第二十五話 登校、拒否。
朝だ。
カーテンで差し込もうとした日光が遮られ、淡く弱弱しい光だけが入ってくる。大抵この時間には聞こえてくるはずの鳥の囀りは何故か一切しない。
あんな事実を伝えられた後だから、普通なら一睡もできなくて当然のはずだ。でも僕は昨晩はぐっすり熟睡してしまった上、今朝の寝起きがとても良い。一年に一度あるかわからないほどに体調が良好だった。
起床の予定時刻を告げる目覚まし時計を、鳴る前に予約を解除しておく。
これでやることは終わった。あとは勇気を出して、リビングに下りていくだけ。
でも、これができない。何だか嫌だ。僕は布団を抱きしめて顔をその中に埋める。
しばらくして何時もの時間を過ぎてしまえば、父さんが僕を起こしにやって来る。その前には覚悟を決めるつもり……。つもり、じゃあ多分無理だろう。意思が希薄で惰弱だと自覚している僕には、何もしようとしない自分が容易に想像がつく。
僕は動けなかった。
部屋のドアを誰かがノックする。来た。
「誠人。もう時間だぞ、起きてきなさい」
「……」
うん、と首を動かした。
「おい。返事をしなさい。……入るぞ」
ガチャリとドアが開く音がしても僕は布団から顔を上げられなかった。
「熟睡中か? それならその布団を奪ってしまえばいいな」
布団が掴まれて上に持ち上げられる。けど必死で僕はしがみ付いた。
「おい、本当は起きてるだろう」
「……」
もう一度首を縦に動かした。
「頷いてるのか、それは」
父さんは呆れたように言う。すると、先ほどとは比べ物にならない力が加えられ、布団が剥ぎ取られて僕は床に転げ落ちた。
「……気分が悪いのか?」
「……」
うつぶせに倒れたまま、首を小さく横に振った。
「それならどうしたんだ。もういい。早く仕度をしなさい」
父さんはドアを開けっ放しにしたまま、僕の部屋からどすどすと足音を立てて去った。さすがにこの状態になっては寝ているわけにもいかない。両手をついて起き上がり、寝巻きを脱いで制服に着替える。
そして机の上に置いていたお守り、ではなくて賢者の石を手にとって……見つめた。ペネロペさんの話を思い返す。僕の記憶を思い出す。どう考えても、これが、あの人たちの形見なんだ。
一度瞼を閉じ、数十秒間両手でそれを僕の全握力をもって握り締める。目を開けてからそれをポケットの中に放り入れた。放り入れて、やっぱり思い直して、アクセサリーみたいだし首から掛けることにした。
一歩廊下へ出てみる。
昨日まで当たり前だった光景が今では余所余所しい気がする。
更に一歩進むと床が、ぎしっ、と音を立てた。ここは床が脆くなっているようで昔から変な音が出る。知っているのに、おかしい。何がどうおかしいのか言葉にできないけど、何かが違う。
廊下を歩いて、階段に差し掛かる。こんなに急勾配だったっけ? 踏み外して落ちたら絶対に怪我する。
階段をより慎重に下りれば、もうそこはリビングだ。夏神、父さん、母さん、妹。全員揃っている。
ただ、夏神に視線を送ると不意に逸らされた。表情は優等生のままで、でも心なしか不機嫌そうだ。その理由は僕にはわかるけど、今の僕には面と向かって見ることができる相手は君しかいないんだよ。
一つ開けられた椅子に僕は腰掛ける。今日は夏神の隣に母さんがいて、僕の右隣には妹、左隣には父さんがいる。幸運な事に対面に座っているのは夏神だった。
「気分、悪いの?」
母さんが心配そうに僕に尋ねる。
「……いや……」
捻り出した声のほとんどは吐き出した息だった。
「……それならいいけど」
今日は和食だったので箸を持っていただきますの挨拶をして、ご飯を一口食べた。鮭の塩焼きを食べやすいように箸でほぐす。
いや、そうじゃない。このままでは何の気なく朝が過ぎて行ってしまう。言いたいこと、言うべきことを心に抱えて僕は今日を過ごそうっていうのか。そんなことできるのか。していいのか。
鮭を一旦ご飯の上に置いて、一息ついてからご飯ごと口に入れる。よく咀嚼して飲み込む。口を動かしながらリビングを見渡した。
