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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
揺り籠の中の観測者

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色なき世界の観測者

 死は、情報の途絶だった 。


 網膜を焼くトラックのヘッドライト。衝突の衝撃が運動エネルギーの法則に従い、(おれ)の身体という脆弱なシステムを構成する全ての原子へと伝播して いく 。骨が砕ける音。肉が裂ける感触。そして、脳が生命維持活動を司る全てのサブシステムをシャットダウンするまでの、コンマ数秒の思考。


(ああ、死ぬのか。実に、非効率な人生だった)


 それが、物理学者、桐山徹が観測した、最後の物理現象だった 。


 次に意識が再起動した とき 、俺は情報のノイズが荒れ狂う、純粋な混沌の海に いた 。


 光はない。音もない。色も、形も、匂いも、温度さえも存在しない 。それは無ではなく、むしろその逆だ。あらゆる情報が、意味のある信号として像を結ぶ こと なく、ただ純粋なノイズとして俺の意識に殺到して いた 。まるで、全てのセンサーが物理的に破壊された観測装置の内部に いるかの ようだ 。


 身体の自由は完全に奪われている。手足を動かそうという脳からの指令は、どこにも届かず霧散する。呼吸さえも、自らの意志では制御できない。思考だけが、前世と変わらぬ速度と解像度で機能し続ける、完璧な牢獄 。


 時間という概念さえ、ここでは意味をなさない。一瞬か、永遠か。判断の基準となる外部からの入力情報が存在しないのだから、計算のしようがない。ただ、思考だけが回り続ける。思考し、思考し、思考し続ける。その果てに待つのは、狂気か、あるいは精神の完全な崩壊か。絶望と閉塞感だけが、無限に続くかの よう に思われた 。


(死んだはずだ。だが、意識が ある 。デカルトの言う通り、『我思う、故に我あり』か。だが、この状態はなんだ? 観測不能な宇宙に、意識だけが漂って いる というのか? あるいは、これは死後の世界か? 脳が最後に作り出した、壮大な幻覚か?)


 思考は明晰だった。俺は、桐山徹。34歳、男性、物理学者 。交通事故で死亡 。そして今、ここに『在る』。


 仮説を立て、検証する。それが俺の生き方だった。

 仮説1:これは死の瞬間に脳が見せる幻覚である。

 検証:幻覚であるならば、いずれエネルギー供給が途絶え、この意識も消滅するはずだ。しかし、消滅しない。時間経過が観測できない ため 断定はできないが、この思考の持続時間は、脳の残存エネルギーで維持できる限界をとうに超えて いる ように思える。

 結論:仮説1は棄却。


 仮説2:これは地獄、あるいはそれに類する形而上学的な空間である。

 検証:宗教的な概念は、俺の専門外だ。観測不能な領域については、判断を保留するしかない。だが、もしこれが罰であるならば、その目的は何だ? 罰とは、対象に行動の変容を促す ため の外部からのフィードバックのはずだ。この完全な閉鎖空間では、行動その もの が不可能。フィードバックとしての意味をなさない。

 結論:非合理的。可能性は低い。


 論理的な思考を重ね、可能性を一つずつ潰して いく 。そして、残された最もあり得る、しかし最も非科学的な結論に、俺は到達せざるを得なかった。


(死に、そして、生まれたのか)


 その結論に至った瞬間、俺は絶望の淵で、自らの本質を思い出した。俺は、物理学者だ。理解不能な現象は、恐怖の対象ではない。解析すべき、観測対象だ 。


 俺は思考を切り替え、ノイズの海へと意識を沈めた。無意味な情報の奔流の中から、意味のあるパターンを探し出す。それは、気の遠くなるような作業だった。


(入力情報が全てノイズだ。……いや、待て。本当にそうか? 完全なホワイトノイズなど、理論上は存在しても、現実の物理世界ではあり得ない。何らかの偏り、何らかのパターンが、必ず存在するはずだ)


 俺は、前世で培った信号処理の技術を、自らの思考の中で再現する。フーリエ変換、フィルタリング、相関関数。脳という演算装置をフル稼働させ、ノイズの波を周波数ごとに分解し、そのスペクトルを分析する。


 最初は、何も見つけられなかった。あまりに膨大で、あまりに混沌とした情報の奔流は、俺の思考を何度も押し流そうとした。だが、俺は諦めなかった。この世界で俺に残されたのは、思考する こと だけなのだから。


 そして、見つけた。


 ノイズの嵐の奥深くに、極めて微弱だが、完璧な周期性を持つパターンが存在した 。それは、心臓の鼓動や呼吸の ような 、単純な生体信号ではない。もっと複雑で、高次元の、複数の波が干渉し合った、未知の物理現象を示唆する波形だった 。


(……見つけた。周期的なパターンが ある 。これは……何かの物理現象か? 単純なサイン波ではない。複数の周波数が、極めて複雑な、しかし規則的なアルゴリズムに基づいて重なり合って いる 。まるで……何かの情報を伝達して いるかの ような 、構造化された信号だ)


 その発見は、暗闇に差し込んだ一筋の光だった。牢獄の壁に、数式を書き込む ため の黒板が現れたかの ような 、圧倒的な知的興奮。前世では、世界の基本法則はとうの昔に発見され尽くして いた 。俺たち物理学者の仕事は、その法則の綻びを探したり、応用範囲を広げたりする、いわば既存のOSのデバッグ作業でしかなかった。


 だが、これは違う。


 この信号は、俺の知るどの物理法則でも説明できない。これは、全く新しい、未知のOSの存在を示唆して いる 。


 俺はもう、囚人ではない。観測者だ。

 この場所は、牢獄ではない。未知の法則に満ちた、最高の実験室だ。


(解析を開始する)


 色なき世界で、俺の二度目の人生は、一つの問いから始まった。

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