第1部 悪徳の町①
髪を触る感触で目が覚めた。
光があまり差さない薄暗い倉庫のような場所。
上の方に明かり取りの小さな木製の小窓が見えた。
つっかい棒で板をあげただけの窓。
くたくたのかろうじて積み上げたとおぼしき薄い藁の上。
動物の臭いがする藁はベッドのつもりのようだった。
掛け布はない。
「目が覚めたかい?」
ふわふわした女の子の声で飛び起きた。
「まだ寝てな。明日から働かなきゃならないんだから。」
まだ12才くらいの茶色の髪を2本みつあみにしてそばかすの浮いた整った顔をした、年の割りには大柄の青い目の美少女だった。
継ぎのあたった粗末なきなりの丸首のドレスを眺め、みつあみがかかる不釣り合いな巨乳に目を見張った。
異常な程細い腰。
丸首の胸を強調してあらわにした茶色のボディス。スカート部分には大きめのエプロンが荒縄で結ばれている。
簡単な作りの服を見れば縫製技術は中世くらいだろうと見て取れた。
少女の幼さの残った顔に違和感ある色っぽい肢体。
なんだかひどく哀れみを感じた。
哀れみ?
私を助けてくれた少女になんて酷い言葉を思い浮かべるなんて。
恥ずかしく申し訳ない気持ちになった。
「あんた名前は?いくつ?どこから来たんだい?」
矢継ぎ早に問われても長い期間喋らなかったせいか声が出ない。
「絵馬」
春光と続けようとして声がかすれて途切れた。
あとはひゅーひゅーと息しか出ない。
「エマちゃんって云うんだ。8つくらいかい?」
いくら童顔で低身長だって8才なはい。
16だと訂正しようとした言葉はしかし女の子の顔を見て永遠に失われた。
「良かった、8つで。」
ほっとしたような満足したような奇妙な笑顔と微かな違和感。
私はこの世界の事は何も知らない。常識も日常の事すら全く。
もっともっと用心深くなろう。
用心深くなればなる程身の安全を守れるから。
それにしても8つではなければダメなことでもあるんだろうか。
「あたしはネリーって言うの。12になったばかり。
この孤児院の一番の古株であんたの体を洗ったのも、新入りの教育するのもあたしの仕事。」
私は頭を下げた。
あんな汚い体をきれいにするには幼い子では大変だったと思う。
ありがとう。
継ぎだらけの粗末だけど清潔なドレスを着せてくれていた。
色はやはりきなり。子供だと思われたのかボディスはない。
服に色があるのは金持ちの証しなのかも。
「服は枕元にあるから。但しひっぺがしたけで洗ってないよ。捨てるなり洗ってとっとくなり自由にしな。」
確かに乱雑にひどい異臭のする服が置かれていた。下着も上に放置されているのを見てあわてて汚い服の中に突っ込んだ。
恥ずかしい。
それより緑の体操服はネリーの目にどう写ったのか不安になる。
くつくつと笑う声がした。
「小さくても女だよね。」
ネリーはそう笑った。
「見たことない服だけど外国人なのかい?どこから来たんだい?」
「覚えてないの。」
今度はちゃんと声が出た。かすれた声だけど。
「へえ。」
途端に目が細く鋭くなった。
疑い深くなった顔に頭を打ったからそのせいかもと小声で告げておく。
「そんなことあるんだね。思い出したらいろいろ教えておくれよ。」
快活に云われて女の子で良かったとほっとした。
これが大人ならきっとややこしいことになっていた。
記憶がないなんて我ながら怪しすぎる。
「ここはどこ?」
「辺境の町、町の名前は***さ。」
今なんて云った?
