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大蟹ペンタの大冒険① プロローグ日常和え コメディ?コメディ!



 1


 森林の天幕が、涼しげな木陰の世界を生み出している。

 柔らかく細い草が、森の手からこぼれ落ちれた日の光を求めて、囁くように揺れていた。

 雨上がりの山中にいるような濃い緑の匂いが、遠くより響きわたる雷鳴のうなるような声と結ぶつく、まるで己が異世界にいるかのように思わされる心地。

 

 広く巨大な森の狭間で、デンザロス・デンザロス・ペンタレシアはそう想った。

 



 想い、これが束の間の回想であることを悟る。

 少女と森を歩いたことが、彼にこのような郷愁を感じさせたのであろうか。


 ――わからぬが、しかし随分と俺も、センチメンタルな奴だ。


 ここしばらくの、かつてないほどの頻度で、脳裏と心中に浮かび上がる想念の多さ、想起の奔流に、大蟹は我知らず苦笑した。


 そして次の瞬間、己が下水道にいることを思い出した。

 

 景色が元に戻る。

 いや正しくは、景色への認識を取り戻す。

 楽しい現実逃避が醒め、否応がなしに文字通り溝臭い現実が立ち現れてくる。


 煮詰めた汚泥の臭気が、彼を新緑の過去より現在へと回帰させた。

 

 縮んだ蟹の周囲を囲むのは味気ない閉鎖空間。


 「ううむ、そうか、俺は現実逃避をしていたのだな!」


 独り言を漏らす蟹の体躯は、すでに過去のあの時とは大きく違っており、手持ちぶさたな様子で、鋏をかちゃん、かちゃん、といわせているその姿は、寂しげなシオマネキを思わせた。


 彼の隣にいつもいる筈の少女の姿はなく。

 蟹の周囲に埋め込まれたような暗黒から響く、下水道の流れ、汚水の泡の弾ける音、その闇の来し方より響く、何者かの呻きだけが、周囲に漂うばかりであった。


 腐った生卵を反吐で煮詰めたような汚臭のなかで、蟹はため息を吐き(ついで泡が口より漏れる)、そして陶然とまた楽しい現実逃避へ戻るのだった。



 

 そもそもなぜ、この新緑の世界に蟹がいるのか。

 それは講義のためである。

 誰の講義かといえば、この【大亀】の背甲上で並ぶものなき儀式大家、その権威ある彼の講義にほかならない。

 そうでもなければ我流とはいえ一角の儀式大家を自負する『大蟹』や、あるいはそのほか多くの戦士や魔獣などが集まることはない。

 

 だからこそ亀の上、その隅にほど近い、巨木立ち並ぶ地域に、幾人もの、いや幾匹もの怪物と人間が、浅い草の絨毯に半円でもって鈴なりに座して、一匹の巨大な猿を見つめているのであった。

 

 闘法を磨くための集いよりも、一層多様な種族が周りを囲む景色は壮観であり、一匹の巨猿は、首をゆっくりと回してから彼らを睥睨する。

 この講義の主たる彼の名は――『大猿』――心優しき瞳に憂いを湛えた巨大な猿である。

 白毛が背筋を覆い、日が照りては銀に映ゆる一面の体躯は、老いを感じさせながらもどこか神聖な気色を帯びていた。

 巨体を覆う銀白毛が風になびく、顎から垂れる髭が、丸く大らかな彼の穏やかな心持ちを見事に表して見えた。


 「……そろそろか」

 「そうだな」

 「であるな」

 蟹のなんともない呟きを耳聡く聞きつけたらしい、思わぬ応答が巨大な甲羅の上から返ってきた。

 許可も取らずに人の身体に座るとは! 蟹は巨体をわざと揺すりながら、己に座する二人を見る。 


 「……バルバス、……ゲダフ」

 「今日の席順では、ペンタレシアよ、キサマの次、どうせならばキサマの上にお邪魔させてもらおう」とは漆黒の上質な外套に身を包んだ馬頭の男のげんであり、いななくように鼻息も荒い彼に応えるのは、

 「……ふん、馬面に習うのも気にくわねぇがな、俺も邪魔させてもらうよ」醜く根本から折れた灰白色の翼持つ隻眼の女。


 「いやいや、完全に事後承諾ではないか、さっきからどうりで奇妙に重いわけだ!」

 

 鋏を上下に振り廻して、蟹は甲羅をいからせる。

 視界の先では一際高くうねった古木の幹に大猿が座り込み、こちらを微笑ましそうに、穏やかな笑みを浮かべていた。

 くりくりとした蟹の黒い眼が左右を見れば、いつになく活気に満ちた喧噪が、多種多様な生物とともに広がっており、そしてまた己の背甲の二人もその賑わいの一部分をなしていた。

 ともあれ言い繕っても甲殻上の二人が降りるとも思えず、結局、蟹は諦めたような声音で、二人の存在を許容する。


 「……で、今日の講義はなんなのだね諸君」

 「んだよ、てめぇも前回でてねぇのかよ、使えねぇ蟹だ」とは堕天使の粗暴な言いで、

 「うむ? キサマらもであるか? 使えない、特にそこの天使もどきは使えない」という言は、澄ました顔で、そのノズル状に尖った口鼻の上、ちょこんとモノクルを置いた馬頭男の言葉である。

 流々と、柔らかに整ったたてがみが、長く広い眉間から首の後ろへと続き、日差しに光を帯びていて、ポニーを思わせたが、その嫌らしげな笑みはさながら悪夢の馬である。


 「おめぇもじゃねぇかよ馬面ぁ」

 「同じ穴の狢であるぞ、折れた翼」

 「……あ? てめぇ……言いやがったなボケぇ」

 「ふむ、やるのであるかな?」

 

 「……ううん」

 蟹は頭が痛いというように、顎と黒い眼の合間を巨大な鋏でなで上げた。


 馬面のバルバスは元々は神の一柱であり、天上での不毛な権力争い、内輪での醜悪な権力闘争でその身を持ち崩すことがなかったのならば、此度の戦においては紛うことなく敵対していたであろう存在だ。

 ゆえに彼は地軍においても微妙極まりない立ち位置にいるのだが、その彼が特に相性の悪い相手が存在する。

 それこそが『嵐』バルバスとも旧知の存在である『白焔』ゲダフである。

 『白焔』ゲダフこそが、この地軍における魔獣たちを繋ぐ存在であり、また彼らを『有角姫』の下へと集めた張本人である。

 そしてその行為の根源には天上への深い怨みが、彼女がかつて天上の大天使であったが故の怨みがある。

 バルバスが己の天上よりの追放に関わった者の、あるいはそもそも己を道具のように扱っていた者の一味であった以上、その彼女がバルバスに隔意を持つのは至極当然といえた。 


 「むう、しかしな二人とも、そこが俺の甲羅の上であることを思い出していただきたい」

 「安心しろデンザロス、おめぇには迷惑をかけねぇよ」

 「ええ、安心したまえよ、甲羅に僅かな傷も付けずにこの駄天使をほふる」

 「……そもそも俺の背中の上で戦うこと事態が迷惑だと言ってるのだがな! それと地軍の内における私闘は、許可がなければ禁止ではないかね」


 そう続ける蟹の言葉に、ようやく甲羅の上からの剣呑な雰囲気も落ち着きを見せ(仕方なしにと言うのが相応しいしぶしぶとした様子ではあったが)、みしみしと甲殻を軋ませた重圧もどこか穏やかな森の空気へと溶け去っていった。

 デンザロスは、ほっ、とため息を泡とともに吐きだし、改めて二人に話しかけた。

 「さてさて、しかし今回は流石に多いな」

 「まあそりゃな、儀式大家は全員集合だっつうはなしだからな」

 「うむ、件の大儀式、噂だけは皆の下に流れておったが、とうとう動き始めるようであるな」

 「おめぇに噂話をする相手がいたっつうのも驚きだなぁ」

 

 ――なぜいちいち煽る。

 蟹はそう思うが、あえて口にするようなことはしない。

 サバサバとしているようで、意外と粘着質なゲダフの気質を知っている以上、蟹にとりそれは無駄なことだと分かっているのだ。

 ゲダフの背にある、かつての壮麗な羽の名残を感じさせるそれが、まるで苛立った犬のように揺れているのが、蟹には見ないでも感じられた。

 短く切りそろえられた白髪はくはつを苛立たしげに揺らし、牙を向くように威嚇的に笑って、その翠玉の如き瞳で相手を睥睨するのが、ゲダフ・アルバッキオスの平常運行だからだ。


「ふん、元より我が輩は馴れ合いを好まぬ性質であるがゆえな、キサマと同じ価値観を持っておらぬのだ」

「負け犬の遠吠えかぁおい」

「羽だけでなく耳まで折れたのであるか? いやはや脳に蛆が湧いておるのかもしれぬのであるな!」


 ――結局、また揉めるのか……。

 いよいよ殺気立ってきた辺りの空気を知ってか知らずか、もはや耳を塞ぐのみ、と悄然として辺りを見渡す蟹の疑似的聴覚機能に、周囲の和やかな賑わいが相も変わらず忌々しくも聞こえてきた。

