トンボさん
「今宵はもういらっしゃらないのかと思っておりました。なにぶんわたくしも、ほかのお客さまを時間どおりにお送りする義務がございますので、本当にもうしわけございません」
コオロギさんはふかぶかと頭をさげた。
「いえいえ、とんでもございません。悪いのはちこくをしたわたしです。じつは家内にないしょで出かけようとしたところを、あっさりと見つかってしまいまして。家内はあいじょうが深く、とても嫉妬がはげしいので、わたしと片時もはなれることをよしとしないのです。せっとくして許しをえるまでに約束のじかんがすぎておりまして、こうして全速力で追いついたしだいでございます。ああまったく、これで一年ぶんの労力を使いはたしてしまいました。わたしはとうぶん飛べません」
長いせつめいを終えると、トンボさんは招待状をコオロギさんにわたした。
トンボさんのバッチはみどり色だった。
「はい、たしかに。これで全員がおそろいになりました。ささやかですが、月に到着するまでのあいだ、宴を催しましょう。今宵、みなさまにめぐり会えたことに感謝をしめして」
コオロギさんはそなえ付けてある小さなかごから、グラスを四つと、はちみつとくだものをとりだした。
「まあ、すてきね。わたくしもおみやげにと思いまして、こちらを用意しましたの。お口にあうとよろしいのですけど」
ヒマワリさんは恥ずかしそうに、もっていたかごのなかから、二だん重ねのお弁当箱をとりだした。
コオロギさんはお弁当と、グラスと果物をテーブルクロスをしいた床の上にきれいにならべた。
「わあ、すごくいい匂いがする」
ヒマワリさんのお弁当は、おかあさんの作る料理とおなじ匂いがした。
中身は月におそなえをする煮物と、くりごはんと、木いちごのサラダだ。
赤いにんじんやお芋を星のかたちにくりぬいてあって、まるで星空をたべる気分でぼくはうれしくなった。
「さあ、カンパイしましょう」
「わたしもワインを用意してきたのですよ。うさぎのぼうやには山ぶどうのジュースだ。わたしと家内が、毎年愛情をこめてつくっているから甘くておいしいよ」
トンボさんは、コオロギさんとヒマワリさんにワイン、ぼくに山ぶどうのジュースをグラスにそそぐと、月にむかってグラスを持ちあげた。
「では、この素晴らしい日に感謝をこめて」
「カンパイ!」
カキン、とグラスがぶつかる音がした。
ジュースのなかにまんまるお月さまがぽっかりと浮かんでいた。
このまま飲みほしたら、お月さまは消えてしまうのかな。
「さあどうぞ、ぼうや。好き嫌いはないかしら」
ぼくは星のかたちのにんじんと、三日月の形のこんにゃくをほおばった。
ほんとうは、にんじんはあまり好きじゃないけど、おかあさんがぼくにも食べられるようにと、甘く味つけしてくれたのとおなじ味がした。
「とってもおいしいです」
「まあ、うれしいわ。たくさん召しあがってね」
ワインをいっき飲みしたトンボさんと、柿をむいているコオロギさんは、二人で大人の世間ばなしをはじめていた。
「今年の夏はミツバチどのが長期のバカンスに行きましてね、はちみつがなかなか手に入らなかったのです。お帰りになられるのは再来年だそうで、今年はわが家自慢のお料理をお客さまにお出しできませんでした」
「ええ、ええ。わかりますよトンボさま。ですがここ数年、ミツバチさまは働きづめでしたからね。休養がひつようなのでしょう。いやしかし、南の国ですか。うらやましいですね」
「コオロギさんは、冬のご旅行はどちらに?」
「いや、なにぶん仕事がいそがしいもので。くわえて今年は不景気ですから、もしも有給がとれたら妻とどこか近場に…」
おとうさんもそうだけど、やれ仕事だ、やれ景気がどうだと、大人の話はいつもいっしょだ。
ぼくはコオロギさんとトンボさんの声を聞きながら、まだずっと遠くに浮かんでいる月をながめた。
手をのばせば届きそうなのに、気まぐれに雲のなかにかくれる。
秋の風はすこし寒くて、やさしくて、かなしかった。