「えっ?」
「rubbish heapの町だよ。」
「掃き溜め。」
好ましいと思えない名前だ。
「頭打つ前なら知ってたかもしれないね。」
そうネリーは呟いた。
私は不自然にならない程度に不安な顔で相槌を打つ。
記憶がないならある程度色々聞いてもおかしくないだろうから。
これでこの世界の事を疑われる事なく教えて貰える。
ほっとした私にネリーのあり得ない言葉が続いた。
「この孤児院では働きがないやつにはおまんまはないよ。スリでもかつあげでもつつもたせでもいいから食いぶち稼ぎな。
まあその体じゃすぐは無理だから明日から3日間はあたしの仕事を手伝ってもらう。」
孤児院の掃除と雑用だけどね。
笑顔でセリフを加えたけど。
ちょっと待て。
その前に何を云った?
スリにかつあげにつつもたせだと?
何を云ってるのこの子。
子供に犯罪をさせるって変でしょ。
だけど犯罪を犯さないといけない経済状況だってある。
または犯罪を犯すのにためらいがないならこの孤児院は犯罪組織と関わりあるかも知れない。
怪しい場所に連れて来られた可能性も捨てきれない。
そう考えたら反論するのはまずいと感じた。
大袈裟かも知れないけど、自分を守るには警戒はし過ぎてもおかしいことはないかも。
私が記憶ないと気付いたのか困った顔で説明してくれた。
「スリってのは金がたんまりあるやつから財布をとることさ。素早い指先と足の速さが重要だよ‥エマにはいきなりは難しいかねえ。」
もう呼び捨て?
まあいいか。
一応私は年下らしいし。
「かつあげってのは金をたんまり持ってる人から金をいただくことさ。強面でがっちりした体格の奴に向いてるんだけど‥エマには無理そうだね」
気の毒そうに私の痩せたちっぽけな体を見た。
うん。強面でも私には恫喝は無理だよ。
「つつもたせってのは複数の男と組んでする職業さ。すけべ爺にある程度体触らせてから兄弟役の男たちが出てきて、すけべ爺から金巻き上げるんだ。但し絶対に操は守り通すんだよ。孤児院の子が体売るなんて噂出たらおとりつぶしになるからね。」
体触らせるのはよくて売春はダメなの?何よ、そのルール。
でも孤児院がなくなればみんな困るだろうし、私も好きでもないすけべ親父に初めてを捧げるつもりなんてない。
森で20㎏痩せる程過酷な日々だったけど、ここに来てすぐなら8才には見えなかったかも。
胸だってそれなりにあったし、年相応に見えたはずだから。
あの森での生活でそれだけは良かったと安堵した。
もしも体売ってでも金を稼げと言われたらいますぐ逃げるしかなかった。
体力が落ちてる上に基本的なことすら知らない私では逃げ切るのは難しいだろう。
それにしてもつつもたせって職業なんだ。
ちょっとびっくり。
「でも8つじゃねえ。せめて10になってれば良かったんだけど。小さい子に需要はあまりないからね。」
ロリコンなんて気持ち悪い。
そんな奴に媚び売るなんて鳥肌がたつ。
10才の子に手を出す変態なんて滅んでしまえばいい。
そう心の中で怒っていた私に信じられない言葉がかえってきた。
「成人前の子をつまみ食いするなら10才くらいが都合いいよねえ。12才でも処女じゃない女はよくいるし。男は処女が好きな生き物だしね。」
独り言っぽいけど。
ちょっと待て。
え?つまり12才が成人なの?
12になる前に経験しちゃう子が多いってこと?
なら16でまだ処女の私って‥。
あり得ないから、この世界!
と云うことはつまりネリーはもう成人だってことになる。
いい情報を手に入れた。悪いけどちょっと用心しよう。
成人なだけにいろいろな体験も多そうだ。
日本での12才とここでの12才は全く違うだろう。
地球でも平和な日本の子供と紛争地帯の子供の意識や成熟度は違っていた。
犯罪を犯さないと生きていけない厳しい世界にいるこの世界の子供は成熟度は高いだろうし、12才で成人と云うなら回りも子供扱いしないだろう。
相手は大人。
それを念頭に入れる必要がありそうだ。
子供を保護する孤児院が犯罪推奨してて12の女の子の性体験率が高いってなんて世界よ。
こんなとこ私には無理。
絶対に出ていってやるから。
「他に仕事ありませんか?」
とりあえず聞いてみる。
犯罪はしたくないしでも1人だけ特別扱いも後々困ることになる。
働きたくないなんてわがままを言うつもり全くないし。
「うーん。他に仕事ねえ。」
じろじろと見るネリーに更に付け加えてみる。
「植物や果実の収穫とかありませんか?」
この言葉を不審そうに聞くネリー。
もしかしてそんな仕事ないの?
