第十一話 登校する、二人で。
「ん……」
僕は寝ている。寝ているつもりなんだけど、実際は目を閉じているだけなので起きていると言った方が正しい。
今朝はやけに早く目が覚めてしまった。目覚ましが鳴るまで布団の中にいようとしてはみたものの、一度完全に覚醒すると再び寝付けない体なのだった。なので本当に低血圧なのかどうかわからないのが正直なところ。自分で勝手に思っているだけ、かもしれない。
まぶたを持ち上げてみる。
カーテン越しに朝日が入ってきて明るい。夏が近づいてきているからだろう、近頃日が昇るのが早くなっている。
「ふう」
目覚まし時計を手にとって時間を確認する。なんだ、後五分で鳴るところじゃないか。さっき見たときは後一時間あるとか思ってたけど朝は時間の流れが早いな……。
目覚ましのスイッチを切り、思い切って布団を蹴り飛ばした。足を使ってベッドから降りる。
いつもみたいに這いずってではなく、ベッドより抜け出してからドアまで歩いて行くなんて久しぶりだ。でもこれが普通なのか。
廊下に出て階段を下りる。するとそこには……
「おはよう、左座君」
にっこりと天使のような笑顔を振りまく、何処からどう見ても地上に降り立った天使――つまり転校生夏神紫杏がテーブルにあるパンを取るのを止めて僕に挨拶した。
「お、はよう……」
僕は懸命に返す。
テーブルまで近づくと既に座って新聞を読んでいた父さんの横の椅子に腰掛けた。この位置だとちょうど夏神の目の前に位置することになるけど、まさか隣に座るわけにもいかない。なるべく目線を合わせないようにして自分の分のパンを取った。
変化って急に訪れるものなのかなぁ。
別に昨晩のことだけを思い出しているわけではない。朝食が格段においしくなっていたり、父さんがトイレでなくテーブルで新聞を読んでいたり……妹がもう起きて朝食を食べていたり、とか。しかもそれが妙に隔てがましい雰囲気を作っていたりだとか。
夏神は制服に着替えていて、朝食が食べ終わればいつでも出発可能状態だった。
「はあ……」
「おい。朝っぱらからため息か。何か嫌なことでもあったか?」
あからさまに父さんの口調が、いやぁこんな美人さんが家に来てくれるなんてこれ以上の幸せはないだろ、的なものだった。
そりゃそうだ。普通だったら、ね……。
できれば夢であってほしかった。あ、やっぱり夢オチかー、というエンドだったらどれだけましだったろう。
ため息を合間合間に混ぜながら朝食を食べ終わり、二階の自分の部屋へと戻る。
どんなことがあろうと学校は休ませてはくれない。親も理由もなしに休ませるはずがない。
クローゼットから制服を取り出して着替え、途中でやっぱりため息がでて、机の上においてあった鞄を見やった。
あの中にはお守りが入っている。さすがの事態に効力もきかなくなったのだろうか。ってか元々お守りって持っている人の気分で効果がかわるよな。持ち主がいい気分だと効果が絶大に感じるし、どん底だとただの邪魔なものだと感じる。
カッターシャツのボタンを留め、ズボンを穿き、チャックを閉め、ベルトを締め、襟を調節し、そして上着は暑いからいらない、というわけにもいかない。
薄い鞄を持って、時計を見るといつもの登校時刻より二十分ほど早いことに気付く。別にいいや、もう行こう。
一階に下り、玄関へと足早に向かう。
「もう準備が済んだから、行ってきます」
「お、おお、そうか。いってらっしゃい」
「いってらっしゃい」
「……」
早起きの妹は返事については相変わらず、だった。これで終われば日常の一コマなのだが、
「私も行きます」
ここには夏神がいる。
夏神と共に玄関を出て僕は愛車のシティサイクルの鍵を開け、夏神のほうを見ると……表情が変わって、あ、変わってないや。二人だけだし昨日の夜のような表情になると予想していた。
「あの、左座君」
「な、なんでしょうか」
「その……自転車一緒に乗ってもいいかしら?」
これはこれは願ってもない頼みだ、普通なら、ね。
「……どうして?」
「昨日、ここに来る道中で思ったんです。歩いて通うには多少、遠いなって」
「でも、二人乗りは校則違反というか……」
「先生たちが見張ってないところまででいいので……お願いします」
くっ、この夏神を見ていると昨夜の夏神はまったくの別人ではないかと思い始めてきた。絶妙な上目遣いを駆使してくる……くそっ!
「わかったよ。いいよ、別に」
「ありがとう」
朗らかな笑顔。たとえ彼女が社会の裏に住む組織の一員であったとしても、この笑顔を持ち合わせている相手に男子は抵抗できない。
んんん。本当にあの夏神なのか? 実は昨夜の出来事はすべて夢であったりして。
自転車に跨ると、後ろの荷台に夏神が座って両手を僕の腹部に回してきた。
「ううわっ」
「……? どうしたの、いきましょう?」
わざとだ、絶対わざと、故意にやっていやがる、そうでなければ今現在の僕は精神的にも心拍数的にも耐え切れずに死んでしまう!
「りょ、うか、い」
二人分の重さが加わると一人のときより明らかにペダルを漕ぐ力が要る。体力はある方ではないのでしんどい。
しばらく進んだ後にある上り坂なんて死ぬ思いで足に力を入れ、額から汗が湧き出すほど。汗の粒は頬を伝って顎先から落ちる。
「ぜぃぜぃ……あのさっ」
上り坂が終わって下り坂になり、スピードが乗ってきたところで僕は夏神に聞いてみた。
「何?」
「昨日のことって夢じゃ、ないよね?」
「そうだけれど何か」
あっさりと……おっしゃいました。一片の望みだったのに即座に叩き折られてしまった。
「いや、特に何もないです」
「嘘」
「え?」
「訊きたいことが山ほどあるんでしょう?」
「……今、いいのか?」
「だめです」
「……」
久しぶりに他人に対してあきらめの感情を抱きました。
僕は下り坂が終わってしまっても、得たスピードをうまく活かしながらできるだけ速く学校へと向かった。