4-(0) 毒牙からの遁走
「隊長ぉーッ!!」
突如風と共に疾走していったその向こう側で、クラリッサが昏倒していくこの一部始終を
麻弥達は見ていた。
デズモンド──の姿をした偽者から溢れ出した濃緑の毒煙、悲鳴を上げつつも下手に近付
けない彼女の部下達、そしてデズモンドだった人皮がすっかり萎んで崩れ、独りでに無に還
り始めていくさま。
聖は寸前で飛び退いていたようだ。ちょうど両者の間に片膝をつく格好になっていた晴の
背中を視界に、毒々しい緑は濃く濛々と立ち込めている。
「……助けなきゃ!」
危険なのは直感していた。だが、たとえ知り合って数時間ほどでしかない女性であろうと
も、麻弥は駆け出そうとしていた。
もう魔術の所為で、人が傷付くなんて……嫌だったから。
「待て。麻弥」
だがそれをサッと手で制する者があった。他ならぬ、彼女のすぐ傍らに立っていた義兄・
正明である。麻弥は思わずそんな彼の横顔を見上げていた。
どうして?
軽く制されているだけなのに不思議と動けない。掌から伝って、感じる。見上げたその横
顔はぶすっと顰められているが、義妹を止めているその心はきっと愛情に満ちていたから。
その直後だった。まるでこのデズモンドの偽者が爆ぜたのを合図とするように、周囲の他
の使い魔達もが次々に爆散、同じく濃い緑の毒煙を撒き散らしてきたのだ。
「げぇっ!?」
「こ、こっちも……」
「くっ……。退避! 退避ぃ!」
それはちょうど外側、一同をぐるりと囲むボーダーを形成していたゾンビ達で。
巫監の、騎士団の面々がそれぞれ見渡し、顰め、慌てて後退していった。しかしそれでも
毒煙はまるで生き物のようにうねりながら襲ってくる。騎士達の何人かが逃げ遅れて巻き込
まれ、白目を剥いて倒れた。
「囲まれたか……。皆、私達の周りに!」
「瀬名川君も、早く!」
武蔵、そして凛が叫んだ。共に素早く胸元で印を結んでいる。
次の瞬間、彼らを中心に半球型の結界が形成された。迫ってくる毒煙がその外郭で受け流
されるようにして流動する。呼び戻された晴が、倒れた同胞を引っ張り出し担ぎ上げた騎士
達が、慌ててその合間を縫ってこの内側へと避難していく。
「聖!」
「こっちは気にすんな、そっちこそ吸い込むんやないぞ!」
防御結界の中から晴が聖──《虎》に向かって叫んでいた。当人は大丈夫だと言う。見れ
ば白目を剥いて気を失ったクラリッサをひょいと肩に担ぎ、すんでの所でこの毒煙群を潜っ
ているようだ。
「ったく。せやから来るな言うたのに……」
聖はチッと独り静かに舌打ちをしていた。一番面倒な方向へ、この女は状況を混ぜっ返し
てきなすった。騎士団だか何だか知らないが、余計な事をしてくれたものだ。
「ひー君!」
また──いや今度は別の、自分を呼ぶ声がした。
御門麻弥だった。結界の中で、兄に飛び出さぬよう片手を取られ、それでもこちらを心配
そうに見遣って呼んでいる。早くこっちに──という意図なのだろう。
「……」
だが聖はその意図に応えなかった。見返しこそはしたが、彼女達の方へ向かうことはしな
かった。
何処かで“近付いて”はならぬと思っていた、言い聞かせていたからだと思う。物理的に
それを軽く越えてしまえば、気持ちの方もいずれ持っていかれてしまうような気がして。
とはいえ聖自身、そんなフッと過ぎったイメージは決して口にはしない。ただもっと目の
前の現実、現状として、ただ皆で寄り集まってもこの毒煙が晴れて──自分達を避けてくれ
るとは思わなかったから。
外側、ぐるりとゾンビ達が包囲していたのは、やはり……。
「ちっ……」
再度、今度は向こうの彼女達におそらく見えたであろう位置で。
聖もとい《虎》は舌打ちをしていた。
何で俺が、こいつの尻拭いをせんといかんねや……。
ちらっと周囲、うねって面々に迫る毒煙の全体を観る。デズモンドが残した面倒な奴らを
見遣る。
カツン。そして聖はそう脚で地面を押していた。するとどうだろう、まるで彼が合図を送
ったかのように、三度周囲のコンクリートな地面は次々に塊ごと隆起、巧みに彼自身と麻弥
達を毒煙から阻む防壁のようにびっちりと展開してこれを大きく迂回させた。
「毒ガスが……」
流動する脅威が通り過ぎていく。伴太や騎士達がこの大地の魔法を少なからず驚いて見上
げ、ぐるんと上部で反り返りアーチ状に組み合わさったそれらに目を瞬かせている。
「よくやった! 早く、隊長をこっちに!」
そうして頷くように叫ぶ副官。彼はこちらに手を伸ばしていた。
あんたらの為じゃないんだけどな……。まぁいいけど……。
よっこいせ。存外軽いクラリッサの身体を肩に引っ掛け直し、石壁のアーチと己の後ろ姿
を背景とするように。
聖はようやく、彼らの方へと歩き出していた。




