ラシェル
クレイグが牢を出るのと入れ替わりに、グラーシュ公爵は扉を潜ってラシェルの牢の前に立っていた。
牢の奥の隅に蹲ってこちらを見ようとしないラシェルの様子に溜息をつき、グラーシュ公爵は言った。
「エリオット公爵は息子を殺めたお前には会いたくもないだろうから、私が代わりに伝えに来た。牢内で人を殺めたお前の罰と刑期は変わる。それまでここで沙汰を待つように」
結局最後までこちらに視線さえ向けないラシェルに再びため息を吐き、グラーシュ公爵が牢を後にしようとした時、一人の衛士から相談を受けた。ジルベールの一件以来、水は桶でなく木のコップで渡しているのだが衛生的に少ないという。
それを聞いたグラーシュ公爵は桶で良いと答えた。
「心配いらない。あ奴にそんな気概はない」
◇◇◇
元国王が危篤になったと知らせを受けたエリオット公爵は独り言ちた。
「ずいぶん持ったな」
ジルベールが世話を始めて四カ月が過ぎた。
当時、半月持たないと言われていた元国王を、ジルベールが実に献身的に介護をしていると報告を受けてはいたが、まさかこれほど持つとは思わなかった。
その日、同じく知らせを受けたグラーシュ公爵と共に特別牢へ足を運んだ。
牢の扉を潜ると、格子の向こうに寝台の側に座っている元王妃と、苦しげな息の元国王の背を擦っているジルベールが目に入った。
入って来た二人に、人形を抱いた元王妃が首を傾げて問いかけた。
「いらっしゃい。どなたかしら?」
二人に気付いたジルベールが元王妃に、「宰相閣下と公爵閣下ですよ」と囁いて椅子の横に跪いて礼を執った。まあ、と驚いた様子の元王妃はゆっくりと立ち上がり、かつての地位を彷彿とさせるカーテシーを執った。
殆ど動けなかったはずの元王妃の回復に目を瞠り、エリオット公爵が声を掛けた。
「夫人、楽にして下さい」
そう言われてジルベールは元王妃を椅子に座らせ、同行した医師が格子の中に入り診察を始めるのを見守った。
それから間もなく、医師が元国王の目を閉じ、十字を切ったのを目にした元王妃が人形を抱きしめて寂し気に呟いた。
「私の旦那様は死んでしまったのね。私は一人ぼっちになってしまったわ」
その様子を見て、ジルベールが元王妃の前に跪いて慰めようとした時だった。
「そうよ、私たちには息子がいたの。最愛の息子よ。名前は…
ラシェル、そうラシェルよ。あなたが(ラシェル)なのね」
元王妃がぱっと明るい顔をしてジルベールに手を伸ばして呼びかけたが、その問いにジルベールは困惑したように眉を下げ、首を振って応えた。
「いいえ、奥様。私はラシェルさんではありません」
元王妃はその言葉を聞こうとせず、ジルベールの手を取って言った。
「さあ、(ラシェル)、お父様を二人でお見送りしましょう」
元王妃の言うまま、困惑した表情でジルベールは元国王の側に跪いて十字を切った。
そして、棺が運び込まれて元国王を納めようとした時、元王妃がガタガタと震えはじめ、手で顔を覆って「いやよ、助けて、誰か助けて」とうわごとの様に呟き始めたのだ。
すぐに医師の指示で寝台に移動させて落ち着かせ、睡眠薬を飲ませて横にならせた。
間もなく寝息を立て始めた事を確認して、元国王の納棺を済ませて運び出させたのだった。
エリオット公爵とグラーシュ公爵は、離宮の貴族牢での事を思い出したのではと危惧し、
目が覚めた時、ジルベール一人では対応できないと言った医師が暫く滞在することになった。
四人で今後の事を話し合った結果、元王妃が目覚めた時に混乱が強い場合は診療所での幽閉とする事に決まった。
ジルベールは、元王妃がラシェルの事を思い出したのなら一度会わせてみてはと、ぽつりと言った。
元王妃にとっても、最愛の息子の存在は心の支えになるだろうし、ラシェルにとっても、母が生きていると知れば、別の牢に居るとしても生きる励みになるし、今後の考えも変わるだろうからと、しんみりした様子で言った。
