第二十六話 意思
みんな嘘だったんだ。
その一つだけの事実が自転車のペダルを動かして進もうとする原動力になっていた。怒りに近かったけど、それとは違う。悲しさとか虚しさとか憎しみとか色々交じり合っていた。そしてほんの僅かだったけど、嬉しさもあったのは僕自身にも理解できないことだった。
何処かへ行きたいわけじゃない。でも何処かへ逃げたかった。
何から逃げるのか。それは……家族から。家族だった他人達から。
目の前がにじむ。
自転車を運転するにあたって視力が落ちるのは自分にとっても他の人にとっても危険極まりない。それでも、自転車の速度だけは上がっていく。
立ちこぎで全速力だった。あまりに視界が曇りすぎて道がどこかさえ見えず、さすがにと、僕は右手で目元を拭った。そのせいで自転車のバランスが左に傾き、気づいた時には既に修正不可能になっていた。
自転車が倒れこむのと、僕が放り出されるのとは、同時だった。
咄嗟に両手で頭を抱え、地面に叩きつけられる。勢いそのままに地面を転がり、止まろうともしなかった。
それはもう激痛だ。でも痛いの一言も出なかった。
「う、うう……」
止めようとする意思がなくても体の回転は勝手に止まってしまう。すぐさま立ち上がるけどふらふらだった。ここは一体何処なんだろう。辺りを見回すと、先程のえも言えない感情のせいか痛みのせいかわからない涙で、確認できない。右手で拭おうとして鋭い痛みが走ったので、代わりに左手で拭った。
「ここは……」
何処をどう走行してきたのかは知らない。目前にあるのは大きな真っ黒の門。見慣れた、あの遊園地の門だった。
ただ一つ違うところはその門を封じていた南京錠が無くなっていることだった。そして代替に使われていたのが子供の力でも取り除けそうな黄色いテープ。ドラマなんかで見た事のある、警察の関係者以外立ち入り禁止のテープだ。
無意識に、罪悪感もなくテープを引き剥がし、門を内側に押した。まさか、簡単に開いた。
中に入って今度は門を閉める。振り返って見渡せば、誰もいない。朝早いからだろうか。それとも現場検証とやらは済んだのだろうか。危険な場所に施錠もなしで、これではなんだか無責任な気がする。
夜のときとは違う風景に、新鮮感を覚えた。
この前と一番違うところと言えば観覧車がないことだけど、光源が太陽か月かの違いもまた大きい。一般的な遊園地と言えば昼のイメージがあるし。
メリーゴーラウンドに向かって歩いていく。日陰があるのはそこだけだった。
目的の場所に着くと当たり前のように馬に座った。座って、何もする事がないと感じた。暇だった。
無意に時間を過ごすことは得意だ。授業中でも、ぼうとしていることも多い。それで先生に注意されることもしばしば。
日常を思い出した。ここ数日、疎遠になっていた。
思えば、まっすぐ家に帰ることを、勉強するのを嫌がったことから始まった。自業自得、にしてはちょっと罰がひどい。遊園地で舞草と夏神の戦闘に巻き込まれ、死に掛けて。助けてもらって、夏神が転校してきて、僕の家にやってきて。護衛だと言われて、みんなで遊んで、それで舞草に襲われて。記憶を取り戻して、過去を取り戻して。
たった数日の間にありえないほどの急変。付いて行けるわけがない。
深呼吸をする。遠くの木々のざわめきが聞こえる。なんて詩的なことを思ってみる。考えたくない事から思考を逸らすため。
それでも、現実に引き戻す鍵は、本人の意思に関係なく駆け付けてくる。
遊園地の門がはずみ良く開かれた。僕でさえ開ける事ができたとは言え、ある程度の重さを持っている門を家のドアみたいに軽く動かす事はできない。
短距離走のオリンピック選手並の速さで駆け寄ってくる人物を、僕は一人しか挙げられない。
長い艶やかな髪を靡かせながら走り、メリーゴーラウンドの周りにある柵をハードルの要領で飛び越える。着地した瞬間にもう一度ジャンプし、僕の真横に到達した。
「誠人君」
体がこそばゆい。名前で呼ばれることにまだ慣れていない。
「夏神……」
前髪をかきあげて、夏神は高い視点から僕を見下ろした。
「一人で出かけるとは、どういうつもりだ」
夏神は無表情で言った。
「別に……」
「死にたいのか。命を狙われているということを忘れるな」
「できれば、忘れたかったのに」
何、と夏神の眉間に少し皺が寄った。でも諦めたかのようにため息をついて、柱に寄りかかった。
