2-(1) のち、絶望
「君、誰……?」
それは麻弥にとって想定すらしていなかった反応だった。
制服姿の少年が訝しげにこちらを見ている。瞳がぐらぐらと揺れている感覚すら妙にリアル
で、ちょうど吹き抜けた一陣の風は、さも自分達を隔てんとするものであるかのようで。
「覚えて……ないの? まさか、あの事故の後遺症が──」
そして不意に思い至ると、思わず口元に手をやって絶句した。
あり得る。だとすれば何とも短慮ではないか。
身体的なものか精神的なものか、あの事件は自分達にとって決して小さなものではないの
だから。
「……すまないが。君こそ誰だい? ここの生徒、ではないみたいだけど」
一方で、彼女を訝しむ人物がもう一人いた。他ならぬ聖の横にいた晴だった。尚もぼうっ
と突っ立ってしまっている義弟に代わり、彼はスッと数歩前に出るとそうこちらに誰何して
くる。
「え、えっと……」
麻弥はすぐに答えることができなかった。
果たして、どこまで喋ってしまっていいものなのか?
少なくとも魔術絡みの発言はすべきではないだろう。既に警戒されているし、こちらの素
性にも薄々気付いているかもしれないが、お互い穏便に事が済むに越したことはない筈だ。
「その。私、昔ひーく──彼のお隣さんだったんです。幼馴染っていうか……。そうしたら
偶然、この街で彼の姿を見かけて……。それで、会いに来たんですけど……」
「……ふぅん?」
嘘は言っていない。ただ、巫監のエージェントという身分は結局伏せたままだった。
だからか、それでも晴の疑いの眼差しは晴れなかった。
じとっとこちらを値踏みするような眼。……そうだ、やはり無理があったのだ。そもそも
あの日、自分達は路地裏の一件で顔を合わせている。自分個人の動機が言葉の通りであれ、
彼が額面通りに信用してくれる保証なんて、どこにも……。
「だからって、学園にずかずか入って来れるなんて思えないんだけどね?」
「うっ」
案の定だった。彼はそれでもこちらの不自然さ、矛盾を突き、揺さぶってくる。
「……僕らの記憶力も舐められたもんだな。まさか覚えていないだろうと高を括っていたの
か? 君はあの日、路地裏に飛び込んできた魔術師達の一人だろう? 鳩──式神を使って
いたのを、僕はちゃんと見てる」
「……」
だから、いやようやく、麻弥は思わず彼らに声を掛けてしまった自分の判断が間違ってい
たのだと後悔していた。
ひー君が自分のことを覚えていないのはショックだった。だけどもっと喫緊の問題が自分
の不注意のせいで持ち上がってしまっている。
例の魔術薬を服用していた学生達。
その彼らを倒していた──らしいこの二人との関係性。
「君は何者なんだ? 一体、何を隠してる?」
事態が拗れてしまっていた。
このハーフの少年の態度を硬化させたことで、巫監としての本来の任務が──。
「……」
「? 聖?」
だが、そんな時だった。それまでぼうっとしていた聖が、ふと自分を庇うように前へ出て
いた晴を押し除けるとゆっくり歩き出したのである。
そんな友に、妙に俯き加減の彼に、晴はふらつきながら眉を顰めた。
それは麻弥も同じだった。
思い出してくれた? いや、そんな感じではない。
ただゆらりと、ゆっくりこちらに歩いて来て、ニタリと口角を。
「がっ──!?」
一瞬の出来事だった。麻弥は察知することさえもできなかった。
認識したのは、息苦しさ。彼はゆらり歩き出したかと思うと、一気に──それこそ常人で
はあり得ないような加速でこちらの懐に入ると、右腕一本で彼女の喉元を掴んで持ち上げて
いたのである。
「しまった……!」
晴が逸早く、この状況が何を意味しているかを理解し、聖に飛び掛ろうとした。
しかし予想済みとでも言わんばかりに彼を邪魔するものが躍り出た。
──“闇”である。
まるで底なし沼のような真っ黒な泥が、麻弥を締め上げる聖の全身から大量に溢れ出し、
晴の行く手を遮ったのだ。
「……ハハハッ! まさかのお前かあ。折角命拾いしたってのに、またのこのこやってくる