 

 「……誰か席を替わってくれぬかなぁ」


 ぼやきながらも、蟹の甲羅の上ではいよいよ怒声が、怪鳥の鳴き散らす喚声ような甲高い呻きが聞こえてきた。

 デンザロスは玩具めいたそのまなこで救いを求めるように辺りをまたも探る。


 応えるものこそないが、ふとふと見れば、黙々と立ちこめる霧が目に映った。

 その一部が凝集ぎょうしゅうし、白っぽい影のような形の人型を取っているのが見える。

 『大霧』である。

 何を考えているのかわからないが光に反射し白緑色を僅かに帯びたその大気生物は、くねくねと宙を漂っていた。

 その霧に半ば覆われるようにしてかの大木古老、偉大なる樹人トリエントの王者『木人』あるいは『樹老王』の姿が見える。

 大気より水を、地より力を、己が偉容を誇るでもなく、蟹よりもなお高さを持つその身体を微動だにもさせず、大地を思わせる穏やかさでにそこにある。

 虚ろさを感じる幹の皺。枝のささくれ。赤茶色の・乳白色の・青緑色の葉叢はむら。目にもあやなるけざやかさで周囲を覆っているその装い。

 根は脚の如く地へと伸び、枝と枝が無数の腕めいて、そして節と節幹,

さらには枝の狭間に、老いたる老人の顔めいた木皺がある。

 しかしどうしたことか、いつもは穏やかに微笑んでいる筈のその皺も、今はなぜだか不満と悲しみを表すように歪んでいた。

 

 蟹は疑問から身体を傾げる。

 バランスを崩し駆けた馬面と堕天使の慌てた声がする。

 ハサミをかちゃかちゃ、まるでおもちゃのように遊ばせながら、蟹は友人たる大樹を眺める。


 「……うわぁ」

 蟹の――これまた忌々しいことに――友人である『艶華』が、木人の大幹から流れるように伸びた一際巨大な枝隅に留まっているのが見えた。

 古木より浮き出た頑強そうな瘤の上辺りだろうか。

 彼岸花のような赤みと、桜のような薄紅がかった髪が軽やかに風に靡くなかの、その妖艶さを湛えた笑みが蟹には見えた。

 見れば彼女は、その脚から伸びる根を、木人の枝に張っていた。

 その艶やかな肌の色がいつにも増して滑らかに輝いている理由。その葉、その頭に帯びた蔓や花が常よりも爛々と美しく、磨き抜かれたように豊麗な存在感を誇示していた理由がうかがえてしまった。

 蟹がこちらを見ていることに気づいたのか、ひらひらと手を振って、満面の笑みを浮かべている。 


 蟹は鋏を挙げて、力なく上下にぶんぶんと振った。

 人間であったなら苦笑を浮かべていただろう心持ちのまま、


 ――寄生しておる!

 と蟹は改めて愕然とした。

 そしてまるでその心の念を読んだように、蟹の頭上の二人が言葉を継ぐ。


 「……ありゃどっからどう見ても吸ってやがる。見ろよあの肌の艶、おお、おお、こりゃひでぇ」

 「ふふん、とうに高齢期を過ぎた婆天使が言うものであるな、嫉妬であるか?」

 「ああん!?」


 バルバスは、ふん、と鼻息をその長い顎の頂点から吹き出しつつ、よくみれば円らなその瞳に嘲笑の念を加えて再び挑発する。

 じわりと、いまにも飛びかかりそうなほどの気炎を立ち上らせつつ、しかし耐えるゲダフは、その代わりというようにぎりぎりと歯を軋らせた。


 ――こいつらは、子供かっ!!

 『艶華』による幾分搾取的な木人との友情を見なかったことにして、蟹は嘆息した(傍から見ればも泡をぶくぶくと吹き出しているだけの姿だが)。


 煌々と熱射線を浴びせかける太陽から、この巨体の蟹、それを越えて縦に高い『木人』をも覆い尽くす緑の壁、あるいは天蓋の下で、延々と騒ぎ続ける二人の声を尻目に、蟹はどうしようもない虚しさに襲われた。

 

 いい加減にしてほしい、俺の背中は遊び場ではないのだぞ? むう、やはり歳を取った輩は極端すぎていかん。極めて落ち着いているか、また一周回って子供のように稚気に満ちているか、この二択しかないのだからな。などと蟹が悶々とつぶやく内に、ふと冷気のようなものを感じた。


 ――ふむ……殺気か?

 『大蟹』はしかし、それが己に向け放たれたものでないことを理解し、そしてこれは、己の背に座る馬鹿者どもにこそに向けられているのだと察した。

 それが正解であることを示すように、けだし騒がしく頭に血の上りやすいゲダフも、矜持の極めて高く高慢なこと極まりない『嵐』のバルバスも急に押し黙った。

 

 そして蟹はこの殺気の源泉を辿る。

 「おお、おっかない……死の悪魔殿ではないか、お前たち騒ぎすぎだ、あの混沌の主たる御方を怒らせるなどとは」 

 「俺は悪くねぇ」

 「我が輩も悪くないのである」

 「反省の色が欠片も見えんなぁ!」

 「ていうかよ、あのキチガイ悪魔がよぉ、俺たちが騒いだ程度で切れるか?」

 「ふむ、それは我が輩も疑問であるな、もしやデンザロス、キサマが実は睨まれているのでないか」

 「……うん? 俺は何もしてないぞ! ……おそらく。……たぶん、うむ」

 「そこは言い切れよ!」

 「ふむ、それなら我が輩だって何もしてないのである」

 「……ん? …………あ、ああぁー! たぶん、こりゃあれだ、館の冷蔵室にあった甘味箱。あれな、死悪魔の分、お前の名前に書き換えておいたから……かもな」


 そのとき、世界に戦慄が走った。


 神羅万象が押し黙ったような沈黙が、雲よりも重く緑の天蓋の内側に立ちこめていく。

 蟹とその騒がしい乗客の一番近くにいた『妖精』が、そのおかっぱに切りそろえられた青黒い髪は震わせて、東方の和装に身を包んだ稚児同然の幼気な身体と手を戦慄かせている。


 こいつら、正気か?


 その童子の瞳の上に浮かんだ色を翻訳すれば、およそこんな言葉になるだろうか。

 誰一人音を立てない沈黙のあとで、緩やかに風の音、鳥の音が滾々(こんこん)と響きわたっていた。

 

 しかしそんな沈黙に気づいておらぬ二人の元天上存在は、言葉を続けていた。

 「……わ、我が輩の食したあの甘いふんわりした菓子は『黒』殿の物であったと?」

 「おうよ、だからお前が睨まれてんだろ!」

 「ふ、ふふ、ふふふふふ! ……ははん! 黙っておったのであるがなぁ! 先日配給された『黒』殿の分である、黄金樹の聖実をな! キサマの指紋と【力】の痕跡を巧妙に使ってな! お前が食したように見せかけておいたのである!!」


 ひひん、と鼻息を漏らしつつ、長い口から臼歯をのぞかせて、バルバスは嫌らしく勝ち誇った。

 悔しそうにゲダフが呻く。

 風が木立を揺らし、いつのまにか体毛を白く染めた老巨猿はこっくり頭を動かし、船を漕ぎはじめていた。


 「はぁ!? ……うおぅ!? て、てめぇ何してくれてんだよ!? ってことはあれは俺を睨んでるってことかもしれねぇじゃねぇか」とゲダフは慌て、「であるな」と馬面が勝ち誇る。

 

 どっちもだろ、と蟹は思った。

 というよりも早くこの阿呆どもを地面にたたき落とすことができればそれでよかった。

 心なしか周囲の『妖精』が、『四色』が、『空王』が距離をとっているのが気になった。

 鹿型の角を怒らせて迷惑そうにその馬状の四足を動かし、蝶羽を揺らめかす『空王』の姿。

 常に無表情で、ほとんど感情を見せぬ『妖精』が、この世でもっとも正気ならざるものを見るように瞳に驚愕の色を浮かべている姿。

 知能を欠片も持たぬ見た目ながら、実は中々賢いと評判の不定形粘状の存在である固形精霊『四色』が必死と地面を蛞蝓のように這って逃げている姿。

 

 ――ぬう、お主たち、俺が逃げることが叶わぬのを知っておるだろう、助けてくれないか。

 などと周囲をそのくりくりとした眼で伺っても、返ってくるのは皆が視線を逸らす惨状。


 「ぬ、ぬう……お、お前ら、聞くがな、なんでそんな無謀な真似をだな」

 木漏れ日に白き肌を輝かせた勇壮な美貌の持ち主の煩い声。

 丁寧に作られた黒い長帽子を被って、ぴこぴこと耳をうごしつて騒ぐ男の甲高い声音。

 それぞれが響き、交わり、なじり合う論争が、蟹の声の本当に聞こえるのかというような騒々しいものとなっていた。ますますヒートアップするなかで、それでも蟹は問い、面倒そうにしつつもしっかりとゲダフはそれに答えた。


 「ああん!? そりゃおめぇこの似非馬紳士がガツンと怒られちまえばよ、すっきりするだろ!」

 「いやいやまさかこの我が輩が、こんな粗暴な筋肉天使と同じような発想であったとはな!」

 「うん……ぅうん? な、なぜ、全く関係ない奴を巻き込むのだ? ……喧嘩などお前ら二人だけでやっていればいいではないか」

 「そ、そりゃあ、なんつうの、悪かったとは思ってるよ」

 「我が輩も後悔してるのである」


 ――後悔して許されるなら誰だって苦労しねえよ!?

