1-(0) 慟哭の日
視界も意識も、染め上げるのはむせ返るような赤だった。
その日も彼らは何一つ疑っていなかった筈だ。
朝起きて、その多くは昼間に汗水を垂らし或いは頭をフル回転させて働き、日がとっぷり
暮れた頃にようやく家路に就く。
ふと、何の為に自分は生きているのだろう……? そう自己嫌悪を併せて自問したくなる
日常ではあった。だが多くの者はそんな問い自体を詮無いものとした筈だ。してきた筈だ。
むしろ生産性を下げるだけの“雑念”だと言い聞かせ──それでも現実はくそったれだと頭
の片隅では理解していても──日々の生計を立てることがイコール人生だった筈だ。
……なのに、世界はもっと理不尽だった。
家族団欒、或いは自室やアパートの部屋に篭って他者と隔絶し、隔絶された環境で。
夜が深まっていく、まさにそんな最中だった。皆が皆、明日が当たり前のように訪れると
信じて疑うことすらしていなかった。
爆発。予告も何もない熱風。
必ずしも満たされている訳ではなかったにせよ、彼らの平穏は文字通り一瞬で灰になって
しまった。
彼らが振り向く。
その時、各々の瞳に映ったのは猛烈な勢いで破壊され、蒸発していく家財であり、我が家
そのもので。……彼らの住んでいた、とある街そのもので。
『──』
赤い。
少年は生まれて初めて、この三原色の一つがこんなにも暴力的なのだと知った。
闇は深かった。深かった筈だ。
それは、今やおぼろげになってしまった記憶自体の所為もあるのだろうが、この赤い光景
があまりにも逆に闇の色を際立たせていたからに他ならない。
『……っ、ぁ……』
傷だらけだった。少年はぽつんと、原形すら留めてない街の瓦礫の上に立っていた。
それはほんの六歳の少年にはあまりに過酷すぎる現実であっただろう。
一瞬だった。いつものように夕食を摂った後、母はキッチンでいそいそと後片付けをして
いたし、父はリビングで横になってテレビを観ていた。自分は少し離れた所で壁に背を預け
ながら本を読んでいた。……それだけ。ただ、それだけだったのに。
奪われた。あの、この赤が全てもっていった。
ざくり。一点に定まらない身体の力。少年は大きく肩で息をつきながら、再びこの惨劇の
中を歩き出す。
殺した。焼き尽くすよりも早く、砕けた家屋が。
貫いていた。或いは押し潰していた。あまりに突拍子もないことで、気付いた時にはもう
全てが手遅れになっていた。
母の身体に頭に、飛び散った瓦礫が刺さっていた。人間って柔らかいんだなと思った。
父が大きな瓦礫に胸を潰されてへしゃげていた。普段口下手な彼が、気付けば自分を庇っ
て事切れていた。
はたして何処でもう助からないと悟ったのだろう? 諦めた──見捨てたのだろう?
