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どこかで見たことがあるかもしれない読者の迷言集

作者: 富屋 要

【ア】

「悪意の解釈するな」

 自信満々で書いた批判や意見が全く評価されず、それどころか反論でボコボコにされたことで人格まで否定されたと、被害妄想でキレた読者が使いやすい。特に、優等な自分が正しい道を指導してやっているのだから、劣等の作者は有り難く従うべきだと、根拠のない差別思想を持つ読者に多い感。

 期待した方向での解釈がされなかったと言うなら、書いた意見はどういう意図を持ったものなのか、改めて説明すれば良い。

 しかしこの手の読者はそれをせず、説明するだけ無駄だと作者の人格を否定する罵詈雑言を並べ、だから作者は劣等だ、そう言える自分は優等だ、だから自分は正しいのだと、どこへ向かおうとしているのか不明な主張に走る場合がほとんど。

 無論、優等・劣等という単語を直に使わず、「話が通じないのは作者が発達障害だからだ、人格障害だからだ」などの非定型発達者に置き換えて保身を図るのが常。しかしそういう生得のものが差別の理由にはならないことまでは思考が到っていない。

「~してあげているのに」「~してやったのに」と上から目線の物言いが特長。


「揚げ足取るな」

 書いた批判の間違いを指摘された時、読者が思いつく反論の筆頭だろう。

 あらゆる反論・指摘・批判に拒絶のカウンターを入れる言葉。「それ間違い。小学生の教科書ではこう書いていますよ」「揚げ足取るな」

 同時にそれは、『間違い』や『デタラメ』であることを決して認めず、『批判』で押し通したい読者の不退転の意思の表れでもある。

 ちなみに「上げ足」と誤字を書く人もいる。「字が違いますよ」「揚げ足取るな」


「あの人もこう言っている」

 ここでいう『あの人』とは、作家やマンガ家、評論家や俳優や芸人に実業家、プロスポーツ選手といった著名人、または他の業種で地位と収入と名声を得ている人達のこと。

 そういう人物達のプロ視点や心構え、著書で語る人生観などの名言を持ち出して、「だから正しい。正しいから作者もそうすべきだ」と『べき』論を振り回すのがこの手の読者の主張。創作物キャラの名言を持ち出す読者も多い。

 権威を持ち出した詭弁の一種なのだが、そうと自覚できる読者ならこんな言い方はしない。

 いきなりどこかの誰かの名言を持ち出して、その心構えや精神論が正しいからそうするべきだとやられても、それはそう思った本人がやれば良いだけのことだと、理解している読者は少ない。

 しかも持ち出した読者本人が、その名言にならった行動を取ることはない。


「嫌なら見るなは通じない」

 タグや前書きで注意喚起されていながら本文を読みに行き、案の定不愉快な思いをしたらコメントで抗議をして、「嫌なら見るな」と返された時に読者が持ち出してくる迷言。作者の活動報告まで読みに行って、そこの内容にまで抗議をする粘着質な読者も多い。

 嫌いなジャンルの作品と、そのような作品を書く作者をサイトから追い出すことが目的なので、妥協点を探る会話は成立しないと考えておくのが無難。大抵は書き逃げ用の捨てアカウントを使ってくるので、ログインユーザーのみの書き込み許可にしておくのは有効かもしれない。

 この手の読者は二枚舌の持ち主が多く、二次創作のアンチ・ヘイト物を書く作者に対して「嫌なら(原作は)見るな」を平然とやるのは良く見かける光景。


「ウィキペディアは素人が編集した百科事典だから信用できない」

 これを正論だと押し出してくる読者自身、自分も素人だと自覚していることはほとんどない。つまりは読者の『正論』自体、素人の言い分なのだから信用できないと言っているも同然なのに、そのように返すと腹を立てる。

 少なくともウィキペディアでは出典元を書いているので、出典を辿ることができるのに対し、読者の意見は大抵が脳内データベース頼りなので、検証することはできない。さて、どちらが情報元として信用できるだろうか? こう問うと、「信用しないのか!」とまた腹を立てるのが読者。



