表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

15/65

第九話 念願の推しイベ! ……されど、心は何処に。

読んでくださる皆様のお陰で、気づけば増えているたくさんの評価、ブックマークありがとうございます。

すごく嬉しいです。今日も頑張ります



「えっ、今日、燕尾先輩休みなんですか? 珍しいですね?」


僕は自分が働くカフェの、ふたまわりほど年齢が違う女性の先輩にそう言葉をかけた。


例の大学のサークル紹介の次の日。

僕はバイトのためにカフェを訪れ、燕尾先輩が見当たらなかったことを疑問視すると、先輩は笑顔で答えてくれる。


「そうね~、まぁ〜あの人普段全然休まないから、絶対外せない用事とかなんじゃないかねぇ?」


なるほど、確かに燕尾先輩はしっかりしてそうだし、偏見だけどあんまり休まなそうだな〜。

まぁあの人が休むような理由なんて女性関係だろうけど……これも知らないけど。


……あれ? もしかして僕ってあんまり燕尾先輩のこと知らないか?


……んーーー、まっ、陰キャに相手のプライベートなことを聞くなんて高等技術は無理ですからネ、仕方ない仕方ない。


はぁ……しかし、燕尾先輩が休みだとは困ったなぁ〜。

今日会えると思って聞くことリスト作ってきたのにな〜。


お? そういえば燕尾先輩が休みなら僕の教育担当は誰になるんだ?


「あぁ、そうそう、だから今日は私が教えるわね?」


あら、有難いわね?


「あっ、宜しくお願いします!」


燕尾先輩以外に教わるの少し緊張するけど、まぁなんとかなるでしょう!

今日の僕は、なんたって一味違うからな……!


ふふふふ!

なんと!!! 昨日は笹草さんと、結構長めに通話しちゃってさ……!!!

話の内容は、正直、半分以上なに言ってるか分かんなかったけど……。

いやでも可愛い子と話せるってだけでそんなのもう全部どうでもいいね!!


まぁ、夜も遅かったし、これって、もう恋人の寝落ち通話じゃん!とか勝手に思ってたら、普通に切られたのがちょっとだけ悲しかったけど……。

でも逆の世界で考えたら確かに男の人が寝落ち通話に積極的かって言われたらそうでもないもんな……。

悲しいけど、仕方ないか……。


ふぅ〜。

さてさて。昨日の余韻はこの辺にして。

今日もまた、社会の歯車になってやりますかねぇ〜!




ーーーして、本日。

二回り年上の先輩の教えが、燕尾先輩のそれよりもはるかに分かりにくく、僕が四苦八苦したことは、また、別のお話である―――。







季節は春も中旬。

桜は完全に散り、街が徐々に新緑に染まり始める頃。


陽射しが照りつける熱気溢れる道で、しかし僕の足取りは軽やかに地面を蹴る。


なぜなら今日は、僕にとって……いや、世界にとって記念すべき生命の誕生日だから。


「えっ、もしかして"ツバメさん"すか!? えー!! クソ顔かっこいいじゃん!? 本当に私と同じ女の子、マ!?」

「はは、よく言われるよ、それ。でも僕は"鳥タン塩"さんと同じく、正真正銘の"ミナター女子"だよ」

「ちょ、ちょっと! 私のネットネーム言うのはNG(笑) 犯罪的ですわ(笑)」


そう言って笑いながら僕の肩をぽかぽか叩いてくるSNS上の同性の友人に、僕は軽く謝りつつ微笑み返した。


ーーーそう。

今日は何を隠そう《ワールドリバース》、通称ワーリバのビッグイベントが開催される日!!!


ワーリバは全世界でも人気を誇る女性向けゲームでありながらも、ストーリーの重厚さや展開の新しさ、そしてなによりも登場するキャラクター全てが魅力的な背景と個性を持っていることで、さらに世間での知名度を上げている。

昨今ではテレビにも取り上げられるなどメディアの露出も増え、嬉しいことに新規の人も多く参入してきている。

……まぁ、顔ファンが多いのは古参としては少し思うところがないわけではないが、人気がなければ続かないソシャゲというジャンルにおいては、我々――“供給される側”としては、多少のことには目を瞑る覚悟も必要だからね。


さて、話しを戻すが、このワーリバ。

今年の冬で二周年を迎えるわけだが、なんと運営はこれを記念して前代未聞の試みを打ち出してきた。

その名も"全キャラ誕生日イベントの開催"!


