新しい世界を迎えるには退職から
北欧風のヘヴィメタルには城とか悪魔とか敵とかそういったファンタジックな要素がふんだんに盛り込まれている。
所属している会社の自社ビルを見上げながら、宗弥は退職届を握り締め佇んでいた。耳に差したイヤホンからは大音量で「いざ行かん悪魔が潜む城へ、死者の魂はお前の心を守ることであろう」といった旨の歌詞が歌われている。
いまだにこの社屋を目に前にすると、強制的に動悸が走り、冷や汗が飛び出してくる。
だが、今までやってきたことを思い出しながらポケットの中に入った貝殻を握りしめた。
何も怖いことなどない。もっと強い敵、もっと怖い奴とは戦ってきた。だから、恐れることなどないのだ。
自動ドアから入って宗弥の所属する5Fのフロアまで上がっていく、所属部署である新規開拓事業部のフロアに入っていくと一斉に自分に視線が向くことを感じた。
「おはようございます」
声は自然と出た。この状況においてビビッてはいなかった。
一斉に自分に目が向くのを感じた。今は午前9時30分ですでに遅刻をしている。そういった要素は間違いなくあるだろう。
ただ、問題は恐らく自分が渦中の中心にいるような人間ではないと思われおり、たった1日で会社のホットワード急上昇1位にランクインしたということなのだろう。
宗弥はあらゆる視線を無視して。自分の席に荷物を置いて座ったPCは付けることはしない。当然打刻もしない。覚悟をして、ここにいる。
「ちょっと来い」
課長が鬼のような形相でやってきた。後ろには部長が控えている。
「はい」
宗弥は立ち上がると共に、カバンから封筒を取り出してポケットにしまった。切り札である。
打合せ室に、課長と、部長が目の前に座る。
顔の特徴とか何も頭に入ってこなかった。それと久しぶりに見たこの二人は思った以上に小さく見えた。
「業務用携帯の紛失に、昨日の欠勤。それに今日の無断での遅刻。いったい何を考えているんだ。うちは8時には出社をして8時半から朝礼で、9時には外に出ているというのが原則だったはずだがこの時間になんの申請も無く出社してくるとは何事だ」
「申し訳ございません」
宗弥は反射で喋っていた。
「全くたるんでいる。最近君は昇進をしただろう。おかしいだろう? なんで、昇格させたとたんに弛むんだよ。やって良いことと悪いことがあるだろう」
「まあ、そりゃあ、良くないっすよ」
宗弥は2ターン目にして、すでにまともにやりあう気が無くなってしまった。
「お前もう一回言ってみろよ」
隣に座ってた部長がドスの聞いた声で言った。それで完全に頭に来てしまった。
「あなた方の理屈で言えばそれは良くないですよ。昇進したて、会社の期待を一身に背負ってやってきた人間がある日業務携帯無くして、会社休んで、翌日は無断で遅刻。それは問題ですわ。問題だ。大問題だ。でもね、僕おとといの夜に普通に死にかけてるんですよ。死にかけた人間に何が問題だってあんたらは言うんだい?」
息をのむ声が聞こえた。強面で知られる部長にしても一瞬だけでも引かせることに成功した。
「この会社の柱になるはずだった高木が抜けて、他にもいっぱい辞めてこのチームは格段に弱くなった。どうにもならない中で、僕があがいて必死にやって僕の後ろを守っていければって思ってたけどやればやる分だけ、あんたらはサボって僕に仕事を押し付けるし、下は育ってないからうまく行かない。んで、あんたらがやるべき仕事がどういう訳か僕に回ってくる。僕が今の立場で何人分仕事してると思ってるんだよ。部長は恫喝しかしてこないし、課長は適当なこと言って僕に仕事を押し付けて係長昇進おめでとう!尚昇給は無しだって、舐めてんのかよ。馬鹿かよ」
「馬鹿とはなんだお前!」
部長が立ち上がって机を叩きつけた。お、パワハラか?