【カ】

「学校の教科書が常に正しいとは限らない」

 この言い分の裏付けに出してくる例として、鎌倉幕府をあげつらう読者は多い。かつての鎌倉幕府は「いいくに(1192)」年とされていたが、最近の学校教科書では「いいはこ(1185)」年と修正されている。

 これにかこつけて、「今は間違えているかもしれないけれど、将来自分の言い分が正しいと評される時が来るかもしれない。だからお前は間違えている」と謎理論を展開する読者は存外に多い。

 しかし問題にしているのは『現在』の学校教科書の内容で「間違っている」こと。自分が間違えたと認めないための方便として、この一文を使っているのがほとんど。

 言うまでもなく、この手の読者の暴論を検索しても、裏付ける学説がヒットすることはまずない。なので「未来には自分の説が正しいとされるかもしれない」という未来は来ないと考えて良い。


「勝手に決めつけるな」

 書かれた感想や批判から、読者の思想や思考を推察した作者の評価が、当人に不本意なものであった時の拒絶に使われる。あるいは読者本人の説明能力の低さから本意が伝わっていない場合もあるが、いずれにせよ、非は作者にあるのだと責任転嫁しているのは変わらない。

「悪意の解釈するな」「そんなこと一言も書いてない」と同様、自分に都合の良い誉め言葉と好意的な評価しか求めていない読者の本音が透けて見える定型文の一つ。


「考える力はてめえよりも上だ」

 考える力の前に「論理的に」「まともに」「常識的に」などの修飾語が付くことの方が多いかもしれない。

 小中学生の教科書レベルで間違いを指摘された時などの、現実の学力の低さを暴かれた読者が、作者よりも上位の人間だとマウントを取りたい場合に使う一文。

 教科書の内容なのだから知っていれば良いだけ、知らないなら調べれば良いだけ。特に考える力なんて必要ないのに、知らない・調べないところへ前提知識なしで切り札『考える力』を持ち出して、当人が信じたいほどに能力が高ければ良かったのだが、現実は厳しく教科書のレベルで間違えて、それを指摘されての逆ギレの言葉がこれ。

 完全に自爆なのに、作者が悪いと逆恨みするところもまた、自慢の『考える力』の性能の低さを物語っている。だが本人が気づくことはない。

 どこに作者よりも『上』と主張できる根拠があるのか、はなはだ謎の主張。仮に作者より上だと証明できても、学力はおそらく世間一般の同年代の平均値にも未達だろうことには、当然気づいていない。

 ゆとり世代を疑いたくなるが、ほとんどはその上の世代だったりする。


「感想を書くのは読者の権利。批判を受け入れるのは作者の義務」

 中学生社会科で自由権と社会権を学習しなかった疑惑が浮かぶ読者の、おそらくは犯罪行為。最大限好意的に受け取っても無知無教養である証言。

 感想にしろ批判にしろ、自分の意見を公表するのは読者の言論の『自由』で、権利ではない。だから、作者に拒絶されようが批判返しされようが無視されようが、全ての結果は読者の『責任』。主張できる『権利』があるとすれば、せいぜい書いた感想の著作権程度。

 当然ながら作者に作品への責任はあっても、読者への『義務』などない。

 加えて作者からすれば、作品と人格を質に、ありもしない義務を押し付けて従わせようとされたのだから、刑法第二百二十三条の強要罪を訴えても良さそうなもの。適用される可能性は低いだろうけれど、そんな日がいつか来ることを密かに期待している。


「曲解するな」

 自分の説明能力の低さを、作者の理解能力の低さにあると責任転嫁する言い逃れ。

 それでいて、どう読めばそういう解釈になるのか分からない読み取り方でも、自分を好意的に持ち上げてもらえれば、訂正する手間を厭う無責任な読者が使う傾向がある。

 使い所が「悪意の解釈するな」と同じなので、根拠のない差別主義者とタッグを組む機会が多い。

 二つの言葉を分けているのはあくまで経験則を元にしたものであり、ひょっとしたら、無責任な差別主義者が区別なく両方を使っている可能性もある。


「現実の常識が、異世界でも通じるとは限らない」

 脳内妄想の創作世界は沢山あるけれど、こことは違う世界って一つでも観測されていたっけ? と、物語の世界が創作であることを知らないのか、現実と虚構の区別がつかないのか、つい疑問が頭をもたげてしまう主張。

