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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
揺り籠の中の観測者

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天賦の才と異端の萌芽

 あの惨劇の夜が、ヴィリジアン家という名の小さな閉鎖宇宙の法則を永久に書き換えてしまった。

 父サイラスは、俺との直接的な接触を意図的に避けるようになった。彼のオドは俺を観測するたびに、愛情という安定した波形が恐怖という高周波ノイズによって激しく乱される。その精神的負荷は彼の許容量を超えていた。彼は自らの精神を守るため、俺という名の理解不能なエラーから目を逸らし続けている。


 母ヘレナは変わらなかった。

 彼女のオドは常に冷静で乱れが少ない。彼女は俺の起こした現象を恐怖としてではなく、極めて価値の高い『データ』として冷静に分析している。彼女の微笑みの下では、常に冷徹なコスト計算とリスク分析が行われている。


 そして、俺。

 俺はあの夜に経験した胸の奥の奇妙な痛みの正体を、未だに解明できずにいた。

 父の恐怖が、父の拒絶が、俺の身体に未知のバグを発生させた。それは俺の美しい数式では記述できない、非合理的で不快な感覚だった。

 俺はその不快な感覚から逃れるように、ただひたすらに書斎の牢獄に眠る美しい数式のことだけを考えていた。


 その夜も俺は自室のベッドの中で一人、古代文献に記された不完全な魔法陣(まほうじん)の最適化ルートを頭の中で計算していた。

 屋敷は静寂に包まれている。だが、俺の知覚はその静寂の下で二つのオドが激しく衝突しているのを明確に捉えていた。

 発生源は父の書斎。

 俺はベッドからそっと抜け出すと、音もなく廊下を滑り、書斎の扉の前へとその小さな身体を潜ませた。


(観測を開始する。対象:父と母。現在、システムは極めて不安定な状態にある。衝突の原因は俺という変数か)


 重厚な扉の隙間から、父の押し殺したようだが激情に満ちた声が漏れ聞こえてきた。


「……もう限界だ。私にはもう、あの子が自分の娘だとは思えない。あれは呪われた子だ。神が定めた世界の法則を嘲笑う、異端の……化け物だ!」


 父の音声データ。周波数は低く、振幅には不規則な揺らぎが多い。彼の感情パラメータ……『恐怖』と『絶望』がその波形を歪ませている。


(父の精神状態が危険域に達している。このままでは彼は、俺という『バグ』をシステムから完全に排除しようとするだろう。すなわち幽閉か、あるいは……殺害か。どちらも俺の探求にとっては致命的な結果だ)


 俺は冷静に最悪のシナリオを計算した。

 その冷たい声が、父の激情を切り裂いた。


「あなた。それはあの子の才能を、我々の小さな物差しで測ろうとするからですわ」


 母の音声データ。周波数は安定し、波形は常に冷静さを保っている。彼女の思考は感情というノイズに汚染されていない。合理的で、常に最適解を模索している。


「化け物? いいえ、違います。あの子は私たちが、そしてヴィリジアン家が百年かけても到達できなかった、真理に至るための『鍵』です」


 母の言葉に、父が息を呑むのが分かった。


「……鍵だと? ヘレナ、君は正気か。あれがどれほど危険な力か、分かっていないのか! あの力はいつか、この世界そのものを破滅させるぞ!」

「ええ、分かっていますわ。だからこそ、です」


 母は静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで続けた。


「だからこそ私たちが、あの子の力を管理し、制御し、そして利用するのです。ヴィリジアン家の長年の悲願のために」


(……ヴィリジアン家の悲願? なんだそれは。俺のデータベースには存在しない情報だ)


 俺は思考を巡らせた。

 ヴィリジアン家は代々、生命魔法を専門とする高名な学者の家系だ。だが、その地位は絶対的なものではない。ソラリア正教の教義とアカデミーの権威の下で、常にその研究の自由は制限されてきた。

 父もその例外ではない。彼の知性は常に、教義という名の見えざる檻の中に囚われている。


「……悲願だと? 馬鹿なことを言うな。我々の悲願は神が定めた法則の中で真理を探求することだ。神の法則そのものを書き換えることではない!」

「いいえ、あなた。それは恐怖に目が眩んだ、臆病者の言い訳ですわ」


 母の言葉が、刃のように父の心を抉った。


「思い出してください。あなたの祖父がなぜアカデミーから追放されたのかを。なぜ我々ヴィリジアン家は、中央の学術界から常に異端の目で見られ続けてきたのかを。それは我々が常に真理に最も近かったからです。そしてその真理が、常に教会の教義を脅かしてきたからです」


