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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

末永くよろしく

作者: 青木りよこ

パパが部屋を出て行ったので安心して眠ろうとするともの凄い音がしたので、慌ててドアを開けた。

パパが階段の下でひっくり返っていて、そのすぐ傍に全身黒ずくめの身体の長い人がいた。


「あーあ、やっちまったなー、失敗だ。拙い、拙い。あー」


男の人の声だった。

私は恐る恐るその黒ずくめに近づいた。


「あの」

「あー、最悪だ。もう砕いちまったよ。これ、あー元に戻せねえかなー。無理だわなー」

「あのー」


黒ずくめの男は私に気づかない。

私は男の黒いコートのような長い服を引っ張ってみる。


「あれ」


どうやら男は私に気が付いたようだった。

振り返った男の顔はよく見えないが優しそうだと思った。


「あれ?」

「お兄さん何してるの?」

「えー、えっと、お嬢ちゃん?えっと、俺が見えてるわけ?」

「うん」

「かー、どないしよー。あー、やってもた。あかん、これラン落ち案件かもしれん。えー、やっと鯖から解放されたのに、嫌だー」


男は暗闇でもわかりやすいようにがっくりと肩を落とした。

夏なのに暑くないのだろうか。

パパは毎日暑い暑いと言っていたのに。


「あの、お兄さん何してるの?」

「何って、仕事?えっと、あれ。ひょっとしてお嬢ちゃん、この男の娘だったりする?」

「うん」

「かー、あのね、お兄ちゃんはね、死神ってやつでね、わかる?死を司る神様なの。まあそんな上等なものでもないか。死神なんてアホ程いるし、あのね、まあお兄ちゃんは死神さん。ここまではいい?」

「うん」


暑いけど、外は風があって気持ちがいい。

パパは寝てしまったのだろうか、起き上がろうとしない。


「お嬢ちゃんお名前は?」

「佐伯菫」

「そっか、いいお名前だね。で、菫ちゃん、あー、話し長くなるからお家に入ってもいいかな?パパお兄ちゃんがお部屋に運ぶし」

「ホント?ありがとう」

「いいよー、じゃあお部屋に案内してくれるかな?」

「うん」


私は嬉しくなって階段を駆け上がる。

お兄ちゃんはパパを片手で枕のように軽々と運んで来た。


「お邪魔しますよー」

「どうぞ」


お兄ちゃんがパパをベッドに運んでくれたので私は冷蔵庫からペットボトルのお茶を出す。


「どうぞ」

「気が利いてるねー。偉いねー。菫ちゃん」

「喉渇いてると思って」

「ありがとうねー」


そうは言ったがお兄ちゃんはペットボトルの蓋を開けない。

ベッドの傍に立ったまま難しそうな顔だ。

お兄ちゃんはサラサラとした黒い髪と黒い瞳のどこにでもいそうな薄めの顔立ちの若い男の人だった。

目の奥は真っ暗でどこに続いているのかわからな程遠く見えた。

こんな瞳は初めて見た。

まるで前すら見ていないような目だった。


「菫ちゃん、ママは?」

「今いない」

「お仕事?」

「ううん。出て行っちゃったの」

「そっか。出て行っちゃったか」

「うん」

「菫ちゃん。菫ちゃんのパパね。死んじゃったんだ」

「そうなんだ」

「そう。死んじゃったんだけどね。ここからが本題だ。死んじゃったのはいいんだけど、お兄ちゃんさ、その、パパの死ぬ日間違えちゃってさ。パパね十年後の今日八月十五日に死ぬ予定だったんだよね。でもさー、お兄ちゃん間違えちゃったわけ」

「うん。よくわかんないけど。お兄ちゃん間違えたんだね」

「そう。お兄ちゃん間違えたちゃった。で、お兄ちゃん達死神さんはね、間違えてさっさと死なせちゃった場合その人間が本当に死ぬ日までその人に成り代わってその人生の続きを生きなきゃならん仕組みになってるのよ。わかる?」

