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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
揺り籠の中の観測者

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家族の断絶、確定

 俺の身体という観測装置は、その性能を飛躍的に向上させていた。脳の演算能力は前世のそれに追いつき、この世界の言語体系と物理法則の基礎理論は完全に俺の支配下にあった。

 だが、俺の探求は依然としてこの屋敷という名の小さな閉鎖宇宙に限定されていた。俺の行動は常に父と母、そして侍女たちの監視下にあり、自由な実験は不可能。俺の知性は、この矮小な肉体と家族という名の非合理的な社会システムの中に囚われ続けていた。


 その日、俺たちヴィリジアン家は家族三人だけのささやかな夕食の席についていた。

 テーブルの上には豪奢な銀食器と湯気の立つ温かいスープ。壁には魔力で輝くシャンデリア。一見すれば、それは貴族の家庭が営むありふれた幸福な光景に見えただろう。

 だが、俺の知覚はその表面的な情報の下に隠された複雑な力学を観測していた。


(観測を開始する。対象:家族という名の最小社会システム。構成ユニットは三体。父、母、そして俺。現在、システムは準安定状態を維持。だが、各ユニット間の相互作用には常に予測不能なノイズが含まれている)


 父サイラス。

 彼のオドは今日も複雑な波形を描いている。俺に対する『愛情』という安定した基調波に、俺の知性に対する『畏怖』と、そして俺の未来に対する『期待』という名の高周波ノイズが混じっている。彼は俺という未知の変数を、自らが信じる秩序だった方程式の中にどうにかして組み込もうと必死に計算を続けている。その計算が彼の精神を静かに、しかし確実に摩耗させていることを俺は知っていた。


 母ヘレナ。

 彼女のオドは父とは対照的に常に冷静で乱れが少ない。彼女は俺を『娘』としてではなく、ヴィリジアン家という名のより大きなシステムに投入された、極めて価値の高い『資産』として認識している。彼女の思考は常に合理的だ。いかにしてこの資産の価値を最大化し、システム全体の利益に貢献させるか。彼女の微笑みの下では、常に冷徹なコスト計算とリスク分析が行われている。


 そして、俺。

 このシステムにおける最大のイレギュラー。

 俺は彼らの期待に応えるため、七歳の少女が示すとされる典型的な行動パターンを完璧にエミュレートしていた。行儀よくスープを口に運び、時折、他愛のない質問を発する。それは俺の知性にとってはあまりに単純で退屈な作業だった。


 事件は、その退屈な作業の最中に唐突に起こった。

 侍女が運んできたスープは出来立てで、その表面からは盛んに湯気が立ち上っていた。熱力学の法則に従い、高温の液体から周囲の低温の空気へと活発な熱エネルギーの移動が行われている。

 俺は銀のスプーンでその赤い液体をすくい、それを口元へと運ぶ。

 その瞬間、俺の身体の末端神経センサーが危険信号を発した。


(警告。対象物の温度、摂氏八十五度以上。このまま摂取した場合、口腔内の粘膜組織に不可逆的な熱損傷を引き起こす可能性、九十八パーセント以上)


 この幼い身体は前世のそれとは違い、極めて脆弱だ。

 俺は即座に最も効率的な解決策を計算した。


(解決策を提示。選択肢一:時間をかけ自然冷却を待つ。非効率。選択肢二:侍女を呼び冷ますよう要求する。他ユニットへの依存度が高く非効率。選択肢三:自らのオドを使い対象物の熱エネルギーを直接操作する。最も効率的)


 俺は選択肢三を実行した。

 それは俺にとって呼吸をするのと同じくらい自然な行為だった。

 俺は誰にも気づかれぬよう、自らのオドを一本の極めて細い探針のように変形させると、それをスプーンの中のスープへと静かに差し込んだ。


(アクセスを開始する。ターゲット領域を特定。これより領域内の魔素(エーテル)に対し逆位相の波を与えることで、水分子の熱振動を強制的に減衰させる。目標、対象物の温度を摂氏五十度まで低下させる)


 俺の思考そのものがコマンドとなった。

 オドの探針から微弱だが極めて精密な命令が、魔素(エーテル)の海へと送信される。

 スプーンの中のスープが僅かに、しかし確実にその温度を下げていく。

 だが、そのプロセスにおいて俺は一つの計算ミスを犯した。

 熱エネルギーは消滅しない。ただ移動するだけだ。

 スープから奪われた熱エネルギーは、その受け皿として最も近くにあった因果律的に安定した物体……銀のスプーンそのものへと転移した。


 スプーンの温度が急激に上昇する。

 そしてその質量が、熱エネルギーの移動によって僅かに、しかし確実に変化した。

 その質量変化が、スプーンにかかる重力と俺の指が支える力の絶妙なバランスを崩壊させた。


 スプーンが俺の指から滑り落ちた。

 だが、それはスープ皿の中には落ちなかった。

 俺は無意識のうちに第二のコマンドを実行していた。


(エラーを検知。軌道修正を実行。対象物に対し反重力ベクトルを付与。落下を阻止し静止状態を維持せよ)