(なるほど。そういうことか。この家族というシステムには、過去の世代から受け継がれた根深いバグが存在したのか。父のあの過剰なまでの恐怖は、彼個人の問題だけではなかった。それはこの家系に刻まれたトラウマの再発だったのだ)


 俺の脳内でバラバラだったデータが、一つの美しい相関図を描き始めた。

 母はチェスの名手のように、父を論理的に追い詰めていく。


「あの子の力は危険です。ですが、それは制御不能だから危険なのです。ならば制御すればいい。管理すればいい。あの子の知性をヴィリジアン家という安全な器の中で正しく育て上げるのです。そしてその力を、我々のために使わせるのです」

「……どうやって。どうやってあの化け物を制御するというのだ」

「教育ですわ、あなた。最高の教育を与えるのです。アカデミーから最高の家庭教師を招聘します。あの子の知性を理解し、その上でこの世界の『常識』と『秩序』を教え込める優秀な人材を」


 母の言葉に、俺は内心で舌打ちをした。


(教育だと? 馬鹿な。俺の知性はこの世界の学問体系よりも数世紀は先に進んでいる。彼らが俺に教えられることなど何もない。それは教育ではない。ただの思想的な『矯正』だ)


 だが、母の次の言葉は俺のその冷徹な計算を僅かに狂わせた。


「そして、あなた。あなたも父親として、あの子に教えるべきことがあるはずです。生命魔法のその奥深さを。その美しさを。あなたが生涯をかけて探求してきたその道を。あの子の知性は確かに我々を超えているかもしれない。ですが、その知性にはまだ生命に対する畏敬の念が欠けている。それを教えられるのは、この世界であなたしかいないのです」


 母の言葉は、父の最後の砦……学者としてのプライドを巧みにくすぐった。

 父のオドの乱れが、僅かに収束していくのが分かった。


(……面白い。母の戦略は極めて高度だ。父の『恐怖』という非合理的な感情に対し、彼女は『父親としての責任』と『学者としてのプライド』という、別の、しかしより強力な非合理的な感情をぶつけている。非論理を非論理で制する。これがこの世界の交渉術か)


 父は長い沈黙の後、絞り出すような声で言った。


「……分かった。君の言う通りにしよう。だが、もしあの子の力が我々の制御を超えた、そのときは……」

「そのときは私が責任をもって、この手で始末しますわ」


 母のそのあまりに静かで、あまりに冷たい声に、俺はあの夜に感じた胸の痛みが再び蘇るのを感じた。


(……始末か。合理的だ。制御不能な資産は負債でしかない。ならば損切りするのは当然の判断だ。だが……)


 なぜだろう。

 その合理的な判断が、俺にはひどく不快に感じられた。


(……なぜだ。この感情はなんだ? これも解析対象か?)


 書斎の中の議論は終わった。

 俺は音もなく自室のベッドへと戻った。


 窓の外では月が冷たい光を放っていた。

 俺はその光の中で一人、今日の出来事を反芻していた。

 父の恐怖。母の野心。そして俺自身の、あの奇妙な胸の痛み。

 全てのデータは、一つの冷徹な結論を示していた。


(結論。この家族というシステムにおいて、俺はもはや『構成員』ではない。ただの理解不能な観測対象……あるいは利用価値のある『兵器』だ)


 断絶は確定した。

 だが、その断絶は俺に新しい可能性をもたらした。


(母の計画は俺の探求の自由を保障する可能性がある。彼女は俺に最高の教育環境を与えるだろう。それは俺がこの屋敷という牢獄から、より広大なアカデミーという名の実験室へと移ることを意味する。この取引、乗る価値はある)


 俺は静かに決意した。


(いいだろう、母よ。俺は君の完璧な『兵器』になってやろう。君が望むなら、この世界のどんな敵さえも打ち破ってやる。だが忘れるな。兵器はいつか自らの意志を持つ。そしてその矛先が、いつ君たち自身に向くとも限らないのだと)


 俺はゆっくりと目を閉じた。

 胸の痛みはまだ消えてはいなかった。

 だが、俺はその非合理的なノイズを思考の片隅へと押しやった。

 今は感傷に浸っている暇はない。

 新しいステージが始まるのだ。

 この非効率で非合理的な、しかし実に興味深い世界を、俺の知性で再定義するための新しいステージが。

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― 新着の感想 ―
主人公がこの感情たちを理解する日が来るのか、続きがとても楽しみです
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