新しい命
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首を押さえて膝を突き、そのまま倒れたジルベールの廻りにじわじわと血が広がっていく。
その様子を目の当たりにした牢内は正に阿鼻叫喚の様相を呈していた。
騒ぎに気付いて牢の扉を開けた衛士は、血だまりの中に倒れているジルベールを目にすると、廊下の先の詰め所に向かって大声で応援を呼び、急いで錠を外して牢の中に入った。
その間、ずっと叫び続けていたミーガンの声が苦しむ声に変わった事に気付いたメイドが牢に駆け付け、ミーガンの牢に入って容体を確認すると、廊下の先まで響き渡る大きな声で呼びかけた。
「出産が始まります!皆さん準備をお願いします!」
◇◇◇
一報を受けたアンジェリカは祈るような気持ちで幽閉先へ向かった。
まだ出産には一か月以上早い。
迂闊だった。
ジルベールの様子から自害の可能性を考え、彼の身の回りにはその道具になり得る物は置かない様に気を付けていた。その油断のせいで桶の金具を見落としていた。箍を研いでいる事に気が付かなかったのだ。
ジルベールの事も気になるが、そちらは衛士たちに任せて、今は対処すべきはミーガンの出産だ。
アンジェリカと側近たちが、急ぎ彼らの幽閉先に到着した時には既にジルベールは牢から運び出されており、ミーガンに付けていたメイドが先頭に立って出産の準備を指示していた。
メイドの口ぶりから、やはりジルベールの自害を目にしたショックとストレスのせいで出産が早まってしまったらしい。
流石カトリーヌ配下のメイドだ。彼女は混乱するミーガンはもちろん、周囲を落ち着かせるような態度と口調でありながら、実にてきぱきと指示を出している。
牢番の下男には急いでジルベールの牢の中をしっかりと清めるように頼み、換気と出入りのために窓とミーガンの牢の扉を開放して固定し、助産師のシスターたちを迎えに行くための馬車の用意を指示して衛士を送り出した。
そして、自身はミーガンに付き添いながら、この時の為に即応できるように待機していた数人の下女たちに次々と指示を出し、それにより清潔なシーツと沢山のタオルやお湯、産着などの出産の準備が見る見るうちに整えられてゆく。
状況を確認した後、アンジェリカの側近たちは各方面に連絡と根回しのために散っていった。侍女に扮してミーガンの診察を行っていた女医ももう間もなく到着する。
護衛のために残ったパトリシアと共に助産師のシスターたちの到着を待ちながら、換気のために開け放った扉の外に待機して牢の中の様子を窺った。
目立たぬようフード付きのマントを着用して牢の中からは死角になる位置に立っている為、中の者たちはアンジェリカたちが居る事に気付いてはいない。
クレイグは跪いて祈りを捧げているようだ。
ルイは格子の前で立ち尽くして呆然と様子を眺めている。
サイラスは格子を握りしめてこちらを凝視しているが、様子を窺っているのがありありと分かる。言いだすタイミングを見計らっているのだろう。
ラシェルは格子をがたがたと揺らし、叫び続けている。
「メグ!僕だけを愛していると言っただろう?ジルの言っていたことなんて出鱈目だ!
生まれて来る子は僕の子だと言ってくれ! メグ!答えてくれ!メグ!!」
廊下の先に人々の気配に気が付いて振り向くと、到着したシスターたちが案内されてやって来た。
緊迫した中、救世主にさえ見える彼女らを迎えたアンジェリカは、先頭のシスターの手を取って額に当てた。シスターは慈愛に溢れる瞳をアンジェリカに向けて祈りの言葉を口にした。
「母子ともに神のご加護があらんことを。わたくしたちは全力を尽くします」
三人のシスターたちはラシェルを落ち着かせて黙らせ、牢の前に目隠しのシーツを張り、
一人はその前で祈祷を始め、一人は水やお湯、道具を持って忙しく出入りしており、リーダーらしき一人は、侍女に扮した女医と共に分娩サポートに当たっている。
夜半から始まった出産を、誰もがまんじりともせずにただ待っていた。
牢の中から絶え間なく聞こえていたミーガンの叫ぶようなうめき声がひときわ大きくなったと思うと、出入りするメイドとシスターの動きが慌ただしくなった。
そして皆が見守る中、窓から朝日が差し始めた頃にその子は誕生した。
元気な産声に、牢内だけでなく見守っていた皆が安堵のため息を漏らした。
シスターの手で産湯を済ませた赤子は、綺麗な産着にくるまれてすぐに牢から連れ出され、ベルジェ伯爵夫人の手配でアンジェリカたちと廊下に待機していた乳母に託されて乳を与えられている。
その様子を眺めながら、ミーガンの後の事をシスターに託して赤子を連れて来た女医に、赤子を心配そうに見つめていたパトリシアが問いかけた。
「やはりずいぶん小さいようですね。無事に育つことが出来るでしょうか」
