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大蟹ペンタの大冒険② 迷宮下水哲学 仮面の戦士いったい何者なんだ! 醜悪





1



 蟹は暗闇の中にいる。


 両の鋏が、顎の左右の付け根、そして目と目の間を、呻くような音をたてながら撫でまわす。

 

 そして漏れるのは嘆息とも諦めともつかぬ音。

 

 「ふむむ……どうしてこうなったのか!」

 

 蟹は暗闇の中にいる。


 どことも知れぬ深い闇の中に。

 そこは水の騒ぐような流音と、腐敗と汚濁から来る臭気に満ちた空間。

 

 蟹は暗闇の中を進んでいる。


 暗がりの中で上がり、下がり、昇り、また降り、右と左、左と右、方向と視界が錯乱気味に交錯し、何もかもが狂人の思考のように錯綜してゆく。

 

 蟹は暗闇に満ちた下水のただ中にいる。

 果たして、己がどこにいるのかもわからず、呻くことしかできない甲殻類の姿は、無様とも、哀れともとれる。


 ――いやはや自業自得なのは理解できているけどな!


 蟹はそう思う。

 何度目であるか、現実逃避としてその理由を探り、改めて、もしかして俺は馬鹿なんじゃないか、と思ってしまうほどに馬鹿馬鹿しい理由が、現状を招いたことを再確認してしまったからだ。

 此処がそもそもどこか分からぬ、途中までは確かに、足跡を、あるいは足音を追うことが出来ていた筈で、しかしいつごろからか、蟹は暗中を模索していた。

 周囲五里を霧に包まれているような心持ちのまま、蟹は呆然とし、そして正気へと返る。


 「とかく、進むしかあるまいな……うむ!」


 ――どちらに進めばよいのかもさっぱりわからぬがな!

 

 嘆息とともに高らかに泡を空中に吐き出して、意味もなくそれをシャボン玉のように吹き出し、そしてそれをじつと見る。

 虹の光彩が、紫や緑、灰と黒の臭気に汚染されたかのように薄汚く見えた。

 

 蟹は暗闇を歩く。


 ピンチ! おおぉピンチ! などと鼻歌を歌いながら進ませる脚が古びれた石畳を叩く。

 叩く音は、まるで陽気な小人のツルハシが地面をほじくるようなリズムを刻んで、そしてさらにリズミカルに、何も見えぬ闇の中を響きわたる。




 闇と、臭気、そして汚水の流れる音、ときおり上水が流れるらしきパイプが蟹の側で泡立つような音を立てている。

 軋むのはコウモリの鳴き声か、あるいは鼠の囁きか。

 かつて蟹の眠りについた土地にも、入り組んだ下水を持った都市があった。

 しかしここはその比ではない、ここエミダリは、有史以来、無数の文明と王朝・政体によって統治された永遠とも思える首府である。

 すなわちそれは、直近のものだけを挙げたとしても、旧暦における強国の首都兼一大商業都市として、そして新暦に入って以降の『有角姫』が打ち立てた世界帝国の首都として、そしてその流れを汲んだ政府が綿々と続いた都市であり、またそれが迷宮によって滅んでからは、対迷宮の中心として確固たる存在感を示す大都市としてある。

 挙げ出せばきりがなく、これより昔に遡れば、専門の学者でさえ覚えていられないほどの栄枯盛衰、その流れ。

 歴史をかんがみれば、滅んだ都市、あるいはその文明の上にまた都市を重ねるというのは珍しくもないことで、それはこのエミダリも例外ではないということだ。

 つまりは水道の上に水道、過去の遺跡じみた下水と上水に新たな上下水道を重ねることに他ならず。その結果が原始の地下水脈のように入り組んだ網目状のこうした地下世界の形成――迷宮と都市の隙間を縫うような奇怪な形成となって現れているのである。

 実際には迷宮と地下水道はどこかで繋がっているのではないかとも噂されるが、真偽は定かではない。


 水道機能の上に重ねられた新たな水道は、下水の王を自称していた蟹の旧友『四つ耳』でさえも感嘆の呻きをあげるほどだ。

 リューレアー曰く、

 「下水の魅力とは、暗いこと、じめじめしてること、不衛生なこと、臭いこと、ぬめぬめしてること、五月蠅いこと。その全てが人々の生活の背後に、厳然としてあること。

 みなの生活を支えながらも、決して表に出ることのない、永劫の薄暗がり、生活の欠片、そのゴミ溜め。

 それはだからこそ素晴らしいのです。

 逆説的な話ですが、人々が忘れ、捨て、忌み嫌うものを一手に引き受けていることは、弱者です。

 しかしそれは弱者はまたこの世界の陽が捨て去るものを未だに忘れることがないということです。

 弱者は、弱者であることを糧に、腐臭を自由に使う権利を持っているのです。

 人の忘れ去ったもののの中を生きて、それを失うことなく、あらゆる光の陰に潜むということの恐ろしさ。

 その点、エミダリは、いったい幾月幾年の、あるいは幾世紀の人々の生活の残滓が、こびり付き堆積しているのでしょうか。

 申し分のないことです。何もかもから忌まれるような暗闇こそが、我々のような存在を包み隠してくれるのではないでしょうか。

 下水とは秩序を支える混沌に他ならず、その理想とはエミダリ地下水路のことなのです」


 蟹の脳裏に、虎のような縞模様の尻尾を左右に揺らして、まるで、ぶんぶん、という音が聞こえてくるような愛くるしい所作で、いつになく饒舌な童女の姿が表れた。

 酒の席でのことだっだろうか。

 言っていることの意味は、いまもって全く理解できなかった。


 ――しかし、あいつも、いったいどこでどう間違って、あんな珍妙な個性を演じることにしたのか。

 今度は、にゃ、にゃ、にゃ、などと零す今現在の童女めいた姿が蟹の脳裏に浮かんだ。

 蟹は人が頭を振るように、甲羅を揺すり、その姿を散らす。


 気配を探りつつ進む蟹は、背中から拳大の火玉を出現させている。

 

 見える、見えるぞ! とは蟹が点火したおりの言葉だが、どことなく嬉々として聞こえた。

 真の闇に包まれた空間が、たちまちのうちに光に満ちて、淡い火影が歩く蟹の周囲を照らし出して波打つ。


 蝋燭のゆらめくように、端々を揺らす火の玉が、蟹の意志によって背中で、熾火のように執念深く燃えていた。


 辺りにあるのは苔、黴、それらのぬめり、石畳は朽ちかけ、ホコリと何か得体の知れない汚れがこびり付いている様で、蟹が喜ぶようなこともないのはずなのだが、蟹は突然の明かりにも慌てふためくことのない巨大な蝙蝠が黒々とした水面の天井にぶらさがっている姿などを見て笑う。

 人の顔ほどの大きさはあるだろう扁平で、黒光りする昆虫が、蟹の歩く通路とは水をまたぎ逆側の壁を、素早く通り過ぎていくのも面白げに見ている。

 

 全くといってよいほど、どこに通じているのか、どこへと向かっているのかもわからぬ道を進む蟹は、それでもなんだかうきうきとしたように、鼻歌めいたリズムをとりながら、脚なぞを小気味よく動かして、終わりの見えぬ下水道を進んでいくのだった。





2


 いまの傾斜は下りを示していた。

 

 ――何度めの坂道かもわからないがな!

 

 煤け、とうに朽ちた石段の痕跡をたよりに上方へと昇れば、そこは素敵な三叉路で、蟹は適当に右の道を選ぶ。

 陰滅とした空気を味わいつつ、朽ちたレンガの合間に補強された魔金石が一面に並ぶ、トレジャーハンター垂涎の壁に沿い、進むうちに、色の違う壁を発見すれば、そこを押してみる。

 すると壁が轟音を奏で、崩れ落ちるように倒れる。

 新しい道だ。


 「おおぉ! 隠し道! 隠し道だぞルナ!」


 祝いの舞を披露してしんぜよう! と続けたところで、蟹は己一人きりの探索であることを思い出してか、気まずげに辺りを見回す。

 そしておもむろに咳をして、明らかに正解とはほど遠いその道へと体を押し込んでいく。


 ――咳をしても一人とはこのことか。


 時を重ねて錆びきった、盗掘者の短剣。

 海の底から見たプランクトンの雨を思わせる光明に舞う埃の雲。

 軋む音。得体のしれない空気の振動。

 そしてどれほど昔の文明が残したかもわからぬ蚯蚓ののたくったような文字が、壁一面に刻まれた巨大な空間。

 蟹はそれらを見ては、一喜一憂し、ときに無視し、騒ごうにも隣に誰もいないことを寂しく思いながらも、なんだかんだと楽しみつつ進む。

 古代文字の空間。その隅に枯れた水道跡を発見すれば、今度はその円盤のような身体をそちらへと向かわせる。


 そこにあるのは水道への侵入者を防ぐ為か、鉄格子。

 ただし、すでに錆びて久しく、天井から力なくぶら下がっているだけの、そのうえ切り取られた痕がある鉄格子。

 その姿は、ただ天井より形を残してぶらさがっているだけでも奇跡に見えた。

 

 幾ら下ったのだろうか、埃と天井からもれる砂、亀裂の合間からはびこる闇に咲く白い花、巨大な蝉のような虫、うねるように触手をくねらせる大きな植物。

 すでに水の流れの絶えた下水。

 乾き、砂に埋められた溝。

 その太古の水道に沿うよう続く通路の壁に彫られた画。

 ときには像。道行く者に語りかけるようにその目線を通路へと向ける等身大の石像は、ところどころが欠けている石作り。

 

 こりゃこのまま進んでも絶対に地上に出ないな! と蟹は思いつつも、すぐに気を取り直して、むやみやたらな自信をもって、背の灯りを頼りに色あせた古代の空間をさらに進んでいく。