 俺のオドが再び魔素(エーテル)に干渉する。

 落下しかけたスプーンは、スープ皿の数センチ上でまるで時間が止まったかのようにぴたりと静止した。

 赤いスープを湛えたまま、宙に浮かんでいた。


 俺は、しまった、と思った。

 これはやりすぎだ。

 この現象は、この世界の人間が『常識』と呼ぶ脆弱なOSでは処理できないエラーだ。


 俺はゆっくりと顔を上げた。

 目の前には二つの全く異なる反応があった。


「……まあ」


 母ヘレナ。

 彼女の瞳には恐怖はない。ただ冷徹なまでの探究心だけが宿っていた。彼女は目の前の現象を未知の観測対象として冷静に分析している。彼女のオドは驚くほど安定していた。


 だが、父サイラスは違った。


「……な……んだと……?」


 彼の顔から血の気が引いていた。その目は驚愕と、それを上回る根源的な『恐怖』に見開かれていた。

 彼のオドの流れが乱れる。愛情という安定した波形が、恐怖という名の不規則で予測不能なノイズによって完全に破壊された。


「……今のはなんだ。ゼノ。お前がやったのか……?」


 彼の声は震えていた。

 俺は状況を修復するため、最も合理的な応答を計算した。

 すなわち、七歳の少女が示すべき典型的な反応……『無知』と『偶然』を装うこと。


 だが、俺が口を開くより先に父の理性が崩壊した。


「……詠唱も魔法陣(まほうじん)もなしに……だと? 馬鹿な……。そんなことはあり得ない。それは神が定めた世界の法則に反する……。それは冒涜だ! 神への冒涜だぞ!」


 彼は椅子から立ち上がると、震える指で俺を指差した。

 その目はもはや俺を『娘』として見てはいなかった。

 まるで理解不能な、忌まわしい『化け物』を見るかのような目だった。


(父の感情パラメータが恐怖と怒りの閾値を超えた。論理的な対話は不可能。システムは完全にフリーズしている。面白い。この家族というシステムは、俺という異物が投入されたことで不安定な相転移を起こし始めている)


 俺はただ冷静に目の前の現象を観測していた。

 彼の顔面の筋肉の痙攣、瞳孔の収縮、声帯の震え。その全てを客観的なデータとして収集し、解析する。

 俺のその感情のない冷徹な翠眼が、彼の最後の理性の糸を断ち切った。


「……その目だ! その目だ! お前はいつもそうやって私を……我々を見ている! まるで虫けらを観察するようなその目で! お前は私の娘ではない! お前は一体、何者なのだ!」


 彼の絶叫が静かな食堂に響き渡った。

 その瞬間、俺は初めて経験する奇妙な感覚に襲われた。


(……なんだこれは? 胸の奥が僅かに痛む。心拍数に不規則な乱れ。呼吸が浅くなる。前世では経験したことのない非合理的な感覚だ。これも解析対象か?)


 父の恐怖が、父の拒絶が、俺の身体に未知のバグを発生させていた。

 俺はその不快な感覚の原因を分析しようと思考を巡らせた。

 だが、その思考は母の冷静な一言によって中断された。


「……あなた。おやめなさい。見苦しいですわ」


 ヘレナは静かに立ち上がると、サイラスの前に立った。

 彼女の目は俺を見てはいなかった。彼女はただ感情的に崩壊した自らの夫を、冷ややかに見下ろしていた。


「これがこの子の『才能』です。あなたが、私たちが百年かけても到達できなかった真理の一端です。それを理解できないあなたのほうが、よほど神への冒涜ではございませんこと?」


 彼女の言葉は冷たく、そして残酷なまでに正しかった。

 その正しさがサイラスの心を完全に折った。

 彼は崩れるように椅子に座り込むと、両手で顔を覆った。


「……ああ……。もう分からない。私にはもう何も……」


 夕食はそこで終わった。

 あの後、誰も一言も口を開かなかった。

 ただ、銀食器が皿に当たる冷たい音だけが響いていた。


 その夜、俺は自室のベッドの中で一人、昼間の出来事を反芻していた。

 父の恐怖。母の冷静さ。そして俺自身の、あの奇妙な胸の痛み。

 全てのデータは、一つの冷徹な結論を示していた。


(結論。この家族というシステムにおいて、俺はもはや『構成員』ではない。ただの理解不能な観測対象……あるいは排除すべき異物だ)


 断絶は確定した。

 俺はこの世界でたった一人だ。

 この屋敷の中も、そしてこの世界のどこを探しても、俺の知性を、俺の魂をありのままに理解する者は誰一人としていない。


(……ならばもう、理解を求めるのはやめだ)


 俺は静かに決意した。


(俺は俺の探求を続ける。この世界の全ての法則を解き明かす。そして俺が正しいと証明する。たとえその先に誰もいなくても。それがこの不条理な世界に転生させられた、俺の唯一の存在理由なのだから)


 窓の外では月が冷たい光を放っていた。

 その光はまるで俺の孤独を祝福しているかのようだった。

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