エリオット公爵はジルベールをじっと見据え、そうだなと呟いた。
「母に会って君の様に改心出来れば、ここで母の世話をしてそのまま幽閉という事でどうだろう。少しでも悔い改める事が出来るならきっとルイも本望だ」
グラーシュ公爵はそう言ったエリオット公爵の肩を叩いて労い、塔を後にした。
元王妃は目を覚ました後、取り乱す事もなく夫が亡くなった事を受け入れ、空っぽの寝台の前に跪いて祈りを捧げた。
埋葬の立ち合いに付いては、まだ精神的に安心はできないとの医師の判断で見送られる事になった。
目を覚ましてからも、元王妃はジルベールの事を(ラシェル)と呼び、自身の息子だと思い込んでいるようだ。
その度にジルベールは「私はラシェルさんではありませんよ」と優しく言い聞かせている。
それから程なく、元王妃の精神も安定していると医師からの報告を受けたアンジェリカが元王妃の下を訪れた。ミラー夫人とテオも一緒だ。
「こんにちは。ご主人が旅立たれたと聞いてお悔やみを言いに来ました。ご気分は少し落ち着かれましたか?体調はいかがかしら」
そう言って格子越しに声を掛けるアンジェリカに元王妃は明るい声で答えた。
「いらっしゃいお嬢さん、お気遣いありがとう。でも大丈夫よ。息子の(ラシェル)が付いていてくれるから」
そう言ってジルベールを振り返って愛おしそうな視線を向けた。
アンジェリカはその言葉に笑顔を返して、テオを紹介した。
「この前来た時に、素敵な子を紹介するとお約束したでしょう?やっと外に出られるようになったから一緒に来たのよ。初めまして、名前はテオというのよ」
元王妃はミラー夫人に抱かれたテオを見て目を細め、伸ばされた小さな手に指を掴まれて笑み崩れ、テオの顔を覗き込んで気づいたようだ。
「まあ、とっても可愛いわ! あら、(ラシェル)と髪と目の色が同じだわ」
「そうね、(ラシェル)さんの色に似ているわね。でも、テオはジルベールさんという方の子なの。(ラシェル)さんもよくご存じの方よ」
そう言って笑顔で振り返った元王妃とアンジェリカの言葉に、ジルベールは雷に打たれたように衝撃を受けて動けない様だ。
「まあ、そうなの?(ラシェル)のお友達の子なのね。ほら、貴方もご挨拶しなくちゃ」
そう言ってジルベールをテオが良く見える位置に促した。
テオを覗き込んだジルベールは息を呑み、顔を上げてアンジェリカを見つめた。
テオに夢中で、ミラー夫人と共に盛り上がっている元王妃から少し離れて、アンジェリカはジルベールに説明を始めた。
「貴方が牢から運び出されたあの夜、ミーガンさんがテオを産んだの。
一般牢に入る頃にミーガンさんの妊娠が分かったのだけれど、貴方も知っている通り誰の子かわからなくてね。妊娠を明かさなかったのは混乱を避ける事以外に、サイラスさんとミーガンさんが幽閉から逃れる計画を立てていたからなのよ。貴方の自害未遂を目にしたミーガンさんが産気づいて月足らずで生まれてしまって、今日やっと医師から外に出す許可が出たのよ。それからね、テオは生まれつき目が不自由なの」
アンジェリカの話を真剣な目で聞き入っているジルベールにアンジェリカが続けた。
「クレイグさんは自身の贖罪として、誰の子であっても自分の子として育てる事を引き受けてくれていたの。今は引責で爵位を返上した父親のミラー氏と共に、アルテーヌでテオを迎える準備に奔走しているわ。ミラー氏は貴方の刑期が終わったら、自身の甥として貴方を迎え入れ、共にテオを育てるために手を貸して欲しいと言っているのだけれど、貴方の意思はどうかしら」
まだ戸惑いを隠せないジルベールだったが、涙を浮かべて自分の子であるテオの保護への礼を言い、そして、ミラー夫人に目を向けてミラー夫妻の恩情に対する感謝の言葉を口にした。その言葉を傍で聞いていたミラー夫人も頷いている。