内容としてはその名の通り、前夜祭として、二周年までの間に全てのキャラクターの誕生日にイベントを行うという、これまでのソシャゲ界隈でも類を見ない、狂気のような供給っぷりに、ワーリバ界隈に電撃が走った。


そして、なんとそのイベントの栄えある第一挑戦者が―――全世界において最も可愛く、あざとさと少しの生意気さを併せ持った至高の男の子であるミナトくんなのである!!!!!!!!!


だから僕は、今日の全ての用事をキャンセルして、ここに来た!!!!!!


「てかツバメ氏! マジ早く行かないとグッズ列エグくなるっすよ!? なんせ公式が先着限定ステッカーなんか出すから転売ヤーの輩が群がるかもって噂なんで!」

「全く……!  これだけ人気があるなら転売対策ぐらいしてほしいものだよ……アヤセくん風に言うなら『我々をなんだと思ってるッ!』ってとこかな」

「うわっ、声真似けっこう似てますね!? てかもうマジそれ(笑)」


会場までの道のりで僕と肩を並べて歩くのは、さっき僕の肩をぽかぽか叩いていたSNSの友達の"鳥タン塩"さん。

実際このイベント前に何度か連絡を取り合っていたけれど、実際に会うのはこれが初めて。

……でも不思議なもので、推しが一緒だと距離感が一気に縮まるもので、今や軽口やワーリバのネタで盛り上がっている。


僕は、オタク同士の会話というのは、魔法のようなものだと思っている。

初めて出会ったはずなのに、気づけば何年も前からの友達みたいに笑い合える。

好きなキャラの話をした瞬間に、お互いの言葉が加速し、笑い声と相づちであっという間に時間が溶けていく。


これを魔法と言わずして、なんと言うのだろうか。


SNSだけで繋がっていた鳥タン塩さんと、今こうして肩を並べて歩いているのも、

この“魔法”があったからだと僕は思う。


僕らの間には、血の繋がりも、住んでいる場所も、育った環境も関係ない。

ただ、“同じ作品、同じ人物を好きでいる”という、ただ、それだけ。


好きという気持ちには、理屈も、理由もなんだっていい。


この魔法が解けないうちに、たくさん話して、たくさん笑って、

そして今日という日を――僕たちの“推し”の誕生日を、全力で祝いたい。

だから―――。


「もうそろそろだね! 全力で楽しもうか!」







「「うわ、すっご……!!!!」」


会場までの道なりに沿って歩いていくと、目的地がその頭角を現した。

数階建てのビルの一部がまるで秘密基地のように彩られており、窓ガラスには鮮やかなワーリバのキャラクターたちのイラストが貼られ、入り口には大きく『ワールドリバース二周年記念ポップアップストア』の文字。

そしてその下には、特大サイズのミナトくんのパネルが堂々と飾られ、キラキラと輝く『Happy Birthday』の文字が鮮烈に目を引いた。


「これはまた……僕らはとんでもないものを目にしてしまったようだね……」

「いやいやいやいや!! ツバメ氏なんでそんなに落ち着いてるの!? このポーズ、完全に第二章ビジュ再現じゃん!? いやわかってたけど、これ照明とパネルの角度が完璧に当時の構図意識してるって、ちょっと、ちょっと待って落ち着け私――――! こんなにも可愛いのに、私ごときが見てていいのかほんとに……いやもう無理……ありがとう……ありがとうしか出てこない……!」


ふふ、すごいテンションの上がりようだ。

いやはや、ここまで興奮できるのはすごい……ん? あれ……?


僕はそう口にしながら興奮気味に話す鳥タン塩さんを見ながら微笑ましい顔を浮かべながらも、しかし、心の奥に何かモヤモヤした感情がひっそりと芽生えているのに気づいた。


なんで僕は、これを冷静に見れているのだろうか……?

ここに来る前はもっと高揚していたはずなのに……。

でもどうしてだろう……なんでか前みたいな興奮、っていうのがあまり湧き上がらないというか……。


……?

懸念点だったミナトくんのサークル加入の件については、癪だが先日あの女に任せてなんとかなっただろう?

……それじゃあ、一体何が……?


―――まぁ、いいか。

きっと中に入れば、あのワクワクもまた戻ってくるだろう!

今日は念願のポップアップイベントだ!! 楽しもう!! 心から!!!


僕は深呼吸をひとつしてから、そう自分に言い聞かせて、鳥タン塩さんと一緒に会場の扉をくぐる。


そうしてビルの中に足を踏み入れた瞬間、僕らは思わず息を呑んだ。


「ワオ……」


目の前に広がるのは、ワールドリバース一色の世界。


店内に流れるゲームの冒頭BGMはもちろん、壁一面には歴代のイベントビジュアルがずらりと並べられ、キャラクターたちの等身大パネルのどれもが細部まで丁寧に作り込まれているあたり、公式の本気度が伺える。

いや、フタバの腰に付けた水晶なんて少し光ってないか? それにムッシュ博士なんてこれ身長全く一緒なんじゃないか!?