私にも出来そうだからと付け加えたらネリーは納得したように頷いた。
草で生き延びていた私には慣れた仕事だった。
ちゃんとした犯罪じゃない仕事がしたい。
狙いは農家か冒険者。
特に冒険者ならギルドカードが作れて他の町に逃げる際の身分証明書代わりになる。
冒険者の職業がなければお手上げだけど。
「冒険者ならあるね。よくわからないけど仕事は薬草や毒草の採取とかのはずさ。
8才だと仮証明書を出してくれたはずだよ。」
仮証明書か。
少しがっかりした。
仮証明書なら正式なものに比べて公の身分証明にならない。
でも8才なんだよね。仕方ないか。
まだ小さいから登録出来ないって云われる可能だってあった。
もしここで成人した年齢ですって云ったら娼婦の職業まっしぐらな予感がする。
「冒険者したいです。いいですか?」
ネリーの目玉は丸くなった。
「出来るんなら構わないけどね。大丈夫なのかい?」
「頑張ります。お金はきちんとお渡ししますから。」
調子よくネリーは頷く。
「わかったよ。肉とか持って帰ってくれるなら有難いけど無理なら早めに云うんだよ。」
よし。言質は取った。
ネリーの内心はどうあれ少しの間は時間が稼げるだろう。
なるべく早めに独立出来る術を学びたい。
スリなんてするよりもずっと有意義だろうし、これから先私のような孤児がまともな就職なんて不可能に近いだろう。
うちに帰る目的を隠すなら冒険者として国中外旅をしても怪しまれないはず。
8才。私は今日から8才になります。
老けてみえても8才です!
トイレに行きたくてトイレを尋ねたら部屋の外にある廊下の隅の2つの壺を指差してきた。
えっ、あり得ないんだけど。
壺にするの?
「半分よりも多く溜まった壺はよしとくれ。掃除するのが大変になるからね。」
なるほど。少ない方で用を足せばいいんですね。
ティッシュとかないけどどうするの?
ネリーは特別だって云って自分のベッドの下を漁り、1枚の大きな葉っぱを手渡して来た。
これがティッシュかわりになるわけのか。
紙や布が貴重な世界なのかな?
葉っぱは森で毎日使ってたから抵抗はありません。
この葉っぱは軽く揉んで小さくちぎって使うらしい。
ここで使う葉っぱは稼ぎに応じて園長から支給されるという。
トイレするのもお金が必要なんて。世知辛い。
ちなみにドレスの下はドロワーズだった。
下着がドロワーズとはさぞや私の小さな布切れに驚いたことだろう。
うつらうつらしてると賑やかな声がしてきた。
子供達が仕事からかえってきたらしい。
向こうの部屋からネリーの声が聞こえる。
「トミーは今日はこれっぽっちかい?これじゃあおまんまやれないね。」
そんなあと抗議する幼い声がした。
「こいつ見張り失敗したんだぜ。警備兵に捕まるとこだった。こいつはメシ抜きで十分だ。」
スリの仕事だったんだろうか。見張りなら幼い子でも出来るよね。私は拒否させて頂くけど。
「ゼップ、たんまり稼いだじゃないか。えらいよ。今日は特別に量を増やしてやるからね。」
「やったぜ!本当にもたもたした爺さんだったぜ。財布なくして狂ったように騒いでたな。仕入れの金がなくなった。破産だってな。泣き叫ぶのが面白かったぜ。」
ばか笑いがおこって破産ってなあにって別の幼い声が聞こえた。
「おしまいってことさ。」
ゲラゲラ笑いながらネリーは答える。
破産、破産。小さな子たちがはしゃいだ声を上げる。
吐き気がする。
大金を盗まれた老人は半狂乱になったにちがいない。
仕入れのお金がなければお店だって畳まないと行けなくなるかも知れない。
支払いが出来ないのは信用問題にかかわる。
信用がなくなれば2度とお店が持てなくなるだろう。
もし借金取りとか来たらどうするの?