 と蟹が、蟹らしくもなく怒鳴る合間も、際限なく膨れ上がるのは黒々とした殺気。それは重く、それは冷たく、それは周囲一体の全ての存在、その粒子、その身体を構成する物質、その【力】を揺るがすように高まっていく。

 『木人』オヌーの木の葉が不安げにさざめく。

 その銀髪を眩しげに日に晒して『魔王』たる男(通称、黒い箱)が己と周囲を覆うように黒みがかった壁を展開しているのが見える。

 蟹はいよいよ不安を高まらせて、ついついハサミをさらに激しく振り廻してしまう。そこにあるのは焦りだ。

 その存在感を、黒い影の如きその闇の気配を、濃密に漂わせて続けている山羊頭の存在が怖いのだ。

 黒い衣服、袖丈の長い上下のそれが、風にゆれて、爛々と輝く非人間的な赤い瞳が禍々しい。顔中を覆う白い体毛が老人の顎髭のように垂れ下ががり、悪魔の笑みが三日月状にそこに浮かぶ。

 

 さて閑話を許していただければ、地軍において最も高い破壊力を持つのは、『黒陽』シュテッツェの黒陽剣であることは疑いをえないだろう。

 総合的な大家においては、木漏れに包まれた円形の空間で現と夢の狭間を彷徨っている講師――『大猿』ブラシュマフが最も精通していることも同じように自明のことだろう。

 では戦闘力は? いや突き詰めて言えば強さは?


 強さとは不明確なもの、あるいは相対的な要素を持っている。

 一定以上の実力を持つものたちが戦うのならば、それは言い切ることのできないものとも言えるだろう。

 強さとは結局は勝利によって推し量ることのできるものだとして、例えばそれは身体の調子。心理的な状態、強いては志気、そして勝利への意志。肉体の健常性。また持っている技や戦法の相性。地理的条件。知恵の差。機会、何よりも運が関わるようなものであろう。


 もちろん、平面上、障害物なし、一定の距離をお互いに取り合う、といった条件の下、戦いを試行し続ければ、勝利数の多寡は量ることができるかもしれない。

 それも一つの意味では強さとはいえ、しかしある相手には負け、ある相手には勝つといった相対性はここでも顔を出す。

 実戦における強さとそうした状況下においても負けえぬ可能性を保持すること。畢竟、あらゆる状況下においても、あらゆる存在を相手取ったとしても、一方的に負けることのない条件を保持し、勝利の可能性を作り出すことといえるかもしれない。

 

 そういう意味でいうならば、地軍において、例外(『海月』や『大蟷螂』などである)を除いた戦闘要員同士は、奇妙な均衡を保っている。

 例示すれば、儀式大家を、儀式小家をも持たぬガル老のような存在であっても、『大蟹』デンザロス・デンザロス・ペンタレシアと10回戦えば、1回は勝利するというような事実である。

 様々な条件を操作することによって、如何な強敵にも勝ち得るような戦法を徹底的に訓練することが、この大亀の上で行われていることを加味しても、それは異常なことである。

 『獅子王』は場合よっては『大蟹』を打破しえるのだ。

 『吸血鬼』が『異空』に勝つ可能性は低いだろうが、ないとはいえない。

 誰もが得意な相手もいれば、不得意な相手を持つ、しかしその不得意な相手にさえも勝ち筋を持ち得るような均衡がそこにはあった。

 (いかに練習において優位に立ち、多くの場合勝ちを得ていたとしても、実戦においてその数少ない敗北がありえるという事実。可能性は、蓋然性を凌駕する)


 しかし地軍の中には、その均衡より一歩抜きん出たと目される存在もまた明確にいた。

 正しくは多くの者が、出来るなら戦うことはご勘弁願いたいと思うような特異にして異能、強大にして狷介な常識外の存在である。


 便宜的に、そうした数人が、地軍全46者の中で、抜きんでた実力、あるいは異常ともいえる万能性を持った存在たちであると言えるかもしれない。

 それぞれ相性の特定の相性の悪い者をのぞけば、まずもって地軍内で戦うこととなっても負けることの想像がつかない強者であり、その総合力において地軍随一と目される『大蟹』デンザロス・デンザロス・ペンタレシアをして、出来ることならば戦いたくないと言わしめた者たちである。


 第一に『有角姫』ネーベンハウスが上げられよう。

 よくわからないが単純に強いとしか形容し難い、理不尽に圧倒的な暴力を持った存在である。


 第二には『四つ耳』リューレアー、というよりも『力の鎧』の存在が上げられる。

 堅さ、早さ、何よりもマッフ機巧と神器を駆使した無尽蔵の【力】を利用しての火力は地軍の魔獣をもってしても近寄り難い。

 

 第三に挙げられるのはおそらく、『神官』アジョリナであろう。

 純真と狂気の境にあるような深い精神力を原動として、その闘法、その魔導、魔法、その魔具、その運用、その知性、その直感、全てにおいて隙をもたぬ、おそらく紛う事なき純粋な人間種における頂点に位置する。


 第四としては『竜公』グラムナントが居る。

 『大蟹』でさえも持ち運ぶことのできるその圧巻の巨体が、地軍一の素早さを持つということ。巨大で速いということの明快な強大さである。


 そして最後に、一匹の魔獣の存在が挙げられる。

 その存在の名は『黒』ゼバレフ・ガガーレン。またの異名を『死の悪魔』。

 彼はより高位の天上世界に通じた神秘大家であり、純粋概念である黒に通じた、蠢く闇を従える決定的な邪悪である。

 本来ならば地軍に参加していることが可笑しいとしか言えないような、この世の理からは外れた異形存在。善も悪もなく世界の夜に蠢く悪魔。

 まずもって死など訪れないようなその濃い闇。何もかも浸食し、食らい、犯しては融解させるような暗黒の主。


 

 

 そんな彼が、目前で殺気を膨れ上げさせているというこの光景!


 蟹がいよいよ震えを強くし、唐突に脱皮したくなったとしても一体だれが責められるだろうか。

 

 空気の読めない阿呆どもの声が背中から響く。

 「っあれ? ……これ、もしかしてやべぇんじゃねぇの!?」

 「で、あるな、背筋がゾクゾクする。見よ!我が蹄が震えておるな」

 

 「今更かっ!」とは蟹の本気の突っ込みである。

 「むぅ、というかなお前たち、さっさと降りてくれないか! 俺まで巻き込まれかねないのでな!!」

 

 ――もう遅いんじゃないのかなぁ。

 ――しっ、滅多なことを言うもんじゃないよ。

 『吸血鬼』と『賢者』のそんな声が聞こえてきた。

 蟹はすでになんども己の鋏で、出来る限り甲羅を叩く、あるいは身体を揺するなどして振り落としの工作を計るが、しかしそれは背上の二人には巧みに避けられていた。

 ここに至り魔導を使って甲羅に赤熱を帯びさせる、水の槍を甲羅から射出するなどの魔導的手段に訴えるも、それさえもいなされる始末。

 

 「お、お前たち、俺に何か怨みでもあるのかっ!?」

 鋏をかちゃかちゃと、あるいはじゃきりと、擬音を響かせるように滅法に振り廻し、多関節の脚を持ち上げて、大慌てのうちで怒鳴る。

 その姿に、水揚げされたばかりの蟹の姿を見た『竜人』ガンジットの食欲が刺激された。


 「死なば、もろともよぉ!」

 「うむ、運が悪かったと思い、出来ればこの実戦形式の訓練に参加してほしいのである」

 「なんでこんな時だけお前ら息ぴったりなの!? ……というよりも来るぞっ! 来ちゃうぞ!?」

 「さあ3対1だな!」とゲダフは腕まくりをしている。

 「頼りにしているのであるぞデンザロス! 壁役としてな! まあ3人もいれば勝てないこともあるまいて! 絶望にはまだ早いのである!」

 「お、お主たち…………! む、むぅ『魔王』、『人形師』、お前たちも何を暢気に手を振っている、助けに入れ……!」

 

 などと言っている間にも『黒』の白い顎髭、山羊そのもの顔が哄笑に歪んだ。たちまちその背後が歪み、暗黒そのものというような深くおぞましい翼が広がっていく。星々の煌めくような夜空を思わせる翼には、無数の瞳が浮き出て、遠く水色の空に広がる羊のような群雲を、飲み込まんと欲する狼のあぎとめいて伸び広がっていく。