 物語の世界の法則や設定を定めるのは作者の役割。生命が自然発生しようが、糞尿を畑にまいて収穫が倍増しようが、炭素の出所が不明なのに魔法の炎が酸素を燃やして二酸化炭素を生成しようが、ロックやモンテスキューが存在しなかっただろう世界がナンチャッテ民主主義社会になっていようが、「そういう設定だから」で全てが解決する。

 それに納得できない読者が持ち出すのが「常識的に考えて」なのだが、本人にとっての常識が現実では間違いの時も少なくないので、やはり虚実の区別がつかないのではないかと、また心配に。

 しかも「常識的に考えて」で間違いを指摘された時の反論で持ち出すのがこの主張で、両方を自分に都合良く使い分ける読者は多い。


「この単語の意味は、このような解釈で使っている」

 正しい意味を知らずに使って、誤用を指摘された時に使われる言い訳の一つ。この『単語』のリストとして『責任』『自由』『権利』『義務』、小説家になろうでは余り見かけないけれど『二次創作』などがある。

 この単語はこういう解釈で使っているので、書いた内容は間違えていない。間違いだと主張するなら、解釈が正しいという前提で間違いを指摘しろ。がこの手の読者の使う方便。

「学校の教科書が常に正しいとは限らない」「時代が変われば、言葉の意味も変わる」と合わせて、まともな意見に見せかけようとする場合があるので、騙されないようにする注意が必要。

 仮に間違いを指摘しようとしても、いつまた途中でオレ様解釈を持ち出すか知れたものでないので、会話は成立しないと考えて良い。



【サ】

「作者とこいつの書く主人公の人格って、あの人よりもクズだし外道なんだよな」

 ここでの『あの人』とは、商業作品に登場する敵役や踏み台役で、読者・視聴者のヘイトを集めるために作られた、人格面に難のあるキャラを指す。そういう創作キャラの生い立ちや過去の出来事で培われた人格の設定よりも、作者の人格が劣るという詭弁。

 また比較対象に持ち出される例に、商業作品の架空キャラだけでなく、「ブラック企業のブラック上司」のような、読者が妄想で作り上げた人物や、固有名詞を出すのは控えるものの、人格に何らかの障害があると診断された殺人事件の被疑者などの場合もあるので、この迷言に含んでおきたい。

 人格の優劣を決めようというのが暴論なのに、それ以前の話として、実在する作者と創作物のキャラの人格を比較しようとする時点で、その理屈は破綻している。

 しかしこの手の読者は虚実の区別がつかない上に、人格に優劣の序列があると考える差別主義者が多いので、難癖やイチャモンレベルの暴論だとの自覚を持つことはない。

 お気に入りの商業キャラの言動に疑問を呈したり批判したりしようものなら、「アンチだ、ヘイトだ、侮辱だ、許さん」と騒ぎ出し、作者の人格否定を指摘しても「事実だから名誉棄損ではない」が出てくるのは、この手の読者に多い感。

 当人達は虚実の区別はつけられると主張するだろうけれど、到底そうとは見えない発言が目立つので、精神科か心療内科の専門家へ早急に相談することをお勧めしたい。


「作者の自己責任だ、そんなの」

 ああすべき、こうすべき、正しい○○○物とはと、べき論と特定ジャンルに関して一家言ある読者が、「じゃあその通りに書いて評価が下がったり、つまらなくなったりしたりしたらどうするつもりだ」と尋ね返された時に振りかざす主張。あくまで自分は批判や意見を述べただけで、取るべき責任は何一つない、という保身目的で使われる。

 しかし、某女子プロレスラーがコメントでの誹謗中傷で自殺した事件から分かるように、発言しておきながら責任はないという理屈は通らない。

 万が一そのような事件に発展した時は、コメントを削除してさっさと逃亡するのが、正しい責任の取り方だと言い張るのかどうかは不明。確実なのは、自分も便乗してそういうコメントを書きましたと、警察に報告する読者は皆無であること。


「作者は自分より頭の良いキャラは書けない」

 天才設定のキャラなのに、作中での行動から設定倒れの能力しか見せられなかった時に、その粗に気づけた読者が自分の知能や知性の高さを自慢し、作者の低能を嘲笑するために使われる。