「……そうだな。できればな」
ぎょっとして夏神の顔を見詰めた。初めて聞いた後ろ向きな発言。よもやそんなことを言うやつだとはこれぽっちも知らなかった。
「私には誠人君が感じていることを理解できない。それは、普通の人間としておかしいことだろうか」
感じていること。これは、もはや気持ちと言っていいのかさえ判断しかねる。僕自身でさえそうなのだ。事情だけ知っている他人がいたとしても、僕の今の状態が把握できるわけがない。
「それは……違う、かな」
小さく頭を振ってから、僕は言った。
「そうか。私は幼い時から組織に保護され、組織員としての教育を受けて育った。それ故一部一般常識に欠けているところがあったが、それが理由ではないようだな」
何気にさらりと言った。これも初めて聞いた。夏神の過去。
「……」
「……」
夏神に目を向けると彼女は僕の瞳を、睨みつけるでも覗き込むでもなく、ただ見ていた。夏神の瞳は冷たいものではあったけれど、一番彼女の感情が表に出ていると感じた。
また、どきりとする。前は何時だっただろうか。確か僕が“転校生夏神”に初めて出会った、彼女の転校日だった。そして同じく目が合ったときだった。
今の夏神は素の夏神で、転校生の夏神は仮面を被った演技だったはずだ。それでも彼女の瞳は同じ心を移している。どういうことだろう。
見詰め合ったまま、僕と夏神は動かない。
時が止まったって言えばべたな言い方だけど、それが最も正確に言い表せた。僕たちは止まった状態で、その時間の隙間で、僕は頭の中一杯に思考を巡らせた。
思考を邪魔する感覚、聴覚嗅覚味覚触覚が消えた。夏神を見ることだけができた。
真っ白で何もない空間に僕と夏神だけが漂っているかのような気分になって。
僕は気づいた。
僕は今、夏神のことを考えていた。家を飛び出した原因である家族の事なんてさっぱりと忘れてしまっていて、忘れさせられて、夏神のことだけを思っていた。夏神の存在のほうが家族なんかよりも幾倍も強烈だった。
悟って、それで、夏神のことが気になった。もっと知りたくなった。彼女のこと。心が引き寄せられる。
「あのさ……」
自然と自分から口を開いていた。
「何だ」
夏神はゆっくりと瞼を閉じて、開いた時には目線は別方向を向いていた。その瞬間に周りの色彩は元に戻り、僕は木々の葉が擦れ合う音、錆び付いた遊具の臭いを取り戻した。
「夏神の、昔のこと……教えてくれないかな。知りたいんだ君のコト」
そのまま直で言った。
「そう……いいけど」
てっきりいつものごとく、「何故そんなこと知る必要がある」とか言って否定してから結局答えてくれる、当回し返答をするかなと予想していたのに、意表を突かれた。
夏神は柱から離れて僕の隣に来て胡坐で座り込んだ。今度は僕の視点の方が高かくなってしまって、なんだか悪い気がして馬から降りた。僕は座高が残念ながら高めなので座った状態では、横の夏神より僕は大きかった。
「つまらないと思う」
「それでもいいよ」
「……わかった。何から、話そうか……。これといって思い出というのはないのだが……」
「何でもいいからさ」
「それでは、幼い頃から私は組織にいたということは言ったな。私は小さい時に親を亡くして孤児院にいた。親の顔も覚えていないし、悲しさも何もなかったが」
どこかを遠目で見ながら言う夏神の横顔は、話している内容とは対照的に楽しそうだった。僕がそう思っているだけで、夏神の表情はほとんど無表情だった。
「その孤児院は組織の経営下にあって、能力のあった私は五歳で組織側に引き渡された。それからは組織員になるための訓練三昧の日々だ。内容は詳しくは洩らせないが、訓練教官は厳しかったよ」
夏神は苦笑した。
「それから数年経って、十分に訓練期間を終えて、初めてチームを組まされた。その時の上官が舞草。コードネームは海藤玄馬だった。ほとんどの任務を海藤と一緒にこなした。時には必要悪を行使する事もあった。その内にいつの間にか、師弟関係のようなものが生まれてな。私は、もしいたら兄とはこういうものなのか、と思ったものだ」
舞草と夏神の関係。ペネロペさんに怒りを露にした夏神の姿を思い出しても、その間には計り知れないほどに深いものがあったのだろう。それに、必要悪。言いまわしているけどそれは多分、人を傷付けたり、……殺したりしたこと。僕は改めて夏神の暗い面を見た。