父さんは僕より早くご飯を食べ終わって、ソファに座って新聞を広げていた。
制服に着替えていた妹はゆっくりと朝食を食べている。もう三日目とは言っても妹はまだ夏神がいる事に緊張しているようだ。
母さんは自分自身と父さんの食べた皿を片付けようとしていた。
それらの様子を目に留めて、僕は茶碗の上に箸を置いた。かちゃん、と優しく鳴った。
まるでその綺麗な高音を合図にしたのかのように、一瞬だけこの家から生活音が消え去った。ほんの僅かな間ではあるけれど、時間が止まって別世界に転移したかのようだった。
「今日は……学校に行かない」
別世界が無意識に行動させていた。誰がしゃべったのか、すぐには把握できなかった。
「何だって?」
父さんが僕に対して聞き返してくる。ああそうか。これは僕が発した言葉だったんだと、遅れて気づいた。
「今日は学校に行かない」
今度は意識的に同じことを言った。
「やっぱり体調が悪いのか?」
「そうじゃないよ」
父さんと母さんが本当の両親じゃないなら、二人は僕が本当の子でない事を知っていないはずがない。ペネロペさんが隠していたように、二人も隠しているんだ。
「質問があるんだ」
「言ってみなさい」
父さんは新聞紙を折りたたんでテーブルに置いて僕を見据えた。
「僕の、両親について何だけど」
皿が割れる音が響き渡り、その音が家中に吸収されてしまうまで誰もぴくりとも動けなかった。
「……そうか、知ってしまったんだな。それとも……思い出したのか」
父さんがソファから立ち上がって夏神の隣に再び腰掛ける。
「ど、どうしたの……?」
妹は状況が呑み込めず、一人あたふたとしていた。キッチンの方を見れば、母さんが皿を持っていたときと同じ姿勢で硬直している。妹はただならぬものを感じてか母さんに駆け寄った。
「お母さん、大丈夫……?」
「……ええ」
茫然自失した母さんを妹は気遣って、ソファまで肩を貸して運んだ。僕と父さん、夏神をそれぞれ一瞥して、
「わ、私は学校に、行ってくるね……」
と言って学校指定鞄を手にとってリビングを出て行こうと、早足で玄関に向かう。
「待ちなさい」
間髪いれずに父さんは妹を背にしたまま言って、その場に引きとめた。
「だって、その……そうだ、夏神さんも一緒に学校へ……」
「お前も家族の一員として聞いておく必要がある」
常日頃は威厳がなく頼りなかったはずの父さんが、皆を圧倒する気迫を持ってそこに佇んでいた。
「質問とは、お前の出生についてのことだな」
僕は気圧されそうになるのを堪えて、
「うん」
「それに質問と言うよりは、確認だな?」
全て、お見通しのようだ。呼吸を整えてから、僕は答える。
「うん。……父さんと母さんは…………僕の本当の親じゃないんだよね」
三人とも微動だにしなかった。ただ、妹だけはばね仕掛けのように首を動かして僕を凝視した。
「そうだ」
数拍の間をおいて、ついに父さんが返答してしまった。
「え?」
妹が信じられないという顔で父さんに目線を移す。同時に手に持っていた鞄を床に落としてしまった。
「やっぱり、隠してたんだね」
何も知らない妹には悪いと思うけど僕は話を進める。
「……すまない」
きっぱりと父さんに謝られた。
「どうして、教えてくれなかったんだよ。それともまだ早いって思ってたのか」
つい僕の口調は強くなってしまう。
「そうではない。できるならお前に知られる事なくその事は墓場まで持っていくつもりだった」
「何でだよ!」
思いっきりテーブルを殴りつけ、椅子を倒しながら立ち上がる。
だけど父さんは僕の言ったことをまるで聞き流したように無視し、後ろを振り返った。
「愛奈。母さんを連れて二階に上がっていなさい」
「何無視してんだよッ!!」
「五月蝿いッ!」
続けてもっと言おうとしけど僕は父さんの怒鳴りに押し留められた。父さんの方が僕より真に迫っている気がした。
「だ、だって……私……」
「つべこべ言わずに母さんを二階に連れて行け!」
