序論 カナドメ ミヤコとその事件(2)
「はぁ? 履歴書持ってないの? 持ってくるだろ、常識的に考えて」
「へあ」
ついつい気の抜けた返事をしてしまう。なぜなら状況を飲み込めていないからだ。
なぜ目前に髭の男がいるのか、なぜ怒られているのか、なぜ履歴書が必要なのか。カナドメは一つも理解できていない。
横浜の閑静な住宅街に並ぶ、無個性な二階建ての一軒家。靴を履き替えることもなくリビングに案内され、叶に誘導されるがまま中央の白っぽいソファに座った。
しばらくして二階から全身黒づくめの髭の男が現れ、今に至る。
「で、何しに来たんだ」
男はソファの対面に座り、肘をつきながら指を組んで叶に問う。その視線はなかなかに鋭く、カナドメは嫌な汗が噴き出ているのを感じた。
叶は顔見知りなのか、それともただ単に図太いだけなのか全く動じていない。
「言ったじゃん、面白いやつ連れてくるって」
「こいつ履歴書持ってないって言ってるぞ」
「履歴書いらないでしょ、こんなおんぼろ事務所」
カナドメの想像はどちらも正解だったようだ。
それにしても叶の不躾さは本当に群を抜いている。こういう図々しいやつのことを心臓に毛が生えているなんて表現するが、こと叶に関してはは心臓が毛でできているレベルだ。
そんなことを思いながらぼーっと虚空を眺めていると、どこからか音が聞こえてくる。
カラカラ、カラカラ。
――何の音だ?
音のした方、ダイニングから姿を現したのは車いすの女性。
片手で車輪を回し、もう片方の手で丸いお盆持っている。その上には真っ白いティーカップ。
オレンジがかったショートヘア―は美しく手入れされており、ベージュのジャンプスーツに真っ白いバレーシューズを履いて、オレンジと白の柄スカーフを巻いている。
まるで外国の女性のようだ。
だが彼女の容姿でまず一番に目を引くのは別の部分だ。
カナドメは振りむき、背後に立っている叶に視線を合わせて説明を求めた。
「イマチさんは盲目なの」
白い包帯がまかれた目元をトントンと触る。盲目だからと言って包帯を巻くのかと疑問に思ったが、彼は言葉を飲み込んだ。
「ミルクティーはお好きですか?」
首をかしげて尋ねる。
「は、はい! お好きです!」
彼女の優しい声にたじろぐカナドメ。
仕方のないことだ。彼は女性に対する耐性が非常に低い。
なぜなら童貞だから。
しかし彼は思っていた。自分は童貞を脱したとしても女性にはたじろぐと。
ゆっくりとカップを傾け、ミルクティーを少しずつ流し込む。
「うっま!」
口に入れた瞬間フローラルな香りが鼻を抜け、紅茶独特のさわやかな味が舌をなぞる。高級感という言葉が似合う上品な紅茶だ。
カナドメの舌がその繊細な魅力を本当にとらえられているかは別であるが。
「よかった」
腕の前で手を合わせ、にっこりと笑うイマチ。
目元が隠れていても美しさが伝わってくる。
「またにやにやしてー。イマチさん、こいつイマチさんのこと狙ってますよ!」
「おい、誤解を招きそうな発言は控えろ」
「誤解? 真実でしょ?」
「あら嬉しい。光栄です」
「ほらみろ叶。これが大人の余裕だ、見習えガキンチョ」
「私の方が年上だぞ」
「二日な」
「年上は年上だ。先輩を敬……いったぁ!」
「うるせぇ」
いつの間にか後ろに回り込んでいた髭の男が叶の頭をひっぱたき、首根っこをつかんでいる。
このご時世に女性に対して容赦ない暴力、恐ろしい人だ。
グイっと叶を自分の方に向けた男は、冷たい表情と怒気を孕んだ口調で彼女に言った。
「こっちは仕事中なんだ、冷やかしなら帰れ」
それでも彼女は余裕の表情を崩さない。カナドメの方を指さし、髭の男に言葉を返す。
「だから面白いやつ連れて来たんだって」
「いらん。俺がいつ求人広告を出した」
「あれ? 三百六十五日出してると思ってた」
「今年は閏年だ。残念だが今日は残りの一日でな、帰れ」
今年は閏年でも何でもないが、とてもそんなことを突っ込める雰囲気ではない。青年にそんな勇気もない。言葉遊びの類であることも理解していた。
「まあまあ、話だけでも聞いたらどうですか。みんな出払っちゃっててどうせ暇なんだし」
そんな二人を見て居待が言葉をはさむ。
――皆? ほかにもメンバーがいるのか?