「他にはだな……海藤がある日私にプレゼントをくれたんだ。他人から物を貰うなんて経験のないことだったから戸惑ってね。爆弾でも入ってるんじゃないかって、そしてそれの解体訓練だと思って爆弾解体ツールを取り出して、海藤に大爆笑されたよ。しかもそのプレゼントは熊のぬいぐるみで、テディーベアというんだったったか、とにかく私に不釣合いなものだったんだよ。変だろう?」
「……いや。いいんじゃないかな。可愛い女の子には似合うと思うよ」
「……」
僕は正直に思ったことを言った。夏神は少し顔を俯かせて、横目で僕を見た。
「ありがとう。誠人君で二人目だ、そう言ってくれたのは」
夏神はほんのわずかに口元を綻ばせた。僕が言った通りに可愛くて、目を逸らせなかった。
「今度は私にも聞かせてくれないか、誠人君のこと」
「え……? あ、うん」
まさか僕に夏神が訊いてくるとは想像してなかった。僕はちょっと躊躇って、昔の家族を、今の家族も、両方の思い出を探った。
「じゃあ、話すけど……」
僕は嬉しかった。夏神が訊いてくれて。
何故かって問われたら、僕は彼女に、実は、一目惚れしていたようだから。
●
朝礼の時刻はとうに過ぎ、一時間目の授業が行われていた。
生徒は静かで、先生が黒板に書いていく内容をノートに書き留めることに必死で、チョークと黒板のぶつかる、かっかっ、という音だけが教室内に反響していた。
その教室で、雀部健太郎は落ち着きなく手の上でシャーペンを回しながら、空いた三席を気にしていた。
友人である左座誠人、雀部が恋愛アタックを試みている夏神紫杏、そして先日同じ事件に巻き込まれた明日喜万里。
左座と夏神は大丈夫だろうと彼は思っている。左座は長く友である故に信じ、夏神は精神力の強さを先日まざまざと見せ付けられた故に心配はしていない。
気がかりなのは明日喜だ。事件の後のファミレスで不審なことを呟いていた上、見た目や雰囲気からでは精神心的に強い人間には見えなかった。雀部は彼女と同じように非日常を垣間見たにもかかわらず、彼らを思いやる心の余裕を持っていた。
(無事ならいいんだが……)
●
「ぐがッ!」
男は前蹴りの直撃を受け、吹っ飛ばされて壁に叩きつけられた。その衝撃で男は気絶し、壁にもたれかかりながら、ずるずると地面に倒れこんだ。
そこはとある邸宅の、テニスコートほどはありそうな庭だった。芝は丁寧に刈り込まれ、スプリンクラーも設置され、石畳は大理石である。
しかし、見渡せば男女多数の人が庭の至る所に倒れ伏していた。全員相当な手だれで、中には能力者も含まれているのだが、それでも手が出ないほどの相手にやられてしまっていた。
その場に唯一立っている男、スーツをカジュアルに着こなしているその男は、舞草だった。
舞草は周辺に敵が潜んでいないことを確認すると、邸宅のドアの前に歩み寄り、能力で鍵を破壊した。手でドアを慎重に開き、罠がないかと気を張る。玄関には靴が一足だけあった。
土足のままで家の中を歩き回り、彼女を探す。様々な部屋を物色しながら、ついに一階のリビングへと忍び込んだ。
そこには後ろ向きの彼女がいた。手には数十センチほどの刃渡りの鉈が、全く似つかわしくなく、握られている。彼女は舞草が来ることを知っていたようだ。ぴくりと感じた彼女は振り返る。
「む」
「わぁぁああああああ!!」
彼女は鉈を上に振りかぶって、舞草に向けて突撃した。瞳には憤怒の色。目には涙。歯を食いしばり、攻撃範囲内に入った舞草に鉈を振り下ろす。
予想外の出来事に舞草は数歩下がりながら能力を振るった。鉈が、柄の部分を残して、消滅する。彼女の腕の動きは止められず、完全に空へ振り下ろした。彼女は驚愕して立ち止まり、刃が消えている事に気づき、闇雲に残った柄を投げつけた。舞草は能力を使うこともなく片手で弾き飛ばす。その隙に舞草の懐へ入り込んだ彼女は拳を舞草に向けて叩きつける。
が、その前に舞草によって手首を握られ、合気によりうつ伏せに床に叩きつけられた。
「ぐっ!」
即座に、腕に関節技をきめられて身動きがとれなくなる。彼女はどうしようもない不甲斐なさを感じ、血が出るほど唇を噛んだ。
「うっ……」
「さて、一緒に来てもらおうか、明日喜万里」
不定期とはいえ一ヶ月以上書き込みなしですみません。
おかげでお気に入りしていただいた方も一人いなくなってしまったようですし……。
受験生ゆえに更新が遅くなるかもしれませんが完結まで見守ってやってください。