 



 気が付けば、白い石が四方を囲んでいた。

 磨かれ抜かれたような白い石だった。

 大理石を思わせるなめらなかな表面は、蟹が背に負う光を反射して、どこまでも鏡のように輝く。

 一面が――天井も、床も、壁も、そして立ち並ぶ柱までもが――その白く清楚な石に満ちている。

 幾つもの道が、その空間につながっていたのだろう。

 蟹は、己が部屋に入るときに使った道と隣合うように異なる道があることに気づいた。

 

 ふと、そこで蟹は違和感に気付く。

 その幾つかの道に、埃を踏み抜いて足形が幾重にもわたって続いているのだ。

 それらは立ち並ぶ柱と交差して、そのまま直進するように白妙の空間へと伸びている。

 道をたどる蟹のまなざしははそのまま彼方へと延びてゆき、やがて遠く、黒い眼をすぼめるほど遠くに扉が見えた。篝火に囲まれた扉である。

 

 空間を光で満たし、白金のように白く染め上げるものは蟹の背に負う灯りだけではなかった。

 見ればその遠くある扉の傍に、そしてその扉へと至るまでの、左右に立ち並ぶ柱の間に、爛々と輝き、際だつようにそこにある火の光暈こううんだ。

 

 ――灯火、それも新しいものだな。

 

 つまるところそれは、この空間を。

 この例えようもないほどの迷い路を、迷宮めいた道なき道を踏破した先にある、この空間を、誰かが使用しているということ。

 いまなお誰かが使用ということの証左に他ならなかった。


 蟹はいよいよ面白いと頷いて、そのまま硝子のようにつるりとした床を進んだ。

 進みつつ長方形の空間が、いったい何時の時代の物かを考える。


 紋章、文字、刻み込まれた図柄と、神聖さを帯びたどこまでも白くなめらかな石の空間が、どのようにして使われているのか。

 もしかすれば同年齢すうせんねんほどの時を経ているのかもしれない秘密の部屋が、巨大な都市の下に眠っているということ。


 わからぬが、面白い。と蟹は、蟹なりに浪漫を感じる。

 

 ついで身体をぐるりと回転させて、四方を見やれば、見えるのは柱。

 長方形の空間、短辺から短辺へと、長辺と平行になるように引かれた柱列。

 そして柱の向こうには壁、遠くより見れば均質に、何も染まることのないような純真を思わせる壁。

 その純白に、篝火が柱の影を投げかけるように瞬く。

 

 乱れることなく一定の間隔で立ち並ぶ柱と、その柱への装飾。

 

 どこまでも白く、目眩を催すほどに一色に染まった空間。


 やがて段々と、近づいてゆく高い石造りの門。


 蟹の歩みはやがて空間の中心に。

 長方形を象られた真白き部屋の中心点へと至る。


 蟹の広い体をして、悠々と歩ける空間。

 遠く角の辺りが薄闇に飲まれるほどの広がり。

 縦にしても10M近くの広がりに満ちて、蟹の元の巨体が、ともすれば収まるかもしれぬだろう密室。


 ぐるりと回転しながら見回す蟹が、世界万物一切が滅んだ後の世界にいるような錯覚を覚えるほどに、静謐に満ちた静かな世界。

 何の存在も感じられない、このままやがて寂滅へと消えゆく世界に、己が迷い込んだような心地。

 そして、蟹は再び前を見る。


 そして改めてそこにあるものを見る。それは、

 

柱。


 白色。


 眩き光。


 彼方の門。


 新しき篝火。


 明滅する灯り。


 古代よりの芳香。


 柱に刻まれた図柄。


 長方形に満ちる静謐。

 



 そしてそれらを打ち破る殺気。


 


 蟹は振り向くよりも早く、胴体を左方、柱と柱の間へと移動させた。

 

 黒眼くろまなこには一瞬前までの陶酔の名残と、闖入ちんにゅう者への警戒の色。


 瞬時の切り替え。


 蟹の視界に、その端を通り過ぎる影が見えた。

 一寸前に蟹が占めていた空間を疾走する影、銀と赤を身に帯びた人型の影。


 素晴らしい速度をもって、蟹の傍を切り裂くように進んだその影が、Uターンとともにこちらへと正対する姿が、蟹の視界を占めた。 


 遠く門前に近しい距離へと、一瞬のうちに、音もなくたどり着いたそれは、巨大な騎兵槍ランスを右脇に構えた戦士であった。


 白銀に輝く鎧に、下肢を覆う深紅の脚甲が煌びやかな印象を与える。

 顔に当たる部分には薄い白色の金属面。

 篝火に照らされて艶やかに、金の如き光沢をたたえた黒髮が後頭部で渦を描くようにまとめられて、面の隅に刺さった朱色の羽が一本、風になびくように揺れてその漆黒を飾っていた。


 それ以外の部分にあっては、その曲線的な肢体を強調するように赤い布が幾重にも巻かれている。

 鎧の前部に伺える膨らみも含め、おそらくは女性であるか。

 

 よく見れば赤色の鞘に納まった、細身のサーベルが左腰に提げられている。


 蟹は、馬を亡くし、独り戦場に佇む、哀れな騎士という印象を覚えた。


 珍妙な印象を与えかねない、奇怪なその姿は、しかし純然たる殺気に満ちて、そこに侮りは一片もなく。

 そこから伝わるのは蟹をいかに倒すか、という純粋な心思のみ。


 赤い騎士は抱えていた騎兵槍を右手に持って、その偉容を誇示するようにその先端を天へと翳す。

 翳された騎兵槍に目立つのは、幾重にも刻みつけられた紋章。

 その槍はよく見れば、根本から先端へと段々状に小さくなる輪によって構成されている特異なものであった。 

 騎兵槍ランスにしては小振りとはいえ、巨大なその鈍器を片手に振り廻し、蟹を睥睨するその面貌は仮面に隠れて容易に伺い知れぬ。


 

 対する蟹が覚えたのは何よりも敬服だった。

 

 まずはその速度に。

 蟹を瞬く間に抜き去ったその速さに。

 次には抜き去りぎわに抜け目なく、おそらくはその左に吊った佩刀サーベルによってか、風の刃を蟹の身体へとぶつける如才のなさに。

 

 蟹は敬服と、興趣きょうしゅの念を覚えていた。



 「やるではないか!」


 しかし返事はない。

 あるいは聞こえていないのだろうか。

 そう思わせるほどに、感情を伺わせぬ所作を持って、赤騎士は再び騎兵槍を腕の脇へと挟み込むように握り構えた。

 そして腰を落とし、両足両膝を揃えるようにくっつけて、膝を畳むように僅かに屈める。

 まるで移動に適するとも思えぬ、可笑しな構え。

 

 蟹は、淡々と行われるその奇怪な動作に、油断することなく【魂】へと意識の一部をさまよわせ始める。

 

 そして両の鋏を、まるで抱きしめんとする熊のように広げ、長く太い鈍器めいた槍とその持ち主を見つめる。


 蟹の背に灯されていた火が消える。

 導力が切られたのだ。


 そのため、幾つかの篝火から円を描くように光の輪が、白く浮き上がって見えた。


 緊迫が、糸のように延びていく。

 見えない糸が段々と張りつめていくさなか、突如としてその糸が伸びきって、次の瞬間に切れる。


 沈黙。

 

 そののち


 動作が来た。




 3


 蟹は虚を突かれた。

 目前の敵が、蟹へとその身体を正対させたまま、横滑りするように身体を移動させたからである。

 それこそまるで蟹自身を思わせる無駄のない流麗な機動であった。

 

 身体を微塵も動かすことなく、残像を残すことなく、影のように消えるその姿。

 蟹を見つめる無機質な仮面はそのまま、構えた槍の先端と、それを抱える胴さえも動くことなく、その身体が動き出したのだ。

 加速を得たその姿が、円を描くように蟹の側面方向へと消え行く。

 


 蟹の視界は、ふつうの甲殻類よりも広い(訓練の賜物であるが)とはいえ、やはりその数少ない弱点の一つに挙げられる。

 

 すなはち、彼は視界を急に広げることができない。 

 

 その青い胴と一体化したように備わった黒瞳が、構造上、真横や真後ろの確認にも旋回を要するためだ。

 

 蟹の視界より敵が消えたのは一瞬、その気配を察知できぬほど、蟹は痴けてはいない。

 視界を確保するよりも早く、蟹は直感とともに身体を真横――右方へと、先程とは逆側の柱へと動かす。

 導力を如何にするか、それを考えつつ、地面を掻きむしるような音が、一瞬のうちに奏でられ、つるりとした白石の表面に傷をつけた。


 蟹は移動をしながら甲殻を元居た地点へと向け、想像を完了させようと企むも、次の瞬間には巨大な何かの先端が、地面を抉るような重みが視界を埋め尽くした。 


 衝撃。

 蟹の顔面、顎と飛び出た眼への重い槍の追突。

 

 予想以上の速度。

 蟹は敵性存在が超高速戦闘の領域にあると判断。


 その能力の想定を上方修正。

 そして熱、蟹の口吻部へ、その衝撃も冷めやらぬうちに感じる導力の気配。

 蟹は咄嗟に導力を対抗する。

 

 意識――口腔部――儀式小家:想像法――想像・操作・構築――発現:『水流撃』


 衝撃に揺れる脳の感覚に呻きながら、蟹は口から水を迸らせる。


 岩をも砕く水流が、甲殻の薄い部分を突いて発されようとした炎を打ち消すように消失させる。流石の蟹も、口内から炎で焼かれるのは勘弁願いたい。


 ついで槍が水流の衝撃に跳ね上がる。

 

 槍の勢いを生かしつつ、身体を退かせ、そして赤い戦士は蟹へと身体の正面を向けたまま、最初に取った両足接着の体勢を変えることなくそのまま背後へと滑っていく。

 一切の淀みなく、脚を動かすことのない、流動的な後退。

 その滑るような滑空後退へとおいすがるように、今度は蟹が三対の脚を動かして追いかける。

 蟹が追う相手を観察しつつ、速度を瞬く間に増していく。

  

 蟹が、蟹の速度が最も加速を得るに適した横滑りでなく、縦の歩行であるとしいても、追い付くのに時間を要するほどの赤い戦士の高速移動。


 まるで身体・内蔵を内からも外からも押し潰すような圧力が、滅茶苦茶な圧力が、その身へと襲いかかっているだろう。

 しかしその身を抉るような重みにも僅かな動揺を見せず、赤い仮面の戦士は身体を蟹へと向けたまま、背を壁へとぶつけるような勢いで移動する。

 追いつめる蟹には見える。

 赤騎士の足底が、地より僅かに浮き上がっていることを。

 

 「浮いてるのか!」

 

 ――よくもまあ考えるものだなぁ!