なんてなぁ!」
「ぐっ……。わ、私を、知って、る……??」
「おうよ。《羊》達は断片的にしか覚えてねぇが、記憶の収集は俺の役目だったからなあ。
よーく覚えてるぜ? 谷崎麻弥。この相馬聖が、俺達を引っ張り出してまで守らせたガキ
んちょだ!」
邪悪な哄笑。猛烈なその握力にもがき苦しみながらも、麻弥は直感する。
──ひー君じゃ、ない……。
溢れ続ける黒いぬめりに少しずつ抵抗する指先も取られる中、更に彼女は確かに見た。
こちらを締め上げて見上げてくる目。その両の瞳が紫に、闇を思わせる暗く濃い色に輝い
ていたのを。
「止めろ《沼》っ! 戻って来い《羊》っ!」
「無駄だよ。暫くは出てこれねぇ。俺達が押さえてる。大体晴、お前にだって利益はある筈
だぜ? 原典を知ってる人間がいれば、その数だけリスクになる。俺達やお前ら母子だっ
て……呑気に暮らすこともできなくなる」
「……」
闇に阻まれて急停止し、それでも彼を止めようと叫んでいた晴が、はたと口を噤んだ。
納得したから……ではない。迷いのようだった。麻弥には、締め上げられる苦痛もあって
よく分からなかったが、どうやら彼はこの変貌した少年からの指摘に苦々しく黙るしかない
らしい。
「どう……して? 何で、こんな」
「何言ってんだか。お前がのこのこ出てきたからじゃねーか。更に魔術の関係者にまでなって
やがる。……捕りに来たんだろ?」
「ちがっ」
違うの。もしかしたら──今回の事件の犯人が貴方なら、そうしなければいけない立場だ
けど、ただ私は貴方に、生き延びていてくれた貴方に会いたかった──。
しかしそんな彼女の言葉は、もう言葉にすらならなかった。
冷たく重い、巨大な万力のようにじわじわと締め付けられる感触。狭まっていく呼吸。
聖は暫しじっとそんな麻弥を見上げていた。やがて涙が生まれ、苦しみと哀しみで歪めら
れたその表情すらも。
「……。喰うか」
「ッ!?」
ぽつり。そう呟かれた瞬間、麻弥は恐怖のままに目を見開いた。
聖を覆う闇が文字通り牙を剥いたのだ。底なしの沼のような真っ黒いぬめり。それらはま
るで彼のそんな合図に応じるように何本もの触手となって持ち上がったかと思うと、ぐわっ
と一斉に裂け、鋭い牙を生やした口をみせてきたのである。
やめろぉ……ッ! 晴が一瞬戸惑い、しかしやはり彼を止めようと叫んでいた。
持ち上げられた闇の口がゆっくりと迫る。それらの隙間、背後の向こうで晴が急いで何や
ら懐に手を入れだしていたが、麻弥にはその意味を考える暇すらない。
牙から垂れる唾液すら闇。
突然で理不尽で、だけど彼女がスッと諦めかけようとした──その時だった。
「おぉぉぉぉぉ──ッ!!」
殆ど吼えるような怒号。だがそれは一目散に、明確な殺気を持って襲い掛かる。
正明だった。ちょうど三人からみて側方、校舎の渡り廊下側から飛び出してきた彼は、地
面と擦れ擦れなままに地面を蹴り、跳んでいた。
握り締められていたのは例の長い布包み。はらりと取り出されたのは……太刀。
こちらもまた人間離れした速さで飛び込んできたかと思うと、次の瞬間鋭い一撃が聖に向
かって叩き込まれていたのである。
「…………!?」
晴を遮っていた筈の大量の闇。
だがそれすらも彼が放った一閃は打ち破って四散させ、その勢いのまま聖の両腕をも斬り
飛ばしてしまう。
聖──《沼》本人も、流石に驚いたようで目を見開いていた。
宙を舞う斬り飛ばされた両腕、一閃を放ったこの黒革コート姿の男、スローモーションの
如き錯覚。
だがそれはやはり一瞬のことで、次には第二撃が待っていた。
斬り上げからの振り下ろし、横薙ぎから突きへと。
その全てを聖はかわすことに注力していた。刀身が黒いぬめりに触れる度にそれらはまた
四散し、最後の突きの位置を見極めた彼は大きく跳躍。空中で一回転しながら距離を取り直
すように着地する。
「……退魔刀か。いきなりの癖に物騒なモン振り回してくれるじゃねえの」