追い込まれたら自殺だってあり得るよね。
お爺さんのご家族だってこれから大変だろう。
一家離散とかありそうで罪悪感で胸が痛い。
気持ち悪い。
胸がムカムカする。
この夜わざと寝た振りをして食事をパスした。
「起きな」
ネリーから荒っぽくゆすられ目が覚める。
「寝しょんべんはしなかったようだね。えらい、えらい。
井戸で顔を洗いな。トミー、エマに井戸の使い方教えておやり。それが終わったらメシにするよ。」
背後からはあいと幼い声がした。
昨日見張りに失敗した子だ。
振り向くと私より一回り大きな子がニコニコ笑っていた。
えっ?
幼児じゃなかったの?
茶髪に茶色の目をした愛嬌のある男の子だった。
男の子はみんな膝上のワンピース擬きの服を着ていた。下着やズボンはない。
なんでおねしょの話が出たのかすぐにわかった。
おねしょした子とその被害者達は朝食前までに自分で床を拭き、藁を洗い干さなければならない。
朝食後は働きに出かけなければならないからだ。
朝食までに済まさないと湿って臭い藁で寝ることになる。
これが雨の日や寒い日になれば乾かないから部屋中おしっこの臭いが漂うのだそうだ。
おねしょは子供たちに嫌われる。
隣の藁と寝てる子の衣服まで汚れるから。
実際おねしょ癖のある5才くらいのリンダとダンはしょんべん臭いと仲間外れにされていたし、隣の子達に毎日お前のせいで余計な仕事が増えるとつねられて叩かれていじめられていた。
私の隣はネリーの寝床だったから道理でほっとしていたわけだ。
いくら体が小さくても私は16才。
おねしょは恥です。
孤児院の建物は木造で横に長く、食堂を真ん中にして両端に廊下付きのベッドルームと台所の続き部屋があった。
台所は5人はいればぎゅうぎゅうになる小ささで、ベッドルームは辛うじて16人くらいは寝れそうな大きさがある。
藁は隙間なく敷かれ、寝返りうてば隣を攻撃しちゃう程狭い。子供しかいないけど、もっと伸長が伸びちゃえば住めないと思う。成長したら自活させられるのだろうか。
ベッドルームの廊下の先、トイレ壺の反対側には頑丈な錠前がついている部屋がある。今は留守している院長室とのことだった。
薄い板だけて遮ってるだけなのでベッドルームでは騒ぐのはしてはいけないことなんだとか。
扉があるのは院長室だけであとはちいさな入り口がそれぞれあるだけ。
背の高い子供たちはかがんで移動しなければならない。逃亡防止なんじゃないのかなとふとそんな言葉が浮かんだ。
井戸は台所の勝手口から建物に挟まれた小さな道を行った先にある。
薄暗い緑がかった空。
グレーに微かに緑の空はここが異世界なのだとまざまざと感じさせられた。
分厚い黒い雲は今にも降りそうで、これが森の中だったらあんなに苦労しなかっただろうと思うとなんか悔しかった。
井戸は四方を低い木造の建物に囲まれた30畳程の広場の中央にあり、草がところどころ生えた地面にささやかな大きな石で枠を組んだ原始的なものだった。
地面は井戸を中心にして緩く勾配をつけてある。
水を流しても井戸に汚れた水などが入らないようにするためだ。
石の枠は積み上げただけでガタガタの隙間だらけだから、完全に汚水の混入を防ぐとは言い難いし雨が降れば土など汚れた水も入りそうだ。
建物の四隅には薄い溝があり、所々で水が溜まって腐敗していた。
井戸に取り付けられた古びた木の鶴瓶の紐と桶はつるつるして水垢で光っていた。
孤児院の子は一番後の順番らしい。
汚くない隅で順番を待ちながら、水垢を誰も綺麗にしないのが不思議だった。