 槍を脇へと挟んだ敵が、蟹を見据えながら、後ろ斜めへと、蟹が入って来た入り口のある方向へと一切の淀みなく動く。

 蟹は縦移動のまま追いかける。

 距離が徐々に縮まっていく。


 しかしこの光景。

 ワルツを踊るように、円舞を演じる二人の姿。 

 時速に換算すれば一体どれほどの速度であるのか、二者の機動は、まるで隼たちが踊るように、睦み合うような超速度で行われていた。

 背景が、周囲の風景が、走馬燈に流れる色の付いた流線状の光線となって高速世界へと溶けていく。

 時を追い抜かんとするほどの速度の界へと至った者のみに、世界が見せることを許す異界の風景。


 そのなかを蟹は悠々とした様子で。

 対照的に顔の知れぬ赤騎士は細心の注意を払い、一瞬でも身体のバランスを崩せば、この危うい均衡がたちまちのうちに衝撃となってこの身を襲い、四肢をバラバラに吹き飛ばしかねないと理解しているための繊細さをもって。

 踊るように交差し、柱の合間を縫い、狂気の沙汰めいた追いかけっこに興じる。

 丁字を描くように、あるいは円を、十字を、X字を、右に左に、端から見れば、一体なにが起きているのか、微かに影が大気を泳いでいるその姿に、目を細めるしかないような高速舞踏会。


 それほどの速度域の中で、しかし着実にその黒い眼を己へと近づけていく、巨大な甲殻類の余裕さえも感じられる態度に、赤い騎士が内心に覚える感情は一体いかなる種類のものか。


 それでも仮面の戦士は、おそらくは懸命に蟹と相対しながら前後左右への機動を続ける。

 ようようと近づく蟹もまた前進を続けつつ、そろそろ飽いたと言わんばかりに左右の鋏へと導力を開始した。


 意識――鋏:右――儀式小家:想像法――導力

   ――鋏:左――儀式小家:想像法――導力

 

   ――想像・属性性質操作・構築

   ――発現:儀式小家:想像法『剪刀ブレード

 

 蟹の両鋏それぞれの接合部分から、水が研ぎ澄まされたように鋭角に発現する。

 噴き出すバーナーを思わせる、鋏の中心から現れた刃。

 数十CMにも満たないその小さな水の刃が、掻き抱くように広げられた蟹の二鋏から伸びて、そして蟹がそのまま鋏を、抱きしめるように目前で交差する。

 交差しながら急激に伸長した水刃が、蟹から逃げる戦士を襲う。

 もはや蟹のすぐ目の前という距離にいた戦士は、その凝縮された水の刃を見る。


 傾いだX字型に宙を切り裂くように伸び続けた刃は、避けた戦士を通り過ぎて背後の壁に鋭い傷跡を刻み込む。

 そしてそのまま交差するように蟹の鋏が振られると、刃は逃げ場なく騎士を追いつめる。


 迫る死の予感から逃れようと、赤い騎士が取った手段は、跳躍。

 

 いかな【力】による噴出か、勢いと衝撃をもって身体を宙へと踊らせる敵に、蟹は人間の顔があれば笑みを投げかけただろう。


 ――この俺が!


 ――その筋を! 読んでいない筈があるまいなぁ!

 

 おそらくは脚から大気へ何かを噴射しての上昇なのだろう。

 そうして刃を壁へと差し込んだ体勢の蟹から飛翔して逃げるも、蟹はそれを読んでいる。 



 意識――発現中:『剪刀』・鋏:左右――二重導力――想像・物質媒体=複合=想像法変化――媒体結果連続変化――構築――発現:儀式小家・儀式法:『剪刀・水流鞭』


 蟹のハサミから突き出た二つの刃が、そのまま壁を切り刻みつつ、またたくまに柔らかく、より長くなるように変化を重ねていく。

 透明に、水色の絵の具を溶かし込んだような鞭へと刃が変化を遂げて、宙に跳んだ騎士をくねるように追う。

 蟹の鋏から吹き出す両の水流、その先端が刃の残滓めいた鋭さを保ちつつ、敵を刺し貫こうとうねり迫るのだ。


 逃げ場のない空中に伸びる二本の水流はそのままに、蟹は甲羅を旋回させながら、黒眼をより天井へと近づけるように持ち上げるる。

 

 掲げた鋏と、円い甲殻が床へと垂直を作る。

 

 見れば蛇のように追いすがる水を前に、まとも同然に蟹を見下ろす形で弧を描きつつ、頭から床へと落下する赤い騎士の姿が一目瞭然であった。

 

 ――これで終わるか。

 

 どこかつまらなそうに、蟹は内心に思う。


 しかし刹那。


 ――その予想は裏切られ、蟹は歓喜する。


 騎士が槍に何事かを施し、それを蟹へ向けて落下させるように打ち出したのだ。この距離からでも感じられるほどに熱量を膨れあがらせる騎兵槍の気配。

 そしてそれと同時に右腕をもって、サーベルを抜き放つ。

 

 また面妖なる仕業が続く。

 そして戦士は、空中から地面へと、蟹を見下ろすように弧を描きつつ、頭から落下していく筈のその姿勢を、突如として変更する。

 いかな仕儀か、天井を背景に蟹を見下ろす赤い仮面。宙に置かれた足。勢いにのって落ち行く筈の固定された胴。

 これらが此処に至り、推進を得たように、時計針の如く右に振れてゆくのだ。それこそ蟹だからこそ視認できるような空中における美技でもって一連の動きを同時に行いつつ、最終的にそこに現れる姿こそ奇なもの。

 先程まですでに頂点を登り切り、あとは落ちるだけという筈の弧を、再び頭から昇るように、何か見えない推進力をもって、天井方向へと再び上昇する赤い仮面の姿がそこにありて、蟹は把握できぬほどの歓喜を覚えた。


 これらの動作を瞬時に行いながら、迫る水の鞭に相対せんとする戦士の姿を、蟹は先程からの姿勢のまま見上げ、内心に哄笑を雨あられ。


 見れば撃ち出されたその槍の到達速度は、あと二秒もないだろう。

 蟹は思考しながらも、加速し重みを増やした騎兵槍を、まんじりともせずに睨みつけて、だが水流の操作を絶やすことはない。

 

 蟹の操る水流はついに赤い戦士の目と鼻の先へと迫る。

 


 槍がその紋章を幾重にも刻まれた先端を、蟹の眼と顎の先へと迫らせる。 

 蟹の薄く肌色がかった腹殻が鼓動を刻むように揺らめいた。

 蟹が鋏より伸ばし操る水が、空中で姿勢を百八十度変更した、件の戦士へと突き立てられる。


 そして蟹はいよいよ近くへと来た槍を避けようと、余裕そうに横へと滑る。

 

 サーベルへと導力した騎士が器用にも片方の水流を斬り防ぎ、またその刃から爆炎が巻き起こり、水が蒸発する、戦士は左腕を翳し、その衝撃を逃がしている。

 もう一方の水流は爆風に揺れながらも、しかしその鋭い先端を、騎士の右足へと到達させて、その脚を刺し貫いた。

 

 その瞬間、接地した騎兵槍が、床と反応して爆発を起こす。

 槍が爆発をしているのではなく、槍に溜められた【力】が、床に触れた瞬間にその全てを、床へと流し込んだのだ。


 ついで生まれた爆風が、見上げる体勢のまま横に避けた蟹を、すでに幾ばくかの距離を離したにも関わらず横殴りにし、衝撃と轟音、礫と風の衝撃が、その身を揺らした。

 砂埃が巻き上がり、白い破片が飛び散って騒々しく、周囲に飛散する。

 

 そのために蟹の導力が中断され、水流が数瞬の後に消滅し、空中に残った水が雨のように、白い床を濡らしていくのだった。

 