肩をビクリと震わせて、妹は声を出さずに泣き出してしまった。それでも父さんの命令を忠実に守り、母さんを連れて二階に上がっていった。
「そ、そこまで言うことないだろ……」
父さんが向き直る。
「母さんは心が弱いんだ。これ以上負担させるわけにはいかない。それに、ここからの話を愛奈に聞かせるわけにもいかない」
目が据わっていた。相手を、僕を殺すことも厭わないほどの覚悟かそこから滲み出していた。
「夏神さんはここに居たいのなら構わない。ペネロペから全て聞いている」
「……あんたも組織員なのか」
「ああ」
夏神の問いに隠す素振りもなく父さんは、いや、この男は答えた。反射的に殴りかかりそうになるからだを寸前で我慢させる。
「十年前に引退したが」
「……ちゃんと話してくれ」
僕は男に詳細を求めた。
「わかった」
男は了承する。そして瞬きを三回した。
「私と母さんは組織に居た頃から夫婦だった。組織内では、コードネームイグナティ、お前の生みの親は私たちの友人だったよ。私たちは子供を欲していたが、残念ながら母さんが子供を授かりにくい体質だった。子供ができたら組織を辞めるつもりだったのにそうはできなかった。その時だ、ペネロペが私たちに接触してきたのは」
ごくり、と僕は唾を飲み込んだ。
「ペネロペは私たちに頼み事をしてきた。誠人、お前を養子に向かい入れてほしいという頼みだった。友人の子とは言え、子供の欲しかった私たちには願ってもないことだ。ペネロペは更にこう言った、『私ではこの子を守る力がないし、もし任務で私が死んでしまってはどうしようもない。イグナティが私との約束は、この子供をあなた達に預ける事。それと、この子供に何も知らせない事。記憶をなくさせる事。あなた達にこの子を渡すのはイグナティの願い。代わりにこの子供を幸せに一生を過ごさせることができるから。イグナティはあなた達を親友だと認めていたから、信じて託したの』と。それから私たちは自分の人生全てをお前に注ぐつもりで、組織を辞め、普通の家庭を持ったんだ」
ペネロペさんが語らなかったことをこの男が知っている。嘘だとは思えなかった。
「妹は……?」
「元々、私たちは子供が二人欲しかったんだ」
「妹も養子……?」
「そうだ」
なんてことだ。この家族は、誰一人として血が繋がっていなかった。
「それは、どうして言わないんだよ」
「……愛奈はお前ほど成長していない。今伝えれば、最悪の場合、立ち直れ――」
「そんなのは、あんたらの勝手だよッ!!」
胸の奥から言いたい事が押し寄せて、止められない。
「真実を知らずに生きてくなんて、死んでしまうよりも惨めと思えないのか!」
「……」
「知ったら辛いさ! 僕だって泣きたくて堪らない! でもそれが何故だかわかる!?」
男は身動き一つせずに僕の言うことをただ聞いている。
「それはね、親が親じゃないってわかると一緒に、自分が赤の他人に哀れまれてたってわかっちゃうからだよ!」
駆け出した。玄関の棚の上に置いてあった自転車の鍵を手に取り、乱暴に靴を履く。家から飛び出して、自転車に飛び乗って、僕は通学方向と間逆に自転車を進めた。
「誠人君!」
私が後を追おうとすると、誠人君の父親が右手を掴んだ。
「一人にしてやってくれないか?」
何を馬鹿な事を。彼が命を狙われているという事を忘れているのではないか。
「私は彼の護衛ですから」
手を振り払う。リビングの窓から誠人君が学校と反対方向に駆けて行ったのを見ていたが、学校に行かないとすると何処に向かうか想像がつかない。直ぐに追わなければ見失ってしまう。理由は不明だが、今朝は、いるはずの護衛部隊隊員がいないことを確認しているため、さらに追わないわけにはいかない。
「わけは本当にそれだけかい?」
父親が謎の質問をしてくる。私はそれを不快に感じた。
「……ええ」
「そうなのか。私ではあいつを追ってやれない。頼んだよ……」
私は玄関で靴を履き、
「……あなたは無責任ですね」
と、冷たく吐き捨てて、外へ。