1-(3) 魔術師の家
瀬名川家は旧市街の一角にあった。
低く広く建ち並ぶ昔ながらの家屋の群れ。そんな、道すらも所々狭まり入り組んでいる中
に埋もれるようにして、その家は建っている。
大別するなら、レトロな洋館。だが建てられてから相応の歳月が経っているのか、或いは
意図的にそうしてあるのか、その全体は縦横無尽に繁茂した庭の木々や蔦がそっと隠し通そ
うとしているかのようだ。
「ただいま~」
「……ただいま」
放課後、申し合わせ通り晴と聖はまっすぐにこの家へと帰ってきた。
晴にとっては文字通りの我が家であり、聖にとっては生まれ変わって以来、居候先となっ
ている古民家。彼の(当然ながら)忌憚ない足取りの後をそっとついていくように、聖は息
を潜めて立っていた。
玄関で靴を脱ぎ、夕方近くとはいえ妙に薄暗い廊下を往く。
台所、そしてリビング。晴と聖はひょこっと室内を覗いたが、そこには誰も──目当ての
人物の姿はない。ちらりと互いを見合わせ「やはりあそこか」と言葉なく理解する。
地下室であった。
一見すると廊下を曲がった先の突き当たり──行き止まりでしかないように見える壁。
だがその一角を軽く小突くと、キィ……とひとりでに壁の一部がくり抜かれたドア状にな
って開くのだ。
「? ああ、おかえりなさい」
十ほどの階段、段差を下りると、すぐそこにはおよそ民家とは違う光景が広がっていた。
いわば──研究室。
石床な部屋の中央、ないし壁際には点々と据付型のテーブルが置かれており、その上には
大小様々な形のフラスコやビーカーがずらりと木製の立て具に収められている。
ぽこぽこと、方々から気泡を吐き出している容器の中の液体達。
緑や桃色、透き通った金──それらはやはり全体的に薄暗い部屋の中にあって、怪しげな
雰囲気を演出しているかのようだ。
「ただいま。……研究?」
「じゃ、ないわね。頼まれてる触媒の精製。納期が近いから」
そんな室内に彼女はいた。
石床をカツンと踏んで、程なくしてその視線はこちらに向く。白衣を引っ掛けた、晴と同
じ金髪の女性である。
瀬名川アリス。晴の母親で、この洋館の主──そして聖にとっては居候先の家主といった
ところか。
顔を出してすぐこそ真剣な横顔だったものの、息子達が帰ってきたと分かるやその気色は
確かにふっと緩んでいた。聖が黙している中、母と子、ごくごく自然な会話が一先ず交わさ
れる。ややもすれば二人が英国人(のハーフ)であることを忘れてしまうほどにその日本語
は流暢だ。
「メール、見てくれた?」
「うん。飛び火してきたってあったけど……」
一旦作業の手を止めて、アリスは確認するように訊ねてきた。
頷き、その詳しい話を促す晴。彼はとりあえず、聖と共に空いている椅子の上に鞄を置く
と、コツコツと石床を歩いてにわかに曇った母の表情に目を細める。
「ええ。どうやらこの街を中心に妙な薬が出回っているらしくてね。しかも単に幻覚をみせ
るものじゃない──服用者の身体を異常なまでに強化するっていう代物らしいのよ。もう聞
いてるかと思うけど、実際に服用者による犯罪も多数確認されているわ」
故に、聖と晴は思わず互いの顔を見合わせていた。
一般的なドラッグではない。一種のドーピング剤のようなものか。
それも、彼女曰く“異常”なまでに……。
「……。魔術、ですか」
認めたくない。だが口にしないと話が進まないのだろうと観念し、聖は呟くように訊ね返
していた。こくり。アリスは静かに首肯してみせると深くため息をつき、白衣のポケットに
突っ込んでいた片手を出しながら肩をすくませると言う。
「昼間、魔術側の連中が来てね。事情を聞かれたわ。──貴女はこの魔術薬を作ることがで
きますか? ってね」
「ッ!? なんだよそれ。まるで母さんを疑っている口ぶりじゃないか!」
「まるでじゃなくて、実際リストに含まれてるんでしょうね。何たって私の専門は製薬……
作ろうと思えばいくらでも作れる訳だから」
実の息子が反射的に憤ったが、当のアリス本人は実にさばさばとした様子だった。
