下 迷宮行脚 戦い戦いそして戦い 冒険の終わりと待ち人
このすごい分割したほうがよかったんじゃない感
後半修正するかも
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ほこりくさい、それがルナーレの覚えた最初の印象であった。
迷宮の暗がりを照らし出す松明が、点々と通路に並ぶなかに、幾重にも折り重なった埃の層。古びれた物たちの醸し出す匂いの広がり。
そんな中を3人の冒険者は進んでいた。
とはいえそのルナーレたちの前後にはまた幾組かの集団が見える。
エミダリの迷宮、その東区画の最前線は第三〇階層である。踏破域は四一。
既に攻略が始まって数百年以上の時が経つなかで、最前線よりほど遠い低階層の区域においては宝もなく、隠し通路の類も発見され尽くされたといっても誤りではない。
幾人、幾組もの冒険者たちの血潮と汗、そして涙が染み着いた廃墟。
そう呼ぶのが相応しいのだと、ルナーレは白シャツ亭の主人エルガーに聞いたことがある。
探索の終わった階層をわざわざ探索するのは初心者か、あるいはその階層に棲む――迷宮内部で繁殖する、迷宮外から連れてこられ此処に巣くうこととなった――魔獣や亜人に用がある者ぐらいであろう。
それがゆえに目的の階層まではこうして整備され、管理されている大通路を進んでいくことができるし、何処か行楽めいた空気が漂うのだ。
複雑に絡み合った通路・小部屋・罠があったらしき大部屋・盛時には迷宮に棲む者たちが使ったであろう住居群。
それらを開拓し、探索し、死守し、奪取した先人たちの造った安全な道。それを活用しつつ進む今を生きる者たち。
いまだ若さに満ちあふれたルナーレは、おちつきなく何かが潜んでいそうな暗闇と、仄かに揺れる灯群の揺らめきに目を凝らしていて、その若さ羨むようにレセが欠伸をした。
ただ一人の男、シチスケも何処か手持ちぶさたなようすで、スコップを揺らしながら、右腰に帯びた小太刀を優しく撫でていた。
どこからか冒険者たちの笑い声が聞こえてくる……でさあ、まじでよぉ! えーほんとー? どこ情報よそれ! 迷宮日報! ハハハハ!……緊張感を殺ぐような朗らかな声を脳裏で認識しながらルナーレもまた何かを思いつく……、
「ねぇ、シチスケさん」
「……?」
前を歩く少女二人より、一二歩分だけ後ろに居たシチスケは、わざわざこちらに振り向いて名前を呼ぶその顔を見て、首を傾げた。
「そのスコップは結局なんなの?」
「スコップは……スコップ、だ」
「……ですからなぜスコップを持っているか聞いているのではなくて?」
周囲に目線を走らせながら、ぶっきらぼうにレセは補足する。
シチスケは腕を組み、顎をなでて、数瞬のあいだ黙考する。
線こそ細いが、不思議と無骨な印象を覚えるその顔が、なにか愛嬌めいた沈思でゆがんで、歩く振動がその黒髮を揺らした。
そのうちにようやく言葉を閃いたというように、シチスケは己に振り向いたままのルナーレを見る。
「スコップ、は、……相棒」
「相棒て……」
「昔、から、使ってた」
「昔?…………シチスケさんって軍人だった、のよね?」
ルナーレの問いに、シチスケは頷くのみ。
陽炎のように揺らめく炎に、少女と元令嬢の髪が暗闇の上に輝いている。
ぱちり、ぱちり、と虫が火に飛び込んでは弾けていく音の連なりが、一瞬の間の中で聞こえてきた。
「ええと、軍なのにスコップ?」
「スコップは、最高、の武器だ、からな」
「スコップが!?」
ルナーレの驚きとは別に、それまでの話を聞いていたらしいレセがいよいよ苛立ちを隠せなくなったのか、険を帯びた声で言った。
「そのしゃべり方なんとかなりませんかしら……横で聞いていると焦れったくてしょうがないのですわ」
「……しゃべる、のは、いまいち、苦手で、な」
「もう別にいいじゃないの、お嬢様は流石に心が狭いわねぇ!」
「……っ」
顔を赤くするレセだったが、ルナーレの発言にも一分あると思ったのか、黙ったまま反論はしない。
そうしているうちに階層の終わりに到着したのか幅数Mはありそうな階段が、その大口を開いている姿が見えてくる。
おそるおそるといった様子でルナーレは足を踏みおろしつつ、先ほどの話しの続きを促した。