いたところで何のメンバーなのか、彼には見当もつかない。不愛想な髭オヤジに盲目の車いす女性、イメージできるとしたら特殊な強盗団か何かだろうか。
「そーだよ。ちゃんと依頼も持って来たんだから」
「金は払うんだろうな」
「もちろん! あ、でも友達料金でお願いしまーす」
「はぁ……」
深いため息とともにソファに座りなおした男はこちらに向かって顔を上げ、じーっとカナドメの顔を見つめてから、再びため息をついた。
「はぁ……、小塚 大志だ。ここ、信頼探偵事務所の社長をしている。こっちの車いすが副社長の川澄 居待」
「よろしくお願いします」
「信頼探偵事務所……。胡散臭いな」
「ああ? シンライだぞ? どこが胡散臭いんだよ」
信頼って露骨にアピールしてるところですかね、とはさすがに言えずだんまりを決め込む。
カナドメは完全にビビっていた。ビビっていても本音がポロっと出てしまうのは彼の長所であり、致命的な短所でもある。
「俺が名乗ったんだ。お前も名乗れ」
――なぜこう横暴なのだろうか。お名前は? とだけ聞いてくれれば誰も嫌な気持ちにならずに済むのに。
彼を除いて。
「えーっと、カナドメ ミヤコって言います」
「わー、かわいいお名前!」
居待は優しく微笑みながら、ぱちぱちと手をたたく。悪意はないのだろうが、かわいい名前と言われて喜ぶ男はそう多くない。
当然、彼もその一人だ。
「漢字は? ねぇ、漢字はどうやって書くんだっけ」
話を聞いていた叶が意地の悪い笑顔で質問を投げかける。
――こいつのこういう部分はほんっとうに性が悪い。
「京都の京でカナドメ、で、えっとー……京都の京でミヤコって言います……」
小塚は目をぱちくりさせ、イマチは口元に手をもっていき驚きのジェスチャーを見せたが、特に騒いだりはせず冷静に話を続ける。
「京 京か。就活とかにはよさそうだな。どうせなら京に都でカナドメ ミヤコでもよかったが」
「そうそう。覚えやすくていい名前よ。私だって変わった名前だし、何もおかしなことはないわ」
「えー、この名前をもってして就活全敗なのが受けるでしょ」
叶はなおも煽り続けるが、彼らはあまり乗ってこない。
「ニートまっしぐらのお前よりはましだ」
「ちぇー、つまんなーい」
――ああ、素晴らしい。これが大人の対応だよ、やっぱ社会人は違うよ。
ミヤコは物心ついたころから自分の名前を嫌っていた。同級生に笑われる、教師が名前を読めなくて変な空気になる、そんなことは日常茶飯事。
彼にとって何よりつらかったのは、親の戯れ心が明確に目に見えてしまっていることだった。
中学時代自分の名前の由来を親に聞いてくるという課題が出た。もやもやとした嫌な気持ちとともに帰宅し、母親に由来を尋ねてみた。
「京って漢字の読みの中から選んだのよ。苗字も名前も京って面白いでしょ」
ミヤコはその課題を提出しなかった。国語教師も何かを感じ取っていたのか、深く追求はしてこなかった。
「で、依頼ってのはなんだ」
小塚はもうミヤコには興味を失ったのか、再び叶と話し出した。
――そうか、ここは探偵事務所なのか。……叶って探偵に依頼するような立派な悩み持ってるのか?