聞くと1度掃除したら永久にその人の当番となるらしい。
誰も余計な仕事は増やしたくない。
そのルールで誰ひとり動こうとしないのだ。
ぬるぬるした鶴瓶の紐を引いて滑り落とさないよう慎重に瓶に汲む。
ぬるぬる具合が気持ち悪い。
なるべく水の中を汚さないように気をつけて水を瓶に入れる。
小さな子供一人で持てる瓶は小さくあまり水を入れることが出来ない。
瓶の水は何往復もしながら台所の大きな水瓶にいっぱいになるまで入れられる。
この水で掃除や炊事をするのだ。
ちなみにトイレ壺を洗うのもここから汲むそうだ。
衛生面を考えたら別の水瓶を用意した方がいいのに。
水瓶いっぱいになるまで5人で6往復かかった。
重労働だけどこれはれっきとした子供の仕事だ。
今日からは年少班と一緒に私の仕事になる
それが済むとようやく井戸の水で身支度が出来る。
身仕度って云っても口を濯いで顔を洗うだけ。
おしゃれさんなら髪の毛をちょっと濡らして跳ねを抑える程度。
歯磨きなんて誰もしていなかった。
歯を磨きたい。
だけどアイテムボックスから取り出すのはいくらなんでもヤバいと知っている。
お風呂はなく水をたらいに入れて体や髪をふくか、夏であれば男の子や小さな子は井戸で水浴びする。
私は真っ裸でここでごしごし洗われだだそうです。
意識ないこととはいえ、恥ずかしい。
水汲みが終わると食事となる。
昨日出来なかった紹介があった。
エマ、8才。今日から仲間入りだよ。
それで終わり。他の12人の自己紹介すらなかった。
8畳しかない食堂は何もない部屋で直に腰をおろし、膝に食器を置いて食べた。14人いるからぎゅうぎゅうだ。立って食べる子もいる。
新入りはすきま風の入る台所のそばと決まっているみたい。
それぞれに配られるのはちいさな木の茶碗に半分のオートミールが1人分。
それをみんなで手づかみで大事そうに食べた。
スプーンもフォークもない世界なのか。カトラリーは金持ちしか持てない高価なものかいまいち判断が付きにくい。
余計な話はしたくない。黙って私も手づかみでお粥を食べた。
食事が終われば私とネリーを除いて全員が外に出かける。
金稼ぎに行くのだ。
さてネリーの仕事は多岐にわたる。
まず洗濯。
力のある家の主婦は井戸のそばに陣取るが、私たちはなるべく汚くない端っこで桶を広げる。
石鹸も洗濯用洗剤もなく。
ただひたすら桶の中の洗濯物を水を変えながら力いっぱい踏みまくる。
これが結構な労働でネリーに力の入れ具合がいいねとお褒めの言葉を頂いた。
これで明日からしばらくは主に洗濯の担当になりそうだ。
ネリーが洗濯物を干しに行ってる隙にみんなの洗濯と別に体操服と下着をアイテムボックスから取りだしこっそり洗ってみた。
洗剤がないから綺麗にはならなかった。残念。
そのうち洗剤が手に入ったら洗い直ししてみよう。
御守りも丁寧に洗ってこっそり乾かす。
乾いた下着と体操服はアイテムボックスの中へ。
御守り入れ用にドロワーズに簡単なポケットをこっそり作った。
次に掃除。
居間は子供たちの足跡で汚れている。
裸足で土足だから仕方ない。
それを草を束ねたもので掃くのだ。
水が勿体ないのか布が高いのか水拭きはしない。
現代日本で産まれ育った女子高生には整備されてない土の上を裸足で歩くのは無理過ぎる。
だから目立って仕方ないけど許可を貰って履いている。
当然だけど一人だけ靴を履いてズルいって目で見られて肩身が狭い。
ここでは靴はそこそこ高価らしかった。
