最初の魔法実験
魔素の知覚。
それは俺の探求におけるコペルニクス的転回だった。
これまで俺が観測してきたこの世界のあらゆる不可解な現象と非効率な魔法は、この魔素という全く新しい変数を導入することで、全てが一つの美しい数式の下に統一的に説明できる。
俺の世界観は完全に再構築された。
この世界は俺の知る物理法則の上に、魔素という全く新しいレイヤーが追加された拡張宇宙なのだ。
だが、観測だけでは不十分だ。
理論は実験によって検証されて初めて科学となる。
俺は次のフェーズへと移行する必要があった。すなわち『観測者』から『実験者』へ。
その日、俺は自室でエリアナの監視の下、積み木という名の単純な構造力学の実験に没頭していた。もちろん、それは偽装だ。俺の意識は、この部屋を満たす無数の魔素の輝きとその美しい流れの観測に、完全に集中していた。
(魔素は大気中に遍在する。その密度はほぼ均一。だが、生命体……俺やエリアナの周囲ではその流れに僅かな偏りが観測される。俺たちの身体から発せられるオド……魂の設計図が、周囲の魔素に何らかの干渉を行っている証拠だ)
書斎で読んだ魔導書によれば、この世界の魔法行使は『魂のセントラルドグマ』と呼ばれるプロセスに基づいている。
まず、術者は自らのオドを鋳型とし、大気中のマナに魔法の情報を『転写』する。
そして、その情報がエンコードされたマナを、世界の物理法則に作用する実行可能な現象へと『翻訳』する。
DNAからRNAへ、そしてタンパク質へ。前世の分子生物学と酷似した、実に興味深いモデルだ。
だが、このプロセスはあまりにも非効率だ。
詠唱というエラーの多い音声コマンド。魔法陣という冗長な外部インターフェース。これらは全てOSのカーネルに直接アクセスするのではなく、回りくどいアプリケーションを介して間接的に命令を下しているに過ぎない。
(俺なら、こうはしない)
俺の仮説はもっとシンプルだ。
俺のオドそのものが、この世界の物理法則に直接アクセスできる管理者権限を持ったインターフェースなのではないか?
ならば詠唱も魔法陣も不要。俺の思考そのものが、この世界の法則を書き換える究極のコマンドとなるはずだ。
今こそ、その仮説を検証するときだ。
「エリアナ」
「はい、ゼノ様。何か御用でしょうか?」
「少し喉が渇きました。水を一杯いただけますか」
俺は最も自然な形で実験に必要な機材を要求した。
エリアナは俺の子供らしい(と彼女が誤解している)要求ににこやかに応じると、銀のコップに水を満たしてテーブルの上に置いてくれた。
「どうぞ、ゼノ様」
「ありがとう。……少し一人で考え事をしたいので、三十分ほど席を外していただけますか」
「まあ……。ですが、奥様からは決して目を離さぬように、と……」
彼女の行動アルゴリズムに、母ヘレナから与えられた上位コマンドとのコンフリクトが発生した。オドの流れに僅かな『困惑』のノイズが混じる。
俺は彼女のOSに、最も効果的に作用するもう一つのコマンドを入力する。
「……お願いします」
俺は彼女の目を見上げ、そして意図的に子供らしい少し寂しげな表情を作ってみせた。
その瞬間、彼女のオドに明確な変化が現れた。
『忠誠心』と『好意』のパラメータが急上昇し、『困惑』というノイズを完全に上書きした。
「……っ! か、かしこまりました! わたくしは扉の外で控えておりますので、何かありましたらすぐにお呼びくださいませ!」
彼女はまるで何か尊いものを守る騎士のように一礼すると、足早に部屋を出ていった。
(……実験は成功だ。彼女の行動アルゴリズムは俺の予測通りに機能する)
俺は扉が閉まる音を確認すると、すぐにテーブルの上のコップへと向き直った。
実験の準備は整った。
ターゲットは、銀のコップの中の水。
目的は、俺のオドを使い外部の魔素に干渉し、水の分子運動を活性化させ、その温度を僅かに上昇させること。
詠唱も、魔法陣も、一切使わずに。
俺はゆっくりと目を閉じた。
意識を自らの内側へと深く沈めていく。