 これも実在する作者と創作キャラとの虚実の区別がつかない読者の一例。キャラは作品の『一部』であり、一つの『個』ではないと理解できないから、この迷言のような誤解をしやすい。

 天才キャラを書いた作者が、知能検査その他でそのキャラの設定より「頭が良い」なんてことは、まずあり得ないだろう。商業作品でも天才設定のキャラは多く存在するし、その天才ぶりが発揮されるのは、そのように『演出』されているから。

 演出が失敗しているのであれば、改善策と合わせて指摘することで、批判として参考にできる。しかし虚実の区別をつけられずに作者の知能を嘲笑する方向に行く時点で、読者の能力が伺える。

 返すならば「読者は実際の自分より頭の良い批判は書けない」


「事実だから名誉棄損ではない」

 名誉棄損の代わりに『侮辱』『誹謗中傷』の言葉が入る場合がある。どのケースであれ、作者への人格攻撃は「そういう人格なのは事実」だから、事実であれば侮辱罪や名誉棄損には問われない、という主張であることに変わりはない。

 ただしこの主張が通用するのは、本来、公共の福祉に沿うことが前提にあるので、攻撃された人物が主に『公人』である場合に限られる。作者は『私人』でプライバシー権が優先されるので、適用の範囲外になると理解できないのがこの手の読者。

 しかも公人であっても、事実だと証明できない・事実と反する証明がされた場合、公共の福祉に反するとして、侮辱罪や名誉棄損が成立する場合もある。それも読者は知らない。

 世代により差はあるものの、概ね中学生か高校生が、社会科か道徳で学習する内容。


「時代が変われば、言葉の意味も変わる」

 熟語や格言の誤用、い抜き言葉、ら抜き言葉の間違いを指摘された時に、正当性を主張したい読者が使う場合が多い。

 時代の変遷で言葉の意味が変わるのは同意だが、何世紀も前の古文や、おそらく読者が期待しているような形で来ないだろう未来の言葉の話はしていない。2020年代の現代日本の言葉を語っているのだから、論点が異なっているのを理解してほしい。


「自分の正論や常識を批判されると言い訳や屁理屈を並べて、しまいには被害者面して駄々をこねる作者なんて見苦しくて腹が立つから、惨たらしく絶望しながらくたばってくれねえかな」

 作者が自分なりの思想や思考を持ち、意見することを良しとしない読者が、存在から否定して死亡を望むヘイトスピーチの一つ。

 学校や職場で毎日顔を突き合わせるのでなく、フィクションのネット小説でのコメント欄や掲示板ぐらいでしか接点のない作者に対し、思想・思考・人格を理由に殺意を抱いたり、死を望んだりする読者は意外に多い。特定の思想や思考を持つ読者にも向けられる場合もある。

 ヘイト発言の表現は色々あれ、反論する作者は人格ある人間と認めず、執筆専用の奴隷よりも下の、呼吸して生きて存在することすら許せないという本音は、この手の読者が持つありがちなもの。

 サイトの運営なり管理者に報告し、対処を依頼することを推奨する。実際にこの迷言の元となった発言を管理者に報告したところ、一時間程で削除してもらえた。


「主人公の人格がクズすぎて感情移入できない」

 作品が合わなかったんだろ、だったらさっさとブラウザ閉じて次の作品探したら? で済む話なのを、なぜかグチグチと垂れ流して誰かに慰めてほしい「かまってちゃん」読者の文句。

 RPGやアドベンチャーゲームのやりすぎ、マンガ・ラノベの読みすぎで、自分の感性に近いか人格の薄い主人公がデフォルトになってしまった一種の思考膠着、多分。ひょっとしたら、その手の非常に幅の狭い作品しか見たことがないのかもしれない。

 世間では『主人公』に感情移入できなくても、『ストーリー』に没入させる創作物の方が多いのは、改めて指摘するまでもない。


「常識的に考えて」

 創作物世界の設定や人物の言動に対し、批判する時の枕に用いられることが多い。この一文を添えることで、自身の批判に正当性の重みが増すと、考えている節がある。

 創作のフィクション作品なのだから、「常識的に考えて」おかしなところがあるのは別段不思議ではない。むしろ当然だろう。「そういう世界観」や「演出」が気に入らないのであれば、読むのを止めるか、その部分を変えた作品を自分で書けば良い。