少年は父が作ってくれた物陰から這い出し、暫くの間変わり果てた両親を見つめていた。
元より感情をあまり表に出さない性格だったのが災いした。或いはそれは不幸の始まりだ
ったのだろうか。ぼろぼろと大粒の涙こそ伝ったが、彼は声をあげて泣き喚くようなことは
なかった。
何となく解っていた。だけども解りたくなかった。
瓦礫の山となった我が家を出て、外──というのも既に体を成さなかったが──に意を決
して足を踏み出し、そして少年は知らしめられた。
自分達だけじゃない……。見渡す限り、おそらくこの街の殆どが同じことになっていた。
赤色。燃え盛り、灰燼に帰し、或いは流血を示すそれ。
こんなにも、暴力的な色だなんて──。
ふらりふらり。自身、身体中に傷を負っていたにも拘わらず、少年はそんな無残の跡を歩
き回った。
全てが変わっていた。
顔を合わせば可愛がってくれた近所のお婆ちゃん、よく野菜を分けに来てくれたおじさん
や年上のよく笑うお兄さん、しっかり者で怖いけど本当は優しいお姉さん。
そして──物心つく前から一緒だった、幼馴染の女の子。
誰も彼もが遠くにいってしまった。両親のように瓦礫の下敷きになっていたり、辛うじて
人の形をした、焦げた塊になっていたり。怪我もたくさんしていた。
でも……自分には何もできなかった。
ただこうして他人がたくさん酷い目に遭った、満足に動ける人もいない筈のこの瓦礫の中
を、助けを求めて当てもなく彷徨うことしかできなくて。
『はっ、ぁッ……!』
だけども、限界は程なくしてやってきた。自身もまたボロボロになっていることを身体が
全力で訴えてきて、遂には震え続けた膝が耐え切れずに地面をついた。
荒い呼吸が止まらない。少年は両膝を、両手をついたままの格好でその場に蹲る。
しとしと。少しずつ雨が降り始めていることに気付いた。
そうなればあちこちの火は消えてくれるだろうか……? ぼうっとそんなことが脳裏を過
ぎっていくと同時、思考が自分を哂っている気がした。
瞳が、濁る。
視界ならさっきからずっと霞んでいる。
けれど、それ以上に目に映る世界はどんどん暗くて澱んで、自分の中にどうしようもない
怒りがこみ上げくる。
余りに理不尽なこの現実への、ぶつける相手のいない、怒り──。
『ああ、やっと見つけた』
そんな時だった。ふと直前の気配すら感じ取れず、いきなり頭の上から声が降ってきた。
少年は一瞬身体を強張らせたが、一方ですがり付きたい思いであった。
助けを、呼べる……。
悲鳴を上げ続ける身体に鞭打って、彼はゆっくりとこの声の主を見上げる。
『……いい眼だ。ただ如何せん子供過ぎるが……。まぁよい』
相手が何者かはよく分からなかった。
ただでさえ夜と灰と瓦礫と、降り始めの雨で暗いのに、この人物は頭を含めてすっぽりと
黒いコートで全身を覆っていたからだ。
とはいえ、掛けてきたその渋い声色からすぐに男であることは分かる。
ぱくぱくと口を開け、言葉を紡ごうとする。だがこの男は軽く片手でそれを制すると、何
かを値踏みするように少年を見つめていた。
『この爆発は、ある二人の大人が起こしたものだ』
『──ッ!?』
そして口にされたその一言。少年はすっかり濁ったその瞳を大きく見開き、内側から滾る
その感情を抑え切れなくなっていく。
『ああ、言っておくが私ではないよ? あそこ──あの一番燃えている所にいるのを見たん
だ。まったく、いくら何でもやり過ぎだよ。あれは』
『……』
少年は震える身体を腕を、ぎゅっと押さえつけていた。
男は相変わらず自分の前に立ったまま、口ほど真剣なようには振る舞っていない。それが
余計に、少年にはこの滾る思いに火をくべる結果となり、違うと言われたのにさも彼を仇の
ように睨みつける。
『……ふっ』
笑った。男はフードの下から覗く口元にそっと弧を描き、笑っていた。
『いいだろう、今回は君を選ぶことにする。さぁ答えろ、君が望むものは何だ? 私が一つ
だけ叶えてあげよう』
言って、持ち上げた左腕。その袖口からは何か……刺青、のようなものが覗いている。
だが少年にとってもう、そんな視覚情報は瑣末なことだった。
望みを叶えられる。この男がそう言う。嘘か真かなんてどうでもいい、考えている暇も何
もなかった。
ただ今この瞬間、自分を衝き動かすのはこの滾りだった。全てを奪った──奪おうとして
いる誰かがいる。正体なんて判らない。ただ、それは強く強く願うもの。
『……。僕、は──』
故に少年はそうして口にした。願った。
それが神の奇跡か、悪魔の契約か、問い直すこともなく。