言葉と書物の征服
深夜。
月が天頂を越え、ヴィリジアン邸が深い静寂に包まれる時刻。三歳という幼い肉体は、本来であればとっくに無垢な寝息を立てているべき時間だ。
だが俺、桐山徹の精神にとって夜は思考が最も冴えわたる時間であり、そして唯一自由になれる時間でもあった。
ベッドの上で身じろぎもせず、俺は聴覚に全神経を集中させていた。廊下を隔てた両親の寝室、そしてこの部屋の扉の外で簡易的な寝台に身を横たえているであろう専属の侍女エリアナ。その全ての呼吸音、その周期、その深さ。それらは全て俺の脳内でリアルタイムに解析され、行動の可否を判断するためのパラメータとして処理されていく。
(……個体名エリアナ。呼吸周期、安定。睡眠深度ステージ3……ノンレム睡眠の段階に移行した確率98.7%。行動開始のトリガーとしては十分だ)
音もなく滑るようにベッドから降りる。三歳の身体は驚くほど軽く、そして脆弱だ。だが34年分の物理学の知識と、この世界に来てから絶えず行ってきた身体制御のシミュレーションは、この小さな肉体の運動性能を理論上の限界まで引き出していた。床に足が触れる瞬間、衝撃を殺すために足首と膝の角度を最適化する。一歩一歩が計算され尽くした無音の行進だった。
エリアナが眠る扉の前で俺は一瞬だけ動きを止める。彼女の存在は、この屋敷という牢獄における最も予測可能で、そして最も脆弱なセキュリティシステムだ。彼女の善意と忠誠心は俺にとって好都合なバグであり、利用すべきセキュリティホールに他ならない。
(すまないな、エリアナ。君の忠誠心は俺の探求心の前では無意味だ)
心の中でだけ呟き、俺は目的地へと向かう。父サイラス・ヴィリジアンの書斎。この家における知識の聖域であり、そして俺が最初に征服すべき領域だ。
廊下は闇に沈んでいるが、俺の視覚はとうの昔にこの薄闇に適応している。問題は書斎の扉だ。昼間の観測によれば深夜は必ず施錠されている。三歳の子供の力で物理的に破壊することは不可能。だが、俺にはこの世界の物理法則に直接アクセスする手段がある。
書斎の扉の前。重厚な木製の扉に埋め込まれた真鍮の鍵穴。俺はそれにそっと指先を触れた。
(……対象の構造を解析。シリンダー錠か。原始的だが悪くない設計だ。タンブラーの数は五つ。これを内部から同時に持ち上げればいい)
俺は自らの生命エネルギー、この世界で言うところのオドを集中させる。それは俺の魂に刻まれた、この世界の物理法則を書き換えるためのコマンドプロンプトだ。詠唱などという非効率なプロセスは不要。必要なのは正確な物理モデルと、それを実現するための精密なエネルギー制御のみだ。
俺のオドが魔素に干渉し、鍵穴の内部で極めて微細な力場を形成する。五つのタンブラーピンがまるで意思を持ったかのように、同時にそして静かに持ち上がっていく。物理的な接触はない。ただ計算された斥力が、あるべき場所へとピンを押し上げただけだ。
カチリ、と小さな音がロックが解除されたことを告げた。
俺は静かに扉を開け、中へと滑り込む。背後で扉を閉め、再び鍵をかけることも忘れない。証拠隠滅はあらゆる実験における基本だ。
書斎に満ちる古い紙とインクの匂い。
前世の記憶を持つ俺にとって、それは何よりも心を落ち着かせ、同時に知的な興奮を掻き立てる香りだった。壁という壁を埋め尽くす天井まで届く本棚。その全てが俺が解析すべき未知のデータアーカイブだ。
(素晴らしい……! これだけの情報量。揺り籠の中から観測していた非効率な魔道具とは比較にならない。この世界の根源的な法則がここにある)
俺は迷わず魔法物理学の棚へと向かった。まずはこの世界の学問体系の根幹を成す公理を理解し、その欠陥を特定する必要がある。俺はひときわ古びて分厚い革装丁の本を一冊抜き取った。タイトルは『魔法物理学原論』。この世界の全ての魔術師が最初に学ぶとされる基礎理論書だ。
小さな体で重い本を床に引きずり下ろし、月明かりを頼りにそのページを開く。羊皮紙に手書きで記された文字と数式。俺は、この二年間で完全にマスターしたこの世界の言語と数学体系を駆使し、猛烈な速度でその内容を吸収し始めた。
……数時間後。
俺は深い、深い失望の溜息を吐いていた。
(なんだこれは……。学問と呼ぶのもおこがましい。ただの伝承とドグマの寄せ集めじゃないか)
この『魔法物理学原論』は物理学の教科書ではなかった。それは宗教の経典だった。
全ての法則の冒頭は、「偉大なる太陽神が定めたもうた世界の理によれば」という言葉で始まっている。観測事実や実験結果からの帰納的な結論ではない。神の権威を前提とした演繹的なドグマの羅列だ。
(前提となる公理が観測不能な『神の意志』に設定されている。これでは理論の反証可能性が担保されていない。科学の体を成していない)