まぁまぁ。そう晴を宥めながら彼女は苦笑する。魔術に用いられる各種薬剤の調合。確か
にそれはこの人物──“万薬の魔術師”の十八番ではあったが、他ならぬ彼女自身がこの件
に関して自分は潔白だと知っているからこその態度だったのだろう。
「大体、そんな事をして何のメリットがあるっていうの? 私が言うのも何だけど魔術師は
俗世に興味はない。基本的に探求欲の塊だもの。仮にそういった探求の一環で誰かが素人を
実験台にしているにしても、私じゃないわ。魔術師には魔術師なりの倫理や美学があるもの
よ。私は、そこまで外道じゃない」
「勿論だよ。母さんが犯人な訳ないじゃないか……」
しかし晴は尚も、同意しつつも興奮気味だった。
机の空いたスペースに両拳を押し付け、彼は疑われているというのに妙に落ち着き払って
いるこの母を心配そうに見遣っている。
「……」
聖は、尚も黙っていた。
それは単に母子の会話に割って入ることもなかろうという目測だけではない。
二人は正真正銘の魔術師──の師弟──だが、自分は“そう”じゃない……。
「っ……。行こう、聖」
「え?」
「証明するんだ。僕達で、母さんの無実を!」
「えっ。ちょ、ちょっと待──」
だがそう距離を置いて、何処か気が緩んでいたのがいけなかったのかもしれない。
次の瞬間、気付いた時には、聖は彼にがしりとその手を掴まれていた。
「は、晴?」
「待ってて。すぐ、犯人を捕まえてくるから」
そして当のアリスが虚を突かれ、ワンテンポ引き止めるのが遅れたのにも構わず、晴は聖
の腕を取ったままそうやる気満々な表情を向けると、この地下研究室から飛び出して行って
しまう。
「……やれやれ。私はただ、だからくれぐれも気を付けてねって言っておきたかっただけな
んだけど……」
潮ノ目警察署を訪れ正明が協力者の名を告げると、一行は迅速に秘密裏に署内の一角にあ
る個室へと通された。
現れたのは一見してごく普通の、スーツ姿の警察官。彼もまた本性は魔術師だった。
そこで受け取ったのは、情報。
今回の薬関連の事件をリストアップした書類から始まり、実際に逮捕する事ができた者達
の一覧、素性調査の結果、或いは彼らから取った調書のコピーなどなど。
彼と向き合って座った正明を中心にぐるりと机を囲み、五人は暫しその資料の山に目を通
してから署を後にしたのだった。
「──こうしてみると、殆どが若い子なのね」
「ま、腐っても薬絡みだからな。“普通”の物はともかく、今回のは丸っきりこっち側の“新商品”
な訳だろ? 基本向こう見ずな馬鹿が飛びつくんだよ」
そうして、再び道を戻り、一旦乗ってきたワゴン車の中。
ホチキスで留められた資料を捲りながら、正明は凛の指摘に対し、そう敢えて気持ちまで
深入りせずといった態度で答えていた。
逮捕者のリストを見るに、多くが学生、或いは少し年上のフリーター連中──要するに最
もアウトローの世界に足を突っ込みやすい層だ。そしてそんな、体力的にも決して筋骨隆々
な訳でもなかろう人種がビル内の設備や車体を叩き壊し、時には死人──どうやったらここ
まで惨殺できるのやらと思えるほどの殺人事件まで起こしている。
(なるほど……。確かにこりゃあ魔術が絡んでない訳ねぇわな……)
その内一枚の遺体写真を見て、正明は静かに眉間に皺を寄せた。
物証はまだだが、状況からして間違いなくこれは魔術犯罪だ。自分たち巫監にヘルプが飛
んできたのも頷ける。
「おい、そっちはどうだ?」
「あ、はい」
「うん。大体は書き込めたよ」
背もたれ越しに振り返ると、中部と後部の座席をリクライニングして平らにくっつけ、そ
の上で武蔵と伴太、そして麻弥が作業をしていた。
武蔵が広げて押さえてくれているこの辺り一帯の地図。そこに麻弥と伴太が、署で受け取
った関連事件のリストを片手に一つ一つマジックペンでバツ印を点けている。
ゆうに五十件ほどはあったろうか。
地図上には、二人が照らし合わせてくれた印がびっしりと記されている。
