2-(6) 愚者につける薬(後編)
「くそっ! くそっ! 何なんだよあいつら!?」
尾藤忠男は逃げていた。アジトの裏口から飛び出して程なく、自身も件の薬を服用して身
体を強化し、ビルからビルへと飛び移りながら逃げていた。
(マジでやべぇ……。この薬もぶっちゃけ化け物じみてるけど、あいつらは化け物そのもの
じゃねぇか……)
途中振り返りながら見た。スーツの大男が半裸になったかと思うと巨大男になっていた。
べっぴんなお姉さんが宙に投げた折り紙がでかいライオンになっていた。
おかしい。あり得ない。何がどうなってる!?
尾藤にある記憶が過ぎった。少し前、自分達と取り引きのあったグループが一つ、突然壊
滅したのだ。リーダーは重症を負って入院、他の面子も記憶がおかしくなっているらしく、
それとなく仲間達に探って貰っても要領を得ない。
まさかあいつらがやったのか? それで、今度は自分を──。
「いた! あそこ!」
「……ッ!?」
そんな最中だった、尾藤が不意に耳に届いた声で振り返ると、その眼下には明らかに自分
を見上げて自分を追って来ている者達がいた。
箱みたいな鞄を持った奴、白いニーソの可愛い子ちゃん、あと無愛想。
一旦は屋根の上でブレーキを掛けかけた彼だったが、その駆け足は再び急激なアクセルを
踏み込んでいた。
「あぁ、また跳んだ! に、逃げられる……!」
「……《狼》か? いや《燕》なら──」
「任せて!」
慌てる伴太。すると麻弥は頭上の尾藤に指先で組んだ両手を向けながら、素早く印を結んだ。
するとどうだろう。それまで遮るものの無いと言わんばかりに飛んでいた彼の真正面に半
透明な壁が出来、ごちんとぶつかった次の瞬間には彼をぐるりと囲って閉じ込めてしまった
のである。
「でっ……あがっ!?」
そのまま、重層的な殻に捕らわれた尾藤は真っ逆さまに地面に落ちてきた。
何度かバウンドして、立つ殻──もとい結界。何が起こったのかまだ理解できていない彼
の下へ、麻弥達は急いで駆けつけていく。
「くそっ! 今度は何だよ!? 出せ、出しやがれ!」
「駄目です。貴方は私達が責任を持って捕まえなきゃいけないんです。お願いですからじっ
としててください」
物部君。尾藤の半ば喚きの訴えも虚しく、むっと膨れっ面になった麻弥は伴太にそう促し
ていた。頷き、鞄を置いて中をごそごそと探っている彼。すると。
「く……そぉッ!」
噛んだ。尾藤は懐からびっちりと例の魔術薬を詰めた小瓶を取り出すと、数粒一気に口に
放り込んで、噛み砕くようにして飲み込んだのである。
「出せよっ! 俺がっ、何したって言うんだよォ!」
ガンガン。薬の強化によって血走った眼と膨れた腕で彼は何度も激しく結界を叩いた。
だがそれでも麻弥とて魔術師、彼女が制御に意識を向けて耐えることで簡単には壊れる事
はない。するとそれを見て、彼はポケットからサバイバルナイフを取り出し、今度はその刃
を力任せに叩き付け始めたのである。
「ぐっ……!?」
麻弥の表情が険しくなった。元より強く拘束する意図がなかった──彼女自身の甘さもあ
って、結界が少しずつひびをきたし始めたのだ。
「あ……アァァァッ!!」
そして、砕ける。
半ば狂い始めた尾藤の一撃が、遂に魔術師(見習い)の拘束を破ってしまったのだ。
急に自由になったその身体。だが彼はそこで踵を返して逃げるということはせず、あろう
ことかナイフを握ったまま、前のめりの姿勢に任せて麻弥に襲い掛かってきたのである。
「──ッ!?」
目を丸く大きく開いて、彼女が硬直している。気付いた伴太が作業を放り出してその身代
わりになろうと地面を蹴る。
「……?」
だが、結果としてその凶刃は届かずに済んだ。
