閑話 バランデーヌの悪魔
前マクガリー辺境伯ユアンは蛇蝎のごとくバランデーヌ王を憎み、異常なほどに警戒している。
妹のゾフィーを奪還するまでの苦悩と、バランデーヌ王の悪辣さを誰よりも知り尽くしている人物だからこそ、その主張に異を唱える者はいない。
ユアンはアルテーヌの相続人の息子として生まれたが、独身を通していた伯父の養子となってマクガリー辺境伯を継いだ。
同時期にアルテーヌの相続人に決まった妹のゾフィーが攫われたのは、その矢先の出来事だった。引継ぎの隙を突かれたのだ。
まだ年若く力の無い青年だったユアンはトーラント王家を頼り、国を通して猛抗議をしてもらったものの、最終的に王家は各国との同盟や友好関係を優先し、結婚を承認せざるを得なかった。
承認する決定打となったのは、招かれたバランデーヌ国での盛大な結婚式と戴冠式で周囲に恭しく傅かれバランデーヌ王との睦まじい姿を見せたゾフィー本人の言葉だった。
『ご心配をおかけしました。でも、とても大切にしてもらっています』
その言葉通り、すぐに懐妊が発表されて一年経たずに王女誕生の祝賀行事が行われた事で周囲も安心した頃、ゾフィーからの連絡が途絶えた。
それまで頻繁にやり取りをしていた手紙が一切届かなくなったのだ。
バランデーヌに何度問い合わせても、王妃様は病気療養中との返事が繰り返されるばかりで、見舞いすら許可されない状態が続いたのを訝しみ、トーラント王家に相談しても、あれ程大切にされていたのだから心配ないだろうと取り合ってもらえなかった。
しかしユアンは決して諦めなかった。
数年がかりでやっと見つけた母娘は虫の息で、唯一話を聞き協力してくれたグラーシュ公爵一門の力を借り、正に間一髪の所で奪還に成功したのだ。
助け出されたゾフィーの口から語られた事は、ユアンにとっては許し難い事だった。
あの日、攫われて国境を越えた所でゾフィーを英雄の如く救いだしたのはバランデーヌ王その人であった。
保護された王宮で皆に大切にされるうちにすっかり心を許してしまったのだ。
何よりバランデーヌ王自らがひたすら優しく、やがて愛を囁かれるようになり結婚を承諾してしまったのだと。
結婚式と戴冠式では心から自分は幸せ者だと思っていた。
懐妊が発表されるとすぐに離宮に移され王の訪いはなくなったが、体を気遣う手紙や花は届けられており、娘が生まれるまでは何を疑うことなく穏やかに過ごしていたのだという。
しかし、バランデーヌ国が欲したのは、「アルテーヌの相続人が王妃」になり「王の子を生んだ」という「事実」だけであり、その役目を終えると用済みとばかりに劣悪な環境で幽閉した。そして、そこでは決して身体的に危害を加える事がない様に厳命され、衰弱死を待つよう指示されていたのだ。
諜報によれば、バランデーヌ王はユアンを警戒していたという。
仮令病死と発表しても、納得できなければ墓を暴いてでも調べる事を厭わない厄介な人物だと。
事前の病気療養の発表を受けての衰弱死なら誰もが闘病の末だと疑わない。
ユアンには、棺に入ったゾフィーに泣き縋るバランデーヌ王の姿を見せて納得させる計画だったらしい。
この世には度し難く悪魔のような者が居ると聞く。
ユアンにとって、バランデーヌ王こそが正にその悪魔だった。
漸く救い出したゾフィーとマクガリー辺境伯邸で対面した時、正直ユアンはその腕の中の子に複雑な感情を抱いていた。あの悪魔のような王の子なのだ。
それを感じ取った様に、ゾフィーはまだ回復しきってはいないやせ細った腕で小さな娘を抱きしめて懇願した。
「この子があの非道なバランデーヌ王の子だという事は事実です。しかし、芽生えた命を喜び、愛おしく慈しんで産み育てた私の子でもあるのです。幽閉され騙されていたと知って絶望の淵にいた私は、この子が居なければ生きる気力も希望も失くし、とうに儚くなっていた事でしょう。どうかお願いです。この子を私の手から奪わないでください」
マリーと名付けられたその娘は保護された時の状態が非常に悪く、診察した医師からは長くはないかもしれないと告げられていた。それなら悔いのない様にと母娘共に暮らせるように手配することにしたのだ。
信頼を失墜させ、各国との国境が封鎖されて今は身動きがとりにくいバランデーヌだが、油断は出来ない。
ゾフィーとマリーはマクガリー辺境伯家に守られ、グラーシュ公爵家からの庇護を受けながら、やっと安心して暮らせるようになったのだ。
一時は成長を危ぶまれていたマリーは、それでも少しずつ回復し、母親譲りの美しく優しい娘に成長した。
幼い頃からゆっくりと愛を育んだグラーシュ公爵家のジュリアンと結ばれ、そして生まれたのがアンジェリカだ。
残念ながらマリーはお産に耐えられず誰よりも先に逝ってしまった。
それにより、アンジェリカがゾフィーの次にアルテーヌの相続人となる。
いかにグラーシュ公爵家と言えども、アルテーヌの次期相続人であるマリーの逝去を隠すことは出来なかった。その代わり、生まれた子に関する情報は完全に秘匿し、バランデーヌ国に対して厳重な警戒態勢を敷いた。
バランデーヌ王家とアルテーヌに加え、トーラント王家の傍系であるグラーシュ公爵家の血を引く子を手中にすれば、アルテーヌの権利だけではなくトーラント国の王位を主張する事さえできるのだ。国境が封鎖されているとはいえ人道的な流通がある以上、こちらと同様に諜報員は必ず潜伏している。しかも国交がない国に連れ去られてしまえば取り返す事は困難を極める。
もしも奪還が出来なければ、ゾフィー亡き後、その子を担ぎ上げたバランデーヌ国はアルテーヌを足掛かりにトーラント国までをも手中に収めようとするはずだ。
担ぎ上げられたのが本人ならば何としても救うために奔走する。
しかし「バランデーヌ王家とトーラント王家の血を引くアルテーヌの次期相続人」という「事実」だけを欲しているのならば…。
相手は人ならざる悪魔なのだ。絶対に警戒を怠ってはならない。