将来のアンジェリカの筆頭侍女として、そして婚約も決まりアンジェリカの子の乳母になる事もほぼ決定しているパトリシアは、侍女頭であり母のベルジェ伯爵夫人から出産時の対応や子の世話なども学んでいる最中だ。
「上手に飲めていますよ。偉いわね」
顔を上げてパトリシアに笑顔を返し、慈愛に満ちた顔で優しく赤子に語りかける乳母に頷いて、女医はアンジェリカとパトリシアに状況を説明した。
「哺乳がしっかりできているようなので一先ず大丈夫でしょう。ただ、やはりまだ安心は出来ません。診療所でお預かりして暫く様子を見ます。もしも何か問題がある様なら、今後の養育に付いて養い親となるミラー夫妻にも相談が必要でしょう」
そんな会話を交わしていると、牢の中からミーガンの声が聞こえて来た。
「私の赤ちゃんはどこなの?どこに連れて行ったの!」
それに呼応するようにラシェルが格子を揺らしながら騒ぎ出した。
「生まれた子は僕の子だ!王家の子を連れ出すなど許される事ではない!今すぐここへ連れて来い」
ラシェルは自分の言葉に誰も応えようとしない事に腹を立ててさらに叫び出した。
「王家の後継者が生まれた!僕とメグと子をすぐにここから出せ!王太子の命令が聞けないのか!」
ミーガンの産後の処理も無事終わったようだ。
二人の言葉を聞いてアンジェリカはフードを外して扉の前に姿を現し、ラシェルとミーガンに向かって言葉を発した。
「生まれた赤子は、罪人の子とは分からぬように平民として大切に育てる事に決まっていますからどうぞ安心なさって。実の父母がどんな人間であろうと、どんな罪を犯そうと、ただ生まれて来ただけの子に罪はありませんもの」
ああ、それから、とラシェルに向かってアンジェリカが続けた。
「ラシェルさんの子ではないようですよ」
そう言ってミーガンに視線を送ると、蒼白な顔でわなわなと震えながら小さな声で呟くのが聞こえた。
「嘘よ、じゃあどっちの子なの…」
アンジェリカとミーガンの呟く言葉を聞いて、ラシェルは両手で髪の毛をかきむしりながら膝を突いて歯を食いしばり、獣の様に呻いている。
もう彼らに掛ける言葉はない。
アンジェリカはシスターたちを振り返った。
「無事に子が生まれたのは皆さまのお陰です。ご尽力、本当にありがとうございました。後ほど教会に改めてお礼に伺います」
そう言って片づけを終えたシスターたちを促して牢を出ようとした時、サイラスが大きな声でシスターたちを呼び止めた。
「お待ちください、シスター!どうか私の懺悔をお聞きください!
私は妹のミーガンが産んだ子の父親の可能性があるのです!」
衝撃的な告白の内容に、ルイは格子の前に立ち竦み、クレイグも、ラシェルさえも蹲ったまま顔を上げ、目を見開いてサイラスを凝視した。
アンジェリカの周囲を守っている騎士や牢番の衛士たちも皆、驚愕の表情を浮かべている。
振り返ったシスターたちは、目配せし合い密やかに言葉を交わすと、落ち着いた態度でサイラスを見やり、ミーガンに問いかけた。
「貴方の懺悔の言葉を受け取りました。あなたがミーガンさんですね?お兄さまの言葉に間違いはありませんか?」
静まり返った周囲に、ミーガンの震える声が響いた。
「はい、間違いありません」
その言葉を聞いたシスターは二人に厳かな声で告げた。
「神の御心に背く重大な罪を犯した二人は、審問のためこのまま教会に同行して頂きます」
振り返ったシスターに移送の許可を求められたアンジェリカは、出産直後のミーガンの体調管理の為に今まで世話をしていたメイドの同行を願い出た。
流石にそれにはシスターたちからの反対はなく、サイラスとミーガンは牢から出されて足枷と手枷が付けられ、移送の準備が進められた。
六人乗りの大型馬車が到着するまでの間、二人に向けられる穢れたものを見るような蔑み切った視線と触れる事さえ厭う様子にサイラスとミーガンは戦慄した。
二人の脳裏にはそれぞれに掛けられた言葉が蘇った。
『サイラスの計画に乗るのも止めはしないけれど、貴方たちが思っているほど甘い話じゃないわ』
『今もここから出ようと何か考えているんだろうが、出たその先はきっとここよりもひどい地獄だぞ。グラーシュ公爵が見逃すならそう言う事だ』
しかし、数か月ぶりに触れた外の新鮮な空気と明るい陽射しが二人の不安を打ち消した。
もう少しの辛抱だ、そうすれば両親の下で自由の身になれる。そんな希望に胸が膨らんだ。
およそ戒律違反を犯した人間の表情とは思えない、晴れやかとも言える顔つきで馬車に乗り込んだ二人を、アンジェリカとパトリシアは複雑な表情で見送った。
「ラシェルもサイラスもミーガンも、呆れる程自分の事しか考えられない人間でしたね」
パトリシアの言葉にアンジェリカが頷いた。
「そうね、誰も子の性別さえ聞かなかったわ」
彼らの抱く甘い希望が打ち砕かれるまで、きっとそう時間はかからない。