 そもそもフィクションであることが気に入らないのであれば、ノンフィクションに移ることをお勧めする。

 類義語に「現実的に考えて」がある。

 対義語のような関係に「現実の常識が、異世界で通用するとは限らない」があり、この二つを都合良く使い分けることで、常に正しい批判を書いていると優越感に浸っている読者は多い。


「承認欲求にそんなに飢えているのか」

 承認欲求を語る発言は他にも色々とあるけれど、そのどれもが、作者の「評価されたい」という欲求を侮蔑・嘲笑する内容。人格批判・人格否定をしていると読者が自覚することはなく、注意を促しても作者の信者扱いし、一緒くたに叩いてくる傾向が強い。

「現実で承認欲求を満たされないから、ネット小説を書いて逃避している」のような、ネット作者全員を侮辱する発言も見かける。

 人格否定している時点で許せる発言でないのだが、加えて、このような書き込みをしている読者の学力の低さも露呈している。

 承認欲求はマズローの『欲求五段階説』で出てくる用語で、人格成長の四段階目とされており、否定や嘲笑されるものではない。逃避はフロイトの『防衛機制』で使われる用語で、読者の妄言にある「現実で満たされない欲求をネット小説で」が本当なら、これは『逃避』ではなく『昇華』とされるもの。自分で作品を書くこともせず、ひたすらに批判を騙り罵詈雑言を並べる読者の行為の方が、よっぽど『逃避』であろう。

 マズローとフロイト、どちらも高校生倫理で学習する内容。


「知らないなら調べてから書け」

 このような批判をした読者が最も苦痛を感じ、大した性能でもない『考える力』に縋りついてでも、何をおいても絶対に回避したい行為が、「調べる」こと。

 字面だけを見れば正論なのだが、このような批判をする読者が、知らないからと調べることも、感想を書く際の情報の裏付けや知識の確認で調べることもない。

 それで間違いを指摘されても、「揚げ足取るな」との併用で正当性を譲らずに済むので、この二つの言葉の相性は非常に良い。

 この言葉を実行できる読者がいれば、この迷言集の過半数はなかったかもしれない。


「住み分けは大事」

 ゲイ物、ヤオイ物、レズ物、TS物等のLGBTに嫌悪と否定しかない読者を筆頭に、発達障害や人格障害を人間として下に見たい差別主義者らが、その類の作品と作者と当事者らの隔離、または排除を正当化するためのスローガンに用いる場合がある。

 作品の傾向や嗜好の違いは人それぞれなので、好き嫌いがあるのは仕方ない。

 しかしこの手の差別主義者らは、ジャンル分け・タグ付けされているにもかかわらず、嫌いな傾向の作品をわざわざ読みに来る。そして検索除外できない・タグ付けが不十分と難癖を並べては、「読まされた」と被害者意識満々で、精神的苦痛を受けたから「だから隔離だ。住み分けだ。出ていけ」とやるので、防ぐ手段のないのが実情。

 本来は「お互い深く追求することはせず、好きなジャンルの作品を楽しみましょう」というもののはずなのに、差別を肯定するために使われることがあるので、この発言をする人物には注意が必要。


「性格クズな主人公をカッケーと思っている作者と、それを評価する読者の思考が理解できない」

 ランキング入りしている作品を読んで出てくる文句。評価されているのは『主人公の人格』ではなく『ストーリー』で、だからポイントが付いているのだ、と理解できない読者に多い傾向。

 さらに必要なのは、作者・読者の思考・嗜好への理解ではなく『そういうもの』と受け入れる柔軟さ。それができずに人格否定に走った時点で、世代格差に不満を吐くだけの老害を疑いたくなる。

