エリアナの報告
エリアナの日々は、困惑と畏敬、そしてほんの少しの恐怖で満たされていた。
彼女が仕える幼い主、ゼノ様は日に日にその異常性を増しているように思えた。
三歳にして彼女は屋敷の中を自由に歩き回り、その翠眼はまるで世界に存在する全てのものを値踏みするかのように冷徹に観察していた。
その日もエリアナはゼノ様の自室で、奥様であるヘレナ様から言いつけられた情操教育という名の絵本の読み聞かせを行っていた。
「……こうして心優しいお姫様は、森の動物たちといつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」
エリアナは精一杯優しい声色を作って、物語を締めくくった。
普通の子供ならば、目を輝かせて物語の感想を口にするだろう。
だが、ゼノ様は違った。
彼女は絵本には一瞥もくれず、ただ窓の外、その向こうに広がる空をじっと見つめていた。
「……ゼノ様? お聞きになっていらっしゃいましたか?」
「ええ。聞いていましたよ、エリアナ」
ゼノ様はゆっくりとこちらに顔を向けた。
その翠眼には何の感情も浮かんでいない。
「その物語には三つの致命的な論理的欠陥があります。第一に、異なる種族間における持続可能な共生関係の構築モデルが提示されていない。第二に、物語の結末を『幸福』と定義する客観的な評価基準が欠如している。そして第三に……」
「も、もうよろしいです、ゼノ様!」
エリアナは思わずその言葉を遮っていた。
これ以上、聞いてはいけない。
この三歳の子供の口から紡がれる、あまりに冷徹であまりに正確な世界の分析をこれ以上聞いてしまえば、自分の常識という名の足場が崩れてしまう。
(ああ、神様……。このお方は、一体何なのでしょう……)
エリアナの心は常に二つの感情の間で引き裂かれていた。
一つは、主に対する純粋な忠誠心と愛情。
ゼノ様は確かに普通ではない。だが、その小さな身体、時折見せる子供らしい(とエリアナが信じたい)無邪気な仕草は、彼女の庇護欲を強く刺激した。
そしてもう一つは、その底知れない知性に対する根源的な畏怖と恐怖。
ゼノ様の翠眼に見つめられると、まるで自分の魂の奥底まで全てを見透かされているような錯覚に陥る。
彼女は、自分を一人の人間としてではなく、ただの観測対象として見ている。
その事実がエリアナの背筋を冷たくさせた。
事件が起こったのは、その数日後のことだった。
その日、ゼノ様は書斎で難しい専門書を読んでいた。
エリアナは旦那様であるサイラス様から固く禁じられていたが、ゼノ様のあの寂しげな「お願い」に逆らうことはできなかった。
ゼノ様は、一番高い本棚の一番上の段にある一冊の本を指差した。
「エリアナ。あれを取ってください」
「ですが、ゼノ様。あそこはわたくしの背丈でも届きません。脚立を持ってまいりますので、少々お待ちください」
「いえ、結構です」
ゼノ様は静かにそう言うと、その本をただじっと見つめた。
エリアナが何事かとその視線の先を追った、その瞬間だった。
本が、ひとりでに動いた。
それはまるで見えない手に持ち上げられたかのように、ゆっくりと本棚から滑り出した。
そして埃を立てることもなく、音もなく、宙を滑るように移動し、ゼノ様の目の前の床にそっと置かれた。
エリアナは声も出なかった。
全身の血の気が引いていくのが分かった。
手足が震え、呼吸が浅くなる。
(……今のは何? 風? いいえ、違う。この書斎にそんな風は吹いていない。じゃあ、何? 魔法? でも、ゼノ様は何も唱えていない。指一本動かしていない。じゃあ、一体何が……)
彼女の常識という名のOSが、理解不能なエラーを前に完全にフリーズした。
そんな彼女を一瞥すると、ゼノ様は何事もなかったかのようにその本を拾い上げ、ページをめくり始めた。
その夜、エリアナは自室のベッドの中で眠ることができなかった。
昼間のあのあまりに異様な光景が、脳裏に焼き付いて離れない。
(……報告すべきだ。奥様に、旦那様に、このことをお伝えしなければ。侍女として、それが私の務めだ。でも……)
彼女の脳裏に、旦那様サイラス様の恐怖に引きつった顔が蘇る。
あの夜、ゼノ様がスプーンを宙に浮かばせた、あの夜。
旦那様はゼノ様を『化け物』と呼んだ。
(もしこのことを旦那様にお伝えしたら、ゼノ様はどうなってしまうのだろう? あの小さなお身体で、もっと酷いことを言われてしまうかもしれない。部屋に閉じ込められてしまうかもしれない。いいえ、それだけでは済まないかもしれない……)
最悪の可能性が彼女の心を締め付けた。
だが同時に、もう一つの恐怖が彼女を苛んでいた。
(でも、このまま黙っていたら? あの不思議な力は一体何? あれは本当に人間が持っていい力なの? このままでは、ゼノ様は人ならざる何かになってしまうのではないか……?)