「痛ぇなぁ……この野郎」
伴太よりも速く彼女の前に躍り出た聖が、その構えた腕にこの刃を刺させて食い止めてい
たからである。
麻弥本人も伴太も、そして尾藤もが驚愕していた。
確かに刺さっている。だが彼はそう面倒臭そうに呟くだけで、血の一つも流していない。
(あっ……)
そして麻弥達は見た。
庇ってくれた聖、彼のその両の瞳が燃えるような赤色に輝いていたことを。
「聖……君?」
「《蛇》だ」
「えっ」
「《蛇》だよ。聞いてんだろ? 俺も、相馬聖ん中の“魔法”の一人だ」
思いの外あっさりと答えてくれて、麻弥と伴太は思わずコクコクと頷いていた。
彼もまた《羊》のようなひー君であってひー君でない人格の一人なのだろう。彼は余裕の
笑みを浮かべていた。刺したのにびくともしない、そんな相手に愕然としている尾藤を一度
睨んでやると、ちろっと小さく舌舐めずりをする。
「熱──ッ!?」
次の瞬間だった。突如として《蛇》の身体中から炎が吹き上がったのだ。
当然、驚き熱に中てられ、飛び退いてのた打ち回る尾藤。
ナイフは次には完全に溶けていた。どろりと熱した飴玉のように、刺さっていた傷口から
ずれ落ち、彼を覆っていく炎に呑まれて消えてなくなる。
更に驚くことがあった。この刺し傷も消えてなくなったのである。
ごうごうと燃え盛る《蛇》の炎。それらが彼の身体を撫でるに合わせ、傷も諸々な服の汚
れすらも、その全てが綺麗さっぱり消え去っていたのである。
「……さて」
利き手を押さえていた尾藤を見下ろしながら、《蛇》──この聖はゆっくりと歩いた。
じりじりっと腰が抜けたまま後退していく尾藤。先ずはそんな彼に、赤い熱を纏った手刀
を一閃。
「だぁっ!? あづっ、熱っ……!」
「喚くな。感謝しろよ? 俺を前にして焼き殺されずに済むんだ。替わる前に《羊》から殺
るのは止めろって散々言われたからなあ……。正直言えば物足りないが、俺は《沼》ほど悪
趣味なつもりはねぇからよ」
ぱちん、ぱちん。指を弾き一発二発。
その度に逃げようとする尾藤の手元足元に火が飛び散り、彼を無理やり方向転換させた。
聖はその間もずんずんと近付く。麻弥と伴太がぽかんとしている間にもこの少年を捕らえ
ようと追い詰めていく。
「くぅ……っ!」
だが、その焦らしがいけなかったらしい。
何度目かの転がり、その後。怯えていた尾藤は吹っ切れたのか、突然手にしていた小瓶の
中の薬を全部、一気に口の中に放り込んでしまったのである。
「あっ」「えぇっ!?」
「おいおい……」
そしてそれは、この薬が魔術世界の産物であり、大きなリスクと隣り合わせであることを
如実に物語っていた。
豹変──変身してしまっていたのだ。痩せぎすの冴えない風貌は何処へやら。血走った眼
は一層激しくなり、身体は常識の限界を超えて隆々、ボコボコと身体中を沸騰させるように
巨大化させたのである。
「ヴォ、オォォォォォ──ッ!!」
猿だった。一言で形容するなら、巨大な化け猿だった。
最早人の形ですらなくなった尾藤。その咆哮が聖達を人気薄い港湾区を駆け抜け、今まさ
に三人に襲い掛かろう力を込め始める。
「ちょ! ちょっとこれは反則でしょう!?」
「あわわ……。に、兄さん達に連絡を!」
伴太と麻弥の二人は聖の後ろで大いに慌てていた。
彼は自分を守ろうとはしてくれる。が、如何せん自分と同じく手に余る敵にあたふた。
だからこそ麻弥は仲間達を呼ぼうと考えた。自分も彼も、荒事に特化した魔術師ではない
からだ。
「こんな大きなお猿さ……んっ?」
だが、ふとそう言いかけた自分の言葉にはたと一つの閃きが走る。
猿=動物=《羊》さんが操ることのできる対象──。
「──」
