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第1話 凍てつく地の囁き



 白く、広漠とした世界が、地平線の彼方まで続いていた。

 南極大陸の奥深く、そのどこまでも続く銀世界の中に、ぽつんとそびえ立つ、まるで未来的な宇宙ステーションが不時着したかのような建造物。


 国際合同科学調査基地 エコー・ベース。


 エコー・ベースは、数十人の研究者とサポートスタッフが長期滞在できるよう設計された、大規模な国際共同研究施設だ。

 その外観は、極地の猛威から身を守るために最適化された、徹底的に合理的な設計がなされたモジュール式の構造。

 銀色の金属パネルで覆われた複数の巨大な円筒形、または箱型のユニットが、頑丈な接続通路で結合されている。

 これらのユニットは、氷と雪の重圧に耐えるため、分厚い強化合金製で、表面は極度の低温にも対応する特殊なコーティングが施されている。


 基地全体は、強風による積雪を防ぎ、かつ安定した基盤を確保するために、地面から数メートルの高さに頑丈な支柱によって浮かせられている。支柱の足元には、雪の吹き溜まりを防ぐための流線形の整形(フェアリング)が設けられている。


 屋上には、通信衛星とリンクするための大型パラボラアンテナが複数設置されており、凍てつく空に向けて伸びている。その隣には、気象観測用の風力計やセンサー群が、常に風に晒されながらも正確なデータを収集している。

 また、緊急時には氷上着陸を可能にするためのヘリポートも併設されているが、普段は厚い雪に覆われていることが多い。


 主な出入り口は、分厚い二重の気密室(エアロック)。扉は外気の侵入と熱の損失を最小限に抑え、氷雪で固まらないよう、常にヒーターで暖められている。

 夜になると、基地の窓からは温かな光が漏れ出し、周囲の闇とブリザードの中で、唯一の生命の兆候として輝いている。

 それはまるで、宇宙の果てに浮かぶ小さな星のようだ。

 

 分厚い氷壁と、地響きを立てる猛烈なブリザードが、あらゆる外部との繋がりを遮断し、基地を孤立した箱舟のように見せかける。

 ここでは時間が止まったかのように感じられ、基地の中の人間だけが、その残酷な静寂の中で微かな息遣いを上げていた。


 研究棟の低温ラボで、エミールは凍てつく氷床コアに囲まれていた。


 彼の指先がわずかに震えるのは、寒さからか、それともこの単調な作業に対する疲労からか、もはや彼自身にも判別がつかない。

 30代前半、古生物学者としての情熱だけが、彼をこの閉鎖的な環境に留まらせていた。数ヶ月にわたる氷床コアの分析作業は、気の遠くなるような精度と集中力を要する。

 顕微鏡の奥に広がるミクロの世界、閉じ込められた古代の気泡や微細な有機物の痕跡に、彼は人類の歴史を覆すような発見が潜んでいると信じていた。

 淡い、しかし確かな期待だけが、彼の心を支える唯一の光だった。


「エミール、今日の解析、どこまで進んだ?」


 背後から、主任科学者のハーマン教授の声が響いた。厳格で探求心の塊のようなベテラン学者だ。

 エミールは振り返りもせず、顕微鏡から目を離さずに答えた。


「グリーンランドのアイスコアと照合して、δ18Oのプロファイルを比較しています。およそ12万年前のエミアン期と、現在の間氷期の気候変動パターンに顕著な差異が見られます。特に、最終氷期への移行期における大気組成の変化が…」


 ハーマン教授は、白い眉をしかめて頷いた。


「興味深い。だが、それだけか? 我々がここまで来たのは、単なる気候モデルの検証のためではないだろう。何か、変則性(アノマリー)は検出されたか?」


 エミールは深いため息をついた。期待されているのは、もっと劇的なものだと分かっている。


「現状では、特筆すべき特異点はありません。微生物学的観点からも、既知の極限環境微生物の範疇を出ていませんし、古DNAの解析も、まだ初期段階です。

主任、ご存知の通り、この規模のサンプル解析には…」


 その時、ラボの扉が開き、基地司令官が顔を覗かせた。彼の顔は、いつも通り冷静沈着だ。


「エミール、ハーマン教授。少し、いいか? 外部との定時通信が間もなく始まる。状況報告の準備を頼む。特に、南西方向の地磁気異常について、最新の観測データは揃っているか?」


 エミールは顕微鏡から顔を上げ、司令官の顔を見た。地磁気異常。数週間前から、この基地の観測機器が捕捉している、説明のつかない微かな乱れだ。それは、彼の単調な日常に、微かに差し込む異質な光でもあった。


