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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
二つの世界の邂逅

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17/68

揺り籠の壁

 父の書斎から得られた情報は俺、桐山徹の知的好奇心を部分的に満たし、そして同時に新たな渇望を掻き立てた。

 この世界の知識体系は俺が再定義すべきバグだらけのプログラムだった。その事実は揺るぎない。だが、それはあくまで理論上の話だ。机上の空論に過ぎない。


(理論は完成した。だが、検証なき理論はただの空論だ)


 前世において物理学という学問は、理論と実験の両輪によって進歩してきた。どれほど美しい数式も観測事実によって裏付けられなければ、それはただの数学的な遊戯に過ぎない。反証可能性を持たない理論は科学ではなく信仰だ。

 俺は今その「信仰」の世界にいる。そして、それを打倒するための「科学」という武器を手に入れた。だが、その武器を振るうための実験場が俺にはなかった。

 ヴィリジアン邸の書斎は確かに知識の宝庫だった。だが、それはあくまで過去のデータがアーカイブされた静的なデータベースに過ぎない。俺が今必要としているのは、リアルタイムで変動するパラメータを観測し、自らの理論を実証するための動的な実験環境だ。

(この屋敷の中では観測できる物理現象が限定的すぎる)

 例えば俺が再定義した熱力学の法則。その正しさを証明するには、密閉空間内での精密な温度変化と圧力の相関を測定する必要がある。だが、この屋敷の厨房にある原始的なかまどでは変数が多すぎて正確なデータは取れない。

 例えば俺が構築した「ベクトル制御」の理論。運動する物体の方向性を最小限のエネルギー介入で操作するこの技術を完成させるには、様々な質量と速度を持つ飛翔体に対する膨大な試行データが必要だ。だが、この屋敷の庭で石を投げる程度の実験では誤差が大きすぎる。

 俺は自室の窓辺に立ち、遥か彼方に広がる王都の街並みを眺めていた。無数の人々が行き交い、馬車が走り、工房からは煙が上がる。そこは俺がまだ知らない無数の物理現象と社会法則が渦巻く、巨大で複雑な生態系だ。


(……あの壁の外には、より広大で複雑な未知の観測対象が広がっている)


 あの街こそが俺が求める真の実験場だ。

 それに比べて、このヴィリジアン邸はなんだ?

 かつて生まれたばかりの俺にとって世界は「揺り籠」そのものだった。そして今、三歳になった俺にとってこの屋敷が新たな「揺り籠」となっている。安全で快適で、全てのものが予測可能。だが、それは同時に俺の探求を阻む知的な牢獄に他ならなかった。

 この揺り籠はあまりにも狭すぎる。


(脱出しなければならない。この知的な牢獄から)


 その結論は感情的な衝動からではなく、純粋に論理的な必然として導き出された。研究者がより高性能な実験設備を求めるのと同じだ。俺はより優れた実験場へと自らの身を移す必要がある。

 その日から俺の新たな研究プロジェクトが始まった。

 プロジェクト名は、『脱獄』。


 あらゆる実験は、まず現状の観測と分析から始まる。俺はこのヴィリジアン邸というシステムを一個の解析対象として捉え直した。

 目的は、このシステムのセキュリティを突破し外部へと脱出すること。そのために俺は屋敷のあらゆる構成要素をデータ化し始めた。

 観測対象1:物理的構造。

 屋敷の壁の高さ、材質、窓の配置と施錠方式、扉の構造。俺は昼間、子供の無邪気な遊びを装って屋敷の隅々まで歩き回った。壁にボールをぶつけてその反発係数から強度を推測し、庭の木に登って屋根までの高さを目測する。

 夜には書斎に侵入した時と同じ手法で自室を抜け出し、より詳細な調査を行った。廊下の床板がきしむ場所をマッピングし、窓枠の僅かな歪みを記録する。三歳の子供の身体能力は低いが、それを補って余りあるのが俺の頭脳だ。


(……外壁の高さは約五メートル。材質は石造りだが、蔦が絡まっている箇所が数カ所ある。これを足場にすれば三歳の身体能力でも登攀は可能。問題は着地時の衝撃だ。計算上、骨折は免れない。代替ルートを模索する必要がある)


 観測対象2:人的警備システム。

 ヴィリジアン家は下級貴族とはいえ、警備の兵士が数名常駐している。俺は彼らの交代時間、巡回ルート、そして何よりも彼らの「注意力」のパターンを分析した。


(……警備は二交代制。巡回ルートは固定化されており死角が多い。特に深夜二時から四時の間は最も注意力が散漫になる。だが、この時間帯に正面から突破するのはリスクが高い。彼らはあくまで外部からの侵入者を想定したシステムだ。内部からの脱走者、それも三歳の幼児など彼らの行動予測モデルには組み込まれていないだろう。その認知バイアスこそが俺が突くべき最大の脆弱性だ)