 彼の細く、長く鋭利な爪を持った両手が天を仰ぐようにに構えられていた。


 視界の隅では気がづけば、『大猿』が地に突いた杖を頼りに、完全に夢の世界へと落ちているのが、蟹には見えた。






 「う、ううん?……現実逃避をしていた筈が、ひどすぎる……まだしも現実のほうがマシではないか、うむ」

 蟹はぼやき、轟々と水の流れる音が響く、陰気な石造通路の陰世界へと意識を立ち戻した。

 ぷんぷんたる臭気が、反吐を思わせる汚水が、暗闇の中を走っていた。

 ごう、と遠くより響くは水の険しき流れ。

 ここは地下水道。

 100万都市エミダリの地下水道であった。


 蟹の周囲を護るのは暗闇。

 腐った物の臭い、肉と野菜の溶けて液状となった匂い、おびただしいほどの不浄が、生物の血管を思わせて錯綜する地下空間。

 その一画に一匹の甲殻類はいた。

 

 蟹が甲羅をかしげつつも、どうしてこうなったのか、改めて現実から逃避したくなった。

 蟹にだって憂鬱になる権利はあると言わんばかりの沈痛な面もちで、鋏を上下にちょびりと動かしている。


 ではそもそもいったいどうして、ここに己はいるのだろうか。

 何が事の発端で、こんな糞と生活排水、泥と吐瀉物の臭気ぷんぷんたる空間に己が存在するのか、蟹は甲殻を斜めに傾げて、闇の中でまた過去を探る。



 

 そもそも今日はまず、かねてから世話になっている出版社に、あの姦しい緑髪の冒険記者エイナと一緒に挨拶がてら赴いた。

 少女ルナーレが、酒場つながりの仲間とも言えるシチスケや、最近仲の良いレセ・シュオウプ(と本人たちに言うとどっちも顔を真っ赤にして怒り出すのだが)とともに迷宮に潜るとのことで、暇になるであろう蟹が、かねてエイナと約束しておき、そしてその通りに、酒場に集合したのが夜も明けやらぬ、朝の忙しさに街がまだ喧噪にまみれている時分のことだった。

 蟹は寝ぼけ眼で、目をこすりながらケントゥムに髪を梳かれる、小さく手を振って蟹を見送ったルナーレの姿を覚えている。

 おそらくはこのあと、己のプレゼントした外套をはためかせて、これまた特製の黒刀と、先日買いに行った魔導書を腰に提げて冒険へと赴く彼女の、意気揚々とした姿が、蟹の脳裏には手に取るように浮かんできた。

 見送る少女の、陶器のようなケントゥムの手によって梳かれる金の髪が、差し込む朝日の下、流麗になびく姿は、少女らしい笑みと合わせて、綺麗だった。

 そのどこか壮麗さを感じる姿に、昨日の寝る前に見せた――やれ、名所みたいなところに行くらしい。やれペンタなしで行ってみる。頑張る、でも実はちょっと不安などと言う彼女を思い出すことは難しい。ちなみにそのときは蟹なりに励ました(蟹の励ましは、世間一般の語彙でからかうとも言う。少女は怒った。が、それもまた蟹の計算の上である。しかし予想以上に怒ったのは蟹の計算外だった。ご飯抜きになった。蟹は泣きたくなった)ことも思い出された。

 

 まあここまでは良い。

 心の通う蟹と少女の平和なやりとりだ。

 蟹は誰ともなく頷きつつ、考えを続ける。


 その後は、集合場所の白シャツ亭で朝からテンションの高いエイナ嬢に、流石の蟹も押された。

 その騒がしさを睨みつけるようなナーガや店主やらの視線に謝りつつ、居たたまれなくなった蟹は出発を促し、早速エミダリ西地区にある件の出版社へと行くことにした。

 

 ――実は、わたし、寝てないんですよ!

 ――ほ、ほぉ、なぜそんなに嬉しそうにそれを言うのだね?

 ――……ノリ、ですかね。

 眼の下に隈を集めた彼女の底なしとも思える陽気さに押されつつ、蟹は清々しい朝の空気を味わい、道行く長耳族や下馬上人族の眼差しを受けて、あるいは空飛ぶ蝿馬はえばが着地して荷物を卸す現場などを通り過ぎて、記者と言葉を交わしつつ目的地へと進んだ。


 エイナ嬢の底知らずの調子上がりをなだめつつ、口から泡を吐き出し、時折、蟹に向かってリンゴを放り投げてくる露商に感謝の回転及び蟹鋏舞踏を繰り出しつつ、やがて正午前には迷宮日報編集社へと到着した。


 石造りの、東天和式建築とタレンコイア山脈式の建築様式が混ざり合う、いわゆる前衛的な六階建ての建築物ビルディングがそこにはあった。

 朱と黒、白と紅が入り交じった妙に鮮烈な色彩の、所々から木製の杭が突き出て、それを螺旋状に磨かれた石材が天へと支えているという、一見すると悪の居城とでもいうべき様相の、いかに周囲の景観と不調和をなしているか。蟹は設計者の正気を疑いつつ、おそろしくペンキ臭い玄関(ちょうど先週、塗り替えたばかりだそうだ)を入り、急傾斜の階段を進んでいった。

 蟹がすでに帰りたい気持ちで(蟹の見たところ隣を歩いているエイナはもはや恍惚とした表情で、指先を痙攣させていた。これは病院に運んだほうがよいのではと蟹は一瞬悩んだが、結局見なかったこととした)階段を登っていくと、火事が起きているのかと見紛うほどに、灰白色の重く粘ついた煙が充満した空間へと出た。

 蟹は鋏を挙げて、エイナの袖を摘み、キャンプファイヤーでもしてるのか?と問いただせば、エイナは首を振って、香を炊いてるのです、みんな自分の口を使って、と返した。

 辟易したように蟹は踵を返して、階段を降りようとしたが、エイナがすかさずしがみついて、その胸(あまり裕福ではない)を押しつけてきたので、蟹が、放してくれ、もういいだろう!?と呻くが、エイナは涙さえ浮かべて、貴方の力が必要なの、とそのあるかないかわからない胸をぐいぐいと押しつけてきたことに、蟹はまたげんなりとした。

 とはいえ折角ここまで来たのだから、と蟹は諦めて、煙に満ちた空間へとその青く大きな甲殻を滑り込ませた。

 四方八方からまるで死体アンデットの奏でる呻きが響き、エイナ以上に隈が浮き出て、落ち窪んだ眼孔の中に腐った魚のような瞳を浮かべた中年男性たちが黙々と、珈琲を喉に流し込み、煙草を呑むことを機械のように繰り返す様が廊下の左右に続いていた。

 魔導灯と蝋燭が、煙草の煙を照らし、そして進む蟹とエイナを地獄へと送るような印象で明滅する。

 

 ――ここが地獄か。

 ――しっ、滅多なことを言うもんじゃありません。

 ――うおっ、なぜこいつらは地面に伏して寝ているのだ。死人かと思ったぞ。

 ――生ける屍です、締め切りと、締め切りと、締め切りが、彼らを炎の中に投げ込んだのです。

 ――やはりここは地獄ではないのか……。

 ――滅多なことを言うもんじゃありませんよ! 地獄に失礼です!


 延々と続く、呻きの道、煙の空間、薄暗い廊下を歩いていくと、急に光が差し込んだ。

 蟹は眩しげに、鋏を黒い眼の前に翳し、エイナは慣れたものというように周囲に手を振って、進捗を訪ねていた。

 異様に物の散乱した机、机、机らしき何か、物置と化した机、机、何か強い力で殴られへこんだ机、そしてまた机が、神殿の聖堂を飾る石柱のように横に並んで蟹を祭壇――横一面に広がる窓硝子まどがらすから差し込む光を背景に部屋中を見渡せるように置かれた大きな机――へと導いていた。

 

 そこには巨大な豚人オークがいた。

 耳は垂れ、鼻はまるっきり豚のそれで、どこか愛嬌のあるちんまりとした瞳を、飾りっ気のない眼鏡で大きく見せていた。

 身につけた上下一式のスーツ――機能的な、大陸南方より最近急速に広まっている衣服――はその肉でぱつんぱつんに膨れあがり、ボンレスハムのような強調具合で腹から臍が見えた。

 陽光を帯びて、その額と頭部に広がる産毛がきらめきを放っていた。

 

 彼はにこやかな笑み(蟹にはまるで豚が旨そうな食料を見つけて、食欲を満たせることに歓喜している姿としか見えなかった)を浮かべて、片手を挙げ、そしてエイナを呼んだ。

 

 「彼が噂の?」

 「はい編集長」

 「そうか、ペンタ……君だったかな、僕が編集長のピグリス・アフラトだ、気軽にピッグと呼んでくれないか」

 「そのまんまじゃないか!!」

 「あははは、レスポンス早いねぇ」

 「で、編集長、これが原稿です」

 「お? おぉ! 次の分かい? 早い、早いねぇ、早いのはいいことだよ! 締め切りを守る蟹は良い蟹だ」

 「そんなに褒めるなことではあるまいよ、だいたい口述筆記だからな!」


 言い、蟹は両手の鋏を掲げた。

 編集長はそれがどれだけ有り難いか分かっていない、と言いたげに瞳を瞬かせていたが、やがて頷き、ついでエイナに稿料を渡す。

 エイナがそれを預かり、あとで蟹に受け渡す手筈である。

 蟹が今日は背中に袋を付けていないためだ。

 そして編集長は、改めて満足げにほほえみ、椅子に座る。

 蟹も地面に腹をつけ、エイナも近くにあった回転椅子を拝借する。

 