「データは揃っています、司令。しかし、正直なところ、既存の地質モデルでは説明がつかない アノマリスティック データです。電磁波スペクトル分析の結果も、既知の鉱物組成とは合致しません。」


 司令官は腕を組み、考え込むような表情を見せた。


「つまり、得体の知れない何かが、氷の下にあるということか……報告は、慎重にな。我々のいる場所が、どれほどデリケートな環境か、君たちも理解しているだろう。」


 基地内に流れる無線の「ツー、ツー」という規則正しい音が、定時通信の始まりを告げる。エミールは再び顕微鏡を覗き込んだ。

 彼の指先が触れるガラスの冷たさとは裏腹に、胸の奥で、まだ見ぬ発見への期待が、氷の下で微かに脈打つ鼓動のように響いていた。それは、この凍てつく荒野で、彼を前へと突き動かす唯一の原動力だった。



 エコー・ベースの単調な日常は、ある日突然、打ち破られた。


 司令室にけたたましいアラームが鳴り響き、基地全体に緊迫した空気が走る。

 深層掘削チームからの緊急連絡だった。


「司令!主任!」


 通信画面に映し出された掘削チームのリーダーは、興奮と困惑が入り混じった顔をしていた。


「異常です! 現在掘削中の地点、氷床下約3,000メートルで、通常ではありえない熱源を検知しました。それに、極めて強い金属反応が出ています!」


 主任科学者のハーマン教授が、即座に身を乗り出した。


「金属反応だと? 何の金属だ? 天然の鉱物層か?」


「それが…組成が特定できません。既存のいかなる地球上の金属とも異なる反応を示しています。しかも、信じられないほどの純度です。そして熱源は、地熱とは異なる、極めて局所的なものです。この深度で、これほどの熱は……」


 掘削リーダーの声が震える。基地全体に、それまで体験したことのない種類の緊張と、抑えきれない興奮が広がった。

 エミールもまた、ラボでその報告を聞き、胸の高鳴りを覚えた。彼の淡い期待が、今、具体的な形を帯びようとしている。

 地磁気異常、そしてこの異常な熱と金属反応。すべてが繋がっていると直感した。


「直ちに掘削を中断し、状況の再確認を!」


 基地司令官の冷静だが有無を言わさぬ声が響き渡る。


「エミール、ハーマン教授、すぐさま司令室へ。このデータを確認する。」


 司令室に集まった研究者たちの間には、期待と不安が入り混じったざわめきが満ちていた。数週間にわたる、まるで時間を引き伸ばすかのような慎重な掘削作業が続けられた。


 ドリルはゆっくりと、しかし確実に氷の奥へと突き進んでいく。


 新たなセンサーが投入され、熱源の正確な位置と形状が特定されていく。

 データが示すのは、人工物としか考えられない、完璧な対称性を持つ巨大な物体の存在だった。


 そして、ついにその日が来た。


 最終的なボーリング孔に、最新鋭の深海カメラが降ろされた。

 司令室のメインスクリーンに、ノイズ交じりの映像が映し出される。

 暗闇の中をカメラがゆっくりと降下していく。


 3000メートル…3050メートル…3100メートル……。


 そして、カメラのライトが、その異様な物体を捉えた瞬間、司令室にいた誰もが息を呑んだ。そこに広がる光景は、彼らの想像を遥かに超えていた。


 氷の壁に囲まれた空間に、鎮座していたのは、信じられないほど巨大で、滑らかな表面を持つ、漆黒の金属製の構造物だった。

 その形状は、自然界に存在する何物とも似ていない。それは、完璧な幾何学模様と、計算し尽くされたかのような絶対的な対称性を保っていた。

 数万年、あるいはそれ以上、遥か悠久の時を超えて、極氷の深淵に眠っていたのだ。


 光沢を帯びた表面には、複雑な模様や文字のようなものは見当たらず、ただ静かに、圧倒的な存在感を放っていた。

 まるで、遥か古代の、あるいは星の彼方から来た何者かが、この地球の最も深い場所に、秘密を封印したかのようだった。

 その場にいた全員の思考が、一瞬にして凍りついた。彼らが発見したのは、単なる地質学的な異常などではなかった。

 

 それは、人類の歴史を根底から覆すかもしれない‶未知〟との遭遇だった。


 エミールの心臓は、けたたましい音を立てて脈打っていた。

 彼の古生物学者としての探求心が、今、その限界を超えようとしていた。

 



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