第1節『ロゴボへ帰還』
雪は死者の血を隠すために降り続ける――。
ここは戦乱の渦に飲まれた世界。
銀髪の青年、アイズ・ミノラは不死を背負い、かつての師である葬送神フースの意志を継ぐ“弔奏者”だ。
彼の分身《幻奏》が奏でる旋律は、戦場に散った魂を安らぎの光へと変える。
しかし、神々の世界は決して安定などしていない。
葬送神フースは既に消え、再生神ポダクの過去の罪――神殺しの影が今も深く残る。
その弟を責めず、ただ弔うことを選ぶアイズの前に、輪廻神ネイリンが現れる。
狂気と無垢が同居する神は、彼の在り方を嗤い、試すような言葉を投げかける。
この物語は、死と輪廻、そして兄弟の宿命を描く序章である。
雪は死者の血を隠すかのように、静かに降り続いていた。
夜の戦場は冷え切り、剣や槍の残骸は赤黒い染みを抱えたまま雪に沈んでいる。
その上空を、ひとりの銀髪の青年――アイズ・ミノラが、無言のまま漂っていた。
吹雪の切っ先が頬をかすめ、氷のような冷気が肌を裂く。
だが、彼の表情は微動だにしない。
蒼い瞳に映るのは、動かぬ兵士たちと、その奥に残された魂の残響。
無数の亡霊が声なき叫びを上げ、夜空に縋るように揺らめいていた。
「……幻奏、始めよう。」
低く、鋭い声が夜を裂いた。
その瞬間、彼の背中から淡い光が舞い上がり、もうひとりのアイズ――魂の分身が現れる。
幻奏。それは彼の心と魂を切り離し、弔いの旋律を紡ぐための「もう一つの手」だった。
分身は、雪の上を滑るように動き、死者たちの上に手をかざした。
血に染まった大地は淡い光を浴び、闇の中で儚い花を咲かせるように震える。
魂が雪の結晶のようにふわりと舞い上がり、空へ向かって散っていく。
「痛く、苦しんでいるな……。」
アイズは耳を澄ます。
魂の震えが聞こえる気がした。
それは恨みと無念、恐怖と悲鳴の塊だった。
彼は一度目を閉じ、低く息を吐いた。
やがて口を開き、詠唱を告げる。
サンクトゥス・レクエース・シヌ・ドルルム……
――ここに討たれ死す者よ、葬送神フースの加護のもと、安らかな眠りを過ごしたまえ。
その声は、雪を貫く鐘の音のように夜空に響いた。
死者の魂が光の粒に変わり、幻奏が奏でる旋律に包まれながら空へと還っていく。
戦場の重苦しい空気が、わずかに和らいだ。
「人は死を恐れず、勇敢に戦う。……だが、儚く、脆い。」
アイズは目を開け、白く濁った雪の下に広がる赤い染みを見下ろした。
「雪で白く濁っても、俺はこの血の匂いから逃れられない。」
吐き出した言葉は冷気に消えた。
弔っても、弔っても、死は終わらない。
それでも、彼は弔奏者としての役割を放棄できない。
それが――かつての師、葬送神フースから託された唯一の役目だったから。
雪は止むことなく降り続き、幻奏の光が淡く消えていく。
「……これで、少しは眠れるだろう。」
アイズは幻奏を収め、戦場に背を向けた。
その瞬間だった。
足元から白い霧が立ち上り、夜の戦場を包む。
冷気がさらに鋭さを増し、世界が一瞬だけ凍り付いたように感じられた。
「――やあ、また死者の面倒を見ているのかい?」
背後から、幼い声が囁く。
振り返れば、白い霧の中に立つ少年――輪廻神ネイリンがいた。
無邪気な笑みと、どこか底知れない狂気を秘めた瞳。
「……ネイリン。」
アイズの声は低く、冷たい。
彼の蒼い視線には、警戒とわずかな嫌悪が宿っていた。
ネイリンは雪を踏まず、宙を漂いながら戦場を見下ろす。
「フースが消えてから、君はまるで“葬送神”の代わりをしている。
君があの人に弟子入りした理由は知ってるけど、そんなことをしてもフースは戻らないよ。」
「フースがいないなら、俺がやるしかない。」
アイズは淡々と答える。
「彼が教えてくれた“弔い”を無駄にはしない。」
「ふふ、相変わらず真面目だねぇ。」
ネイリンは頬をかすかにゆがめた。
「でも、どうしてサウズ――いや、今の“再生神ポダク”を責めないのさ?
あの子が過去にやったことは、立派な神殺しだ。
フースだって、サウズを庇わなければ消えなかったんだよ?」
アイズの肩がわずかに揺れた。
だが、その声は揺るがない。
「サウズは弟だ。……弟の罪を責めても、あの人は戻らない。
だから俺は、せめてフースの意志を継ぐ。」
「兄弟愛? ああ、やっぱり君は人間臭い。
不死者のくせに、そういうところが壊れてるんだよ。」
ネイリンは笑う。その笑みは可愛らしさと狂気が混ざった異質なものだった。
「おかしいかどうかは関係ない。」
アイズは鋭い視線を向けた。
「サウズが何を背負おうと、俺は弟として見捨てない。」
「ふふ、優しいねぇ。
でも、その優しさは君を壊す。フースみたいに、ね。」
ネイリンの声は小さな鈴のように響き、冷気を震わせた。
アイズは無言のまま彼を睨んだ。
「――黙れ。」
その一言に、ネイリンは肩を竦めてひらりと笑う。
「まあいいさ。君のその顔、なかなか楽しませてくれるからね。」
霧は音もなく消え、ネイリンの姿も闇に溶けた。
残されたのは、夜の戦場と降り積もる雪の匂いだけだった。
「……フース、俺はまだ、あんたの弟子でいられているだろうか。」
アイズは小さく呟き、視線を遠くに向けた。
雪原の向こうに、灯りが見える。
それはシベリウス連邦の辺境――ロゴボ村の明かりだ。
雪を踏みしめる音だけが静寂を切り裂く。
凍てついた木々が夜風にきしみ、家々の屋根は白い墓標のように静まり返っている。
この村だけが、アイズの安息の場所だった。
「世界はまた乱れ始める……。」
白い息を吐きながら彼は呟く。
「だが、今はこの静けさに浸りたい。」
アイズはゆっくりと歩を進め、夜の闇にその背を消した。




