第2話 太古の船、未知の生命
エコー・ベースに発見された謎の構造物を前に、興奮と困惑が渦巻いた。
基地司令官は、この人類史を覆すであろう事態に対し、迅速かつ慎重な判断を下す。ただの「構造物」ではない。それは、まるで氷漬けにされた太古の船、あるいは、想像を絶する文明の遺物のように見えた。
「これは、我々が直面する、最も重大な発見となるだろう。」
司令官の声が、静まり返った司令室に響き渡る。
「だが、同時に最大の危険をはらんでいる可能性も否定できない。よって、厳重なプロトコルに基づき、ファースト・コンタクト・チームを編成する。目標は、構造物の内部調査、および、いかなる異常物質、生命体の特定と封じ込めだ。」
チームメンバーが発表される中、エミールの名はすぐに読み上げられた。古生物学者としての専門知識、特に未知の有機体に対する識別能力が評価されたのだ。
彼の心臓は高鳴り、全身を興奮が駆け巡る。これは、まさに彼が夢見ていた瞬間だった。
数日後、特殊なレーザー融解装置が搬入され、構造物と氷の間に慎重に空間を作り出す作業が始まった。
基地全体が緊迫した空気で満たされる中、エミールを含むファースト・コンタクト・チームのメンバーは、極限環境用スーツに身を包み、エアロックを抜けて、凍てつく氷床下3000メートルの深淵へと降りていった。
深部へと降りるにつれ、周囲の氷が発する微かな青白い光が、漆黒の構造物を不気味に照らし出した。その巨大な物体を間近で見ると、そのスケールと、信じられないほどの滑らかな質感が、改めて彼らを圧倒する。
人間の手では決して到達し得ない完璧な表面には、氷の結晶一つ付着していなかった。
融解作業によって開けられた小さな開口部から、彼らは内部へと侵入した。
内部は、外界の厳かさとは打って変わり、別の次元に迷い込んだかのような錯覚に陥る空間だった。
壁面も床も天井も、全てが漆黒の金属素材でできていたが、それは彼らが知るいかなる金属とも異なっていた。光を吸収するような深い闇を湛えながらも、わずかな照明の光で、有機的な曲線が浮かび上がる。
まるで、生き物かのように滑らかなラインが随所に施され、直線的なデザインは皆無だった。
「信じられない…」
エミールは思わず呟いた。
「この素材、そしてこのデザイン…我々の技術をはるかに凌駕している。どうやって作られたんだ?」
チームリーダーである主任科学者のハーマン教授も、驚きを隠せない様子で、手にしたスキャナーをかざしていた。
「生命維持システムのような反応はない。しかし、船内環境は完璧に保たれている。数万年、いや、それ以上の時間が止まっていたかのようだ。」
彼らは沈黙の中、内部へと進んでいった。船内には、用途不明の装置が幾つも設置されていたが、どれもが機能停止しているように見えた。
埃一つなく、まるで昨日まで稼働していたかのように完璧な状態を保っていることに、エミールは異様な感覚を覚えた。
「「「!!」」」
「教授…こ、これは……」
船の最深部に到達したとき、彼らの目の前に広がった光景は、想像を絶するものだった。
「まさか…こんなものが実在していたとは……」
広々とした中央の空間に、幾つものコールドスリープポッドらしき装置が、放射状に配置されていた。
透明な素材でできたカプセルの中には、生命維持装置に接続された状態で、複数の‶異星の生命体〟が横たわっていた。
彼らは、地球上のどの生物とも異なる、奇怪な姿をしていた。体は細長く、節が多かったり、皮膚が鱗に覆われていたり、あるいは半透明で内臓が透けて見えるようなものまで様々だった。
顔の部分には、複数の目や、地球の生物には見られない奇妙な突起物があったり、口器らしきものが存在しなかったり。
しかし、その全てが、まるで眠っているかのように静かに、そこに存在していた。
「コールドスリープ…生きて…いるのか?」
エミールは息をのんだ。彼がこれまで研究してきた太古の生物とは、全く次元の異なる存在だ。
これは、単なる考古学的な発見ではない。地球外生命体との、ファースト・コンタクトなのだ。
彼の古生物学者の知識は、今、宇宙生物学という未知の領域へと足を踏み入れた。
信じられない光景を前に、司令官からの指示が飛んだ。
「ハーマン教授、直ちにサンプリングを開始せよ。まずは、最も安定していると思われる個体から、最小限の接触で。エミール、君が主導しろ。未知の生命体だ、万全の注意を払え!」
主任科学者のハーマン教授は、普段の厳格な表情を崩さず、しかしその目には隠しきれない興奮を宿していた。
彼の指示のもと、エミールたちは慎重に生命体の一つ、最も地球の生物に似た、しかしやはり奇妙な節を持つ一体のコールドスリープポッドに近づいた。
専用のサンプリングドリルが用意され、慎重にポッドの表面に当てられる。
エミールの手は、確かな技術と経験に裏打ちされているはずなのに、微かに震えていた。これは、学術的な興奮だけではない。目の前の存在が持つ、底知れない謎に対する畏怖だった。