「サイラスとミーガンはあの牢を出たのですか?」
ジルベールの言葉にアンジェリカは頷いて答えた。
「ええ、出産の立ち合いのシスターが居る前で、二人は近親相姦の間柄だと口にしたの。
事実は無いようだけれど、重大な戒律違反を告白した以上、懲罰は免れないわ。今は教会での禊の最中よ。その後は修道院での幽閉を希望していて、そこから実の両親の元へ逃れるつもりらしいけれど、そこではきっと生き地獄を見る事になるわ。その事に気付くかどうかは彼ら次第ね」
眉を顰めて顛末を聞いていたジルベールにアンジェリカが一通の手紙を渡した。
エリオット公爵からだと渡された、薄桃色のレースの縁取りが施されたカトレア模様の便せんを呆然と眺めるジルベールに、アンジェリカは「事情があるのよ」と苦笑いして続けた。
「手紙にもある通り、ラシェルさんと元王妃の面会が決まったわ。ラシェルさんと入れ替わりに貴方の刑は終了です。貴方が得た生き直す機会を、テオの未来と彼の生きて行くアルテーヌに捧げてもらえないかしら」
その言葉に、ジルベールは膝を突き忠誠を誓うポーズを取った。
涙を堪えてまっすぐにアンジェリカを見つめる瞳には、生きる意志がはっきりと感じられた。
彼はもう大丈夫だ。
◇◇◇
朝の会議にて、ラシェルと元王妃の面会に立ち会うため、各々の動きや配置の確認をし合う。
本人にはこれから伝えるとの事だが、報告では相変わらず自分は悪くないと言い続けているらしい。
最近では、ルイを手に掛けたのは自分ではない、闇に乗じて誰かが自分を陥れるためにルイを殺したのだ、真犯人は別にいるからきちんと捜査してくれ、自分も殺される、助けてくれと、毎朝ジャガイモを渡す衛士に訴えているという。
「元王妃と面会して、彼は変わるかしら?」
しかもジルベールの様に献身的に支える事が果たして出来るのだろうか。
アンジェリカが思案顔で問いかけると、皆から溜息しか出ない。
しかし、このまま刑期を伸ばしてもラシェルはきっと変わらない。
皆で相談し、面会が失敗に終わった後のことを一任してもらえるようにエリオット公爵へ手紙を託した。
そして、無表情のカトリーヌに渡された報告書と添えられた手紙の写しを読んで一同が絶句した。
修道院に移動したミーガンは、手紙で両親にアンジェリカと側近の令嬢三人を攫って娼館で働かせようと持ち掛けていた。攫えなければ穢すだけでも良いと、手紙にはグラーシュ邸から学園への通学経路や、登下校の時間、護衛の人数、時折訪ねる教会や孤児院なども記載されていた。
そして、カールは届いたばかりの、薄桃色のレースの縁取りが施されたカトレア模様の便せんを取り出し、カトリーヌの手をぎゅっと握りながら言った。
「ミーガンの手紙は昨日の夜に出されました。回収して即座にグラーシュ公爵には報告済です。すり替えた手紙には、名指しはせずにただ恨みのある貴族令嬢を攫えとだけ書いています。
下位貴族や裕福な商人が出入りする娼館の繋がりは侮れません。花街の監視も兼ねて今回はグラーシュ公爵を通してエリオット閣下に調査と対応を依頼しました」
エリオット公爵の報告では、貴族令嬢を攫えと言う手紙を読んだ二人は鼻で笑っていたという。高い木においしそうな果物があれば落ちて来るのをただ待てば良いのだ。何故わざわざ危険を冒して取らなければいけないのだと。その道の裏まで知り尽くし処世術を身に付けているからこその今の二人の地位だろう。
二人がミーガンの言葉に乗る事はないだろうが、用心に越した事はないし、こちらも警戒を怠らないとの内容だった。
あの二人の事はもうこちらが気に掛ける必要はない。あとは『パオロとフランチェスカ』次第だ。
尤も、二人が兄妹に与える末路は、やがて自分たちが辿る末路でもあるのだが。
重い話題を振り払うように、ミラー夫人から毎日届くテオの成長記録に皆で目を通す。