彼女は肩にかけていたポシェットから一枚の写真を取り出した。
そこに映っていたのは金髪マッシュのチャラそうな男と、ミディアムヘアーに内巻きカーブをかけた尻の軽そうな女。実に大学生らしい、いけ好かないカップルである。
――この写真を燃やせばいいのだろうか。それなら僕にもできる。
彼のみじめな嫉妬心が囂々と燃え、過激な思考をあぶりだした。
「なんだ? こいつらの殺害か?」
悲しいかな、小塚の思考も同じようなものである。
「ちーがいますよ。この男の子の浮気調査を依頼したいわけでして」
「クロ。以上だ」
――僕もそう思います。
ミヤコはそう言いかけたが、ギリギリのところで口を紡いだ。すぐボロを出すが基本的には空気の読める男なのだ。すぐにボロを出すが。
叶は実に嫌そうな表情を作り、腕を組んで不服感をあらわにしている。
「あのね、そんなつまんない話ならここまで持ってくるわけないでしょう?」
「カナドメの名前の話はつまらなかったぞ」
――そういう言い方されるとそれはそれで傷ついちゃう。なぜならミヤコ君繊細だから!
「カナドメの面白い部分はそれだけじゃないから。まあそれは置いといて、ほらこれ」
彼女は再びポシェットに手を伸ばし、小さなジッパーバッグを取り出した。中にはさらさらした白い粉が入っている。ミヤコは嫌な予感を感じていた。
「正直私にはなんだかわからないけど、ヤバイやつだと思うんだよねぇ」
「覚せい剤……とか?」
ミヤコの問いかけに叶は首を傾げるが、かもねと口をパクパクさせた。
――マジかよ……。
クスリは何処にでもあるってよく聴くが、ここまで身近で出てくると恐怖を感じる。この辺のクラブは行かないようにしよう。
そう心に誓ったミヤコだったが、そもそもクラブに縁がないので関係ない。
小塚は彼女から小袋をサッと奪い取り、振ったり揺らしたりしながら中の粉を眺めている。
「居待」
「はいはい」
小塚は袋を開け、それを居待に手渡す。彼女は手をパタパタさせてにおいをかいでいる。
――それ大丈夫なの? ドラッグかもしれないんでしょ? アンモニアの要領でいいの?
ミヤコの心配もどこ吹く風。居待は何の気なしに袋の中に指を突っ込み、ペロッと指先をなめた。
「ええっ! 大丈夫なんですか!」
「うるさいな、大丈夫だからやってるんだろ」
「で、でも……」
彼女の奇行を平然と見守る小塚と叶。あたふたしている自分がおかしいのか、クスリってそんな大したことないのか? そんな思いがミヤコの頭の中を駆け巡る。
「ダチュラね」
居待は落ち着いた口調でそう口にする。
――ダチュラ? ってなんだ?
「綺麗なお花?」
「それはダリア」
「救世主か?」
「それはメシア」
「古代ギリシアの歴史家ですか」
「ん、え、あー、誰だ!」
「トゥキディデスです」
「全く違うじゃない! 一文字も被ってないし、文字数も全然違うし! みんな揃ってボケるな! 僕知らないの! ダチュラ知らないの! 知らない人にツッコミさせちゃダメ!」
「うるせーし、なげーし。何だお前」
――こっちのセリフじゃい! 好き勝手ボケやがってからに。小塚さんのボケも意味わかんねーから。メシアて!