そして何よりも―――!


「やば……ここ……天国……? え、今までありがとう……。推しって概念を教えてくれてありがとう……。私の人生に咲いてくれてありがとう……」


鳥タン塩さんが、立ち尽くしたままぽつりとつぶやく。

それも当然。


目の前にはミナトくんの等身大のフィギュアが置かれており、その表情、仕草、髪の毛の跳ね具合から服の細部まで、精巧に作られており、なにより少しの……。


「あそこの腹チラえっろ!!!! いや、まぁある程度覚悟はしてたよ? けどこれは反則でしょ……! 腹出すの反則でしょ!?  え、なんで目合ってんの……やば……(小声) 好きが止まらんティウスなんだが(笑)」


その言葉に思わず僕もふっと笑った。

確かに、目の前に広がるこの光景はまさに夢のようだし……。

それは僕にとっても例外ではないはず……なのに。




……それでもどこか、心の奥に引っかかる違和感は消えない。


「……どうかしたんすか、ツバメさん?」


鳥タン塩さんが僕の顔を覗き込むようにして聞いてくる。

けれど、その感情を、僕自身も今は説明ができない……なんだこれは?


「……いや、なんでもないよ。ちょっと圧倒されてるだけだよ」


そう言って僕は、ミナトくんの前で初めて―――笑顔を作った。


いや、全部が全部嘘じゃない……とは思う。

この空間に来れたことは何より嬉しいし、ミナトくんの晴れ姿を見て今でも可愛いと思う感情がないわけじゃない。


……でも、以前のように胸の奥が爆発しそうなあの高揚感はまだ……。


いや、焦らなくてもいいじゃないか。

今はまだ現実感がないからフワフワしているだけなんだろう。

この空間に少しずつ心を委ねていけば必ず熱は戻ってくる。












――本当に?












「……さっ、鳥タン塩さん! まずはステッカー貰いに行こうか!」


僕は、頭の中に浮かんだ不安を振り払うかのように友達にそう提案した。


……きっと疲れているんだろう。昨日はこのイベントのために色々準備していたから。

うん、きっとそうに違いない……!


―――僕は、心に残るわだかまりを感じながらも、それでもこの空間を楽しもうと、少しだけ強く思いながら、歩き出した―――。





ステッカー配布列は、既に長蛇の列となっていた。

スタッフが整列を誘導する声、ファンたちの興奮混じりの話し声、そして遠くから聴こえてくるワーリバのBGM。

そのすべてが、まるで夢の中にいるような熱量で空間を包んでいた。


「うわ、やっぱすごい並んでるっすね……!」


鳥タン塩さんがやや引き気味に言う。

けれど、その目はキラキラと輝いていて、並ぶことさえも「イベントの一部」として楽しんでいるようだった。

そうして僕らが最後尾に並ぶと、必然的に周囲の会話が耳に入ってくる。


「いやお前見た!? え? 見た!?!? あれやばくない!?!? てかさ、わかる!? 俺、昨日の時点でこの衣装来るって予想してたけど、まさか公式がここまで本気出すとは……!!」