 まずは評価ポイントを見て、自分の意見がどれだけ少数派なのか自覚するところから勧めたい。多数派だから正しいとは言っていない、念のため。


「正々堂々と全てのコメントに返答しろ」

 一部の感想にしか対応しない作者に対し、作品のネタバレに繋がる質問をして、返事をしてもらなかったDQN読者が腹を立てて使う場合が多い。

 ただでさえ『複数の読者対一人の作者』という構図で作者を袋叩きにしているのだから、正々堂々は成り立たなそうなのだが……。

 この言葉を使う読者に言わせると、別の感想や質問を書く読者とはツルんでないので、これは『一読者対作者』の、正々堂々のタイマンなのだそう。不特定の読者に喧嘩を売った作者の自己責任、作者が悪いということになるらしい。


「そんなことは一言も書いてない」

 自分の説明能力の低さを、作者の理解能力の低さに責任転嫁する言い逃れの一つ。

 書かれていない部分を予測し補填した――行間あるいは空気を読んだ――作者の解釈が自分にとり不都合だった場合、その解釈を根本から否定する時に使われる。

 使い所は「曲解するな」と同じ。違いとしては、「曲解するな」の説明能力の低さは、遠回しな比喩や誤字誤用で意味が通じなくなっているのに対し、こちらの説明能力の低さは、説明不足で読み手側に通じてないこと。



【タ】

「ダブスタ」

 ダブルスタンダードの略。二律規範。あらかじめ前提条件を付けることで、相反する行動を正当化するという、本来は肯定的な意味の用語。

 昼間のデモ行為は言論の自由として認められるが、夜間のデモ行為は公共の福祉に反する騒音として取り締まられるというのは、ダブルスタンダードの例として高校生の現代社会で学習した人も多いだろう。

 しかしながらネット界隈では、正論で批判しているつもりの読者ですら、「行動が矛盾している」という点だけを取り上げて、嘲笑と侮蔑の対象として誤用している場合が多い。


「単語は正しい意味で使え」

 誤字誤用を見かけると一言言わずにいられない読者の言葉。

 言っていることは正しいのだけれど、いざ自分が誤用を指摘されると「この単語の意味は、このような解釈で使っている」とオレ様定義を振りかざす読者は、意外というか当然のように多い。


「知識をひけらかしやがって」

 前述の「知らないなら調べてから書け」の実践を拒絶していることを裏付ける一文。経験則では、単に間違えていると指摘すると、出てきやすい。義務教育の範囲で間違えていると指摘すると、「考える力はてめえより上だ」に変わる傾向がある。

 似たような意味で「知ったかぶりやがって」もある。

 いずれにせよ、調べて書けと言っておきながら、実践できるほどに身に着いていない自分に非があるのだと、読者が認める日は決して来ない。


「読者の感想も合わせて作品だ」

 自分の書いた感想も作品の一部だと認めさせることで、作品評価のおこぼれに預かりたい読者の、隠そうとして失敗している本音。


「どんな批判でも受け入れるべき」

 批判に反論されたくない読者の予防線。



【ハ】

「パクリだパクリ」

 作品の設定や構成が似ているからと、過去に読んだ作品の模倣だと批判――この場合は罵倒、侮辱が目的――する際に使われる言葉。

 Aという作品を読んだ時に、Bという作品が思い浮かぶ程度では、翻案(元となる作品を書き改め、別の作品とする行為)とは判断しない。これは『ぼくのスカート』事件の判決にて明確にされている。

 パクリを連呼したいのであれば、もっと強い根拠の提示を目指してほしい。

 類義語に「はいテンプレテンプレ」がある。


「反面教師にしよう」

 作品ではなく、作者を見限る時に使われることのある絶縁の一言。しかし名前も顔も知らない読者から言われたところで、別に困ることがある訳でない。本人は自分がさも重要人物だと思い込んでいるようだが。

 しかも作者を反面教師にするということは、その読者はこれまでと何も変わらない生き方をするという宣言でしかない。つまり、知らない・調べないで済ませ、考える力でも義務教育の内容で間違えて、それを指摘されたら「考える力はてめえより上だ」と自分の『考える力』にしがみついて、何度も何度も間違いを指摘されたら「反面教師にすれば良い」と謎の言葉を残して去る。

 これまでそうして生きてきたし、そういう生き方を続ける、ということなのだろう。


「批判されたら常識や法律、現実を持ち出して自分を正当化するなんて。見苦しい」

 常識・法律・現実での正しさに興味なんてないし、たとえそこに間違いがあったとしても指摘・反論・議論は一切受け付けない、肯定か賞賛する以外は黙っていろ、という読者の遠回しな宣言。