ペルジェ伯爵夫人も感心するほどの記録は、これから子を産み育てる自分たちにとってとても貴重な資料だ。ありがたく参考にさせてもらおう。
◇◇◇
元王妃とラシェルの面会は、ラシェルが収監されている牢の隣の元控室で行われる事になった。
恐怖に戦く中、夫に手を掛けられるという絶望の末に死の淵から舞い戻ってしまった元王妃は、よく見れば面影はあるものの、頬はこけ、短く切りそろえた髪には白髪が多く混じり、かなり老け込んだ、一見別人のような印象だ。
それでも、ジルベールの献身的な世話によって清潔は保たれ、穏やかな表情を浮かべる彼女に見苦しさはない。
その日、ジルベールは念入りに元王妃の身支度を行った。
アンジェリカから贈られた簡素なワンピースに着替え、丁寧に髪を梳かれながら楽しそうに尋ねた。
「今日はずいぶんおめかしするのね」
「これから奥様の大切な方に会いに行くのですよ」
そう言ったジルベールの眼差しには、別れの寂しさが含まれている。
面会の後はラシェルと王妃がこの牢に戻り、自身はアルテーヌに向かう事になっているのだ。
ジルベールは元王妃を抱き上げて塔の階段を降り、用意された車椅子に乗せて、久しぶりに味わう外の空気と景色を楽しめるように、ゆっくりと進んで行った。
元控室で待っていたアンジェリカを見つけると、元王妃ははしゃいだ声でワンピースの礼を言った。
「お嬢さん、素敵なワンピースをどうもありがとう。とても嬉しいわ!こんなにおめかしをして、今日は誰に会えるのかしら」
そんな話をしながら暫く待っていると、扉の外から慌ただしい足音が聞こえて来た。
母が生きている事を知らされ、これから面会だと聞かされたラシェルの喜びようは大変なものだった。牢から出され、喜び勇んで控室の扉を潜ったラシェルは「母上!」と呼びかけ駆け寄った。
しかし、振り返った元王妃を見た瞬間、飛びのいて指をさして騒ぎだした。
「違う!こんな見窄らしい老婆が母上のはずがない」
振り返って、自分を蔑んで叫ぶラシェルを暫くじっと見ていた元王妃は、やがて悲し気な目でジルベールを見上げて呟いた。
「この人は誰? 怖いわ。もう行きましょう(ラシェル)」
か細い声でそう言って元王妃はジルベールに手を伸ばした。
その様子を見ていたジルベールは王妃が伸ばした手を優しく取り、ラシェルを見据えながら言った。
「大丈夫ですよ。私がお守りします。行きましょう母上」
そう言ってアンジェリカに会釈をして二人は戻っていった。
アンジェリカは車椅子を押すジルベールと、項垂れて戻っていく元王妃を見送りながら、母にもジルベールにも気づくことなく、二人の背を睨み付けて立っている男に向かって言った。
「これで貴方は何者でもなくなったわ」
最期まで後悔も反省もしなかった男は、地位も名誉も、名前すらも失った。
この国では国民でもなく、身分証も持たない人間は城壁内には入れない。
名のないその男は城壁の外へと追いやられた。
襤褸を纏い、やせ衰えてぶつぶつと独り言をつぶやきながら歩く男には野盗でさえ寄って来る事はなかった。
いつの間にかたどり着いた街道沿いの小さな村で、男は時折村人に施しを受けて暫くの間街道を彷徨っていたが、ある日の早朝、その男が道端で倒れているのを通りかかった行商の一行が見つけた。虚ろに目を開けて動かないその男を見た行商人たちは気の毒そうに話し合った。
「まだ息はあるがもう駄目だな」
「しかし、こんなところで死んで放っておかれるのも気の毒な話だ」
そう言って、その男を板に乗せ、ロバに引かせて村の共同墓地の穴の側へ引き摺って行った。
ここなら死んだら誰かが葬ってくれるだろう。そう言って男たちは十字を切って立ち去っていった。
その日、名のない男が一人この世を去った。
その男が、かつて王太子だった事を知る者は誰も居ない。