「わかんない」

「そうだよね。わかんないよね。ええっと、あれ、よく見ると菫ちゃん顔どうしたの?それ」

「顔?」

「何か凄いことなってるよ。痛いでしょ?」

「痛い」

「えー、早く言いなよ。ごめんね。お兄ちゃん自分のことばっかりで。治したげるね。おいで」


お兄ちゃんがベッドの傍に腰を下ろしたので私はその前に腰を下ろしたが、お兄ちゃんは私を持ち上げ自分の膝の上に乗せた。

顔は自分ではどうなっているのかわからないけど、さっきパパに足で踏みつけられたからその時のかもしれないと思った。

パパはよく私を踏む。

お腹とか背中とか。

そしてよく蹴る。


「もう大丈夫だよー。お兄ちゃん治したげるからねー」


お兄ちゃんは私の頬を大きな両手で包む。

頬がじんわりと温かい。

何かかがしみ込んでいく。


「ほれっ、治ったよ。他にもあるでしょ?お兄ちゃんに見せて」

「うん」


私はワンピースの裾をまくり上げお腹を出す。

お兄ちゃんは黒い何も見えていないかのような瞳からぽろりと涙を零す。


「可哀想だな、可哀想だよ、菫ちゃん。こんな小さくって、何も悪いことしてないのに。何でこんなこと、あー、もうコイツさっさと砕いて良かった。大丈夫だよ。菫ちゃんこれからはお兄ちゃんが菫ちゃんのパパだから。俺は菫ちゃんを絶対飢えさせたりしないし、殴ったり蹴ったりしない。一生懸命働きまくって美味いもん食わしてやるからな。安心するんだぜー」


お兄ちゃんはうっ、うっ、うっ、と言い泣きじゃくった。


「お兄ちゃん泣かないで」

「だってさー、菫ちゃんがさー」

「もう痛くないよ。ありがとうお兄ちゃん」


お兄ちゃんがうーと言い目をこすったので私は散らばってるタオルの中からバスタオルを引っ張り出し渡す。


「ありがとねー。じゃあ始めようかな」

「何を?」

「うん。菫ちゃんここからのことは内緒ね」

「内緒?」

「うん。お友達にも、学校の先生にもね」

「うん。言わない」

「よし」


お兄ちゃんは立ち上がりベッドに横になるパパの身体を片手で持ち上げ、パパの身体にすうっと入っていき、黒ずくめの長い身体が消え失せる。


「お兄ちゃん?」

「はい、お兄ちゃんですよー」

「パパじゃないの?」

「うん。パパの皮を被った死神のお兄ちゃん」

「よくわかんないけど、パパはもういないの?」

「いないよ。もうパパは死んじゃったから」


パパのお兄ちゃんは黒いショルダーバッグから粉々になったガラスの破片みたいなものを取り出した。


「キレイ」

「そう?これ菫ちゃんのパパの魂の砕いたやつ」

「たましい?」

「これ砕くとねー、もう元の身体には絶対戻れないんだよねー。嫌簡単に砕けたからねー、まあ性根が腐ってたんだろねー。簡単に粉々になったから。まあそんなわけで十年間よろしくっ」

「十年?」

「十年間早く死なせちゃったからね。その十年をお兄ちゃんが代わりに生きないといけないんだよね。規則で決まってるの。これしないとまた死神ランク落ちちゃうの。死神ランク落ちるとねー、人間担当できなくなって魚とか虫担当に戻されちゃうの。これがきついんだ。鯖とかさー、一日に何体死ぬと思う?無理無理もう体持たない。せっかくAランクになったんだから絶対落ちたくない。というわけでよろしくねっ」

「うん?」

「まだわかんないことある?」

「うーん、何で代わりしなきゃいけないの?」

「その人間がもし生きていたら何か成し遂げるかもしれないでしょ?そういうこと。まあこいつは生きてても何もいいことしなかっただろうけど、この世の一部を構成している以上死なせるわけにいかないわけよ。決まってることだからね。コイツの十年の役割演じ切らないといけないわけ」

「うーん」

「まあ兎に角よろしく。さっ、もう寝よ。こんな時間まで子供が起きてるもんじゃないよ。しかし汚い部屋だねー。明日は大掃除だねっ。掃除して買い物行こうね。服とか食べ物買わないと。冷蔵庫酒とチーズとチョコしかないじゃない」