 4


 爆風が終わり、煙が沸き立つ。

 脚から地面へと接地した戦士は振り返り、そして土煙が覚めるのも待たずに、声をかけた。


 「予想以上にやりますね」

 「いやはや、そっちこそ、大したものだぞ?」


 蟹が言いながら砂埃の合間より姿を現した。

 埃と破片を甲殻に載せて、その青い肌を土にくすませながらも、泰然とした様子を崩さずに、傷一つ負わずにそこに在った。


 赤い衣装の戦士が、言葉を発し、やるせないと言った様子で、ため息を吐いたのが伺えた。

 右にサーベルを握り、身体を蟹へと半身に向けて、腰を僅かに沈ませつつ、しかし足と足は先程までと異なりしっかりと間を離して、地へと着けられている。

 その脚から血が流れる気配はない。

 右脚の脚甲が抉られたような穴をひしゃげさせているも、そこから覗く脚はまた金属的な空洞を見せている。


 つまりは、

 「義足か」

 「ええ、両足ともに……これ修理すると高いのですがね。

 さて……ペンタさん、今晩は」

 「……その声、聞き覚えがあるな」

 と蟹が、ばっちぃばっちぃ言いながら、身体にまとわりついたゴミを鋏ではたいたあとに、付け足した。


 構える戦士とは裏腹に、既に蟹に闘志はない。

 白い空間に刻まれた穴の痕、飛び散った石の残骸、茶こけて損なわれた神聖さのなかで、己の甲羅の上に飛散した小さな塵をどうとるか苦心しているだけだ。

 「化け物だとは思っていましたが、此処までの本物の怪物とは思っていませんでしたよ」と構えを外し、戦士はサーベルを腰に納める。

 

 「おぉ、っう、……まさかこっちも受付嬢と、ふんっ、っと、……しかもこんな地の底で、おっ、うぉ、んんっ? ……戦うことに、っ、なるとは思っていなかった、うぃ、おぉ よ!」

 蟹は身体を高速で左右に動かし、また鋏を何度もぶんぶんと振り廻し、そして立ち上がり、また地に伏せると、落ち着きなく動く。そのための呻きが漏れる。

 女戦士、あるいは受付嬢と呼ばれた赤い戦士は、ため息をさらに重ねて、そしてその薄く飾りのない仮面を外し、頭へと結わえた。

 そこに見えたのは黒い髪を後頭部でまとめた端麗な顔立ちの、目尻こそ少し垂れ気味でありながら、どことなく怜悧な印象を覚える女性であった。 


 「……急に襲いかかってすいませんね、ペンタさん」

 「なあに、何よりも楽しかったからいい、……いいんだ」

 「歩きながら話してもよいですか?」

 「うむ、構わん……それとよければ」

 「はい?」

 「ちょっと関節の溝に挟まった塵をとってくれないかね、ネース嬢」


 受付嬢の、編み上げた黒髮を円を描くように結ったその頭が止まった。

 爆風で吹き飛んだ己の騎兵槍を拾いに蟹へと向けた背を止め、そして振り向いたその顔に、呆れとも感嘆ともつかぬ表情を浮かべ、冒険者組合中央総合本部の受付嬢、ネイスラゴット・エーレールは青銅色の蟹を見つめるのだった。





 よく掃除の行き届いた長い降り坂を主として二つの音が満たしてた。

 一つの音は連続したリズムを刻むを蟹のもの。

 もう一つは、金属的な重さ義足の重さに関わらず、足音を一つも漏らさない黒髮の女性の、動くたびに僅かに漏れる衣装のこすれ。

 脚を動かすことなく滑るように進む女性の隣で、青い肌の蟹がコミカルに歩いていた。

 

 「……人探しの依頼と、言うには簡単なのことですが」

 「その依頼でここに?」

 「一言で言えば、です……最近この界隈で連続吸精事件が起こっているのはご存じですか?」

 

 冷たい美貌に疲れを滲ませつつ、騎兵槍――伸縮する騎兵槍。現在は巨大な切り株、年輪バームクーヘンのような円盤と化しているそれ――を背に負うネースの声が高く通路に響いた。

 

 「ふむ、知ってはいる、知ってはいるが」

 「そのさらに裏で、どうやら何者かが連続で誘拐事件を起こしていることは?」

 「それは初耳だ」

 「こんな野蛮な町ですからね、暗部はまあご想像できるとおりに広いのですよ、本来なら失踪なぞさして珍しくもないもので」

 「ならばどうしてそれが事件とわかる?」

 「その数が多すぎる。把握したのは最近ですがね……そしてまあ、身内の恥を晒すようですがね……これが軍部に露見しないよう、うちの連中が関わっている可能性があるとのことです」

 「……うち? ふむ、冒険者ということか、それとも……お前たち組合ということか」

 

 蟹が面倒くさげに、ふんっ、とため息らしきものを吐いて、ついで泡を漏らす。

 ネースは蟹の背中を見る。

 爆風と破片の勢い、その衝撃にも関わらず傷一つないその肌を見る。


 「そういうことで――どこの部署かはわかりませんが、巧妙に依頼を選別している。そしてその内調を兼ねて組合の暗部たる私が動いている、と」

 「……暗部、暗部ねぇ、なんだかカッコイイ響きだな!」

 「この赤い羽根が目印ですよ、と言ったらどうですか、さらにカッコイイと思いますか?」

 

 ――秘密組織みたいだ!

 

 ――まあ赤い羽根は目立つので、実際に重要なときは外すことも多いのですが。


 ――それでもカッコいいぞ! お前たち人間らしいセンス、よいセンスだな!

 

 黒い眼をキラキラと光らせて、辛抱たまらないと言いたげに鋏を上下に振る蟹の愛らしさは、ちょこまかとミニチュアめいている。

 その姿に目元を無意識のうちに目元を綻ばせて、受付嬢は次に口にする言葉を探す。

  

 現在、二人は白い空間にあった巨大な門のような扉をくぐって、灯火の点々と照らす通路道を進んでいた。

 人の手が入った、その下り道のいかに快適なことか。

 蟹は段々と近づいていく終点。

 またもや見える巨大な扉へと快調な勢いで足音を刻む。


 「ともかく、その任務中に、怪しい連中を発見した私は密かに尾行。

 どこぞの家から地下水道へと何か四角い箱を運んでいる連中を、屋根裏から発見。地図を片手に追って下水道くんだりに潜って、またもや尾行。やがて現る怪しい空間。

 そこにある扉へと箱が運び入れられるのを見守る中で、怪しい魔獣が一匹現れるわけです」

 「……怪しい魔獣? そんな奴がいたのか!?」

 「……あなたです、あなた」

 「む、むぅっ、俺がか!?」

 「俺がか!? じゃないですよ、あなたたちが丁度この町に来た辺りから起き始めた事件、怪しい連中を追いかけた先に居る不敵な感じで闊歩する巨大な蟹の姿、――ほら怪しいでしょう?」 

 「だからといっていきなり襲うかねレディ」

 「私の存在に気づいていましたね?」

 「……最近は気が抜けていると感じることが多かったのでな、気を張り巡らせていたのだ」


 ネースの質問に、こともなげに応える蟹。

 華やかさこそないが、破綻も見えないその顔を曇らせるネースは、自信を失いますよ、とつぶやき、見れば蟹がその呟きをニヤニヤとした雰囲気で聞いている。

 まあまあ、と蟹のからかうような調子にげんなりとしつつ、ネースは前を向く。


 「ともあれ、もしあなたが敵だとすると不都合だったわけです……少しでも疑いのある魔獣が、目標の仲間であったりして、その上で私の存在を伝えられたりしたら、隠密も糞もない……失礼、汚い言葉ですね……元も子もないですからね」


 蟹はやれやれと言いたげに、鋏をまるで両手のように広げ、これみよがしにため息を吐いた。

 ネースは苛立ちを覚えたが、無様を晒したのは己であると周知しているためか、その白い肌を紅潮させつつも、歯噛みするにとどめた。


 「結局失敗してるじゃないか、その程度の当て推量で向かってくるとは、かっこ悪いな暗部!」

 「うるさいですね、不意を打てば、勝算はあると思ったのです。悪いですか? 曲がりなりもこっちは最高位冒険者です、自負くらいはあります……見誤りましたが」

 「ほう……最高位とな」


 蟹は横目で、隣を歩く、両義足の戦士――赤い意匠の布で身体の各種を圧迫している受付嬢――を見やる。

 滑空するように身体を前進させる女性ネース

 それを見る蟹のまなざしに込められたのは感嘆、そして納得の意なのだが、受付嬢ネースはそれをどのように受け取ったのか、顔をさらに真っ赤に、白い肌を染め上げるように赤々とさせた。

 そのまま羞恥からか、その肩まで伸びる黒髪を肩ごと震わせている。


 「一応は、まぁ表だって名乗れませんが。今は、汚れ仕事をしてますので」

 「エルガーのおっさんは、お前の仕事を知っているのか?」

 「まさか! だいたいの暗部は組合内にも近親者にも正体を伏せるものです。表向きには私は数年以上前にへまをして脚を失って、冒険者生命を断たれた元有望株に過ぎません」

 「そして冒険者に人気のクールな美人受付嬢」

 「……まあ組合の顔としての仕事も嫌いじゃあないですよ」

 「どうやら最高位冒険者とは中々に大した称号らしいな……」

 「誉めているのですか?」

 「うむ、もちろんだとも!」


 この世界に再び舞い戻ったときに戦った。そしてその戦いを目撃した黄金剣の男を思い出す。

 あるいはその男と戦っていた中年の男を。

 おそらくあれこそが最高位冒険者の位階。

 

 ――世界の進歩、せき止められていた生命の発展への意志が、かくもすばらしいとはな。

 蟹はうんうんと、甲羅を揺すって頷いて、それを受付嬢が訝しげに見つめる。

 「いやいや、本当に褒めているのだぞ?」

 「私は、あと数千回戦っても勝てる気がしませんがね」

 「いやいやたとえばお前たちが、そうお前たちのような位階の者が数人以上、それこそ俺とかつての仲間のような連携をとることが可能ならば……俺ももっと本気を出して戦えるだろうな」

 

 蟹は、誇るでもなくそう言った。

 敗北を喫しながらも矜持を刺激されているネースは呻くような調子で、

「……言いますね」

 と呟く。

 「いやいやいやいや、たとえば、その脚……それは義足の身でありながら、儀式小家――貯蓄型や紋章を駆使して戦えるように考えたのであろう?