 それでも批判を返されようものなら、潔く批判を受け入れることなどせず、作者の人格を攻撃してでも、見苦しく自分を正当化しようとするのは言うまでもない。


「批判するなは通じない」

『批判禁止』『批判しないで下さい』のタグに抗議したり、罵倒を批判と言い張ったりする読者の言い分。「公共のネットに作品を掲載するのだから」の一文を頭に付ける場合もある。

 言い分自体は正しいのだが、読者本人は間違いの指摘や反論で『批判』返しされることには酷く敏感。「批判するなは通じない」と主張している手前、「揚げ足取るな」で自分の間違いを認めずに済ませようとするのが特長。


「表現の自由の意味を理解していない」

 コメント返しで『表現の自由』を持ち出す作者に対し、意味を理解せずに使っていると主張する時に使われる。

「表現の自由だからと、読者を不快にさせる作品を書いて公開して良い訳ではない。そういう倫理観を持って作品を書くことが、本当の表現の自由だ」みたいなのが、読者側の『表現の自由』の意味らしい。

 全然違う。

 本来、表現の自由には二つの意味がある。自分達の住む地域や国の代表を選ぶ際に、情報と意見を自由に交わす『自己統治』。自分の意見(作品)を公開し、批判に晒されることで人格を成長させ、理想の自分に近づける『自己実現』。

 高校生までに学習する内容ではないので知らなくても仕方ないかもしれないけれど、検索すればすぐ知れる知識。

 知らず調べず、適当なオレ様定義を振りかざし、表現の自由の意味を理解していないのは一体どちらやら。


「ブーメラン」

 投げたら戻ってくるブーメランのように、主人公の言動が踏み台キャラと同じだと、なぜかキャラではなく作者を嘲笑する時に使われる。「ブーメランブーメラン」と続けて使われる場合も多い。

 しかしその批判や指摘が、書いた読者本人にも当てはまる場合は多い。自分に返ってきてぶっ刺さっていると自覚できる読者はかなり少ない。


「ブラック企業のブラック上司と同じ思想と思考だ」

 作者からの反論や批判を許さず、批判通りに作品を書き換えるのが当たり前と考える読者が、言論封じに用いる人格否定の一つ。ここでは「ブラック企業のブラック上司」を例に挙げたが、人格に何らかの異常の確認された殺人事件の被疑者、創作物の悪役キャラなどが替わりに使われることもある。

 書籍化や同人誌を出しているのでもない限り、作者は学業外・勤務外の自由になる時間を削って無給で作品を書いているもの。

 そこへああだこうだと批判しては、読者にとっての勝手な「正しい」を押し付け、それに従わなければ批判に聞く耳を持たないと否定するくせに、だったら言う通りの作品でも書けば給金でも出すのかと思えばそれもしない。ついでに言ってしまえばポイントを入れることもない。

 その読者の態度こそが「ブラック企業のブラック上司の思想と思考」を体現しているのだが、当人が気づくことは決してないし、それどころか本人の自己評価は「良識を持って常識的な考え方のできる、社会経験を積んだ立派な大人の、真っ当な意見」なのだから、世からモラハラ・パワハラが消えないのにも納得しかない。


「無礼に無礼で返すのは常識だ」

 感想コメントで乱暴な言葉遣いをして、たしなめられた時に出てきやすい言葉。

 社会経験のない学生ならともかく、社会人を自称する読者がこの発言をする場合があり、社員教育もロクにしていないブラック企業勤めの疑惑を、抱かずにはいられない。

 ビジネスにしろ他の人間関係の場にしろ、無礼に無礼で返すのは非常識と評されるものだし、『無礼に無礼で返すのは畜生にも劣る所業だ』と思ってほしい。


「ポイント乞食め」

 作品や連載物なら各話の後書きに「評価ポイントください」と書く作者への侮蔑。面白い作品を見つけた時には感動が萎えてしまうので、言いたい気持ちは分からないでもない。

 しかしポイント乞食を止めたらもらえるのかと問えば、そんなことはない。上げるも下げるも取り上げるも読者の気分次第。ポイントを餌に自分好みの作品を書かせたいシブチンが、唯一の切り札を手放すとの期待はしないが吉。



