孤独の完成
俺、桐山徹の精神を収容するこの不自由な観測装置――ゼノ・ヴィリジアンという名の幼女の身体は、ようやく最低限の自律行動が可能なレベルに達した。
二足歩行は安定し、発声器官はこの世界の言語体系に準拠した複雑な音声データを出力できるようになった。
だが俺の探求は依然としてこのヴィリジアン邸という名の小さな閉鎖宇宙に限定されていた。
俺の行動は常に父と母、そして侍女たちの監視下にあり自由な実験は不可能だった。俺の知性はこの矮小な肉体と家族という名の非合理的な社会システムの中に囚われ続けていた。
その夜、月明かりが書斎の床に幾何学模様を描き出す中、俺は窓辺の椅子に座りこの屋敷に満ちる微弱な魔素の流れを観測していた。
屋敷は静寂に包まれている。階下からは眠りに就いた家族の穏やかな気配が伝わってくる。
彼らのオドが放つ微弱なエネルギーの揺らぎ。それはこの三年間の観測で俺が蓄積した、最も複雑で最も解析の困難なデータセットだった。
(観測対象1:父、サイラス・ヴィリジアン。彼のオドは俺という変数に対して常に二つの相反するベクトルを示している。『愛情』という名の引力と『恐怖』という名の斥力だ。彼は俺の才能をヴィリジアン家の栄光と信じたい。だが同時に、その才能が自らの理解と世界の秩序を超える『異物』であることを本能的に恐れている。彼の葛藤はこのシステムの不安定要因だ)
父は俺が二歳で書斎の基礎的な魔導書を読破した時、歓喜に打ち震えた。だが俺がその理論の根本的な矛盾を指摘した時、彼の顔には畏怖と明確な拒絶の色が浮かんだ。
彼の知的好奇心はソラリア正教が定めた『常識』という名の強固な壁の内側でしか機能しない。俺の知性は彼にとって祝福であると同時に、自らの信仰と世界観を破壊しかねない呪いでもあるのだ。
彼のオドの揺らぎはその内部矛盾を正確に反映している。俺が彼の期待通りに振る舞う時は穏やかに、俺がその理解を超えた言動を見せる時は激しく乱れる。実に分かりやすい観測対象だった。
(観測対象2:母、ヘレナ・ヴィリジアン。彼女の思考は父よりも遥かに合理的で俺の知性を『資産』として評価している。彼女は俺を『兵器』として利用しヴィリジアン家の社会的地位を最大化するための最適解を常に計算している。彼女の野心は俺の探求の自由を保障する強力なエンジンとなりうる。だがその制御下に置こうとする意志は、いずれ俺の探求を阻む新たな『枷』となるだろう)
母は俺が父の書斎の蔵書を全て読破したと知った時、恐怖ではなく恍惚の表情を浮かべた。彼女はすぐにより高度でより危険な文献を秘密裏に俺に与えた。それは父が決して俺に見せようとしなかった異端とされる古代の魔法理論に関するものだった。
彼女は俺の知性を恐れていない。ただその価値を正確に算定し、投資対効果を最大化しようとしているだけだ。
彼女のオドは常に冷静で計算高く、揺らぎがない。彼女が俺に向ける愛情らしきものさえも、その壮大な計算式の一部である可能性が高い。
彼女は俺の理解者に最も近い存在かもしれない。だがそれはあくまで俺の『機能』に対する理解であり、俺の『存在』そのものへの理解ではない。
(観測対象3:侍女、エリアナ。彼女のオドは純粋な『善意』と『忠誠心』という極めて単純なアルゴリズムで稼働している。彼女の行動は予測可能であり、それ故に利用価値が高い。だが彼女のその『常識』こそが俺の異常性を最も明確に映し出す鏡でもある。彼女の善意は俺の孤独をより一層際立たせる)
エリアナは俺が初めて自力で歩いた時、涙を流して喜んだ。俺が初めて言葉を発した時も、まるで自分のことのように誇らしげだった。
彼女の反応はこの世界の人間が『子供の成長』という現象に対して示す標準的な感情的出力だ。
俺がその成長をただの身体能力のキャリブレーションや音声出力装置のテストとしてしか認識していないことなど、彼女は知る由もない。
彼女が俺に向ける純粋な好意は、俺が演じる『ゼノ・ヴィリジアン』という名の銀髪翠眼の可憐な幼女に向けられたものだ。その仮面の下にある34歳の物理学者の冷徹な精神に向けられたものではない。
彼女の優しさに触れるたびに、俺は自らがこの世界における完全な『異物』であることをより強く認識させられるのだ。
父の恐怖、母の野心、侍女の善意。
その全てを俺は理解している。彼らの行動原理を、その感情のパラメータを、俺は冷徹に分析できる。
だがその逆はあり得ない。
彼らは誰一人として、この銀髪翠眼の幼女の内に宿る桐山徹の精神を知らない。
俺が彼らの愛情や恐怖をただの観測データとして処理していることも。
俺がこの世界の全てを解き明かすべき壮大な数式としてしか見ていないことも。
彼らが俺に向ける眼差しは常に「ゼノ・ヴィリジアン」という名の、才能ある、しかし理解不能な娘に向けられている。
「桐山徹」という名の観測者には誰一人として気づいていない。
この三年間の観測を終え、俺は一つの結論に達した。
家族というこの世界における最小単位の社会システムにおいてさえ、俺は理解者を得ることはできない。
俺の孤独はこの肉体に転生した瞬間に既に決定づけられていたのだ。
(観測は完了した。結論:この世界に俺を理解できる知性は存在しない。ならば探求を続けるだけだ。この世界の全ての法則を解き明かし、俺の知性の下にひれ伏させる。それがこの不条理な世界に転生させられた俺の唯一の存在理由だ)
俺は窓の外、その向こうに広がる夜の闇を見つめた。
あの闇の向こうにはまだ俺の知らない無数の未知の観測対象が広がっている。
俺の本当の探求はまだ始まったばかりなのだ。
この日、この瞬間。
揺り籠の中の物理学者の完全な孤独が完成した。
それは悲劇ではない。ただ、一つの実験が終わり、次の実験へと移行するための必然的なフェーズシフトに過ぎなかった。
2025/10/20 改訂