「アイスあるよ」

「もっと栄養の有るもの食べないとね。菫ちゃん軽すぎだよ。明日から美味しいものいっぱい食べようね。さあ、寝るぞー」

「うん」

「菫ちゃんは何処で寝てたの?」

「ここ」


私はベッドの下にひいた敷布団を指さす」


「床で寝てたの?」

「ベッドはパパとママのだから」

「菫ちゃんがベッドで寝な。お兄ちゃん寝なくても平気だから」

「何で?」

「人間じゃないから。さっ、明日は忙しいぞー」

「うん」


朝起きるとお兄ちゃんはもう起きていて、洗濯物を干していた。


「菫ちゃん。朝ごはんコンビニのサイドイッチでいい?スーパーまだ開いてなくってさー」

「うん。サンドイッチ大好き」

「じゃあ顔洗って食べなー。ヨーグルトも買ってきたから。あと豆乳も」

「とうにゅう?」

「身体にいいんだよー」

「うん。あれ、髪どうしたの?」


パパは金髪だったけど、パパの皮を被ったお兄ちゃんは黒い髪になっている。

まるで別の人みたいだ。


「やめたよー。朝から黒く染めちゃった。初めてやったけど上手くできてるでしょー」

「うん。かっこいいよ」

「ありがとうねー。食べ終わったら買い物行こうねー」

「うん」


パパの顔は怖くて見れなかったけど、お兄ちゃんだと思えば顔はよく見えた。

パパは若くて背も高くてかっこいい人だったんだな。

いつもあんな風ににこにこと笑っていたら良かったのに。


「菫ちゃんどこ行きたい?」

「駅前のおっきなスーパー。焼きたての美味しいパン屋さんとイタリアンジェラートのお店があるってクラスの子が言ってた」

「そっかー、じゃあそこ行こう」

「うん」


パパと車でお出かけするのは久しぶりだ。

ママがいた頃は時々連れてってくれたんだけどな。

スーパーでお兄ちゃんは私の服と下着と靴下と運動靴を買ってくれた。


「バスタオルとシーツも新調しようね。あとお皿も買おうね。お茶碗ないじゃない、あとコップも」


ママが出て行ってすぐ私はお茶碗を割ってしまったのでそれから買っていなかった。

お茶碗を割った時パパには蹴り飛ばされた。

あの時はとても痛かった。


「お茶碗は割れるからいいよ」

「割れたらまた買ったらいいでしょ。ご飯はお茶碗で食べたいじゃない?」

「そう?」

「うん。お昼は何を食べようかねー?」

「焼きたてパンやさんのコロッケパンが食べたい」

「朝もパンだったけどいいの?」

「いいのー」

「じゃあそうしよう」


パパと向かい合いコロッケパンとカレーパンを食べた。

パパはオレンジジュースしか飲まなかった。

まだ人間の身体に慣れてなくてお腹が空いてないらしい。

お休みだからかお店にはお客さんがいっぱいいた。

クラスの友達に会えたら今ならパパと一緒なのって言えるのになと思ったけど、誰にも会わなかった。

パンを食べ終え、シーツとバスタオルを買い、百円ショップで食器を買って、イタリアンジェラートで意味も解らないのに赤くて美味しそうなのでオレンジバニラマスカルポーネを注文した。

