さあ、準備を始めましょう
緊張の前のほっこり回です。
女子はかわいい (^^)
教室を出て、王妃様と談笑しながら馬車寄せに到着すると同時に、王家の紋章の入った馬車の扉が開かれ、従者の差し出した手を取った王妃様は立ち止まることなく流れるように馬車に乗り込んだ。
王妃様に続き、従者に手を差しだされた私はハンカチを彼の手のひらに乗せてから手を取る。
従者の真っ白な手袋をビーフシチューで汚すわけにはまいりませんものね。
馬車の席は王妃様の隣を勧められたけれど、お召し物を汚してしまいますと辞退し、進行方向と逆の席に一人で座っていた。
ちょうどその時、漸く到着して馬車に乗り込んで来たラシェル殿下が当然のように王妃様の隣に座ったのを見て、王妃様の眉が一瞬吊り上がったのだけれどお気づきではない様ね。
汚れた私と座った位置で状況は一目瞭然なのだから、ラシェル殿下はケープを外して座席に敷き、私を王妃様の隣にエスコートするのが礼儀なのよ。
そんな時の為に男子生徒の制服にはちゃんとケープが付いている。
余裕のない人間の行動には本心が現れるもの、今はそれどころではないのでしょう。
私にそんな気遣いをしたことがないという事をきちんと王妃様に露呈する行動には満点を差し上げましょう。
馬車が動き出し、気を取り直した王妃様と談笑する私に、顔色が悪く足と手が小刻みに震えているラシェル殿下が、怯えた目に口角だけを上げるという、とっても器用な笑顔を向けているのを目の端で捉えた。
お父様ったら、一体どんなやんちゃをなさったのかしら。
それにしても切羽詰まった人間の笑顔ってこうなのね。練習しておこうかしら。
そう言えば真っすぐこちらを向いたご尊顔を拝したのは、初めて顔を見て泣き喚かれた時以来だわ。
良かった、何の感情も湧かない。
もしも、ほんのちょっと、砂粒程、針の先程でも印象に残ってしまったらこの後の罪悪感が拭えないかもしれないもの。
移動中、私はラシェル殿下には一切視線を向けることなく終始笑顔で王妃様と歓談し、何とか会話に参加しようとするラシェル殿下が口を開くも、声を出す隙も相槌の暇さえ一瞬たりとも与えなかった。話す相手の呼吸に合わせて言葉を遮断するなど造作もない事だわ。
そして目の端で器用な笑顔を観察することも忘れない。後でみんなに教えてあげるのだ。
王宮に到着すると、馬車寄せにラシェル殿下の元側近たちが毒気を抜かれた顔で彼らの父親の後ろに並んでおり、滑るように止まった馬車の扉の前で礼を執った。
馬車の席次に皆が顔を強張らせており、先に降りたラシェル殿下に私をエスコートする気配が無いのを瞬時に見て取ったエリオット小公爵のルイが動く気配を見せた瞬間、貴公子たちの仕事を奪わないようにと扉の側に立っていた従者に顔を向けて、乗り込むときと同様にハンカチを差し出して声を掛けた。
「乗り込むときにきっと手袋を汚してしまったと思うの。後でお詫びの品を送るわね」
その言葉に恐縮しながら恭しく手を取ってくれた従者に笑顔を向けて降り立つと、先導の馬車から降りて出迎えのために控えていた側近の令嬢たちが速やかに動く。ベルジェ伯爵家のパトリシア嬢が人懐こい笑顔で従者に名を尋ね、マクガリー辺境伯家のメルヴィル嬢とデュボア伯爵家のカトリーヌ嬢が後ろに従う。出迎えてくれたエリオット公爵とフラン侯爵、ミラー伯爵に軽く会釈し、王妃様の降車を待って後に続いた。
私が両側からメルヴィル嬢とカトリーヌ嬢に腕を取られて歩き出した姿を見て、漸く婚約者のエスコートという役目を思い出したらしいラシェル殿下が慌てて腕を差し出してきたがにこやかに辞退した。
「殿下の大切なケープを汚してしまっては申し訳ございませんので」
側近の父親たちの誰かが小さなため息を漏らしている。
謁見の間には順番に呼ばれるらしく、最初は元側近たちで私の番はまだ先なのだそう。
国王陛下の侍従長から、グラーシュ公爵家の控室で待機するように伝えられた。
「あー、やっとお風呂に入れるわー。とにかく頭よ、見て!これを落とさないように動くの大変だったんだから」
侍従長を見送って、控室の扉が閉まるや否やメルヴィルに手を取られてカトリーヌとパトリシアと一緒にころころ笑いながら部屋の中に入っていくと、部屋の奥で待ち構えていた乳母で侍女長のベルジェ伯爵夫人に四人纏めて満面の笑顔で叱られた。
「お嬢様、お帰りなさいませ。それに皆さんもご苦労様でしたね。
そう言えば先ほど入り口付近で不審な笑い声が聞こえたので影を数人放ったのですが、大事が無かった様で安心しました」
すると、カトリーヌが私にそっくりな小さな人形をひょこりと取りだした。
人形はかわいらしい小さな手を胸の前で合わせ、私にそっくりな声で話し始めた。
カトリーヌの口元は全く動いていないから、本当に人形になった私がおしゃべりしているみたいなの。
(ごめんなさいベルジェ夫人、今度から気を付けるからどうか許して。そして、みんなとってもお腹がすいているの)
その言葉に合わせて、四人と一体で同じポーズを取ってベルジェ夫人を上目遣いで見上げると、いつものようにベルジェ夫人は眉尻を下げて笑顔で答えてくれた。
「お分かりいただけたなら何よりです。モリーが張り切ってお菓子をたくさん焼いたそうですから、身支度が終ったら皆と一緒に召しあがれるように用意しておきますね」
モリーはデュボア伯爵家の傍系で、トーラント国だけでなく近隣のモンテ国とアルザス国にも支店を出す程の有名菓子店を経営しているカールソン男爵家の令嬢であり、カトリーヌの又従妹に当たる。家業のためにと自身も率先してお菓子作りを研究して日々研鑽を積んでいる。彼女の生み出すお菓子はどれも絶品で、もう私たちはモリーの作るお菓子でなければ満足できない体になっているのだ。
そう言えば、学園の控室でラシェル殿下たちに出されたお菓子はモリーの作品だったのではないかしら。それはちょっと許せないかもしれないわ。
その呟きを聞いた侍女たちが、とっても良い笑顔で口々に答えてくれた。
「あのお菓子は王家から下賜されたものです」
「お毒見をすることは不敬に当たるのでお嬢様にはお出しできませんし、実は困っていたのです」
「でも、王家からの下賜ですから、ラシェル殿下がお召し上がりになるなら丁度良いかと」
そしてそのモリーが湯あみを準備している侍女たちにあのビーフシチューの入ったお皿を見せて何やら力説している。
「この美容液は髪や肌に良い美容成分をたっぷり溶け込ませていて、しっかり浸透させた後にお湯で流すと洗い上がりがつるつるすべすべになるのです。もちろん口に入れても大丈夫です。え?おいしいか? 当然です!私の作る物は美容液であっても美味なのです!」
なるほど、モリー特製のビーフシチューは頭にしっかり留まって実に色々と良い仕事をしてくれたわ。
さあ、あとは何もかも綺麗さっぱり洗い流すだけ。