貴族か大商人か冒険者しか持っていないとのちにゼップに聞いた。
女でしかも子供が履けるのは貴族の娘しかいないのだとか。大商人の娘は危険な街中は歩かないのだそう。
だから憎悪されたのだと気づくのは後になる。
汚い上履きをわざと洗わないのは羨ましがる子供たちに盗むのを躊躇して欲しいから。
だけど盗むのに罪悪感のない子供たち。
これ以降隙あらば奪ってやるって目付きされて、朝や水浴びの時には靴を探す子供も何人かいた。
取られたくないなら自分で管理しなってネリーに云われているから井戸で体を洗うときや寝るときはアイテムボックスにこっそりしまったりしている。
トイレ壺の中身は廊下の明かり取りの窓から豪快に投げ捨て。
中世ヨーロッパのトイレ事情と一緒だった。
だから確か窓の下や道の隅を歩いてはいけないんだよね。
トイレ壺の中身を処理するためか廊下の窓は大きく低めだった。
私には階段ないと捨てるの無理だったけどね。
最後に2つのトイレ壺を洗いトイレ回りの床を葉っぱで清掃する。
このトイレ掃除には本当に叫び出したいほど嫌な目にあった。
水がもったいないのか床を水拭きしないで不衛生。乾いた草束で汚物をこすり取り水分を吸いとるだけ。
小さな子供もいるせいかトイレ壺とその回りは結構汚れている。
汚れた草束は乾かして炊事の燃料になるのだそう。
ゴム手袋なんてあるわけないから素手での掃除だ。
石鹸で手を洗いたくてたまらない。時間をかけて手を洗ったけど、まだ汚れが付いてる気がする。
何度も手を臭い汚れがないか確かめる。散々だった。
何度も手を神経質に洗う私をネリーはジト目で見ていた。
「そこまで水をつかうなら後で水を汲んどくれ。エマのせいで炊事に使う水が不足してしまったよ。」
井戸まで行ける。
喜んで井戸まで水を汲みに行く。
そこでも大量の水を使って手を洗った。
もうトイレ掃除はしたくない。早く外で仕事を見つけたい。
毎日掃除しているネリーには頭が下がる。
あれ?トイレ掃除した手で炊事するんだよね?
不吉なことまで考えそうになり思わず思考を止めた。
変なことまで考えてたら生きていけなくなりそうだもん。
次はベッドルームの掃除。
寝室の明かり取りの窓は高く小さい。
長い棒を器用に使い窓を開けるともうひとつの二又になった棒の先につっかい棒を挟みこみ窓板を固定する。
これを一人でするのだ。
2本の棒を同時に使うなんてネリーはすごい。
無論夜は閉じるから建物の中は真っ暗闇になる。
日暮れに食事してトイレしたら就寝。自分の手すら見えない闇の中では何も出来ない。
一般家庭なら蝋燭に火を灯し少しの間起きているのだそう。
蝋燭は高いから毎日ちびちびしか使わないと聞いた。
そして孤児院に蝋燭なんて贅沢品はない。
リンダたちのおねしょの原因は夜中にトイレに行けないからだと気づいた。
気づいても明かりがない以上解決にはならないんだけど。
床を掃いてなんかの草束で床を拭いて終わり。
寝床の藁の管理は自分で行う。新しい藁が欲しければ家畜を飼ってる人から買うしかない。
それも家畜が使用した後の藁だ。
ダニなどの虫がいたり糞で汚れていたりしていることもある。
わざわざそんな物を買うなんて衛生面で躊躇する。
お金ないから買うのは無理だけどね。
ベッドルームの掃除が終わると。
院長室の掃除と買い物のようだ。
院長室は決められた人しか入れないので、ネリー1人が受け持つ。
そういや院長見てないよね。
悪どい印象しかないから出来たら会いたくない。
その間私は台所の掃除を宛がわれた。