はたして、その刹那の直感は現実のものとなった。
拳を振り上げる大猿。なのに聖はまだこの真正面に立っている。
……そして麻弥は、伴太は見た。打ち付けられた拳をひらりとかわし、軽く跳びながら半
身を返しているその最中、彼の瞳が赤色から橙色──別人格の“魔法使い”に切り替わって
いくさまを。
着地と同時、聖──いや《羊》はキッと眼に力を込めた。
風が吹くような魔力の流れ、さっとかざされた片掌。するとどうだろう、まるで見えない
糸にでも吊り上げられたかのように、大猿の身体がガクンと大の字を描いて硬直したのだ。
当の本人もやはり驚いたらしく、血走った双眸が大きく見開かれる。
「今だ、御門さん!」
そして振り向いて叫ばれた。ハッと我に返り、されどすぐに麻弥は力強く頷く。
「……」
取り出した破魔蔓。その翠のカプセルをそっと胸元に抱き、魔力を込める。
ぴしゃん──心の中で静かな水面に波紋が伝うようなイメージがあった。軽く瞑っていた
目を開き、ピッと握った腕ごと横に払う。すると破魔蔓のカプセルは件の切り込みを中心と
して展開を始め、左右の湾曲が迫り出して本来の和弓の姿になる。
「……汝は霊木。我は巫女。名字は御門、真名は麻弥。陰陽ノ寮に連なる信徒が願い奉る」
カプセル状態だった時の中央部分。そこが引き絞られ藤頭と握となり、薄い半透明の魔力
の矢がぎりりと、彼女によって尾藤目掛けて番えられる。
「戒めを与うる其の霊威よ。我が言霊と魂を以って、今此処に悪しき災禍を祓い給え──」
祝詞だった。麻弥の、巫事監査寮の魔術師が唱える呪文だった。
表情はとても緊張していた。しかし言霊はしっかりと届いていたようだ。番えていた矢は
半透明から煌く翠へ、そして金色へとその輝きを強く確かなものに変えていく。
限界まで引き絞り続け──それは放たれた。
真っ直ぐに金色の軌跡を描いていく一本。その矢は確かに、大の字になったままの大猿の
鳩尾へと突き刺さる。
「ギッ、ギャアァァァァァ──ッ!!」
断末魔の叫びが上がった。矢がヒットしたその瞬間、彼の身体は同じ金色の無数の蔦によ
って覆われ巻き付かれ、一瞬にしてきつくきつく締め上げられたのだ。
大量の魔力と光が辺りを満たす。聖や伴太、当の麻弥自身もがあまりの眩しさに思わず目
を細めていた。
しかしそれも十数秒のこと。光がその自己主張を止めた時には全てが終わっていた。
蒸発、大きく煙が上がるように丸焦げになった大猿──だった尾藤。
しかしその身体には巨大化した部分は一切消え去り、ただ痩せぎすの白目を剥いた本来の
姿だけが残っていた。
ばたりと、そのまま崩れ落ちるように彼はその場に倒れ伏す。
そこでようやく、麻弥達は勝敗が決したのだと悟ったのだった。
「や……やったぁ!」
最初に飛び上がるほどに喜んだのは伴太。次いで麻弥も弓を握ったまま呆然としながらも
やがて引き攣った苦笑いを浮かべ、この初陣を我が事のように祝ってくれる仲間とハイタッ
チを交わす。
すぐに伴太によって尾藤は確保された。今度こそ木枠のアタッシュケースから手錠──和
の文様が刻まれた特殊な手錠が取り出されて彼の両手に嵌められ、今回一番の目的であった
人物を捕らえたのだ。
「……」
彼がスマホで正明達に連絡をしていた。程なくして皆も合流してくるだろう。
ちらり。麻弥は聖の方を見遣った。最初こそは彼も、じっと横目ながらにこちらを見つめ
返してくれていたのだが……ややあってついっと、わざとらしく目を逸らされしまう。
──だけど、不思議と哀しい気持ちにはならなかった。
そっと掻き抱いてみた胸の奥。
その時そこからは、ほうっと優しい、何か温かさのようなものが感じられていた。