ドリルがポッドの表面に触れ、微細な振動が伝わる。
「深度、2ミリ…3ミリ…」
エミールは慎重に数値を読み上げる。その時だった。
「待て!表面が…」
ハーマン教授が異変に気づき、叫ぼうとした、その瞬間。
長年の凍結で想像以上に脆くなっていたポッドの表面が、サンプリングドリルの微かな振動に耐えきれず、まるで薄いガラスが砕けるかのように、音を立てて広範囲にひび割れ、砕け散った。
「なっ!?」
内部から、抑えきれない圧力が解放されたかのように、硫黄のような異臭を放つ、ごく微細な‶霧〟が勢いよく噴出し、瞬く間にポッドルーム全体に充満する。
それは、視認できるほどの色は持たず、しかしその異臭と、一瞬で拡散する速度は、尋常ならざるものだった。
エミールを含む数人の隊員は、突然の事態に咄嗟に呼吸を止める暇もなく、その霧を吸い込んでしまう。彼らの極限環境用スーツのヘルメット内が、異臭で満たされた。
「ゴホッ、ゴホッ!」
異臭と、何かが気管に入り込んだような不快感に、数人がむせた。
エミールもまた、胸に鋭い痛みが走り、呼吸が困難になる。硫黄の匂いは、燃え盛る火薬のようでもあり、腐敗した死臭のようでもあった。
「すぐに全員退避!エアロックを閉鎖しろ!」
基地司令官の絶叫が、スピーカー越しに響き渡る。
しかし、時すでに遅し。その霧は、一瞬にして彼らの身体にまとわりつき、皮膚の露出していた部分に微かな刺激を与え始めた。
そして、吸い込んだ者たちの体内では、何かが静かに、しかし確実に、変容を始めていた。
その影響は想像よりもはるかに速く、そして恐ろしい形で現れた。
霧を吸い込んだ直後、主任科学者のハーマン教授が、激しい咳と共に、顔を真っ赤にして床に崩れ落ちた。
「ゴホッ、ゴホッ! ぐっ…」
彼の体は激しく痙攣し、スーツ越しにもその異常な変化がわかる。
「ハーマン教授!」
エミールが駆け寄ろうとした、その時だった。
彼の体に、これまでに見たことのない、まるで黒い稲妻が走ったような奇妙な模様の血管が、皮膚の下に浮き上がってきた。それは瞬く間に全身に広がり、顔には醜悪な青黒い網目模様を描き出す。
そして、ゆっくりと顔を上げた彼の目には、もはや理性は宿っていなかった。
狂気と、底知れない飢えが入り混じったような、異様な、ギラついた光が宿っていた。
ハーマン教授は、うめき声を上げながら、四つん這いの体勢からゆっくりと立ち上がった。彼の視線は、周囲の隊員たちに向けられ、まるで捕食者が獲物を見るかのような、ぞっとするほどの冷たさを帯びていた。
そして、彼は突如として、奇声を上げながら、最も近くにいた隊員に襲いかかろうと飛びかかった。
「ぐぁああああ!!」
襲われた隊員のスーツが肉ごと引き裂かれて、鮮血が飛び散った。
血の臭いで狂暴性が増したのか、飢えた猛獣のように激しく喰らいつく。
「何だこれは!?」
「ハーマン教授! いったい、どうしちまったんだよ!!」
「いいから、早く引き放せ!!」
「クソっ、なんて力だ!!」
現場は一瞬にしてパニックに陥る。緊急警報が鳴り響く中、基地司令官の絶叫がスピーカー越しに聞こえた。
「直ちに全員退避! ポッドルームを密閉せよ! プロトコル・シータ、発動!」
訓練された隊員たちが、ハーマン教授を抑えつけようとするが、彼の力は尋常ではなかった。彼らは、わずか数分前まで知的な科学者であった男の変貌に戦慄しながら、必死に食い止める。
エミールは、この信じられない光景を目の当たりにし、呼吸することすら忘れていた。あの硫黄の霧が、一体何だったのか。そして、自分自身にも同じことが起こるのかという、言いようのない恐怖が全身を駆け巡った。
巨大な金属製の扉が、重い音を立ててポッドルームを密閉していく。隔絶された空間の中で、ハーマン教授のうめき声と、隊員たちの叫び声が混じり合う。
エミールは、閉ざされていく扉の隙間から、彼の目に宿る純粋な‶飢え〟を確かに見た。それは、人間から完全に逸脱した、得体の知れない衝動だった。
扉が完全に閉鎖された瞬間、基地全体が重苦しい沈黙に包まれた。外部からの通信も遮断され、エコー・ベースは完全に厳重な封鎖態勢へと移行したのだ。
「全隊員に告ぐ! これよりエコー・ベースは外部との連絡を一切遮断し、完全な隔離状態に入る! 感染の疑いのある者は直ちに医療区画へ向かえ! これよりの最優先事項は、この未知の病原体の特定と、基地内の安全確保である!」
司令官の声が、基地中に響き渡った。
しかし、その声には、明らかな動揺と、言いようのない絶望の色が滲んでいた。
彼らは、人類史上最も重大な発見をしたと思っていた。
だが、それは同時に、人類を滅ぼしかねない、最初の破滅の扉を開いてしまったことを意味していたのだ。
最初の犠牲者、主任科学者ハーマン教授の変貌は、始まりに過ぎなかった。