 それらを同時に、巧妙に導力し、推進の方向を差配する技量。

 脚を使えないということを、補うどころか、それを高速の移動機械へと転用するという発想!

 あの速度域で動ける人類なぞ、俺は俺の友の他は知らなかったよ。

 高速の圧力、その身へと降りかかる重み、一歩間違えれば全身が粉々となるような急制動、死と隣合わせの状況で、戦闘に意識を振り分けることの可能な余裕!

 なんとも素晴らしいな!」


 受付嬢は蟹から視界を外す。

 己の培ってきた何もかもを見破られ、そしてそれを解説されたうえで褒め讃えられるという羞恥プレイに耐えられなかったのだ。


 「そ、そこまでのことではありません、諦めるのがただ悔しかっただけですよ」などと蚊の鳴くような音で漏らすことしかできない。


 蟹はそれに気づいているのかいないのか。


 「俺からの最上級の賛辞だ人間殿! 魔獣が本気で戦うのは死という可能性があり得るようなときのみだ……誇るがよかろう矮小な生命。よくもまあここまで研鑽したものだ」

 

 この時代になってから、本当に驚いてばかりだな。と蟹が思うのも無理はない。

 人は旧神の支配を失い、そして戦う相手、戦わなければならぬ相手めいきゅうを得た。せき止められた物が、目標を得て加速した数百年。

 蟹を感嘆させ、そして己にもっとこの世界を見てみたいと思わせた生物の可能性。

 その唸るような声音に、改めて賞賛の響きを乗せるのも無理からぬことであったのだ。


 そうとは知らないネースは、まとめた黒髪を揺らして、そらした顔にいかなる表情を浮かべたのかわからぬまま、数拍の間を置いて、どうにか色々な感情を飲み込んで言葉を捻り出した。


 「……全くうれしくありませんが、おっしゃる通り誉め言葉として受け取っておきます」と。

 

 気恥ずかしげな一瞬の沈黙。

 それでも蟹の地面を叩く足音は絶えることがない。

 上半身と下半身の均衡をいささかも崩すことなく進むネースはようやく気を取り直したのか、その顔を再び蟹へと向けた。


 「それでペンタさん、……なぜ付いてくるのです?」

 

 「だって……」

 

 「だって?」


 「面白そうだからな!」

 

 ……。

 

 …………。


 ネースは、頭が痛いといった様子で、その白魚を思わせる人差し指をもってぐりぐりとこめかみを揉んだ。

 「できれば帰ってほしいのですがね」

 「ふむ、すまんな。――正直に言えば俺も帰り道がわからんのだよ」

 「はぁ、……まあいいですよ貴方のせいで、隠密も台無しですし」

 「というと?」

 「なんでこんなに悠長にくっちゃべっていると思っているのですか」

 「……もはや急ぐ意味がないからか」

 「分かっているではないですか」

 「とはいえそれも、お前の爆発のせいだろう?」

 「確かに襲ったのは自業自得ともいえ、使わなきゃ死んでましたよね、私」

 「うん、まあ爆発で集中が乱れなければ、……死んでたかもしれんな、お前」

 「ほらみなさい」

 「……それで結局、尾行が相手に知られることになってちゃあ、わけないな!」


 こともなげに蟹は言い、受付嬢は思い出したように背筋に寒いものを覚える。

 自分が取った手段が、想像以上に薄氷の上を歩くようなもので、地雷原を目隠しして行くようなものであったのでったのだと、そうあらためて思い至ったためだ。

 蟹がその奥底の全く見通せぬ、得体の知れぬ強大な存在ということが、痛いほどに痛感された。


 「まあ確かに手の負える相手と驕った私のミスですが、ともあれあの爆発です。おっしゃる通り侵入も気取られているでしょう」

 「もう帰ればいいのではないかね、お嬢さん」

 「それで次に来たら、もぬけの空、箱の中身も知れず、浚われたお嬢さん方の行方も知れずと」

 「ほう! 左様で」

 「左様なのですよ」


 受付嬢は、こめかみに這わせた手を憂鬱そうにしながらこめかみに再び置いた。

 一拍そこに留まったように思えるその白い指先を――白く細身の、幾つもの傷を負った指先を――再び動かして、最後には左側頭部に回していた薄手の仮面へと伸ばしていく。

 

 蟹が視界を前へと戻せば、出口の、件の巨大な扉の近いことがわかった。

 そしてふと思いついたように、身体を回して後背を見やれば、入って来た石造りの扉は既に遠く上り坂の先に朧気だった。

 

 埃が緊張で震えるように、空間に沈黙が満ちた。


 受付嬢は、仮面を顔に被せ、羽をぴんと立てて、その指を皮の手袋で覆う。

 紋章を刻んだ手袋が、革帯ベルトに括られた紋章符を弾くように撫で数えて確認を行う。


 そして背に負った、太く丸い年輪のように縮んだ騎兵槍の中心部分へと柄が取り付けられる。

 ねじの回転を思わせる動作とともに、くるくると回る柄が、切り株状のそれに突き立った。

 

 そのまま戦士は導力。

 

 意識――騎兵槍――紋章法――導力――発現――『全体軽量化』

 

 そして柄を握りながら、円盤のような年輪を宙で思い切りよく振りつける。

 たちまち金属のこすれる音が、火花を発して響きあげ、蟹がすでに見たような小振りの騎兵槍へと変貌を遂げた。


 鮮やかな手並みに蟹が嬉しそうな雰囲気を醸し出し。

 昔、祝いの場で見かけた。振ればぴろぴろと伸びる紙製の玩具みたいだな! とうれしそうに述べる。

 受付嬢は嫌そうに顔を歪めた。


 蟹に全身を隙なく観察されていることに、慣れない思いを抱えつつ、受付嬢は革帯ベルトへと手をる。


 「……最後が面倒なんですよね」

 言いつつ革帯より、ネジともビスとも突かないパーツを取りだして、槍の各所に導力しながら取り付けた。


 その作業を見守りながら蟹は暇つぶしにネースの脚を見る。

 穿たれた穴にも関わらず、いっさいの変化を見せない金属製のそれは、先ほどから、床から少しばかり浮いて、滑るように受付嬢の身体を運んでいた。


 「着きましたよ?」


 言われ蟹は身体を止める。そして丁度、扉が目前にあることに気づく。

 先程の石造りの扉にも勝るとも劣らぬ巨大な扉で、それは門と言うのがふさわしいような長大さだった。

 門番かゴーレムが近くで佇立ちょりつしていないことに違和感を覚えるほどだ。


 「しかし、なんだね」

 「なんです? 分かっていると思いますけど、ペンタさん、この扉の前、いますよ、沢山」

 「うむ 気づいてはいるが……いやなこれでそもそも俺の追っていたスリが全く無関係だったとしたら、と思ってな」

 「スリ? それならおそらく、下水街の連中でしょう、真逆どころか、何がどうやってこんなところにたどり着けるのかわかりません」

 「やっぱりかね? いやぁ薄々は気づいていたのだがな!」

 「……はぁ」

 「途中から探検のほうに興が乗ってしまったよ」

 「割とノリで生きてますね、貴方」

 「よく言われるよ! うむ、それじゃあしょうがないな……」

 「はあ?」

 「いやさ場合によっては中にいるやつにぶつけるしかあるまいな、この怒り」

 「……勝手にしてください」

 

 言って、仮面を装着した受付嬢、いや最高位冒険者『赤火槍せっかそう』ネイスゴット・エーレールは、左手へと導力を行いつつ、溜めた力をもって巨大な扉を押し開いた。






 5


 

 矢が雨のように降り注ぎ、炎や水が、風や雷が刃となって襲いかかってきた。

 しかし蟹が出現させたぶ厚い水の幕が、それを全て受け止めた。


 右に騎兵槍を構え、左に佩刀サーベルの柄を握るネースが、周囲を睨みつけた。

 仮面越しにも滲む刃の如き殺気に、扉を囲むようにしていた男たちが動揺を見せる。


 灰色のブレにも似た下履きと粗末な服装に身を包んだ、まるで乞食のような男たちと、こちらもまた灰色の、そして幾分上質な貫頭衣に身をつつんだ男たちが、聖印を握り込んでいた。

 

 歳の頃は少年ともいえる幼さの残るものから、体格のよい青年、そして髭にまみれた中年や壮年、最後にはよぼよぼの皺が顔に目立つ老年まで、多くの男性がそこにはいた。

 しかし女性は一人もいない。

 奇妙なほどに感情の見えない顔で、まるで蝋人形のように彼らがぐるりと門の前に並ぶ姿は、異様という言葉がぴったりと当てはまる。


 仮面の下で嘆息するネースは、横の蟹をちらりと伺ったあとに、改めて押し入った空間を確認する。

 蟹が発現させたらしい、恐ろしく分厚く透き通った水のヴェールが、波立つように、ネースの視界を揺らめかせながらも、それはその広漠とした空間を探ることに支障を来すまでではない。


 

 一言で表すならばそこは広大な祭殿であった。


 高い天井は、先ほどの蟹と受付嬢の戦った部屋よりもなお高く、広さはそれを越えて広大に見えた。

 見ると肉吊り用のフックに、人の肢体がつるされていた。

 血がだらだらと流れ出て、布の一つもなく吊されたそのオブジェが幾つも幾つも、広大な部屋の一角を占拠していた。

 赤い鮮血、乾いた褐色の染み、中身が空の箱が乱雑に積まれている光景。


 ネースは胸糞悪い気持ちを、どうにか飲み込んだ。

 対照的に、青い肌の蟹は、黒い眼を興味深げにじろじろと周囲を見回していた。

 