 眩い朝の光が、爛々と硝子から照り返されて、しかし煙草の充満した空間では、その光も薄汚く灰色に変質してしまう。

 黄ばんだ書物の山、机を囲み、あれやこれやと何かを数人がかりで作業している男たち。うめき声をあげて机によっかかる女。幾つも並んだ珈琲用のサイフォンが、鼓動のような音をたてて、生ける屍へと燃料を供給する。

 編集長は最近のエミダリにおける出版事情――新聞、雑誌、学術書、大衆小説、主流文学の小説、ジャンルマイナー小説について一席ぶつ。

 蟹のコラムが意外と評判がよいこと。今日の挨拶は、本当はこちらから行くつもりだったこと。これからもお願いするというような言葉とともに蟹を持ち上げるようなことを言い募り、そしてすかさず締め切りを守らない者が願わくば全員地獄に堕ちることを、それ以上に締め切りを守ることを、契約の神へと、つまり法を司るエーミッタ神へと祈願に行くつもりであることなどを述べた。

 

 「エーミッタ……エーミッタ神に!」

 「ええ、彼女は崇高な意志を持った清廉な騎士だったと伝わっています、彼女への信仰厚い南地区の教会に今度の休みにでも行くつもりです」

 「…………そのようなことを祈られても困るだろうに」

 「何か?」

 「いや、俺からも祈願しておこうと言ったのだ」

 「ありがとうございます」

 「編集長、そろそろ私はこれで……」

 「うん、いいよ! この蟹さんのコラムを二本立てで行くことにしたから」

 「えっ!?」とは蟹の驚き。

 

 何食わぬ顔で編集長は机に肘をついて、ほほえんでいた。

 蟹はエイナを見て、そしてまた編集長を見た。

 

 「ああ、いいですよ次はペンタさんのコラムはお休みということで」

 「……え? ぬぅ、よく分からぬが」

 「本来なら載ってなければならない書評を提出しなかった邪悪な罪人がいたのですよ、エイナさん」

 「はい編集長! と、あれを見てください」

 

 言われ蟹が振り向く、入り口と窓硝子、並ぶ机、珈琲工場、その対岸の、もう一方の壁に十字架に欠けられたように壁に張り付けにされている一人の男がいた。

 「……奇怪な」

 「罪人エボルフ・ガイです、エイナさん、ペンタさんを」

 「はい、じゃあこちらですね」

 言われ蟹はその奇妙なオブジェの前に連れられた。

 エイナは鋭い眼差しに、微かな憎しみを込めて、近くの机に立てかけられた棒を手に取った。

 先端に何か粘液状の物体がくくりつけられたその棒で、壁に張り付けられた端正な顔立ちの男を突っついた。

 「エボルフさん、起きてください、エボルフさん、起きてください」

 「ちょ、起きてる、起きてるって、ねちょい、ねちょいって、というか起きてるの知ってたよね」

 「締め切りを守らない人なんて知りませんよ!」

 「……この面妖な儀式は、この出版社に伝わる行事か何かなのかね?」

 「いえ、違います契約書に書かれていたことを守らなかった罪人が、契約書に書かれていた通り次の号に二本原稿を載せるためちゃんとしっかりと働くよう、缶詰めにするため、そしてその途中で脱走しないようにホテルまで送り届けることの出来るよう監視するため、決して逃げないよう確保するためにこうしています……えいっ! えいっ!」

 「うわぁ、ねちょい、僕の顔が、うわぁ」

 

 如何にも気障な仕草が似合いそうな、優雅な美貌をたたえた青年の顔が、見る影もなく粘液でねばついていた。前髪が顔に張り付いていた。

 蟹はもはや何も言うことがない。

 異常、非日常が重なり、持ち前の陽気さを発揮する暇もないほどに、おかしな事態ばかり続く。

 

 エイナはそれから気が済むまで優男の顔をぐちょぐちょにした後で、蟹をその張り付け男に紹介した。


 「や、やぁ、初めまして、僕がエボルフ=ガイ、人呼んで『透明賢者』とは僕のことさ」

 「う、うむ、おはようございます、だ。俺はペンタとでも呼んでくれ、まあ所謂ところの魔獣である!」

 そして蟹はぎこちなく、鋏を振り廻し、体をぐいんぐいんと回転させ、ステップを跳ねる。

 すると近くの机上にあった無数の紙片が崩落を起こし、埃を巻き上げた。

 蟹は慌てて体を動かすのやめ、気まずげに、その黒い眼で、エイナをじいっと見上げた。


 「…………すまん」

 「いいですよ、もう、何でも……エボルフさんのせいにしておきますから」

 「ありがたい」

 「……ありがたくないよねっ!? それ僕にとっちゃあ有り難くもなんでもないよね!?」

 「…………すまん」

 

 言って蟹は両の鋏を持ち上げて、エボルフを讃えた。

 




 


 3





 結局、蟹は崩落した紙を机の上に片づけることはしなかった。

 というよりも出来なかった。彼の鋏ではそんな繊細なことは不可能であった。蟹はうなだれたが、エイナも編集長もそこに積まれた紙が何なのか、落書きか、もはや意味をなさないメモか、資料か、原稿か、原稿の成れの果てか、原稿未満のちり紙か、あるいはその全てなのかまったく理解できなかったので、特に責めることはなかった。

 

 さて蟹は、張り付けにされたエボルフなる最高位冒険者とも幾つか言葉を交わしたが、エボルフが今度はもっとゆっくりと話したいと言った。

 今の己がどこからどう見ても四方山話に花を咲かせるのに適した体勢でないことを述べたため、蟹もそれに同意した。

 

 ともあれ自分が関わっている職場を、確認できたことをよしとして、蟹はようやくの休みを得たらしいエイナとともに煙と埃と珈琲、洗っていない生き物の匂いに満ちた地獄のような空間から早急に脱出することとした。

 今だ仕事の終わらない男や女、獣めいた得体の知れない生物が、廊下を歩くエイナと、ついでになぜか蟹の脚を必死に掴み、冥界へと引きずり込まんと妨害する光景こそあったものの、どうにか現世へと脱出することに成功したのだった。


 「ひどい、ところ、だった、ね」

 「……否定できないですね!」

 言って、緑の髪を揺らして、ポーチバックからハンカチを取り出して、顔を拭い、そしてピンク色に澄んだ香水を体に振りかけるエイナの姿が、蟹には見えた。

 昼食を取るために、各地を歩き回る労働者、冒険者が大挙して道を歩く中を、エイナは蟹の背に座って、進んでいた。


 肉の焼ける匂い、屋台で麺が、米が、汁物と一緒に売られている。

 串焼き、鶏肉を丸ごと蒸したものに秘伝のソースがかかった東方の料理。

 ときに喧噪に満ちた酒場が、食堂が、冒険者たちで賑わっている。

 

 幅が1Mと2Mの間くらいという、巨大な蟹が、その人々の流れを切って進む姿は、人目を引くが、しかしそれよりも目の前の食事のほうが魅力的とばかりに、すぐに人々の視線はそらされる。

 繰り返されるそうした情景の中で、蟹は鶏を香ばしく焼き上げたもの供している屋台で、エイナと自分の分を用意させた。

 鳥の旨味が凝縮した白い脂の滲んだ米に、色とりどりの野菜、そして肝心の鶏肉――柔らかく、噛めば肉汁が迸り、その繊維質の食感は香ばしく熱い。

 そうした見るからに食欲をそそる料理を、蟹とエイナが折半で購入し(蟹の分の支払いは、先ほど編集長から預かった稿料によっている)ついで屋台に一応置いてある、頑丈になめされた麦藁で編まれたランチボックスを購入し、香草を敷いてそこに並べてもらう。


 そして二人は西地区南東の壁際にある公園――かつて王政時代に此処にあった王宮の名残とされている広い緑――で昼食とした。


 都市エミダリは中央に流れるエミダリ大川をまたいで五地区、ひたすらに住宅が密集して百万近くの人口が詰め込まれた息苦しい空間である。

 しかし数こそ少ないが、こうした緑の園がときに散らばり、そこには薔薇が、躑躅つつじが、晴れに咲き誇る新たな紫陽花あじさいが、遅く咲く奇怪な人工種の椿などが、目もあでやかに広がって、よく刈り取られた芝生、木陰を作る広葉樹の優しげに暖かな空気が、鳥の鳴き声で軽やかに、穏やかな風とともにそよいでいた。


 ぱくりと、鋏でチキンレッグを摘み器用に顎へと運ぶ。段と帯を形作るなめらかな腹甲に、肉汁を滴らせながら、蟹は幸せそうにエイナの周りを回転していた。

 一口つまんでは、ぐるりぐるりと、青い甲羅が線状に瞬くほどに素早く回りに回って、また一口、ホップステップジャンプと言いたげに、時に宙に浮いてまた回転する。


 「はっは! 旨いなぁ!」


 目元を黒ずませた記者が、こっくりこっくりと船を漕ぐように眠気と戦いつつ、日差しに目を細め、そして段々とギアが上がってきたと言いたげに興奮している蟹をぼんやりと見つめながら、米と野菜、そして鶏肉を口へと運んでいる。