土間を掃いて竈の灰を掻き出し捨てるのだけど、要領が悪くて体中灰だらけになってしまった。
ネリーに帰った時に見つかり怒られた。
証拠隠滅を計ろうにも無理だったけどね。
どうしようもなくてドレスとドロワーズを洗うことになってしまった。
寄越すときぐちくち文句云いながら渋々ドレスとドロワーズを貸してくれたのが印象的だった。
ネリーとしては余計な物は渡したくなかったんだろうね。
怒られながらネリーに命じられて井戸に向かわされた。
一方ネリーは院長がいるときは院長のお使い、いない時には洗濯物を取り込む。
そして洗濯物をしまう頃には夕食の準備が待っている。
洗濯を急いですませると夕食の準備を手伝った。
無駄なことなど1つもない。
これから生きるためには全て必要なことだ。
包丁なんてない。ペティナイフを器用に使って調理している。
まな板がないから食材を手にしたまま空中で切り落とすのは手を切りそうで怖かった。
野菜をごしごし洗って皮付きのまま刻んで水で煮込む。
アク取りなんかしない。
出汁取りもしない。
ただ材料をぶちこんで水で煮る。
味付けは塩のみ。
砂糖だの胡椒だの唐辛子だの、酢だのない。当然のことだけど醤油なんてあるはずがない。
せめてハーブなんかがあると味のバリエーションが変わっていいんだけど。
だから味はいつも同じで美食家の日本人としては物足りなかった。
もう少し余裕が出ると辛いとか飽きたとかなるのかな?
基本食べられたらそれで満足だから幸いにも未だに辛い気持ちにはならないでいるのだけども。
ガスや電化製品のない世界の炊事は興味深かった。
例えば火打ち石とか。
私には火を灯すのは難しすぎたけど。
竈の温度とかかなりいい加減で取り敢えず沸騰すればいいと強火で調理していた。
ある程度グツグツ煮込んだら弱火にするとかの技法?もなさそうで、取り敢えず生煮えさえしなければいいっていいたそうな料理だった。
この世界の調理法なのかよくわからない。貴族なんかは火加減や調味料の使い方はちゃんとしてるだろうけど。
夕食前に稼ぎの成果を聞いてそれに準じた食事を出すのもネリーの仕事だ。
私は稼ぎがないからオートミール擬きが出される。
小さな木のお茶碗に半分だけ。
色も味もげろっぽいけど食べるものがあるだけで十分。
それに胃が小さくなってしまったせいでこのオートミールだけでも満足した。
昨日ゼップとやらが大金盗んで来たのにお肉すら並んでない。
多分院長が懐に入れているんだろうね。
ああ、手を合わせて頂きますしたらみんなから変な目で見られたな。
トミーが何をやってるのかしつこく知りたがったが答えてやれない事もある。
記憶ないからわからないって適当に答えておいた。
「覚えてなくてもやる習慣はあるんだね。」
ネリーは意味ありげに笑っていた。
油断ならない。
その話をしたのはトミーだけで、しかも回りに誰もいなかった。
つまりトミーがネリーにご注進に走っていたと云うことだ。
犯罪で稼いだお金で食べる抵抗感はすぐに消えた。
嫌なら食べなければいい。
だけど生き延びる為と思うと躊躇はなくなった。
一度餓死しそうになった者は図々しい。
それでも犯罪で得たお金で頂いているとついつい手を合わせてしまう。
今日も糧をありがとうございます。私たちの為にご迷惑おかけしました。本当にすみません。あなたの犠牲の上で今の私が生かされていることを絶対に忘れません。ありがとうございます。
みんなうろんな眼差しで見ているけどこれだけは変えたくなかった。