 やがて水のヴェールが消える。

 すると一人の男が、祭司服――ネースが見たこともなく煤けた灰色と紋様の刻まれたそれ――に身を包んだ、恰幅の良い眼鏡をかけた禿頭の男が、武器を構えた人群の合間から現れた。

 笑みを浮かべながら、一見すると人好きのするその顔で、目だけが笑っていない。

 「ようこそようこそ、招かれざる客人よ」

 「お邪魔させてもらっています」とはネースの言いで、こちらは極端に感情のない機械の如き口調であった。


 「薄汚い魔獣と、女風情にはもったいないプレゼントのつもりだったのだけれども、どうやら気に入ってもらえなかったようだね」

 「すいませんねわざわざ、どうにも私たちには不必要だったようです」

 

 言って、ネースが右に構えた槍の柄を握り込んだのが、蟹にはわかった。

 黒い髪の女性は、激怒しているのだ。

 仮面に隠れて見えぬ、その顔にはいったいどのような表情が浮かんでいるのか、蟹はどこか楽しげにそれを想像した。


 その怒気を察したのか、禿頭の男は眼鏡越しに覗く瞳に、苛立ちを隠さず浮かべ、表面上の笑顔を消した。 

 あまり背の高くないその身体で、拳を振り上げるような動作を見せるその姿は、滑稽な人形を思わせた。


 「……ふん、死とは崇高なものだ、貴様にはもったいないほどだよ女」

 と吐き捨て、彼は目前の仮面を睨む。


 「さほどのものであるならば、あなたが頂戴すればよいのでは? 私にはどうも高価すぎるようで」

 とネースは柄を握った手に力を込める。


 扉の前にいる闖入者たちを囲む人の群れは微動だにもせず。

 嗄れたような声音の禿頭男と仮面を被った受付嬢の会話だけが淡々と続く。

 男が警戒から作るのだろう間合いを計るような言葉に、ネースは皮相な調子で答えていた。

 男の警戒は目前の仮面女以上に蟹に対しても振り分けられているのだが、一方の蟹はそれを気にすることなく、部屋の観察を続けていた。


 様々な文様が四方に刻まれ、それは装飾のみならず、ときに紋章、ときに刻印のようである。

 そして幾つもの寝台の上には、女性たち。内蔵の抜き取られた女性たち。俯くように寝台に倒れ込んでいる死骸の女性たち。仰向けにもはや何も映すことのない瞳を濁らせた女性たち。開頭され空っぽになり赤と白の染みだけが虚ろに覗くこうべを寝台の外へと揺らしている女性たち。干からび木乃伊みいらのようになった女性たち。いっさいの血が抜き絞られ、あるいはその脂身を、あるいはその骨を抜き取られ、もはや人の形をとることも叶わぬ女性たち。

 無数のビーカー、フラスコ、何かの管を通り抜ける液体。

 耐え難く惨卑。おぞましいほどに鉄臭く。およそ真っ当とは思えぬ臭気に満ちる空間。

 それらを飾るのは赤と緑。赤と青。赤と紫。赤と黒。赤と白。

 赤を基調とした様々な色彩が、吊られた女たちの躯が、その肌色が、コントラストをなして灰褐色の壁に映えて彩りを添える。


 見る限りでの印象は、何かの実験場。

 解剖と生体実験。

 生きた人間を素材とした、何かの研究のための実験場。

 数々の明白な証拠が、ここで行われていることの非人間性を示していた。


 

 蟹は人の、あるいは人間種の業の深さを思う。

 考えるにも奇怪。このようなことに走るのはいつも人型の者たちである。

 その途端、これがまた邪悪であると理解する。

 正しくは邪悪の先触れであると。

 かつて見たそれの痕跡であると。

 それは限りなく近い物。蟹がかつて戦い、彼らの姫が邪悪と決めて反逆を決めた存在たちのなし様に限りなく近い物と見えた。


 「さて、珍客には帰ってもらいたいのですがね」

 禿頭男は、どうにか感情を抑えたのか、口辺にニヤつきを浮かべる。


 それに取り合うことなくネースは仮面越しに男を、男の背後に見える惨状を睨んでいた。

 「貴方たちは何者ですか」と相も変わらぬ感情の伺えぬ調子で、薄い仮面にくぐもった言葉をネースは吐いた。

 

 壁を観察していた蟹は、今度は色彩に注目する。

 紋様と刻印の組成に見覚えがあったためだ。

 

 いったいどこで見たのかと思いつつ、赤い部屋を見回す。

 部屋で何よりも目立つのはやはり赤であった。

 

 赤。朱。紅。

 

 赤を基調とする部屋は、よく見れば、人の血液と内蔵の赤みで埋まって見えた。

 それらの他にも何に使うのか、赤い鉱石、赤い金属、赤い植物、赤、赤、赤と無数の赤色の素材が、空間を鮮血で染め上げるように禍々しくそこに満ちていた。

 

 そして蟹は思い至った。

 

 「紅之瞳石? ……原色の儀式大家だと?」


 蟹のつぶやきが、ぽつりと空気にまき散らされた瞬間、苛立ちの中にも余裕の雰囲気を崩さなかった恰幅のよい男の顔が狼狽で乱れに乱れた。

 まるで風刺画を思わせるような狼狽の仕方で、みるみるうちに顔を真っ青に染める男は、口をパクパクと餌を求める鯉のように開閉させる


 「っ、っ!? なぜっ!? なぜそれを!?」

 と見るから混乱している男を見ることもなく、蟹は悠然と甲羅をいからせて、嘆息した。

 

 「古い組成だネース。説明するのも面倒だが要約すれば……こいつらは素材を作っているのだろう。様々な組成を試してな、祈る者が別にいる筈だ。こんな小物ではいくらなんでも不可能にすぎる」

 「ペンタさん詳しい話は後で必ず……周囲に警戒を」

 

 周囲の男たちの目に爛々とした光が浮かび上がっている。

 蟹を見つめる瞳には胸をかきむしりたくなるほどの憎悪が伺える。

 粗末な灰色服の群れが何事か、狂気に満ちて蟹を凝視していた。

 

 「よほど触れられたくないところだったのだろう」

 

 しかし蟹は、鋏をジャキリジャキリと、石を噛むような音をさせつつ歯牙にもかけない態度。


 「真の概念、真理イデアの色。このような稚児どもが持つには過ぎたものだ」

 「たっ、たかが魔獣風情が何をほざくか!! ああ神よ! 偉大なる神よ!! この不敬な魔獣に天罰を」


 ネースがその祈りを聞き逃すことはなかった。 

 「……あなたはもしや教会関係者ですか」

 「…………ふん、いかにも、いかにも!」

 もはや余裕もないのか、あるいは生来短慮なのか、何かに目を曇らされているように。

 狂信者独特の自信を漲らせて、もはやその狂気を隠すこともなく禿頭の男は胸を張って、両手を広げた。


 「私こそ真の信仰者! 道義に叶わぬ世界を、再び正しい物へと戻す者!! 男にかしづくべく作られた存在と、人々に使役されるにも汚らわしい魔獣が、この深奥なる秘儀を理解できるとも思えませんが」


 眼鏡を指で押し戻し、男は急に哄笑を挙げた。


 「かねてより私は理解していました。魔獣とはなんと愚劣で、女とはなんと下劣であるのかと」

 「曲がりなりも至高神を崇拝しておいてその言い様ですか」

 「違う、私は、いや私たちは知ったのです、そしてまた気づいたのです、いま信奉されている神は偽物の! 紛い物の神に過ぎないと!」

 

 その瞳は血走り、その口は裂けるように広がった。

 手を広げ、楽しそうに笑う男の興奮が、部屋中の不気味な男たちの間に伝播していることをネースは悟った。

 

 蟹は不快そうに、ひどく不愉快そうに、鋏をしきりに開閉させている。

 先ほどから滲む邪悪、古い組成式、そして今の言葉、そのすべてが気にくわないという様子だった。


 「真の神は別にいる! そして我々は、今の世界を打ち壊すための手段を手に入れた! あるいはその手段のために奉仕することができる! 偽神のためでなく! 真の神を前にして、世に蔓延はびこる至高神などという偶像は、破壊される!」

 「……そのために、この女性たちを?」


 愉悦に酔っているのだろう。

 男は陶酔するように目を瞑り、胸に手を当てた。

 

 「女如きが、栄えある秩序復興の贄となれるのです、むしろ感謝してほしいくらいですよ!

