エリアナの死角
決行の日。
天候、晴れ。湿度45%。風速、秒速2.1メートル。
全ての環境パラメータは、俺が数週間かけて収集したデータセットの平均値内に収束していた。予測モデルからの逸脱はない。
(……完璧な実験日和だ)
俺、桐山徹の精神は、三歳の幼児ゼノ・ヴィリジアンの肉体の中で冷徹なまでに静まり返っていた。
今日、俺はこの知的な牢獄――ヴィリジアン邸という名の揺り籠から脱出する。
プロジェクト『脱獄』。
その成功確率は計算上97.8%に達している。残りの2.2%は、両親の突発的な行動や警備兵の気まぐれといった予測不能な確率的ゆらぎだ。
無視できるリスクではないが、これ以上の精度を求めるのは非効率だと判断した。
俺は侍女エリアナの手に引かれ、昼食後の散歩という名の最後の現地調査を行っていた。
彼女の歩く速度、視線の動き、俺にかける言葉のトーン。その全てが、俺のデータベースに記録された彼女の行動アルゴリズムと完全に一致している。
(個体名エリアナ。感情パラメータ、安定。俺に対する好意レベル、高水準で維持。行動予測モデルからの逸脱、0.03%未満。……問題ない)
庭園の中央に差し掛かった時、俺は計画の最終フェーズへと移行した。
俺は立ち止まり、おぼつかない足取りで庭師が手入れしている一角の薔薇を指差した。
「エリアナ、おはな……きれい」
発声は三歳児のそれとして完璧にチューニングされている。
僅かな舌足らずさと純粋な感動を装った声色。これは彼女の感情パラメータを俺が望む方向へと誘導するための、計算され尽くした入力信号だ。
案の定、エリアナは愛おしそうに目を細め、俺の目線に合わせて屈んだ。
「はい、ゼノ様。本当に綺麗ですね。わたくし、この薔薇のお手入れをするのが毎日の楽しみなのです」
(……トリガーワード『薔薇の手入れ』を観測。ターゲットの行動アルゴリズムが予定通り起動したことを確認。これより最終誘導シーケンスに移行する)
俺はエリアナの袖をくい、と軽く引いた。
そして最大限の無垢な表情を作り、首をこてんと傾けてみせる。
「おみず、あげたい」
それは子供らしい純粋な模倣欲求の発露。エリアナの思考モデルならば、これを拒絶する確率は限りなくゼロに近い。
「まあ、ゼノ様! なんてお優しいのでしょう。では、お部屋に戻ったらわたくしがお水をあげてまいりますね。ゼノ様のお気持ちも、きっと薔薇さんに届きますよ」
完璧だ。
彼女は俺の行動を「部屋で待っている」という前提で解釈した。
これから彼女が取る行動は、俺を部屋に連れ帰り、安全を確認した後、庭仕事のために自室の隣にある給湯室へ向かい、ジョウロに水を入れて庭に戻る、という一連のルーチンワークだ。
その間、約十五分。
それが俺に与えられた、唯一にして絶対の機会。
彼女の善意と忠誠心が生み出す、完璧な死角だった。
部屋に戻ると、エリアナは俺をベッドに座らせ、いくつかのおもちゃを並べた。
「ゼノ様、少しだけお待ちくださいね。すぐに薔薇さんにお水をあげてまいりますから」
彼女はそう言うとにこやかに微笑み、部屋を出て行った。
扉が閉まる音。そして廊下を遠ざかっていく足音。
俺は一秒の遅滞もなく行動を開始した。
ベッドから滑り降り、エリアナの部屋へと向かう。彼女の部屋の扉は俺の部屋のすぐ隣だ。施錠されていないことは既に確認済み。
音もなく扉を開け、中へ入る。
エリアナの部屋は質素で、小さなベッドと簡素な木製の机、そして衣服を入れるための小さな箪笥があるだけだ。
目的は庭に面した窓。
窓枠に手をかけ、僅かな力で持ち上げる。古い木製の窓は、僅かにきしむ音を立てた。
(……ノイズ発生。許容範囲内。外部の警備兵の聴覚モデルでは、この距離と音量では検知不可能)
窓の外には計算通りの光景が広がっていた。
高さは約三メートル。真下には衝撃吸収材として機能する、手入れの行き届いた生垣。そしてその向こうには、屋敷を囲む外壁が見える。