 先ほど路地裏で購入した粗雑な木の匙と串を使い、頬を膨らませながらなんとも美味そうに、米を口の中で溶かし、肉の旨味を味わっている。


 「よおし! とっておきである! ……縦大回転!!」

 

 途端、蟹が芝生に座るエイナの頭よりも高い位置へと跳び上がり、身体を縦に、見上げるエイナに向かって堅く紋様の入った甲殻を、道行く子供連れの主婦たち――目を丸くして、蟹を指さし何かを言っている数人の子供たちと、なんて説明すればいいのかわからないというような主婦たち――に向けて白っぽく滑らかな腹を見せる。

 すかさず脚を内側に畳み、鋏をちょこんと甲殻の脇に添える。

 そして突如としてヨーヨーを思わせる大回転を、あるいは回転する円盤そのものといった様子の、すさまじい縦回転を行った。


 「ブフッ!」


 思わずエイナは口に含んでいた食事を吐き出してしまった。

 蟹は無駄に鋭い回転とともに落下すると同時に地面へとめり込んでいった。

 土煙と衝撃のあと、蟹の珍妙な姿が見えた。

 芝生をえぐり、土を抉って、出来たくぼみに半身を埋め、両鋏を天へと掲げ、左右にふりふりと振って、その黒くちょこんと付いたボタンのようなまなこに困惑の感情を浮かべている姿だ。

 土と草が身体にこびりつき、ちょこちょこと左右に振られる鋏が愛らしい。

 「で、出れない」

 「アホウじゃないですか!」

 「た、助けてくれ!」

 

 そんなひどい一幕。







 4


 まったりとする二人の下で、午後の暖かな陽気を切り裂くような騒がしさが聞こえてきた。

 土汚れを魔導で生み出した水で洗い流し、いそいそと土を埋めている蟹は、禿げた芝生を前に頭を抱えていた。

 悪気はなかったとはいえ、ここだけ芝生が禿げてしまった、いったい誰の仕業だ、こんな愚かしい真似をしたのはいったい誰の仕業なんだ!

 「俺だよ!」

 「……いきなりどうしたんですかペンタさん、芝生のことなら管理事務所に後でお金を納めておきますよ」

 「……すまない」

 「ルナーレさんの気持ちが痛いほどにわかりますね」

 「ハハハ」

 「なんで笑うのですかね」

 「良識ある蟹として、恥ずかしい」

 「じゃあやらなきゃいいんじゃないでかね」

 「ごもっとも!」


 エイナと蟹が公園の入り口にある掘っ建て小屋に事情を説明して、蟹の稿料から弁済をする。

 そして蟹と記者が人混みに溢れている大通りへと移動すると、先ほどからの騒ぎ、その源たる光景が二人を出迎えた。


 それは行軍。

 鎧と槍、あるいは剣と盾。

 弓に銃、魔導書、紋章符などを一抱えに背に負って、数百人にも及ぶだろう長い列をもって馬と兵士が都市の出口へと急ぐ姿であった。

 

 忙しく繁忙を極める商店、そして人々の流れが止められ、滞り、あちらこちらで怒号と悲鳴めいた声が飛び交っていた。

 

 「あの紋章は、第四軍……予測通りですね」

 「ふむ、目立つ奴らだ、ことに人草の軍列などを見るのはいつぶりか」

 「ペンタさんって幾つなんですかね」

 「まあまあ、細かいところはいいだろう、それよりも予測通りとは?」

 

 公園の出入り口から、大通り、幾つかの小道、裏路地に至るまで軍列に追いやられた人々によって熱気が充満し、足の踏み場もなかった。

 どうにか大通りの壁際にたどり着き、息を吐いて休みながら、目下終わる気配の見えない行列を一人と一匹は見やった。

 

 「そうですね、まあ時間もあるようですし……昨今、というよりも本当にここ最近のことですけどね、このエミダリア地方と山脈を挟んで北側にあるグローリアーが不穏な動きを見せている、らしいということが巷で囁かれてましてね」

 「ふむ、このような都市国家に……いや愚問だったな」

 「世界最大の迷宮というのは、つまりそれだけ巨大な鉱脈とも言えますからね、そこで取れる素材の数々、そしてそれを中心に回っている経済域の旨味、まあ色々あってちょっかいをかけようとしてる訳ですよ」

 「ふぅむ、しかしまあ良いのか、エミダリを襲うなど国際世論?なんだったか、蟹にはよくわからんが、そうした七面倒くさいものが人の世にはあったと思うが」


 エイナは興が乗ってきたというように笑顔を作って、隣で地べたにしゃがんでいる蟹をちらりと見る。

 蟹はなんともなし、とひどく暇そうに、しかしどことなく興味深げに軍人たちの歩みを見つめていた。


 「まあ迷宮が現れた当時は、世界連合、奇跡の協調なんてものもありましたがね……それから数百年、既得権益が出来て、あれやこれや政治的なしがらみができるとまあ、ご覧の有様ですよ」

 「うむ、なまあ好きなのだなぁ、お前たち矮小な生命は内輪もめが」

 「幾つなのか分かりませんが、単純そうな蟹さんと違って、矮小は矮小なりに色々と悩んでいるのですよ」

 「そういうものかね」 


 そしてその後も暇つぶしがてら、人の流れが落ち着くのを待つように蟹と記者は言葉を交わした。

 

 エイナ曰く、現在のエミダリは、かつてこの地に現れた世界最初の迷宮と戦うための連合軍が元になっているとのこと。

 生き残った僅かな旧エミダリ市民とともに、現在の迷宮攻略構造によく似たシステムが出来るまでのあいだ戦った世界各地の軍人と商人が現在の都市基盤を作り、その後、数百年をかけて現在の形へと相成ったのだ。


 「エミダリを統治していた連合軍にも、エミダリ市民、あるいは都市国家エミダリへの国民意識みたいなものが根付き、最後には独立。その後のエミダリは対迷宮のノウハウと元より商業都市としての抜群の立地を生かして、有史以来何度目かの世界中心都市となったわけです」

 「それがこの混沌とした活気と種族構成か」

 「そうですね、今のエミダリはその建国の経緯からして世界市民的コスモポリタニズムに溢れてるといってよいでしょう」

 「なるほどなぁ、しかしそれではその元となった各国も黙っていなかったのではないかね」と暇つぶしの合いの手を打つ蟹。


 「お察しの通り! この国の迷宮攻略が遅々として進まないのも、その辺りが関係してるのですよ!」

 「というと?」

 「政府の主導争いです。その利権を握るため幾つもの派閥が、その元となった外国勢力と密接に関わりつつ、お互いに政局闘争を繰り返したってゆーことです。攻略のためにある政府の中で、いつしか迷宮攻略が、政府首班の椅子を狙うための一つの駒程度の扱いとなったわけです」

 

 エイナは我が事のように痛ましげに吐き捨てたあとで、拳を握り、そして蟹に向かって声を挙げた。


 「しかしその情勢が大きく変わったのが二十年前! そうした各外国勢力と結びついた貴族たちが一挙に駆逐され、現在の政体、軍部主導の迷宮攻略を根本においた政府が樹立されました! 真にエミダリが独立した瞬間といってもいいんですよこれは! ペンタさん!」

 「う、うむ」

 

 テンション高いなコイツと、蟹は思った。

 しかし人目を忍ぶことなくエイナ・レンテユールはなおも加熱ヒートアップする。

 

 「反応が鈍いですね!」

 「正直、よくわからんのでな」

 「事の起こりは、大陸戦争、いわゆる大陸ほぼ全域で散発的に発生した戦争です!

 当時、度重なる政局闘争によって軍部は弱体を重ねてました。

 迷宮攻略とは子や孫の代までを見据えた長期的な人材育成と資源貯蓄、技術研究が欠かせませんが、ころころと政府の主導者が変わるエミダリにおいてそれが弱体化するのは当然の帰結!