「目線も、表情も、細部の装飾も、何一つ妥協がない……。これは間違いなく“作品”だ……」

「もういい、人生で嫌なこと全部チャラになった……推しがいるこの世界、救われてる……!」

「“かわいい”って言葉が失礼になるレベルで美。尊。聖。光。ですわ」


―――ここにはワーリバ、そしてミナトくんを好きになった同士しかいないため、必然的にどの声も、本気で推しを愛している人間たちの“熱”に満ちていた。


そして。


「あれを見て何も感じない奴がいたら、そいつは心をなくしてるわ……」


――その言葉に、思わず僕の胸がぴくりと揺れた。

言葉の刃が鋭く突き刺さったわけではない。

ただ、あまりにも率直で真っ直ぐなその熱が、違和感を抱き続ける僕の胸の奥の何かを静かに揺らしたような……。


……大丈夫、まだ彼らの言葉に共感はできる。

……大丈夫、僕はまだ……。


列に並ぶ同志たちは、今もなおその熱は冷めずに、耐えず推しへの愛を語り続けている。

誰かが口火を切れば、すぐに隣の誰かが頷き、また別の誰かがさらに語り足していく。

熱は連鎖し、波紋のように広がって――この場をひとつの「信仰」の場にすら変えていた。


しかし、それにいくら共感しようとも、どこか遠くから傍観しているような自分もまた存在していて……。


「……まるで水槽のよう……」

「……え? ツバメ氏何か言いました?」

「―――えっ? あ、いや、なんでもないよ。楽しみだね」


僕は思わず零れ出た言葉を笑って誤魔化し、推しの等身大フィギュアの写真を撮り続けている鳥タン塩さんを見て、思う。


目の前にある情景は、かつての自分が涙するほど願っていたもので、どれだけ夢に見ても足りなかった理想の光景。

画面の中でしか見たことのなかったミナトくんが、こうして立体の存在として目の前に現れて、

ファンたちが集い、祝福し、語り合う――その中心に、自分もいるはずだった。


……けれど、そのど真ん中にいるはずの自分の心が、なぜかそれを「少し遠く」から眺めているように感じる。


まるで、自由を楽しむ色とりどりの魚たちを、水槽の外側から眺める人のように……。





―――僕の心は一体何処に……。





そんな感情に支配されたその時。


「あ~~! あ、あのっ、すみません、お客様。今現在残りのステッカーがおひとつのみとなっておりまして―――っ!!」


ポップアップストアのカウンター内で対応していたスタッフの女性がそう口にしながら“特典”――残り一つのミナトくんのバースデー限定ステッカーを僕らに見せてきた。


その言葉に、その場にいた数人が息を呑み、後ろに並んでいたオタクたちの間から「マジか……」と小さな呻き声が漏れる。


当然、僕の隣では、鳥タン塩さんが固まっていた。


「えっ、う、そ……? 最後、って……? あと一人分ってこと……?」


彼女の声はかすかに震えており、スタッフは申し訳なさそうに頭を下げながら頷いた。


「はい……本当に申し訳ありません……ステッカーは数量限定のため、現在の在庫がこちらで最後となっておりまして……」


鳥タン塩さんの視線が、ゆっくりと僕の方へ向けられる。

そこには戸惑いと、困惑と、そして“遠慮”が入り混じっていた。


言葉にせずとも、その瞳が語っていた。


この瞬間のために今日まで準備してきたのだと。

このステッカーを、ずっとずっと楽しみにしていたのだと。


―――しかし、僕も同じ気持ちを持って、ここにいる。






いや、違うか。


同じ気持ちを持っていた……か。






「え、えっと、じゃ、じゃあツバメさん! ここは公平にじゃんけんをーーー」

「ーーーいや、鳥タン塩さんが貰ってくれるかい?」

「最初は……ってえぇ!? いや、それは、ちょっと、なんか……えっ、いいんですか!?」


彼女の言葉に僕が頷くと、彼女は感激しながら、最後のステッカーを手にして、目をキラキラと輝かせた。

彼女が店員から受け取ったステッカーは、想像していたよりもずっと精緻で、美しかった。

ミナトくんの柔らかな笑顔が描かれた、このイベント限定の描き下ろしビジュアル。

その背景には繊細な花々と優しい光をあしらったグラフィックが広がり、見る角度によって虹色に光るホログラム加工が施されている。


鳥タン塩さんは、嬉しさを抑えきれずに、僕の目の前でステッカーを大事そうに広げて見せてきた。

指の腹でそっとなぞるように触れながら、何度も光の加減を変え「ヤバ! ツバメさん、これやばいっすよ、見てください!」と、目を輝かせている。

そしてそれを見て―――。




―――あぁ、やっぱり、と、僕はある種の“確信”を持ってしまった。


(僕は……ミナトくんへの愛が消えてしまったのだろう……)