お兄ちゃんは又何も食べない。

私だけ食べていいのか不安になるけれどお兄ちゃんはニコニコしてるのでいいのだろう。


「じゃあ食べ物買って帰ろうね」

「うん」


地下一階の食料品売り場に来たのは一年ぶりくらいだった。

いつも通り人がたくさんいてにぎやかで皆楽しそうに見えた。

こんなところに一人で来たらきっと寂しい。

でも今日は一人じゃない。

パパの皮を被ったお兄ちゃんがいる。


「何食べたい?」

「お好み焼き」

「そんなんでいいの?お兄ちゃん結構何でも作れますよー」

「いいの。お好み焼き好きなの」

「じゃあそうしようねー」


お兄ちゃんは重さ十キロもあるお米も買った。

これからは毎日朝ご飯炊くからと言って。

炊き立てのご飯なんて久しぶりだ。

お味噌汁も飲みたいと言ったら具は何がいいと聞いてきたのでワカメと答えた。

他に思い出せるお料理が余りないのが残念だった。

お兄ちゃんはお家に帰ると冷蔵庫に買ったものを詰め込んでいった。


「お酒どうしたの?」


冷蔵庫に詰まっていた色とりどりの缶が綺麗さっぱりとなくなっている。


「仕事行った時に誰かにあげようと思って。お兄ちゃん飲まないし」

「飲まないんだ。大人は飲むものでしょう?」

「飲まない人は飲まないよー」


冷蔵庫は見たことのないもので溢れていた。

それは様々な人で溢れているスーパーの食料品売り場を小さくしたような空間だった。


「お家にスーパーできたみたい」

「何それ?」

「わかんないけど、お店屋さんできるね」

「そんなもんじゃできないけどねー」



それから私達は親子二人慎ましやかに仲良く暮した。

お兄ちゃんは工場のお仕事が終わると真っ直ぐ家に帰って来てくれてご飯の用意をしてくれた。

小学校四年生になると私もお料理を教えてもらってお休みの日には一緒に作るようになった。

私達は贅沢もせず、毎日自炊し、休みの日は駅前の大きなスーパーに行くくらいで遠出もせず、テレビを見たり漫画を読んだりして静かに過ごした。


私が中学三年生になると八年ぶりにママが訪ねて来た。

学校から帰るとアパートの前にママと初めて会うママの母親(私にとってはお祖母ちゃん)とが二人所在なさそうに立っていた。

私が部屋に二人を入れグラスに氷を入れて麦茶を出すとママはそのお茶を飲み干したので私は麦茶を再び注いだ。

ママは二杯目の麦茶を飲み干すとごめんなさいと言って下を向き泣き出した。

私はベランダに干してあるタオルが目に入ったがこれどうぞと言うのも何なので放っておいた。

ママは私にごめんなさいと言いずっと探してたんだけどと言った。

私とお兄ちゃんはあれから二度引っ越した。

半年後お金がある程度たまったので近所の少しマシなアパートに引っ越した。

それから去年私が中学校に上がるのを機に中学校の近くのそこそこ部屋数の有るアパートに引っ越したのだ。

理由は部活動で遅くなった時遠いと心配だからだそうだ。

ママは泣き止むと一緒に暮らそうと言ってきた。

ママはあれから又パパじゃない男の人と一緒に暮らしていたけれど、パパに会って離婚してくれと言うのが怖くてずっとそのままだったと言う。

その男とも上手くいかず実家に娘を連れて帰ったそうで、私には今小学校一年生の妹がいるらしい。

ママは赤の他人であるパパと暮らしているのは問題だと言う。

怖くて怖くて会いに来れなかったけど、このまま放っておくわけにいかないと決心してきた。

パパとちゃんと話すつもりだと言う。

お祖母ちゃんは山科は電車に乗ればすぐ京都だし静かでとてもいい所だと言う。

本当に悪かったと思ってるしもう絶対一人にしないからと言ってママは又泣き始めたので、私がパパと話すからと言ってママとお祖母ちゃんには帰ってもらうことにした。

お祖母ちゃんはとらやの羊羹を置いていったのでお兄ちゃんが帰ってくると二人で熱いほうじ茶を入れてエアコンの効いた部屋で贅沢に食べた。


「うっま、何これ?美味すぎ、俺らの食ってたの羊羹じゃなかったんじゃ」

「そうかも」

「そうかもって、菫ちゃん。美味いなー。羊羹。あー、有り難てー、人間やってて良かったー」

「羊羹はいいんだけど、ママと一緒に住むのどう思う?」

「どうって、そうした方がいいよ。俺もう二、三年で死んじゃうんだし」

「パパはそうかもしれないけど、死神としての貴方もそうなの?」

「死神には戻るよ。でももうここにはいないから。ママの言う通りだよ。他人の男と一緒に住むのよろしくないんじゃない?世間体としてもさー」

「それはそうかもしれないけど」

「ちょっと早いけどさー、ここいらでお別れでいいんじゃない?俺、じゃないな、パパが死ぬとこ立ち会う必要ないし。警察とか面倒でしょ。コイツどうせ碌な奴じゃなかったんだから孤独死でいいんじゃない。三十二で孤独死って可哀想だけど、まあ人間は死ぬときは誰だって一人だから。勿論死んでからも」