「お前じゃないですよ。僕には伊達宗弥って名前があるんだ。そうやってれば何とかなるって思っているんですか? 僕は、結局体を壊したし、心をぶっ壊した。死のうと思ってたら助けてもらえて昨日は休んだ。自分を見直すいいきっかけでしたよ」
宗弥は退職届と書いた、封筒をテーブルの上に置いた。
「辞めます。有給は全部使います。今日も有給扱いにして下さい。自分の命より重いものは無いし、自分の命を軽々しく使う方々に雇われていたくありません」
「お前にそんなことを言う権利があると思ってんのかよ」
と部長。
「ここ、日本なんで基本的な人権は保障されていると思いますが?」
「舐めてんのかテメェ、なんの仕事も出来ねぇ癖に態度だけでかくなりやがって」
「舐めてんのどっちだよ。終電で家に帰ってそれでも仕事をして少しだけ寝て始発で出てきて真夜中まで働いて、土日も毎回働いて僕は実際問題死にかけた。あんたがたに殺されかけた。舐めてんのどっちなんですか? こっちにだって手はある。労基に駆け込んで調査を依頼するなり、未払いの残業代を請求の為に訴訟をするなり、やり方は山ほど思いくわけだ。ついでに言うと、この話だって当然のように録音している。社長はこの会社がホワイトだと信じて疑っていないようだし、思っている手段を一斉に使ったらあなた方の今の職責ってどうなるんでしょうかね? 言っている意味が分かるのなら、携帯電話紛失の始末書を書き、残ってる40日ぐらいある有給を消化し、退職届を受理するのが正しいと思いますけどね? あ、その封筒の中に一式入ってますんで大丈夫ですよ。念のため内容証明でも送った方がよろしいですかね?」
ワインボトルをぶん投げてくる商会の長とか、槍を目の前に突き付けてくる地元住民との交渉は間違いなく宗弥の心を強くしており、パワハラをしてくる上司と組織を抜けるだけの交渉をすることなど難しいことでは無かった。
「……お前を信じた客はどうなる?」
「無理でしょう。本来管理側で分散するものを全部僕に押し付けたんですから、部として分割してください。とはいえ申し訳ない気持ちは無くはないので、どうしてもっていうなら僕の私用携帯の番号は伝えてもらっても構わないですけど、まあそんなことにならなきゃ良いですね」
そう言うだけ言うと、宗弥は立ち上がった。
「もう帰ります。今日は早退という扱いですかね? 有給でも構いませんが」
「とっとと出ていけ」
部長が怨嗟に満ちた顔で睨めつけてきていた。課長はおどおどしていた。
極度にプレッシャーがかかった時の反応というのは怒るか、怯えるかしかない。平常通りに反応出来る人間というのはあまり多くは無い。
宗弥は打合せ室を出ると自分の荷物を取りにデスクへと戻っていく。ついでに自分の私物もいくつかカバンの中に詰め込んでいく。それと同時に、会社から貸与されていたPCなどを机の上に置いていく。付箋でデスクの上に「残りは全部捨てておいてください」とだけ書いて貼り付けて出ていく。
「伊達さん!」
フロアを出たところで大きな声で呼び止められた。
新卒2年目の新井だった。
「辞めちゃうんですか?」
「一身上の都合でね」
「……そうですか…………」
新井は俯いた。多分新井に言いたいことはたくさんあるのだろう。ただ、ここで聞いてあげる訳にもいかないし、こんなところを課長と部長に見られたら新井にも良いことが起こらない。
「誘ってくれたら飲みには行くよ。まだ、君の先輩でいるつもりだから、奢るよ。じゃあな」
「はい」
宗弥は新井の肩を軽く叩くと、会社を後にした。
自社ビルを出たころ全身の力が一挙に抜けていくようだった。駅に向かってしばらく歩いていき駅前のスターバックスに入ってさっき使ったレシートでコーヒーのお代わりを貰う。
そういえばこのスタバも通いすぎて店員に顔を覚えられていたんだっけ。
御山高校の制服に身を包んだエマがいる席に行く。エマはとっくのとうに空になったフラペーチーノの容器を弄びながら外を眺めていた。
「ただいま」
「よお、うまく行ったみたいだな」
宗弥は席に座るなり、テーブルに突っ伏した。気力の限界である。
「よく頑張ったな。あんたにしてはスケールの小さい戦いだったが、死を超えたな」
エマは突っ伏した宗弥の頭をなで始めた。人への対応というよりか獣に対してのなで方だった。
「……コーヒー飲んだらユニクロ行くか?」
「服屋だっけ?」
「そう。というか、制服と下着一式以外何も与えてないってアンバランスさなんなんだよ」
会社は辞めた。
新しい生活の始まりは、まずはエマの服をそろえにユニクロへ行くことから始まるのだった。