ページをめくる指が苛立ちに震える。火の魔法の項目。そこには熱エネルギーの発生原理について、こう記されていた。
『――神聖なる詠唱は、術者の信仰心に応じてマナを励起させ、太陽神の御業の欠片たる炎をこの世に顕現させる。故に、炎の威力は、術者の信仰心の深さに比例する――』
(馬鹿な。信仰心? そんな定量化不可能な変数が物理法則の根幹に関わるだと? 熱エネルギーの発生はマナというエネルギー粒子が相転移する際の質量欠損によるものだろう。そこに術者の脳内の電気信号パターン、いわゆる『信仰心』が介入する余地など論理的にあり得ない)
俺は揺り籠の中で行った最初の魔法実験を思い出していた。コップの水を僅かに加熱させたあの実験。あれは信仰心などという曖昧なものではなく、俺のオドが水の分子運動に直接エネルギーを与えた結果だ。この本に書かれていることは、現象の表層を宗教的な比喩で飾り立てているに過ぎない。
さらに読み進める。光の魔法、風の魔法、土の魔法。その全てが個別の独立した奇跡として記述されている。光が電磁波の一種であること、風が気圧差による空気の移動であること、それらの根源が全てエネルギーという単一の概念に収束するという基礎的な視点さえ、この本には欠けていた。
(まるで天動説の時代の教科書だ。いや、それ以前か。全ての物理現象を神々の気まぐれで説明していた神話の時代だ。この世界の学問は前提となる公理が間違っている。これでは美しい数式とは言えない。まるでバグだらけのプログラムだ)
俺は本を閉じた。これ以上読み進めても得られるものは少ないだろう。この世界の知識体系は俺が思っていた以上に原始的で、非論理的で、そして……脆弱だ。
だが、それは同時に途方もない可能性を意味していた。
誰もこの世界の真の姿に気づいていない。誰もこの世界の物理法則が神の奇跡などではなく、解析可能で、制御可能で、そして書き換え可能な、ただの「プログラム」であることに気づいていない。
(面白い。実に面白いじゃないか)
口元に自然と笑みが浮かぶのが分かった。それは前世の桐山徹が、誰も解けなかった数式を前にして浮かべた笑みと同じ種類のものだった。
(この世界の人間が数百年、あるいは数千年かけて積み上げてきた知識の体系。それを俺はたった数時間でその根底から覆すことができた。俺の知性はこの世界において絶対的なアドバンテージを持つ)
俺は立ち上がり、次々と本棚から本を抜き取り始めた。歴史書、地理書、錬金術の基礎、魔物図鑑。一つ一つはバグだらけの欠陥品かもしれない。だが、それらを大量に読み込み、クロスリファレンスを行い、俺の知識体系でフィルタリングして再構築すれば、この世界の真の姿がより鮮明に浮かび上がってくるはずだ。
夜が白み始めるまでの数時間、俺は貪るように文字通り本を「征服」していった。
一冊読み終えるごとに、この世界の解像度が上がっていく。
歴史書からは、ソラリア正教という宗教がいかにしてこの大陸の思想的基盤を形成してきたかが見えてくる。
地理書からは、魔素の濃度が地域によって偏りがあり、それが生態系や文明の分布に大きな影響を与えていることが読み取れる。
錬金術の書物は、その理論こそ稚拙だが魔素周期律の存在を暗に示唆していた。
全ての知識が俺の頭の中で繋がり、一つの巨大なシステムとして再構築されていく。その快感は、前世でどんな難解な論文を読み解いた時よりも遥かに強烈なものだった。
東の空が白み始め、鳥のさえずりが聞こえ始めた頃、俺は最後の本を棚に戻し書斎から退去した。入った時と同じように痕跡一つ残さずに。
自室のベッドに戻り、小さな体を布団に滑り込ませる。エリアナが目を覚ますまであと三十分。完璧な時間管理だ。
目を閉じると脳裏には無数の数式と魔法陣が明滅していた。それは俺が今夜手に入れたこの世界の知識の断片。そしてそれらを再構築した、全く新しい世界の設計図だった。
(観測はまだ始まったばかりだ。だが最初の仮説は証明された。この世界は俺の知性によって征服されるのを待っている)
父サイラスは、この書斎をヴィリジアン家の誇りと伝統の象徴として俺に継がせたいのだろう。
母ヘレナは、俺の才能を一族の栄達のための道具として利用したいのだろう。
彼らはまだ何も理解していない。
俺が求めているのは遺産でも栄達でもない。ただ、真理の探求。それだけだ。
(俺がこの世界の真の法則を再定義してやる)
三歳の幼児の顔に浮かんだ、不釣り合いなほどに不遜な笑み。
それを知る者はまだ誰もいなかった。
こうして揺り籠の中の物理学者が、この世界の知を征服するための静かなる最初の一歩を踏み出した夜は、静かに明けていった。