ぼたぼたっ、斬り飛ばされた腕が続けざまに地面へ落ちた。
そして締め上げていたそれらが力を失ったことで、麻弥もようやく解放される。
勢いと重力法則に従い、一度宙を浮いたその身体は少し遅れて尻餅をつきながら落下、程
なくして彼女をげほげほと大きく咳き込ませた。
「……大丈夫か、麻弥?」
「う、うん。まだ喉が痛いけど、何とか……」
義妹にちらっと眼を遣り、正明は改めて聖を──この不埒者を睨み付けた。
「そうか。……おいてめぇ、うちの妹に何しやがる。殺すぞ」
「斬っておいて言うことかぁ? 妹……こっちの記憶に兄貴はいなかった筈だが……」
怪訝に眉根を寄せて、正明が太刀を正眼に構えた。
それでも聖はけろっとしていた。斬り落とされた腕の断面は赤い血の一つも滴らず、尚も
纏う闇と同じそれが濛々と立ち込め続けている。
「に、兄さん! これ……」
そんな最中だった。突然後ろで麻弥が、尻餅をついたまま酷く青褪めた表情で呼んできた。
もう一度正明が、正面に警戒を残して視線を遣る。
すると示されたそこには腕が──最早ただの円筒な布になった下で、禍々しい刺青のよう
な文様がびっしりと刻まれた聖の左腕があったのだ。
「これは“呪刻”……。お前“魔法使い”か!?」
彼女が言わんとすることを、正明もまた即座に理解していた。
叫ぶ、振り返る。
それは忌むべきもの。魔術に在って魔術に非ず。邪法に手を染めし者達が宿す証……。
聖──《沼》は哂っていた。同時に地面に落ちた両腕がにわかに闇に包まれる。
いや、それは厳密な表現ではない。闇そのものに為っていたのだ。
まるで千切れた水流が一所に還るように。漆黒のぬめりとなった両腕は、慌ててかわした
正明や麻弥の間を掻い潜り、一直線に聖の下へと合流していく。
「……」
両腕が、完全に元通りになっていた。
ただ着ていた服までは対象外なのか、円筒状な袖の切れ端だけはその場に残り、結果彼の
服は無理やり千切られた半袖のようになっている。
「化け物め……」
ジャキリッと太刀を構え直し、麻弥を庇うように半身・足の裏を擦らせ、正明はこの少年
と相対した。
麻弥は完全に狼狽し、怯えている。懐に手を入れたままだった背後の晴も、気付けば何か
隙を窺がうようにじっとこの豹変した友の様子を注視していた。
当の聖は、尚も余裕をみせていた。
より一層立ち込めていく闇。底なしの漆黒。
一度は四散させられたそれが、再び彼女達を──。
「──ッ!?」
しかし、まさにその瞬間だった。
闇を纏って襲い掛かろうとした聖、その首筋を、突如何かが飛んできて刺したのだ。
ぐらり。効果はてきめんで、程なくして彼はその場でゆっくりと横に傾き始めた。
「これ、は。畜生……また、邪魔を──」
瞳に煌々と宿っていた紫色が薄くなり、消えた。
するとどうだろう。まるでそれが凶暴さの切れ目であるかのように彼の身体はばたりと地
面に倒れ、纏っていた闇も不穏な気配も一緒になって掻き消えてしまったのである。
「……?」
「え? 何……?」
正明の傍に寄り添い、麻弥も近付いていった。
眠っていた。先程までの剣呑さは凶暴さは何処へやら、そこには小さく溶けた球の跡を伴
った鍼を首筋に刺され、意識を失ったとみえる聖少年の姿だけがあった。
「──間に合ったみたいね」
そして声が聞こえた。兄妹が、そして同じく気難しい表情をして駆け寄ってきていた晴が
振り返る。
「だ、大丈夫でしたか、麻弥さん、正明さん!?」
「ふぅむ。やはり正明を行かせるのは間違いだったか……」
「卯月さん、羽賀さん、物部君! それ……に?」
場に、この中庭に駆けつけてきたのは、他ならぬチームの仲間達だった。
凛に伴太、そして武蔵。馴染みのある面々に麻弥は思わず安堵したのだが。
「……誰だ? その人」
「……」
正明が、片眉を上げながら代わって言う。そこにはもう一人、白衣を引っ掛けた見知らぬ
外国人女性がいたのだ。
「母さん……」
瀬名川アリス。
晴の母でもある、この街の魔術師だった。