それを言葉にすることはなかったが。

熱狂と熱狂の間に落ちた、静かな空白。

誰にも気づかれない、わずかに浮いたような孤独。

イベントホールに充満する熱狂の中心で、どこか少しだけ冷めた自分の指先を、そっと握りしめるようにして、僕はその場で少し立ち尽くしてしまった―――。







玄関のドアを閉めた瞬間、ほんの少し遅れて、春の夜の匂いがふわりと背中を撫でた。

花粉を含んだ空気と、昼間の熱気の名残がほんのりと纏わりついていて、僕は思わず小さく息を吐いた。


……疲れたな……。


ただ、誰に言うでもなく、ぽつりと声を漏らしながら、想定していたよりも遥かに軽い荷物をゆっくりと床に下ろす。

バッグの中には、会場で買ったグッズたち――けれど、その袋はまるで今の僕の心のように、所々に隙間が空いていた。


着ていた上着を脱ぎ、脱衣所へと向かう足取りはいつも以上に重かったが、それでも力を振り絞って浴室の扉を開け、浴槽にお湯を溜めるためにボタンを押す。


お湯を張る音だけが響く中、僕は静かに服を脱ぎ、ふと、脱衣所の鏡に映る自分としばし目を合わせた。


頬は少し赤く、目の下にはうっすらと疲れの影。

けれどそれ以上に、どこか“熱を失った”ような瞳が、そこにはあった。


「……はぁ……」


湯気を先取りするように、静かに吐き出された溜息が、鏡に向かって曇りそうなほどに淡く広がった。


何度も見慣れてきたはずの自分の顔。

けれど今日に限って、その顔がほんの少しだけ、他人のように思えた。


「……ミナトくん……」


彼が生まれた時から、彼のあどけない笑顔も、少し生意気そうな声も、綺麗な瞳の煌めきも、どれも知っている。

目を開けた瞬間にスッと描けるくらいには、ずっと見つめてきた、その姿。

一番近くにいて、一番好きな“推し”。


けれど――。


今、その姿を思い浮かべても、胸が高鳴らないどころか、空虚な感情すら感じてしまう。


どうしてなのかは分からない。

何かがあったわけじゃないと思うし、嫌いになったわけでもない。

でも……ふと気づいたら、心の温度がほんの少しだけ下がっていた。


―――それが、たまらなく寂しかった。


ミナトくんが変わったわけじゃないことは何より僕が一番わかっている。

変わってしまったのは――他でもない、自分自身。


(……僕の中から、ミナトくんがいなくなってしまうのか……?)


そう考えた瞬間、胸の奥が締めつけられるような感覚に襲われる。

好きでなくなることが怖い。


でも、それ以上に、自分の中であれほど輝いていたものが、

“いつの間にか”光を失っていたという事実が、どうしようもなく悲しい。


脱衣所の洗面台の中にぽたりと、ひと粒、涙が落ちた―――。


そのときだった。

―――ピコンッ、と小さく鳴った通知音。

反射的に手を伸ばし、バスタオルの隙間からスマホを引き寄せて、ロック画面を開く。


……そこには、見慣れた名前があった。


―――――――――――――――――――――――


―ミナトきゅん


先輩! 今日なんで休んだんですか~! - 20:14

先輩がいないと大変なのでもう休まないでください! - 20:15


―――――――――――――――――――――――


思わず、ふっ……と小さな笑い声が漏れたことに、自分でも驚いて、思わず口元に手を添えた。


……たった二通の短い言葉。

顔文字もなければ特別な演出もない、普通の文章。


それなのに――なぜ、こんなにも胸が躍ってしまうのだろうか。


ゆっくりと顔を上げ、鏡に映る自分と、もう一度目を合わせる。

さっきと同じはずの顔なのに、なぜかほんの少しだけ、目元が柔らかくなっていた。

頬もほんのり赤らんで、瞳にはうっすらと光が戻っていた。



―――なんだ、よかった。



ミナトくんは、そこにいたじゃないか。

消えてしまったんじゃない。

ただ一度だけ、静かに沈んでいただけ。

見えなかったわけじゃなく、少し、遠ざけていただけ。


(……ああ、やっぱり僕はどうしようもなくミナトくんのことが好きなんだ)


自分の心の奥で、小さな確信がそっと芽を吹いた。


そして軽く息を吐き、脱衣所の照明を落とし、浴室のドアを静かに開ける。


既に半分ほどお湯が溜まった浴槽からは湯気がふわりと立ち上り、柔らかな香りが鼻をくすぐる。

先ほどまでの寂しさや苦しみは一切消え、たった二通の言葉で立ち直れてしまう自分のちょろさに思わず笑みが零れる。


「ふふ……次は、ちゃんと行くからね。待っててね―――ミナトくん」


ぽつりとつぶやいたその声は、湯面に揺れて、春の夜に、やさしく溶けていった。



―――――――――――――――――――――――


―ミナトきゅん


20:21 - 全く、君は僕がいないと駄目なんだから

20:21 - ……僕がいるからって気抜かないようにね?


―――――――――――――――――――――――

【応援お願いします!】


「続きはどうなるんだろう?」


「面白かった!」


 など思っていただけたら、下にある☆☆☆☆☆から、作品への応援お願いいたします!


 面白かったら星5つ、つまらなかったら星1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!

 

 ブックマークや感想もいただけると本当にうれしいです。


 何卒よろしくお願いいたします!

 

 更新は"不定期"【AM1時】更新予定です!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
想いが消えていくのを見るのはやっぱり辛いなあ。「今季の嫁」ぐらいの軽さだったらそうでもないのだろうけど。 例えば、死んだ恋人への想い、とかもあるときふと褪せてしまっていることに気づいたりするんだよねえ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