庭の隅では、エリアナが薔薇に水をやっている後ろ姿が見えた。彼女の注意は完全に庭仕事に固定されている。
俺は躊躇なく窓枠を乗り越えた。
三歳の身体は重力に対して驚くほど無力だ。落下が始まる。だが、俺の頭脳は冷静だった。
(……落下速度、秒速7.8メートル。着地予測地点、誤差修正。衝撃吸収のため身体を丸め、受動的な回転運動を開始する)
前世の物理学者が、自らの身体を使って自由落下の実験を行っているようなものだ。実に滑稽な光景だろう。
ザザッ、という葉擦れの音と共に俺の身体は生垣に突っ込んだ。
計算通り、生垣の弾力が落下の運動エネルギーの大半を吸収する。僅かな打撲感はあるが、骨格へのダメージはない。
俺は即座に生垣から這い出し、身を低くして物陰から周囲を窺う。
(……警備兵A、巡回ルート上の定点に到達。次の移動まで、あと27秒。エリアナの視線、依然として庭に固定。行動可能時間、18秒)
俺は庭園の彫像の影から影へと、計算された最短ルートを疾走する。
三歳の子供の歩幅と筋力で18秒以内に次の遮蔽物まで到達するための最適化された動き。それはもはや歩行ではなく、地面を滑るような高速移動だった。
最後の茂みに身を隠した時、背後で警備兵が欠伸をする音が聞こえた。
(……第一次関門、突破。成功確率99.2%。予測モデルからの誤差、許容範囲内)
残るは最後の壁。屋敷を囲む高さ五メートルの石壁だ。
俺は事前にマッピングしておいた、壁の亀裂が最も多い地点へと向かう。そこは古い排水溝の真上にあり、警備兵の巡回ルートからも絶妙な死角となっていた。
壁の前に立ち、その表面を指でなぞる。
(……材質、花崗岩。表面の摩擦係数0.42。亀裂の深度、平均3.2センチ。三歳の指でも十分にホールド可能)
俺は両手両足を使いクライミングを開始した。
それはパズルを解くような、純粋に知的な作業だった。どの亀裂に指をかけ、どの窪みに足を置くか。全ての動きが、事前に脳内で行った何百回ものシミュレーションに基づいている。
三歳の非力な筋力では一度のミスも許されない。
だが、俺の頭脳はこの身体が出せる力の限界値を正確に把握し、その99%の範囲内で最も効率的な力の使い方を計算し続けていた。
高さ三メートル地点。腕の筋肉が限界に近い悲鳴を上げ始める。
(……乳酸の蓄積、閾値に接近。だが、問題ない)
俺は僅かにオドを練り上げ、手のひらと石壁の間に極めて微弱な引力を発生させた。
分子間力への僅かな介入。壁に吸い付くような感覚が、俺の体重を僅かに軽減する。
これはこの世界の物理法則をハッキングする、俺だけの技術だ。
そして、ついに。
俺の小さな指が、壁の最上部にかかった。
壁の上から見下ろす世界は、俺が窓から見ていたものとは全く解像度が異なっていた。
眼下に広がるのは王都へと続く石畳の道。そしてその先には、無数の家々の屋根がまるで複雑な幾何学模様のように広がっている。
人々の喧騒、馬車の蹄の音、どこかの工房から聞こえる金属を打つ音。
その全てが俺の感覚器に、膨大な情報として流れ込んでくる。
(……素晴らしい。これだ。これこそが俺が求めていた、複雑で、混沌としていて、そして未知の法則に満ちた本物の実験場だ)
俺は背後を振り返った。
そこには美しく手入れされた庭園と、俺が「揺り籠」と呼んだヴィリジアン邸の姿があった。
遠く庭園の一角で、エリアナが立ち上がり俺がいたはずの部屋の窓を見上げているのが見えた。
おそらく俺がいないことに気づいたのだろう。彼女の顔には困惑と不安の色が浮かんでいる。
(……すまない、エリアナ。君の善意は俺の探求の礎となった。感謝はしている。だが、俺はもうあの揺り籠には戻らない)
俺は彼女に背を向け、壁の外側へと躊躇なく身を躍らせた。
着地点は計算済みだ。
こうして俺は自らの知性だけを武器に、この世界の法則を根源から解き明かすための、危険で、そして何よりもエキサイティングな本当の研究を始めたのだった。