 観測対象3:両親という名の不確定要素。

 父サイラスと母ヘレナ。彼らの行動は警備兵よりも遥かに予測が難しい。感情という非論理的な変数に大きく左右されるからだ。

 父は俺の才能に恐怖を抱いている。故に俺の行動を過剰に監視する傾向がある。

 母は俺の才能を「兵器」として利用しようとしている。故に俺の能力開発には協力的だが、その行動が彼女の管理下から外れることを極端に嫌う。


(両親が起きている時間帯の行動は不可能。彼らが最も深い眠りについている深夜帯が唯一の実行可能時間枠となる。問題は彼らが不意に俺の部屋を訪れる確率だ。過去二週間のデータによればその確率は3.2%。無視できる数値ではない)


 そして最後の、そして最も重要な観測対象。

 観測対象4:専属侍女エリアナという名の最大のセキュリティホール。

 エリアナは俺の身の回りの世話をするために雇われた、善良で忠誠心が高く、そして何よりも「常識」に縛られた人間だ。彼女の行動は他の誰よりも予測可能だった。決まった時間に起床し、決まった手順で仕事を行い、決まった時間に就寝する。彼女の生活は完璧なルーチンワークで構成されていた。

 そして、そのルーチンの中に俺が利用すべき致命的な欠陥が存在した。

 俺はエリアナとの対話を通じて、彼女の行動アルゴリズムをさらに詳細に解析していった。


「エリアナ、お庭のお花、きれいだね」


 ある日の午後、俺はエリアナに手を引かれて庭を散歩しながら、計算された無邪気さで話しかけた。


「はい、ゼノ様。わたくし、この薔薇のお手入れをするのが毎日の楽しみなのです」


 エリアナは嬉しそうに微笑んだ。


(……ビンゴだ。彼女の行動ルーチンの中に『庭の手入れ』という、俺の監視から物理的に離れる時間が毎日ほぼ同じ時刻に存在することを確認)

「エリアナは、お花が好きなんだね」

「はい。わたくしの故郷は、お花の綺麗な村でしたから」


 俺は彼女の個人的な情報――感情的なトリガーとなりうるデータをさらに引き出していく。子供の無邪気な質問は、どんな尋問よりも効果的な情報収集ツールだ。


(個体名:エリアナ。行動予測:俺への好意から庭の花に関する話題に高い関心を示す。彼女が庭仕事に集中している時間、約十五分間。その間、彼女の注意は完全に庭に固定される。これが俺が利用すべき時間的・空間的な『死角』だ)


 彼女の善意と花を愛でるという純粋な心。それが俺の脱獄計画の鍵となる。皮肉なものだ。この世界の人間を動かす最も効率的なハッキングは、彼らの非論理的な「感情」という変数を利用することなのだから。


 数週間にわたるデータ収集と分析の結果、俺はついに最も成功確率の高い脱出計画を策定した。

 実行は三日後。

 ルートはエリアナの部屋の窓から。彼女が庭仕事のために部屋を空ける昼下がりの僅かな時間。彼女の部屋の窓は警備兵の巡回ルートの死角にあり、その真下には衝撃を吸収するための生垣がある。

 着地時のダメージは計算上、軽度の打撲で済む。そこから先は物陰に隠れながら塀まで移動し、事前に観測しておいた壁の亀裂を利用して外部へと脱出する。

 完璧な計画だ。全ての変数は計算され、リスクは最小化されている。

 俺は自室のベッドの上で目を閉じ、脳内で最後のシミュレーションを繰り返していた。エリアナの足音、風の音、遠くで聞こえる警備兵の話し声。その全てをパラメータとして入力し、計画の精度を極限まで高めていく。


(揺り籠の壁はもうすぐ壊れる)


 父が与えた書斎という揺り籠。母が与えた屋敷という揺り籠。エリアナが与えた庇護という揺り籠。その全てを俺は自らの意志で破壊し、外の世界へと踏み出す。

 そこに広がるのが混沌とした未知の世界であろうと構わない。

 なぜなら科学者にとって、未知こそが最大の報酬なのだから。

 俺は三歳の幼児の顔に浮かぶはずのない、冷徹な笑みを浮かべた。


(待っていろ、エーテルガルド。お前という巨大な実験対象を、この俺が根源から解き明かしてやる)

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