 一部、俗に正当派と呼ばれる軍人貴族たちを除いて、冒険者組合との連携も稚拙、総合大学府との関係も冷え切っていた当時の政府は真っ当に迷宮攻略を行うことなどとても不可能でした」

 「そんなにか?」

 「迷宮内の巡回所の維持もままならず、時には五階層も後退したほどです」

 「……そんなにか」

 「それを食い止めたのが先ほど述べた正当派なのですが、いかんせん数が足りず前線を食い止めるのが精一杯でして」

 「正当か、道理に叶うということか? それとも系統に叶うということか?」

 「前者ですよ、レセさまのお父様などはこの正当派の重鎮ともいえたのでがね、何せ貧乏で」

 「ほう、あのお嬢様が」

 「とまれ、そのことに危機感を抱いた貴族たちが、当時世界各地で流浪していた各国において弾圧を受ける少数派、内戦における敗北者、あるいは転戦していた傭兵たちを大挙として雇い入れたのがそもそもの始まりです」

 「わかった、もう俺でも先が読めるぞ」


 蟹はそう言って、自信満々というように鋏を左右に降って、その瞳を身体ごとエイナへと向けた。


 「その外部から入って来た者たちが手を組んで、軍部を掌握したのだな」

 「そのとうり! 流石の蟹、鋏は伊達じゃありませんね!軍部を掌握した外部出身者たちは、たちまちクーデターもどきの強権で旧貴族派を駆逐していきました。大陸戦争で経験を積んだ歴戦の勇士たち、あるいは国を追われた優秀な軍人や政治家たちが電撃的に政府を掌握したというわけです」

 「驕れるもの久しからず、火炉の上で胡座を掻いた豚は気づいたら丸焦げと」

 「そうして政府を掌握して、冒険者組合や大学府とも連携を密にとり、当時まだ国外にいた幾つかの無所属の戦力を取り込んで、残っていた旧貴族たちもじわりじわりと追いやって、晴れて今のこの都市ができたわけです」

 「……晴れがましいか?」

 「まあ、正当派までも一緒くたにざんばらりんとやってしまったり、何もかも褒めることはできませんが、やはり前よりもましですよ」

 「見てきたように言うが、そのときお前は何歳なのだエイナ嬢」


 ふっ、と鼻で笑い、エイナは蟹を見つめる。


 「女性に歳を聞くのはマナー違反ですよ」

 「むぅ、何かイラッとしてしまったぞ」


 と、そうして彼らが喋るうちに、目の前の列も進み、遠く終わりが見えてきた。

 人々のざわめきにも安堵の色が見えた、幾重にも重なる屋台の呼び声、茶こけた石造建築の下で、立ち往生を余儀なくされた人々が解放に喜ぶ。

 しかし一転、突如として、ざわめきが強まった。

 人々の眼差し、驚嘆と畏怖に彩られ、一点、長い銀髪をはためかせた馬上の人にそそがれていた。

 一房の金髪を顔の横で束ね、美しい装飾が施された外套から覗く瞳は高貴に輝き、上品さと高潔さが透けて見える女性であった。 

 「あれは……っ!」

 「知ってるのかねエイナ君」

 「ロッホ中将ですよ!ペンタさん!『黄金の錫杖』『雷時計』と呼ばれる現軍部における特に強力な戦士です」

 「うむ、見るからに強そうであるが、しかしまああれは癇癪をもってそうな顔をしてる」

 「何の根拠でいってるんですか!」

 「勘だ」

 エイナはたちまち蟹を捨て置いて、馬上の貴人を目を輝かせて見ていた。

 はぁ、やっぱりカッコイイなぁなどと漏らしていた。

 「エイナ嬢、そういう趣味が」

 「……えっ? 違いますよ!?」

 「もういい、わかったので、うちのルナ嬢の周囲には近づかないでもらえるかな」

 「違いますよ! あ、ちょ、この蟹、こっち見てくださいって、親ばか!」

 「冗談だ、しかしまあ、みな何故こんなに驚いているのだ」

 

 顔を赤くしたエイナが、己の深い森を思わせる緑髪を撫でながら、改めて、蟹を見た。


 「……それはですね、ロッホ中将は今現在、西地区迷宮の軍部総大将だった筈で、それをわざわざ駆り出してまで出兵するということは」

 「ふむ、予想以上にきな臭いということかね」

 「そういうことです」

 「しかし昨日迷宮、今日国境、忙しないことだな」

 「元々は大陸東部における動乱に巻き込まれ最終的に傭兵となった方です、これぐらいは慣れてると思いますがね」

 

 やがて会話が途切れる頃には、中将も遠く見えないような位置へと消えていった。

 列の終わりももはや目前で、エイナと蟹には、周囲の密集が解けていくのがわかった。

 張りつめた空気が緩み、エイナと蟹も歩き始めた。


 「そういえばシチスケさんはロッホ中将の副将だったんですよ」

 「ほう…………ほう?」

 「だからあの人はロッホ中将の副将で、右腕だったらしいんですよ」

 「それは……すごいのか?」

 「凄いと思いますよ、といっても酒に酔ったときに本人がこぼしていたのを覚えていただけで、詳しくは聞いてませんが」

 「……あんな朴念仁そのものという顔であの寡黙さ、軍人なぞできるのか」

 「よくわかりませんね、でもまあそのお陰か、知ってる人は知ってる程度には有名人なんですよ、あの人……うちの酒場なんぞを根城にしてるから全く騒がれませんけどね」

 「エルガーの人徳の賜物だな!」

 「物は言いようですね!」

 「あとなあエイナ、お前、鞄は?」

 「え? ……ここにありますよ、もう、何を言っているんですか、か、か……あれ?」

 「……あれ?」


 言いながら、顔を蒼白にして、エイナは慌てて周囲にこうべを巡らせた。あっちを見て、こっちを見る、手元を見て、遠くを見る、そして隣の蟹を見る。

 蟹はその眼差しに答えるように身体を傾げる。


 「摺られましたね……」

 「ほう、災難だったな」

 「幸い手帳は手元にありますし、あの中には安物の香水と布と少額しかありませんが……あなたの稿料もそこに含まれてますよ?」

 「…………うぅん、エイナ嬢」

 「はい」

 「これはどういうことかね」

 「さっきの長話で気が緩んでましたね、お互い熱中しすぎたようですね」

 「むう、面妖な……殺気がなければ気付き難いという俺の裏を掻いた知能犯的な犯行と分析できる」

 

 そうして蟹と記者がお互いの顔を見つめ合って、他の通行人にいたく迷惑そうな顔をされている最中、それは起こった。

 

 「スリよぉ!」という若い女性の叫び。

 

 見れば、うら若き主婦が、黒っぽい服装の男に鞄をスられた直後であった。というよりもスリが露見してひったくり犯となっていた。

 蟹はすぐに動き出す。

 エイナがそれを追った。

 人が多い、そのためか速度があまりでない。 


 「ちょ、ペンタさんスリなんてたくさんいますって、べつにあの人が犯人というわけじゃないですよ?」

 「わかってる」

 真剣な口調で、蟹はその三対の脚を動かして、地面を掻く。

 人々がこれまた迷惑そうに二人を避ける。

 段々と加速する蟹を、髪を揺らしてエイナが必死に追いすがる。

 

 「じゃあなんでですか!」

 「……鬱憤を晴らそうと思ってな」

 「ちょ、渋い声で言っても全然かっこよくないですよそれ!?」

 「さて、このままでは追いつかれるな、エイナ嬢、あとで酒場で会おう」

 「ちょっ!? ペンタさん、ペンタさーん!?」


 言うなり蟹が壁へと、物干し竿が突き出て、向かいの建物との間に紐がぶら下がり、土に煤けた建物の壁へ跳んで張り付いた。

 緑の髪を揺らし、手をメガホンのように口元に当ててペンタに向けて何事かを叫ぶエイナを置いて、蟹は垂直な地面に身体を接地させると同時に、脚へと導力、吸着の作用を想像し、たちまち安定を得る。


 周囲の視線が、突如として壁に張り付いた巨大な丸い蟹に注がれる。

 建物の二階ほどの高さへとすべるように移動して、そのまま加速を開始する青い甲殻を見て、幾人かの冒険者は同時に、ゴキブリみてぇだなと思い、南方の半植物人は故郷で見たアシダカグモを連想した。

 

 しかし走り逃げる男の、粗末な黒い上着の背を追いすがる蟹には、そのような眼差しは些細なことでしかなかった。

 行け、蟹よ、行け! 行け! 己の憤懣を、全く関係のないスリに押しつけろ!

 

 そして蟹は青い影となった。

 凄まじい速度で、壁から壁を、建物から建物をスライドするように進むその姿は、奇怪な怪物そのもので、いくつかの番所に向けて善隣な人々が通報を行い、純粋なご婦人は悲鳴をあげ、思わず攻撃を行う冒険者も沢山というありさまであった。


 しかし進む、蟹は進む。ときに窓から身を乗り出したものを避け、壁に掛かった布を避け、蟹は進む。

 『大蟹』デンザロス・デンザロス・ペンタレシアの名にかけて、不埒な犯罪者を取り逃がす訳にはいかないのだから。

 かつての仲間が見ればため息を吐きそうな醜態をものともせず、色々と台無しにして蟹は進む。

 

 追われるスリも、ちらりと横を見れば、巨大な青い何かが己を見ていることに気付いたのか、恐怖からなお加速する。

 おそらくはこちらも脚に向けて加速を導力しているのだろう。

 そして路地へ、裏路地、小道、曲がり角、迷路のごとき都市エミダリの集合住宅街へと突っ込む。

 いかに速度のある蟹とはいえ、土地勘のないことと、障害物の多いこと、壁張り付きが角に弱い(スライドできない)事実に苦戦し、距離を離されずに目標に追いすがることしかできない。

 

 さらに加速したスリが、道行く人々を押し退け、押し倒し、時に弾き飛ばし、また角を曲がる。


 九十度の直角、またしても九十度の直角、蟹は苛つき呻き、泡を吐き出した。いったん着地を行い、そしてまた人を弾き飛ばさないように壁へと跳んで、目標から少し距離が離れたのを見る。

 しかし蟹の速度をすれば次の瞬間には追いつく。

 

 スリからしてみれば悪夢そのものであった。

 撒こうにも撒けない、すでに脚へ二重の加速紋章、さらには隙を突いて速度加護の紋章符を張り付けた、しかし蟹は一瞬で走る自分のすぐ隣にいる。

 角を曲がり一瞬距離を離せば、瞬きしている間にすぐ隣に巨大な存在感がある。

 すでに息は切れ、脚も棒になりつつあった。

 このままでは追いつかれると判断してか、彼は一つの手段に出た。 



 蟹がもうすぐで追い付くだろうことを確信する。

 そもそも人がこんなに地面を歩いていなければ、数秒、いや数瞬の間に追い付いて組み伏していた距離である。


 ――もはや、観念するしかあるまいよ!