 世界を統治すべきは我々 人間おとこであると、かの御方たちはそう仰っているのです!!」


 仮面を被った女戦士は、首をゆっくりと横に振って、そしておもむろに槍を構える。

 もういいのか、と蟹が物問いたげに体を傾がせた。

 鋏を振る彼はひどく冷めた様子で、目前の男の長広舌、一方的なご高説を聞いていた。


 「つまりは旧神の僕ということだろうか。……力に魅入られたか、思想に溺れたか、たかが原色の真理如きに目を眩ませられたか。いづれにせよその増長、愚かとしかいえんよ」

 「下等生物が! さきほどからピーチクパーチクとさえずりおって、甲殻類の分際で!!」


 「――そろそろ黙りなさい」

 

 ひどく冷たい声音が、ネースの、仮面の内側より発せられた。

 我慢の限界だったのだろうか。

 槍を構え、彼女は周囲を見回した。


 蟹が、ジャキン! と鋏を大きく閉じた音が響く。

 ついで蟹が受付嬢に向けて淡々と警告を発した。


 「こいつらは走狗に過ぎない、ネース嬢。そこの太った男は確保しておけ」

 「分かっています」

 

 ネースは仮面を付けたまま頷く。

 蟹の指摘を受けて、その瞳のうちで光る炯眼が仮面越しに男を向く。

 その仮面の下で歯噛みするような音を響かせているネースに、狂信的な情念をたぎらせた信者の男たちが、瞳をギラギラとした色で染めながら一歩一歩近づいてきた。


 そして勝ち誇るように禿頭の男が、胸を反らして、腕を振り立てた。

 

 「では貴方たちも、そろそろ消えなさい!」


 「現実が全く見えていませんね、……消えるのはどちらかでしょうかっ!」

 

 愚かな号令に対して、言い捨てたネースは左腕でサーベルを抜刀すると同時に、右脇に抱えるように持った騎兵槍を振り上げた。






 6


 多量の紋章符は、蟹が盾となって防いだ。

 蟹が瞬時に加速する。

 男たちの数はおよそ五十人に迫るほどで、その厚い壁を吹き飛ばすように一角にぶつかり、瞬く間に攻撃を無力化する。

 流石の蟹も一息で突破するには厚みのありすぎる肉の壁だった。


 単調な飛び道具が来れば、傷も付かぬとそれを背で受ける。

 どうと鉄を撃つような金属音が、点々と鳴り響き。

 鐘を突くような轟音が響けば、それは強化された剣が蟹を殴った音とわかる。

 それでもそのまま身体で押し込み、ときに壁として、ときに水の壁を出現させて、攻撃をその敵ごと水没させていく。

 

 狂信者たちは数こそ多いものの、その質に至っては酷く拙い。

 簡単な紋章法や、想像法を散発的に打ち込むことしかできない。


 蟹は拍子抜けする。

 さきほどの敵の自信がいったいなんであったのかと甲羅を傾げざるをえない。

 敵がまた一人一人と奇声浴びせかけて突貫してくるのを、その鋏の刃をもって切り捨てる。


 何事か奥の手でもあるのかと思いつつも、面倒になってきてそれごと儀式法辺りで押しつぶそうかとも考えた。


 蟹は水の泡を吐き出して。

 空中に浮かべる。

 愚かな数人がそれに不用意に触れて弾け飛ぶのを確認する。


 狂信とはあるがままの世界を理解し、【力】と向き合うことを放棄する立場とも言えた。

 それは曇ったレンズで世界をのぞき込んでいるようなものだ。

 計算の前提に思考停止によって生み出された希望が存在する以上。

 そこには稚拙さが溢れていた。


 拙い攻撃が、蟹の肌を撫でて、ネースの頬を掠ったとしても、それ以上のことは叶わないのだ。


 ネイスラゴットは蟹との戦いにおいて見せた機動力で、集団の合間を縫って、そしてその騎兵槍へと導力して、紋章法による加重を行い、また左に握ったサーベルですれ違いざまに匹夫を切り捨てていった。

 

 狂信とは信仰の、己の信じる理想の世界を現実よりも優先することに他ならない。

 彼我ひがの戦闘力を勘定に入れず、単純な数の差で己が有利としか考えることのできなかった恰幅のよい男は、すでに動揺を隠しきれない。


 呆気ない幕切れに、意味のない男の自信が消えていく。 

 瞬く間に打ち倒されていく凡庸な信徒たちを前に、しかし男は気を取り直したようにほくそ笑んだ。


 「女ぁ!」

 叫ぶ男の声に、仮面越しに目線をやるネース。

 そこに映ったのは幼気いたいけな女児が、刃物を首筋に当てられている姿であった。

 己が此処に到達する端緒となった誘拐事件の被害者なのだろう。

 おそらくネースが追った箱の中に、部屋中に散らばる箱――長方形の、正方形、台形の、棺のようなそれら――に納められていたのだろう。

 

 その頬には赤みが差して、僅かに胸が上下に揺れていた。

 命を散らすことなく上下に揺するその身体を抱え込むように禿頭の男が、その脂ぎった頬を幼子に密着させるようにしていた。

 

 地面には負傷を負った狂信者たちが倒れ込み、その石畳を今度は己たちの血潮で熱く染め上げるなか。

 点々と血しぶきが吹き上げる中を、いままた余裕のある表情で、側に侍る信者たちの向こう側で禿頭男の笑みが嫌らしげにネースを威圧する。


 されどネースはそれを鼻で笑った。

 精一杯、胸を張るように。

 いままた迫り来る槍の穂先を左に握った佩刀で切り捨てつつ。

 

 「人質のつもりか!」

 「……お前が阿呆な真似をすればこの娘が、どうなると思う?」

 「大事の前の小事、此処で貴方と、貴方の協力者を押さえるほうが、この都市の治安に叶うことだと言ったなら?」


 蟹が、鋏を振りかざし、図体ばかりデカイ男の股間を強打する。

 もう片方の鋏から水刃を吹き出して、向かってきた溶解液を切り払う。

 蟹の甲殻へ雨霰あめあられと振りしきる矢の雨は、もはやそのまま受けてもただの振動に過ぎない。

 そうして蟹にはネースを横目に見ながら、さも適当に男たちをあしらうほどの実力があった。

 

 蟹はネースの、その仮面に隠れて見えぬ顔。抱えた槍をようようと振り廻すその姿を見ている。

 いままた来た敵の槍をいなしてかわして、その脚を如何に敵の隙を突いて恰幅のよい男へとたどり着くか、探すように向き合うその姿に、蟹は一抹の不安を覚えた。


 「やれるものならやってみなさい! その後で貴方を捕まえればよいのです」

 「このガキの命ではお前を止められないと?」

 「……ええ」

 

 ネースは堂々とした調子で声を上げていた。

 それは堂々としすぎているように蟹には響いた。

 さきほどまでの感情の伺えない声でなく、その高らかに自信満々なさまが、一種露骨とも感じる。


 あるいは禿頭の男もそう感じたのだろうか。

 でっぷりと膨らんだ腹を揺らすように笑い声を挙げたあとで、今まで見たなかで最もイヤらしく、まるで半月を思わせるような笑みを浮かべていた。


 「――ならば試させてもらいましょう!」


 男は笑みを消して、ネースと蟹から目を離さずに、握った刃を血が薄く滲むほどに少女へと押しつけつつ、祭壇近くの床を踏み込んだ。


 瞬間、轟音が響いた。

 石畳と思われた地面が突如として崩壊したのだ。

 いや正しくは金属製の巨大な開閉扉が床に現れ、その上に載っていたらしい全ての石と道具が、そして人間が落ちていったのだ。

 

 奈辺へと通じているようにも見える、深く強大な穴が、祭壇の前に広がっていた。

 祭壇から扉の前までを包むようなその深淵の広がり。

 それは未だ生きている仲間を、負傷して呻く仲間を、そこに置かれたなんらかの器具ごと全て、その穴へと落としていくものだった。

 落ち行く先は、先の見えぬような闇。


 咄嗟に義足の、足裏側から凝縮した風を噴射したネースは、命からがらと空中を滑空し、穴縁へと着地する。

 

 「これはっ! ……あなたは! 仲間ごと!」

 「大儀のための殉死……崇高な死ですよ」

 

 満面の笑みを浮かべつつ男は言った。

 呻くように、叫ぶように、底の見えない穴蔵へと消えていった同胞である筈の男たちの存在を歯牙にもかけていない。

 

 「この穴の底は迷宮に通じています。深い深い底ですがね。古くは迷宮側が掘った穴だったのでしょうが、長い月日が、対策を施したはずの迷宮軍にも、あるいは迷宮側にさえもその存在を忘れさせたのです」

 「……それが、どうしたと」


 ネースは歯噛みするように呻いた。

 あるいは呻くように吐き捨てた。

 

 嘲るような調子を止めて、笑みさえも消した男は言った。


 「この娘を、この穴へと落とします」

 

 「……」

 

「貴方は間に合いますか?」


 歪に、心底から楽しそうに笑って、禿頭の男は眼鏡ごしに目を細める。


「ですが、本当に間に合ってしまいそうですね」


 そして無傷の信徒が、男の側へと近づく。


 蟹はどうすればよいのか迷う。

 これはまだ己の戦いではないのだ。

 例えばここで水を吐き出して近づく信者を、あるいは男そのものを撃つことはできる。その少女が無事である確証はしかしそこにはない。

 その少女を助ける必然性は蟹にとってなかった。

 しかしネースにはあるかもしれない。 

 どちらがよいのか、その選択の主導権は蟹にはなかった。

 蟹にとってはどちらでもよい故に。

 蟹は一連の流れを見つめることしかできなかった。


 中年の信徒が、うっすらと頬を染めた少女を受け取った。

 その合間にも、禿頭男の刃が常に首筋との密着を離すことはなかった。


 男も理解しているのだろう。

 あるいは理解せずとも本能で察知しているのか

 蟹が空気を読まずに、言うなれば瞬時に男たちを射殺することが可能であると感じているからの繊細な動作。

 蟹はすでにあらかたの信者を、ひどくつまらなさげに無力化していた。

 

 「この男が、この娘を抱いて、穴へと落ちます、あるいはそれは小家で加重した状態かもしれませんね」


 「……っ!!」


 ここで初めて、ネースはうめき声を挙げた。


 そして蟹は決定的に、気付いてしまった。

 

 彼女には、殺せない。

 そのことが、恰幅のよい司祭服の男と、蟹に悟られたのだ。


 男は満面の笑みを、それこそ三日月めいた笑みを浮かべて、少女を強く抱きしめる中年の信徒を見つめた。

 

 蟹はネースを見つめている。

 

 ネースは、槍を構え、剣を握りしめている。

 強く強くそれらに力を込める音が響いていた。

 

 蟹はネースの判断に従うつもりである。

 少女を助けようというネースの意志も、それを見捨て男を追いつめるという意志も、どちらもとても人間的で、蟹には尊く感じられる。

 彼は決して人間の言うところの正義の輩ではない、彼自信の道義に従うだけだ。


 そして視界のなか、男が一言呟いた。


 「行け」


 信徒が少女を抱いて巨大な虚へと飛び込んだ。

 