【マ】

「間違いだってんなら間違いの根拠を出してみろ」

 ニセ科学、陰謀論、マルチ商法や新興宗教の従事者やハマった信者もこの主張をするので、可能な限り接触は避けたい読者の類。自分ならどうにかしてやれるかもしれない、という余計なお節介は火傷の元。

 科学的にも法学的にも、本来は「自分が正しい」という根拠を先に出し、証明責任を果たすのが筋。しかしこの言葉を使う読者自ら証明を出さずにいるのは、出された根拠を幾らでも否定できるから。「根拠として薄弱」「自分が言っているのはそういうことじゃない」「悪意の解釈するな」等々。

「正しいという証明をするのが先だ」とやっても、「難癖付けるな」「イチャモンつけるな」「言いがかりするな」と会話を成立させようとしないので、労力だけが積み重なるだけ。

 既に述べているように、触らないのが吉。


「もう読むことはありません。さようなら」

 途中から面白さがなくなった、飽きた、ムカつくようになったなど、様々な理由で作品を読むのを止めた読者が、最後にコメントで残していく断絶の言葉。

「反面教師にしよう」の時と同様、書いた読者は自分が作者、あるいは作品にとって重要な人物だという、的外れな自意識過剰感が拭えない。

 異なるのは、「反面教師にしよう」では、読者と作者との間にコメントを通して何度か会話があるのに対し、こちらは初めての感想です、で始まる場合もあること。

 礼儀だというならそんな挨拶はいらないし、嫌味のつもりなら「だから何? お気に入り登録者数が一つ減るだけでしょ?」という話でしかない。



【ラ】

「リアルチラシの裏にでも書いていろ」

 嫌いなジャンルの作品や、コメント欄のやり取りで嫌悪感を抱いた読者が、作品諸共に作者をサイトから追い出す目的で使う罵倒。

 排斥が目的なので、「住み分けは大事」を主張する差別主義者らも「さもなければリアチラシの裏にでも書いていろ」とコンボで用いる場合がある。

 しかし昨今のチラシは両面印刷が主流なので、裏が白紙のものは見かけなくなっている。多様性が重視されるようになってきている現在、他者を排斥することで、ありもしない自分の優位性を示せると誤解している読者も、同様に見かけなくなるよう期待したい。


「良作を書く作者は批判を受け入れている」

 批判を受け入れない作者がどれだけ成長の機会を逃した愚物なのかと、人格批判から思想・思考の否定までと散々ムチを入れてから、目の前に垂らすアメの一言。初歩の洗脳。

 商業化した作者の「厳しい批判もありましたけれど、皆さんの応援のおかげで」みたいな、おそらくは社交辞令を真に受けて、批判を受け入れた作者だから商業化まで行ったのだ、と信じ込んだ読者もひょっとしたらいるかもしれない。

 あたかも批判を受け入れたから良作になったかのような印象を持たせるが、良作は批判される前から良作なもの。誰からも見向きもされない作品が批判されて、大逆転して良作になった、なんてことはない。

 指摘するまでもないことに、「どのような批判」をされて、「作中でどのように反映」したら、結果「PVや感想数などの目に見える数字に表れたか」なんて統計を取っている読者は存在しない。それでも批判を受け入れてから良くなったと言うなら、それは作者の執筆奴隷化が進んだと誉めているのと同義なので、信じるには値しない。


「良薬は口に苦し」

 効果のある薬は苦いというたとえから、「厳しい批判こそが作者の成長の糧になる」という読者の主張の一つ。

 しかし本名も年齢も性別も分からないほぼ初対面の、しかも医者の看板を掲げるどころか素人を公言している通りすがりの差し出す代物が、効果のあるものだと無条件で信用されて当然と、どうして考えられるのかはおそらく永遠の謎。

 このような疑問を持つことすら許さないのが、この言葉を持ち出す読者の姿勢。言うまでもないことに、批判返しされると途端にこの言葉を忘れるのが読者というもの。

 近年は苦くない飲みやすい薬も色々と開発されているのを見習って、いい加減、前時代的な「苦い批判」ではなく「飲み込みやすい批判」を考える努力ぐらいはしてほしい。







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