「そうだけど」

「ママと暮らすの心配?」

「うん」

「でも確実に菫ちゃんはパパ死ぬわけだから一人になるんだよ。ママとお祖母ちゃんと妹ちゃんがいるんでしょ?その方が俺も安心。残していくのツライ」

「そうなの?」

「当たり前でしょー。丁度夏休みだし、引っ越しにはいい時期じゃない?」

「うん」

「じゃあ、決まり。そうしよう」

「うん」


引っ越しの前日私達は駅前の大きなスーパーに行き、焼きたてパン屋さんで二人してコロッケパンとカレーパンを食べた。

最近は来ていなかったが相変わらず美味しかった。

二人でイタリアンジェラートをダブルで食べ、エアコンの効いた部屋ですき焼きをした。


お兄ちゃんは別れ際私にこう言った。

菫ちゃんが死ぬときは必ず俺が迎えに来るよと。

その時の瞳は昔私が見た、深淵そのものだった。



それからの私は山科の高校を卒業し京都の大学を出て京都のとある会社に就職し、就職先で六歳上の男性と交際をするようになりその人と結婚をし、山科の家を出た。

そして現在。

お風呂から上がると夫が台所の床に倒れていた。

夫の傍には黒ずくめの身体の長い人が立っていて、私は一つのことだけを願っている。

彼でありますようにと。


「あのー」


黒ずくめの人は振り返らない。

私は黒いコートの裾を引っ張る。

彼だった。


「あれー、菫ちゃん?何やってんのー?」

「貴方こそ、何やってるのよ」

「俺はさー、あれ、あれだよ。ほら。又やっちまったと言うか、やっちまったよー。あー。又砕いちゃったよー、魂、粉々に。かー。これはもう駄目だわ。あー、最近やんなかったのに。あれ、菫ちゃん、何やってんの?」

「ここ、私の家」

「あー、そうなんだ。これ菫ちゃんの夫かー。って菫ちゃん、顔どうしたの?凄いことなってんよ。治したげるから座って座って」


彼が台所の椅子に座ったので私も向かいに座る。

膝が擦れ合う距離に彼はいる。

涙ぐむ彼が両手を伸ばし私の頬を包む。

暖かい、私はこれをずっと、ずっと待っていたと思う。


「菫ちゃん、顔だけ?お腹とかは?」

「顔だけ。顔以外殴らないの。顔をね、グーで殴るのが好きなのよ」

「そんなの好きな奴いてたまるかよー。可哀想に菫ちゃん。もう、ホント。菫ちゃんは、もう」


結婚するならパパと正反対の人にしようと思っていた。

お酒も飲まないし、タバコも吸わないし、パチンコにも行かない。

穏やかで声を荒げるのを見たことのない人だった。

思えば表面しか見てなかった。

相手を箇条書きしてた。

結婚すると外に出るなと言われた。

お前は母親が男にだらしないんだからそういう血が流れているのだと言われた。

一日中マンションの部屋から出ず過ごした。

スマホもパソコンも禁止されて、土曜日になると一週間分の食料を車に乗って一時間もかけお隣の県のスーパーまで買いにつれていかれた。

帽子とマスクと眼鏡をかけて。

掃除と洗濯と食事の用意をするしかなかった。

夫からは毎日必ず一冊夫が図書館で借りて来た推理小説を渡された。

帰ってくるとちゃんと読んでたか確認するため登場人物と話の流れと結末を話さなければならなかったので、毎日頑張って読んだ。

その報告が終わるとラジオ体操のスタンプのように私の顔を殴った。


「菫ちゃん可哀想になー。でも安心しろ。これからは俺がずっと一緒だ」

「また間違えたの?」

「ああ、今度は長いぞー。何と五十年」

「五十年?」


私は思いがけず大声が出る。

頬はもう痛くない。

声が弾んでいるのがわかる。

身内から暖かさが溢れ出てくる。

自分の中にこんなにもまだ眠っていたのかと私は嬉しくなる。


「ああ。やっちまった。これまでで最高のやらかしだ。五十年かー、はははっ、でもいいやー。菫ちゃんとずっと一緒だもんな。これから二人で美味いもん食おう。今度は旅行にも行こうぜー。きっとどこ行ったって楽しいって。昔テレビ見ててさー、いっしょに温泉とか行って、綺麗な景色見たり、でっかい仏像見たりしたいと思ってたんだぜー。これからしようなっ」

「うん」

「よし。じゃあコイツの身体に入らねえとな。つーか、こいつの顔見たことある気するんだけど、気のせいか?」

「気のせいよ」


気が付けば貴方に似た人ばかり探していた。

迎えに来てくれるってわかっていたのに、待ちきれなくて。


「じゃあ、入るか。しっかし菫ちゃん大きくなったなー。美人になった。ほれっ」


男が私を抱き上げる、私はその首に縋りつく。

私は今日までずっとこの瞬間のために生きていたのだとわかる。


「まあ、菫ちゃん。改めて、これから」


男の耳が微かに赤いことを私は知る。

私もきっと同じ色をしているだろう。

予感と希望と未来にしかない色。

過去にはない色。




「末永くよろしく」

















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― 新着の感想 ―
[良い点] 読んでいて心温まる物語でした。 ありがとうございます。
[良い点] 菫ちゃん、死神さんとたくさん幸せになってね(´;ω;`)
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