 仮面姿の受付嬢は結局、槍と刃を穴へと放り出して、落下していく男と少女を、加速しつつ落下して追いすがるしかなかった。


 空中を滑空するようなその姿。

 信徒と少女の重量が重なって、瞬く間に加速をつけて落下していく姿を必死に追いもとめるように落下する受付嬢の姿。

 身体を圧迫するようなその赤い衣装が闇を帯びて、銀の鎧が最後にひとかけらの反射光を放ち、闇へと消えていく。


 蟹は黒い眼で穴を見つめ、消えていくネースたちの姿を見る。

 この穴は男の口振りからしてひどく深いことが伺えた。

 それならばすぐに追いかけないと追いつくことはなく、接地の瞬間ネースが無事とも限らない。


 ついで追いかけようとした蟹は、目前の男にちらりと目線をやった。

 

 「どうしました? 追いかけないのですか甲殻類。私を殺せば謎にはたどり着けませし、彼女には間に合わないかもしれませんよ」

 

 「最後に一つ聞く、お前は原色を見たのか?」


 「あの輝きを見て……私は確信しました、この世には真実の神がいると!」

 

 「そうか……愚かな」


 「言ってなさい、汚れた獣」


 男の返答を最後まで聞くことなく。

 蟹はネースを追いかけるように、深い深い闇の内側へと落下していった。

 自身の重みに、加速加護の魔導を重ね、加重の想像を行い、それぞれを多重で発現させる。

 



 ふと、蟹は苦々しい気持ちになった。


 暗闇へと降りていくのが、これで本日二度目という事実にも一因はあろう。


 しかしそれ以上に、


 ――むう、すまんなルナ嬢。


 ――今日はちょっと帰れそうにない。


 ということに依るのだったが。



 そしてまたもや蟹は、闇の中へと落ちていくのだった・










 『都市設計学 迷宮下水学派年報 945号』 1623/4/30


 目次


 ・『迷宮下水学派設立1000周年を記念して』エミダリ総合大学府教授トマス・V・フェーブル

 

 ・『アサンデル王国アウガモンにおける迷宮下水調査』魔王領東大学府グロウス・EE=ブローデル

 

 ・『下水史学・下水考古学 文献的下水学と実証的下水学の迷宮下水設計学への応用可能性』エミダリ建築学府講師ケルアッキ・コルバン


 ・『E・アウナウ博士の思想――迷宮と下水の関連性研究の観点から』元ローツェンダール中央学府教員モニカ・ハーベストアリエス


 ・『下水探求の技術的限界 交錯型と螺旋型』ディープサウス統一首府座学究院 特別研究員ポリ・G・H・O・S・T・ブロック

 

 ・『モンタレー・デキシー・フォードの霊感――新資料を元に探る神秘の女』シーベネシア冒険者組合・高位冒険者 K・P・ルゴフ 


 

     『迷宮下水学派 設立1000周年を記念して』

                       エミダリ総合大学府教授トマス・V・フェーブル


 今年もこうして年報の刊行をつつがなく行うことが出来たことにまず感謝したい。

 新暦1300年代にはあわや研究者が絶えるかと思われた我らも、長耳族の先師ミショーが先々代の学頭にその地位継承されてからは、こうして微々たるものであるが着実に、伝統あるこの学派の学問的蓄積を絶やすことなく広げることが出来た。

 こうして大陸各地に散らばってはいるが年報の書き手に事欠くことはないのだからもはや言うことはない。

 確かに人数こそ少ないかもしれないがこれは、下水に、迷宮の如き下水に対する深い愛着を持った強力な同志たちの熱意が詰まったものであると信じている。

 ミショー師が特に困窮したとその日記に記している1378年から1389年の年報にいたっては年報と名ばかりの、ミショー師個人の論文集というありさまであることを考えれば、現状には満足する他ないのだ。


 論文ではなく学頭としての言葉を適当に書き連ねるだけでよいとのことで、ついつい挨拶が長くなってしまったが許されたい。

 歳を取ると人は皆、誰しも欠点を持つものだ。それが私にとってはこうした取り留めのない長話の癖というわけだ。

 

 ともあれ今年は1000周年とのことで、かねてよりの計画通り、海の月に今回の投稿者たちとその他の学派員を全員集めた、大規模なシンポジウムとセミナーを執り行うことを改めてここに確認しておく。

 エミダリ各学府の有識者たちも見学に参加し、学際的なものとなりそうである。

 10年ぶりの大規模な学会として、皆の意欲ある参加がなされるものと堅く信じている。

 詳しいことはコルバン氏に一任しているので後日連絡が行くと思う。 

 



 (中略:この間、約5000字)



 と、少し長々と挨拶をしすぎたと思うが、今回は1000周年ということで、いつも以上に読み応えのある論文、研究成果、紀要がまとまっているので、ぜひ熟読されたい。

 年報アナールと侮蔑される我らが、いかに学究的意欲に満ち満ちているか、その証左として私も鼻が高いものである。

 特に先年発表されたエンゲルス・バッキオス氏の『神話・迷宮録』を論拠としたルゴフ氏のフォード研究は非常に興味深く、面白く読ませてもらった。

 バッキオス氏の書物はどうしても史料の正確性が不明確である点。著者の立場が不詳である点など問題点が多々あれど、その説得力によって各学界、宗教界、有識者層に多大な影響を与えている大著である。

 特にルゴフ氏は、その中の魔将『四つ耳』リューレアーの描写、下水の主であるという点に注目し、フォード師が日記及びその先駆的論文で述べている伝記的要素を上手く補完している。

 己に迷宮下水学を創始させる機縁となった「神秘の女」との出会い、「神秘の女」を師と仰ぎ迷宮の如き下水の魅力、そのなんたるかを教わったと述べるところに結びつけた点は注目に値する。

 かねてより様々な説が跋扈していた「神秘の女」の正体。

 はたして女性でさえないのでは?という疑問さえもわき上がったその正体に、一挙に迫り得る可能性が提示されたのは大きいことだ。 

 我ら迷宮下水学派にとり永遠の始祖であるフォード師、その彼が教えを受けたのが魔将、それも準神たるリューレアー様であるとの意見は、一つの決定的な方向性を与えるものである。


 ということで長くなったが、ルゴフ氏に経緯を表して、フォード師の日記の一文。

 師である「神秘の女」への想い溢れる文章を、今一度、ここに挙げて筆を置くことにしたい。 



 「私は過ごした、あまやかな師父との日々を。

 麗しきはかの御方。

 私は無限の熱意と慕情をもって、かの師に従い、かの師の声に耳を澄ませた。

 その声音の、滲み出る威厳。

 その目線の慈しみ、時に妖しく、時に悪戯好きの猫のように笑うさま。

 かの御方は黙して自分の正体を語らなかった。

 されど私にはわかっている。

 その正体は、隠し通すにはあまりにも人口に膾炙しすぎている。

 思い出すのは師父の微笑み。

 その下水への愛。

 下水が迷宮であるということを語るときの恍惚とした表情。

 いま、我が手は老いが忍びよった。

 老いは私を覆い、そして蝕む。

 しかし如何に記憶を失えど、私が失うことはないだろう。

 師と過ごしたあの日々だけは

 永遠に私のものである」


 

     ――――――――――



 『第十二版 エンサイクロペドア世界事典』よりの引用


 迷宮下水学派の項目より


 迷宮下水学派;建築学・都市学における一学派。一般的にはモンタレー・デキシー・フォード(B499ー588)が創始したと考えられている。

 厳密な意味での学派としての始まりはフォードの死後、新暦623年のカリウス・ガバナー(B574ー640)の魔王領下水探索会が変化したものである。

 ガバナーがフォードの著作『下水とは迷宮である』(B540)を中心においたことから下水探索会は総合下水探求会、下水探求学会と名前を変えて、最終的に建築学的観点から都市機能としての下水研究とその史的研究を押し進めたエッグマイン・アウナウ(B888ー972)により都市計画学派迷宮下水学派として吸収される。

 その後、都市開発者ハイン・ボウト(B1010ー1164)がこの学派の影響を受けたことにより建築者、設計者の間で一時期を画する。この時代の都市設計において複雑怪奇な下水が多いのはこのためである。

 「突如出現した迷宮に対決するものとしての都市」という都市デザインが求められるうちに浮上した問題に、都市地下における下水機能が都市の迷宮への弱点となるということがあった。

 その問題への一つの回答として下水を迷宮的なものとすることがあり、それが画期的な対策として受け止められた結果の流行である

 この隆盛期の代表的な都市としてはジェンダリの魔惨迷宮がある。

 しかし迷宮都市建立の動きが沈静化して以降は著しく衰退。

 天才的美学者兼、最高位冒険者『緑の森』ヘルマン・ミショー(B865ー1502)一人のみが学派員となる事態をも引き起こす。

 その後ミショーより学頭を引き継いだK・フェロー(B1462ー1544)らの尽力により、現在ではエミダリを中心に数こそ多くないが一定数の学派員を要している。

 通称はその歴史ある学会誌から「年報アナール」、下水に潜ることの多さから「溝浚い」、迷宮構造への偏愛から「迷宮狂い」、下水と迷宮を行き来し比較するという行動から「戦闘的美学者」と呼ばれる。

 (執筆:KSW)


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― 新着の感想 ―
久しぶりに読むとやっぱり面白い いつか続きが書かれることを祈ってます
[一言] とても面白いと思いました。 設定もとても特徴的で次回作がとても気になる作品でした。またもし更新する事があったら是非読まして頂きます。
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