彼女の脳裏にゼノ様のあの寂しそうな翠眼が蘇る。
あんなに聡明な方が、なぜあんなにも孤独な目をしているのだろう。
あのお方は本当は誰かに助けを求めているのではないか。
自分のこの異常な力を誰かに理解してほしいと願っているのではないか。
(私が何とかしなければ。でも、私には何もできない。私には知識も力も何もない。ただの侍女なのだから……)
報告すべきか、黙っているべきか。
ゼノ様を守るべきか、ヴィリジアン家への忠誠を尽くすべきか。
答えの出ない問いが、彼女の頭の中をぐるぐると回り続けた。
数日間悩み抜いた末、彼女は一つの結論に達した。
旦那様はダメだ。あの人は恐怖に支配されている。
だが、奥様ヘレナ様なら……。
あの方ならきっと、冷静にこの話を聞いてくれるはずだ。
あの方ならゼノ様を守りながら、正しい道へと導いてくれるかもしれない。
翌日、エリアナは意を決してヘレナ様の私室の扉を叩いた。
「……奥様。ただいま少しだけ、お時間をいただけますでしょうか」
彼女の声は震えていた。
扉の向こうから、穏やかだが全てを見透かすような声が返ってきた。
「ええ、いいですわよ、エリアナ。入りなさい」
エリアナは深呼吸を一つすると、震える手で扉を開けた。
部屋の中では、ヘレナ様が優雅に紅茶を飲んでいた。
その表情はいつもと変わらない。
だが、その目だけが冷徹な光を宿してエリアナを射抜いていた。
「……それで、話とは何かしら? ゼノのことでしょう?」
エリアナは息を呑んだ。
この方は全てお見通しなのだ。
彼女は覚悟を決めると、震える声で全てを報告した。
ゼノ様が三歳児には到底理解できないはずの専門書を読み耽っていること。
そして昨日、書斎で起こったあの不可解な現象のこと。
「……物がひとりでに動いたのです。まるで見えない手に操られているかのように……」
全てを話し終えると、エリアナは床に膝をつき、深々と頭を下げた。
「……申し訳ございません! わたくしの監督不行き届きです! 旦那様からは固く禁じられていたにもかかわらず……!」
彼女は厳しい叱責を覚悟した。
だが、返ってきたのは予想とは全く違う言葉だった。
「……顔をお上げなさい、エリアナ」
その声は驚くほど静かだった。
エリアナがおそるおそる顔を上げると、ヘレナ様は穏やかな笑みを浮かべていた。
「……よく報告してくれました。あなたは侍女としての務めを果たしただけです。何も恐れることはありません」
そのあまりに優しい言葉に、エリアナの目から涙が溢れそうになった。
だが、ヘレナ様の次の言葉がその涙を凍りつかせた。
「……やはり、あの子には専門の教育が必要ですわね」
その声には母親としての温かみはなかった。
ただ、極めて価値の高い資産を前にした、冷徹な投資家の声だった。
「エリアナ。これからもゼノの側にいて、その一挙手一投足を私に報告なさい。いいですわね?」
「……は、はい。かしこまりました」
エリアナは再び深々と頭を下げた。
彼女は安堵していた。
ゼノ様が罰せられることはない。
それどころか奥様は、あの方の才能を認め、それを伸ばそうとしてくださっている。
これで良かったのだ。
これで全て丸く収まるのだ。
だが、彼女の心の奥底では小さな不安の芽が生まれていた。
奥様のあの冷たい目。
ゼノ様を『資産』と呼んだ、あの声。
これから、ゼノ様は一体どうなってしまうのだろう。
自分は本当に正しいことをしたのだろうか。
答えの出ない問いが彼女の心を重く支配していた。
彼女はまだ知らなかった。
自らのこの善意からの報告が、ゼノという名の異端の萌芽を、ヴィリジアン家という鳥籠からアカデミーというより広大な戦場へと解き放つ、最初の引き金になったのだということを。