あと居待さんが一番ぼけてきたのが意外。
彼はごちゃごちゃになった思考を整理し、気持ちを落ち着かせてから改めて問い直す。
「ダチュラとは何なのでしょうか」
「チョウセンアサガオの別名だ。強力な幻覚作用を持つ、せん妄系のドラッグだな。麻薬市場での呼び名はエンジェルズトランペット」
「この粉末はダチュラの成分の一つを抽出したものね。通称悪魔の吐息」
「スコポラミンか」
「ええ」
ミヤコはすでに理解を諦めていた。麻薬が目の前にあるというだけで未知の体験なのに、耳にしたこともない単語が飛び交っている。彼にしてみれば突如異国に飛ばされたも同義なのだ。
通称厨二臭くね?というセリフも彼は飲み込んだ。
「その男がこれをどこで手に入れたかはわかってるのか」
「クラブ。後で位置情報送るよ」
いつの間にかダイニングに移動していた叶は冷蔵庫を開け、ガラスのコップに麦茶を注いでいる。やはりここに来たのは初めてではないようだ。
小塚は口元を隠しながら何やら考えこんでいるようだ。集中しているのか視線は一点に固定され、足先は小刻みに揺れている。
「金は払えるんだな?」
「もちろん」
叶の返事を聞くと同時に小塚は立ち上がり、黒い服の上に黒いジャンパーを羽織る。どこかの漫画の犯人と見間違えるほどに全身黒づくめだ。
その後ろを叶がトテトテとついていく。それに気づいた小塚は彼女の頭をガッと押さえつけ、部屋の方へ通し戻す。
彼が玄関の方へ行こうとすると叶がその後をついていく。それを二、三回繰り返し、しびれを切らした小塚が彼女のおでこめがけてデコピンを繰り出す。
ドスッという音が部屋に響いた。
これは痛いやつだ。ミヤコは痛覚を共感したように額を抑える。
「いてっ! 何するんですか!」
「お前こそ何してるんだ」
「調査にご同行しようかと」
「バカか。危ないだろ」
「なにー? 心配してくれてるんですかぁ?」
叶は姿勢をかがめ、胸を強調しながら上目づかいであざといポーズをとる。
「強調するほど胸ねーだろ」
「あ? なんか文句あんのか童貞、お? ワイCぞ? 別に小さくないぞ?」
「特筆して大きくもないだろ」
彼女はこちらに寄ってきて、下から見上げるようにメンチを切ってくる。だがミヤコも臆することなく叶をにらみつける。
突如知らない人間の事務所に連れてこられ、高圧的な対応をされ、ツッコミを抑制してきた彼はちょうど感情のはけ口を探していたところであった。
何より彼は知り合いにはめっぽう強いのであった。
「おいガキ」
玄関から小塚の呼び声が聞こえる。だがその代名詞がだれを指しているのかミヤコには伝わっていなかった。
「おい面白ネーム!」
「あ、僕ですか?」
彼はミヤコの腕を引き、再び玄関の方へと戻っていく。
ミヤコは困惑した。メロスが激怒したのと同じくらい困惑した。
「あの、何してるんですか」
「調査についてこい。人手が足りん」
「は?」
彼の言葉を理解する間もなく、あれよあれよと靴を履かされ事務所の外に出る。
「ねえ! 私も行きたいー!」
「居待を一人にしておけないだろ」
「ぐぬぬ……」
叶は不服そうに唇をかみしめ、頬を膨らます。
――あざてぇー。
「僕行きたくないです」
「知らん」
「知らんって言われても」
「いいのか、このまま叶がついてきたら死ぬかもしれんぞ」
「何の問題もありません」
小塚はミヤコにとっての叶の価値が分かっていなかったようだ。作戦は失敗に終わった。
「いいから行くんだよ、それに女にアレの良さはわからん」
「アレ?」
今度はミヤコの方が首をかしげる。
「うっわ、マスキュリスト」
「行くぞ」
小塚は玄関で文句を垂れ続ける叶に一瞥をくれることもなく、家の隣にあったガレージへ向かった。
彼がグッとシャッターを上げると中から姿を現したのは真っ黒の外車。
ミヤコはこの人の黒への異常な執着に少し恐怖を感じていたが、そんなことに気が回らないほどテンションが上がってしまう。
「かっけー!」
洗練されたブラックに相反するかわいらしいデザイン。丸っこいヘッドライトが出目金のように突き出しており、独特なフォルムはザ・旧車という感じだ。それにしても何かが不自然だ。違和を感じる。
「気付いたか」
小塚は得意げにドアに手をかけ、ぐっと引き上げる。
「うわ、ガルウィングだ! すっげぇ、始めて見た!」
かわいらしいフォルムからは想像のできない力強いドアの開き、右側だけの翼だけを高く広げた様はまさに片翼のカモメ。
「これは男のロマンだろ?」
「間違いないっすね、社長」
車内には謎のメーターがいっぱいあったり、鍵を回してボタンを押してみたり、現代の車すら詳しくないミヤコにとっては新発見の連続だった。調子に乗った小塚がハンドルの調整をして見せたが、ハンドルが外れてしまいそうで気が気ではなかった。座席は固いがご愛嬌だろう。
「じゃあ行くぞ」
「はい! え、あれ、どこに?」
そんな疑問を抱いた時にはもう手遅れ。小塚のレトロカーはミヤコを連れて、横浜の街を走り始めた。