀髪と貴族趣味の服装を一瞥すると、ニヤリと口の端を吊り上げた。


「へぇ。迷子の貴族のお嬢ちゃんか。ここは、お前さんみたいなのが来るところじゃねえぜ」


 その言葉は脅しでも忠告でもなかった。ただ、冷徹な事実の陳列。

 この少年は、俺がこの世界の法則に適合していない「異物」であることを一目で見抜いていた。


 俺は初めて、この世界で俺以外の「知性」と出会ったのかもしれない、と思った。

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