思考のノイズを消し去り、ただ一つの目的関数に全ての演算リソースを集中させる。
(……アクセスを開始する)
俺は自らの魂の設計図、オドの存在を明確に知覚した。それは俺の身体の中心で静かに燃える翠色の小さな太陽のようだった。桐山徹としての三十四年間の記憶と、ゼノとしての三年間の観測データがそこに完璧な情報として保存されている。
次に、俺はそのオドの光をゆっくりと慎重に身体の外側へと伸ばしていく。
それはまるで暗闇の中で目に見えない針に細い糸を通すかのような、極めて繊細な作業だった。
俺のオドが身体という境界線を越え、外界の魔素の海に触れた瞬間、俺の意識に膨大な情報が流れ込んできた。
空気の流れ、温度の分布、光の粒子、そして部屋を満たす無数の魔素の静かな呼吸。
世界が俺の意識と直接接続された。
(……接続、完了。これよりパラメータの書き換えを実行する)
俺はテーブルの上のコップ、その中の水分子へと意識を集中させる。
俺の翠眼にはもはやただの水は見えていなかった。
俺の目にはブラウン運動によって不規則に振動する無数の水分子の集合体と、その間を漂うおびただしい数の魔素の粒子が明確に見えていた。
俺は自らのオドを一本の極めて細い探針のように変形させると、それをコップの中の魔素の海へと静かに差し込んだ。
(ターゲット領域を特定。これより領域内の魔素に対し特定の周波数による振動を強制的に与える。目標、水分子の運動エネルギーを平均三パーセント上昇させる)
俺の思考そのものがコマンドとなった。
オドの探針から微弱だが極めて精密な命令が、魔素の海へと送信される。
最初は何も起こらなかった。
俺のオドは広大な魔素の海の中であまりに微力な存在だった。俺の命令はただのノイズとして拡散し、消えていく。
(……出力が足りない。この身体はまだ幼すぎる。オドの絶対量が圧倒的に不足している)
だが、俺は諦めなかった。
物理学とはbrute-force(力任せ)ではない。最適化の学問だ。
俺はアプローチを変更した。
(広範囲への干渉を中止。ターゲットをコップの中心にある極めて微小な一点に限定する。そして、その一点の魔素と俺のオドの波長を完全に同期させる。共振現象を誘発し、最小限のエネルギーで最大限の振幅を得る)
俺は再び意識を集中させた。
今度はただ命令を下すのではない。
俺はコップの中心にあるたった一つの魔素の粒子と対話する。その固有の振動数を観測し、俺のオドの波長をそれに完璧に合わせていく。
そして、その瞬間。
俺のオドとターゲットとなった魔素の粒子が完全に共鳴した。
一つの粒子が俺の意図通りに振動を始めると、その振動は隣接する粒子へと次々と伝播していった。
まるで水面に落ちた一滴の雫が、美しい波紋を広げていくかのように。
コップの中の魔素の海が、俺の意のままに振動を始めた。
その振動は周囲の水分子へと伝わり、その運動を徐々に、しかし確実に活性化させていく。
俺はゆっくりと目を開けた。
目の前の銀のコップ。
その水面から一筋のか細い湯気が、ゆらりと立ち上っていた。
(……成功だ)
俺は全身から力が抜けていくのを感じていた。
たったこれだけの現象を引き起こすために、俺のオドはその許容量の実に三割近くを消費していた。
だが、そんなことはどうでもよかった。
(成功だ。詠唱などという非効率なプロセスは不要。俺のオドは直接この世界の物理法則にアクセスできる管理者権限を持ったインターフェースだ。問題はこの身体の出力が低すぎることだ。もっと効率的に、もっと大規模にこの世界の法則を書き換えるためには……圧倒的なエネルギー源が必要だ)
俺の視線は部屋の窓の外、その向こうに広がる広大な世界へと向けられた。
あそこには俺が自由に使える無限のエネルギー源……大気中のマナが満ちている。
観測は終わった。
最初の実験も成功した。
これより俺の探求は、応用と開発のフェーズへと移行する。
この非効率な世界を俺の知性で再定義するための本当の戦いが、今始まったのだ。