「……ふむ。狙い通りだな」
「ああ。多少ぐねぐねしてるが、全体的に円状に分布してる」
「中心は……潮ノ目市の北東かしら。近くに学校もあるみたいね」
「じゃあ、やっぱり犯人は学生達を狙って薬を……?」
「だと思うんだがな。しかし分からん。何処の魔術師だ? 素人に魔術てんこ盛りのブツな
んぞ配るだなんて。何のメリットがある? 何が目的なんだ?」
「さてな。そこは実際に捕まえてみないと推測しか並べらんだろう」
「……」
地図を囲んで、暫し五人は話し合っていた。作戦会議をしていた。
そんな中、麻弥はフッとそんな兄達の声が遠くなるのを感じる。自分からそっと、会話に
加わっているようで軽く身を引き始めた自分を自覚する。
遠巻きに見る皆。魔術師という人種。
そしてそれは、これから自分もまた踏み入れていこうとしている世界……。
初の実戦任務とはどういうものなのか。再び全身に静かな緊張が走っていくのが分かる。
今はまだ、皆とあーだこーだと話しているだけだけど、そう遠くない内に今回の犯人──
魔術師と一戦を交えることになるのかもしれない。
大丈夫。兄さんは、兄さん達は強い。
だから今回一部隊を任されたのだと思うのだけど、そこに自分がいるというのがまだ何と
いうか……夢みたいな気がしていて。
十年前、自分は町をほぼ丸々焼き尽くされるという大火によって身寄りを失った。
そこで自分は谷崎から御門へ──現在の家に引き取られた訳だが、そこで思いもよらない
世界の真実を知った。
魔術。その実在と使い手たる魔術師達のコミュニティ。それらがこの現実社会と表裏一体
に、すぐ間近で脈々と受け継がれてきたのだということを。
加えて傷もすっかり癒えた頃、ようやく聞かされた。あの事件は、他ならぬ魔術師同士の
抗争が引き起こした人災だったのだと。
……だから決めた。自ら志願した。
幸か不幸か、自分はそんな魔術師の家に引き取られた。それは事件を──魔術の存在を確
実に隠蔽する為の処置だったのだろうけど、同時に自分が同じく魔術師となるには絶好の環
境でもあったのだ。
もう二度と、繰り返さないように。
確かに自分はあの時願った。今だってその筈だ。
自分も魔術師に、善い魔術師になって人々を魔術犯罪から守る──それができるようにな
れば、少しは報われるんじゃないかと思った。あの日、理不尽に奪われた命。お父さんやお
母さん、お祖父ちゃんお婆ちゃん、ご近所の小父さん小母さん。皆みんな。
(……“ひー君”)
そして何よりも、この決意を反芻する度に思い起こされるのは彼のことだ。
ひー君。当時家の隣に住んでいた、大人しいけど優しかった、幼馴染の男の子。
ぎゅっと、静かに己の手を握る。
どうか……どうか安らかに。
自分じゃあ直接戦う力は劣っているけど……頑張るから。
「──そうだな。じゃ、先ずはこの手のガキ達を洗っていこう。ある程度浚ったらこの潮ノ
目学園とやらにも足を運んでみる。行くぜ」
そうしていると、はたと正明が方針を打ち出しているのが聞こえた。どうやらぼうっとし
ている間に作戦会議は大詰めを迎えていたらしい。
ガラリ。ワゴン車のドアを開けて出て行く皆の後を、ハッと我に返った麻弥が追い掛けて
いく。駅前のパーキングエリア。新旧のビルと家屋が妙に味のある猥雑さを醸し出す風景。
麻弥を含めた五人は所々傷んできたアスファルトの上に立ち、改めて潮風が混じるこの街の
空気を肺一杯に吸い込んでそっと意気込む。
「……あら?」
そんな時だった。さぁ行こうかというその寸前になって、ふと一羽の鳩がこちらに向かっ
て飛んで来たのである。
「ああ、式神か。何か見つかったのか?」
「ええ……」
それは凛が事前に放っておいた式神の一つだった。
彼女の差し出したその掌に止まり、すんすんとこの鳩──を象っていた折り紙が数度頭を
揺らす。
「皆、行き先変更よ。幸か不幸か……また事例が一つ増えるみたい」
長い髪を揺らして向き直り、神妙な表情。
彼女はそんな使い魔の声なき声を聞くと、そう一同に告げたのだった。