 と蟹がほくそ笑むように、顎をいからせた次の瞬間、スリは突如としてその姿を消した。


 「なに!?」

 

 蟹は急停止する。

 圧倒的な速度からの停止が生む衝撃をものともせずに、スリが姿を消した辺りを見回す。

 大通りから遠く離れた路地には数人の気怠げに寝転がった男と、洗濯物を干した女、唖然とした顔の剣を整備していた冒険者らしき赤髪の女性がいるだけだった。


 「どこへ消えた、奴め」

 と蟹が周囲を見回せば、剣を手に持ったまま、口をぽかんと開いた女性が、蟹を見ていることに気付く。

 「知らぬか?」

 「え、えぇ? ボ、ボクに話しかけてる?」

 「うむ、で、あるな」

 「そ、そこだと思う」

 

 どこか子犬を思わせる振る舞いで、その女性は近くにある五階建てほどの建物の壁際を指さした。

 ぷるぷると気弱そうにふるえるショートカットの女性が、周囲に助けを求めるように首を振るのにも構わず、蟹は鋏を振って感謝の意を示して、その穴へと近づいた。

 その穴は地下水道への入り口らしかった。

 女性が水を汲むのにたまたま使用していたのだろう。 

 蟹がその穴に近づくのを見て、女性が声を震わせながらも、

 「あ、あぶないよぉー?」

 などと注意を促す。 

 

 しかし蟹は気障な様子で、鋏を振って、心配ご無用などと返し、その丸い甲羅を、ところどころでこぼこと膨らんだ甲羅を穴へとさらに近づけた


 「しかし地下か……」

 

 蟹が思い出すのは先日のこと、こことは違うが、エイナに街を案内された折りに、突如として衝動に駆られて、下水へと突っ込んだときのことを思い出す。

 いつでも戻れるなどと楽観して、錯綜する迷宮を歩くうちに一晩が経過し、少女ルナーレを怒らせることとなったのは記憶に新しい。

 蟹が、うぅむと唸るのを、赤毛の冒険者の女性が、いまだに動揺が抜け切らぬ様子で見つめている。

 

 蟹は正直に言えば、悩んでいた。

 もはやここまでするものなのか、何となくもやもやしたものをぶつけるためだけに追いかけた、見も知らずのスリ、おそらくエイナから鞄を掻払った(肩にぶら下げていたそれを紐ごと切り取っていた。小型かつあまり重量がなかったため熱狂していたエイナが気付くことがなかったのだろう)奴とは別の人間で、本当の犯人はすでに遠く離れた場所で蟹の稿料とエイナの小銭を見てほくそ笑んでいることを考えれば、ここまでする意味があるのかと、また悩む。


 蟹は黙考。

 都市の喧噪を遠くに、己の【魂】へと埋没し、本来の意味での瞑想を行った。

 そして訝しげな女性冒険者がようやく蟹から顔をそむけ、自分の剣に布を当てた瞬間。


 「そこのお嬢さん」

 「……は、はひっ?」

 「俺の名はペンタ、しがない蟹だ」

 「は、はぁ」

 「もしよろしければ、気が向いたときにでもペンタは下水道に消えたと伝えてくれないか……中央地区の白シャツ亭という酒場だ」

 「……うぅ」

 「あとで礼は弾もう」


 蟹はもう一度、臭気の漂う水道を、上水道と下水道を分かつ暗闇を睨む。

 そして鋏を重ねるようにして、一度ため息を吐く。

 泡が口元より滲む。


 ――なあに、今度は早く戻るよ、ルナ嬢。


 ――たかがスリを追いかけるだけのことだ。

 

 ――こうなれば意地なのだ。もはやスリがどうこうではない、これはプライドの問題!


 ――それだけのことよ! たぶんな!



 そうして蟹は暗闇へと一息に、身体を踊り込ませる。


 あとに残されたの呆然としたようすの、赤毛の冒険者一人。


 街の喧噪も、蓋の開けられた暗闇には届くことのないように見えた。




 



 『大猿』ブラフシュマ

 

 大島(巨人島)出身。

 未開の島、永遠の新世界と名高き大陸北東の巨大島において、長老と目されていた類人猿である。

 強大な魔獣と過酷な自然の蔓延る大島は、旧暦期より流刑の地として名高いような険しき大地であるが、その弱肉強食の世界において巨大猿の一大勢力を築いた長が、この巨大な猿であったと伝わっている。

 ある種の突然変異であったものの、火を扱うことを知るこの異形の長を率い、ブラフシュマは長く群を率い、時に数百匹もの同胞を従え、その名望は中央大陸にまで響いた。


 しかし旧暦六〇〇〇年代に旧神の戯れによって群れを全滅させられ、この巨大な類人猿も十重二十重の拘束とともに大陸へと拘引される憂き目に遭った。

 エミダリ近郊の動物園に収監された彼は、以降そこで数十年の時を過ごすこととなるも、『有角姫』による英雄進撃のどさくさに紛れ逃走、以降は大森林へと隠れ住んだ。一説によればこの時にガルやクワイネリーといった魔獣と親交を持ったと語られる。

 

 地軍結成に際してブラフシュマの噂を聞いた『賢者』や『智慧』が大森林の奥深くに隠棲するこの老猿を訪問。

 旧神への怨みはあれど、それ以上に生きることに疲れた彼は『賢者』と簡単に会話するに留まった。

 しかしこの時、天才を自負しており、また紛うことなく天才そのものであった『賢者』が数分の会話ののちに、突如として角を震わせ嘔吐をして「ここに私の師がいた、私は自分が恥ずかしい、この方を知らずしていったい私の何が天才でありえるのか」と呟いたことが知られている。

 天才ゆえの高慢さに満ちていた『賢者』のそした発言が、地軍に与えた衝撃は大きく、以降『鍛冶』『海王』『大蟹』『妖精』『人形師』といった僅かなりとも儀式大家としての腕に自信のある者が立て続けに訪問し、そしてその才能に感嘆を禁じ得ず、最後には魔獣に対して複雑な想いを抱いていた『神官』でさえもが、「なるほど、うぬぼれていたわね私は、彼こそ真の天才である」と率直に認めざるをえなかった。

 そうした地軍の面々の度重なる訪問(俗に三十顧の礼として知られている)に根負けをした形でやがて地軍に参加。


 以降は魔法――儀式大家顧問として地軍において教鞭を執り、また彼の存在なくしては地軍が天上世界への侵入法とした大儀式も机上の空論に過ぎなかっとされる。

 もし彼がいなければ地軍全体の儀式大家の水準も大きく下がっていたことは地軍の全員が認めるところであり、かの『黒』のゼバレフ・ガガーレンまでもが一目置いたほどの実力者であった。

 

 何よりも【力】の理解に優れ、物質の【力】としての状態、他者の精神と【器】【魂】を瞬時に理解できるほどに【力】を熟知していた。

 「まるで、俺たちには霧のようなものでしかないあれが、彼には雪のように手に取ることのできるものとして見えていて、俺たちが触れば逃げていくあれが、彼には綿のように簡単に摘むことのできるものなのだ」とは『大蟹』の評である。

 

 その性質は温厚、元よりの優しさに、年老いたことによる穏やかさが加わって、日がな一日の日向ぼっこが日課であった。また『吸血鬼』や『四つ耳』と言った比較的幼い存在から、『首なし』『騎士』『公爵』といった妙齢の女性、果ては『異空』『獅子王』といった異形たちに慕われた人格者であった。

 

 天上戦争においては『異空』を乗騎として各地を転戦。

 初戦においては『大蟷螂』を援護し、平原と森林での戦いでは後衛を率い、天山戦闘の前哨戦とされる渓谷戦闘においては『竜公』とともに僅か二匹で敵の援軍を食い止めた。

 天山戦闘においては西方口よりの突入において指揮官を務め、冷静であったとされている。しかし『異空』が旧神ごと異界へと消失した際には、激情のあまり、持てる全ての力を使い自らを強化し、その拳で二柱を殴り殺したと伝わっている。

 緒戦を合算して六柱の神を屠った。


 新暦においては殆ど知られておらず、僅かに学問の精霊として幾つかの大学府で祀られているのみである。

 本人は故郷である大島へと渡り、そこで静かに暮らしているらしい。

  

 


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