「で、スコップが最高の武器ってのは」
「……スコップは、便利だ」
「便利ねぇ」
「掘れる、刺さる、切れる、防げる」
「まあ言われてみれば、うん…………うん?」
「塹壕も、食料調達も、これ、一本で、カバー」
「……うーん?」
「それ、に、これ、は、伝説の、スコップ」
そうしてシチスケは、ふふん、と何処か誇らしげに、己の背中にあるスコップを撫でさすった。
「伝説のスコップ?」
「神の、作った、スコップ、らしい」
曰く、壊れず、欠けず、折れず、錆びず。
その話が本当ならば、確かに常軌を逸したとしかいいようのない伝説のスコップではあるが、 しかしルナーレとレセはいまいち納得のいかない表情で、曖昧に頷づくしかなかった。
いつも極力無表情な男が、どこか誇らしげにスコップについて語っている場面とは、傍から見れば、奇異そのものである。
話は終わったというようにシチスケはそのまま、黙して語ることはなかった、釈然としない二人をそのままに。
とまれ話の終わりは、階段の丁度よい終わりでもあった。
話の区切りが階段の最下段と重なり、気づけばルナーレが階段から覗ける周囲には、黒い緑が広がっていた。
これまでの階層とは明らかにその形態を異にするその光景は、天井が円を描きつつ段々と中心部に向けて高く広がり、ここまでの階層に比べて圧倒的な広がりを持っているように見えた。
ルナーレは己の目の錯覚を疑ったが、しかし連れの二人が動じていないのを見て、そういうものなのだと納得するほかはない。
「はぁー、見てよ。あれ木じゃないの」
「ええ木ですわよ。……暗黒樹、闇を養分として育つ迷宮の並木」
「へぇ」
それまでの階層と異なるのは天井の規模と緑の存在のみではなかった。
ルナーレが目線を前に戻せば、沼のような、茶色とも紫ともつかない色合いの淀みが一面に広がって、視界はおぼろに霞がかり、合間合間に僅かな灯火の明かりが見えた。
「湿地帯の入り口って感じ」
「……というか、その、とお、り」
「……気をつけたほうがよろしくてよ?」
言ってからレセが腰に帯びたポーチから干し肉を取りだし、それを沼へと向けて投げつけた。
階層と階層をつなぐ階段、苔むした壁、灯火が赤々と輝きを放つ陸地、その縁にいる三人の冒険者たち――ルナーレたちを奇異な目で見ながらも、杭と木材で作られた移動用の通路で、着々と沼の上を進みはじめる冒険者たち。
それらの空間は静かで、ときどき得体のしれない生物の悲鳴じみた音が響くのみだった。
まるで沼が音を吸い込んでるみたい。
ルナーレがそう思いつつ、レセの投げた干し肉を見つめているとやがて変化は訪れた。
あれ? なんか泡が……。
そしてルナーレの見ているまえで、ぶくぶくと泥濘が泡立ちはじめ、湿った空気が僅かに振動をおこしているように変化をはじめる。
「な、なにっ?」
突如として、ルナーレの身長ほどの高さを持った巨大魚が数匹、泥の中から空中に踊り出す。
その巨大魚に眼球は見あたらず、歪に生え揃った歯が虚空に煌めいて、その投げ出された巨体をより禍々しいものに見せている。
レセが投げた僅かばかりの干し肉を求めて競い合っているらしいおぞましき巨大魚たち。
「う、うわぁ」
「化石魚……あの鋭い歯に加えて、胃にも歯をもった魔獣ですわ」
ルナーレはごくり、と唾をのみこんで、魚たちが作り出した大気の振動によって揺れる己の金髪、そして外套を押さえた。
見れば、ルナーレたちだけではなく、いまだ初心者やら下級の位階に留まっているらしき他の冒険者たちも、何人か足を留め、驚きと恐怖と不安にその瞳の色を揺らめかせている。
レセがため息を吐いて、魚が消えていった薄暗い沼を見ていた。
「この魚は光に弱く、そのうえ食事を滅多に取る必要がない……半ば休眠状態で眠っているのですが。しかし沼にある動物性の匂いを敏感に察知して、ご覧のように、獰猛に食いついてくるのですわ」
まあ、休眠から醒めるのにしばしの猶予があるので、そうは食われることもないでしょうが。
そう続けたレセの言葉を聞いているのか聞いていないのか、ルナーレはいかにも心細げに、粗末な作りの木製通路を見ていた。
「まあ大丈夫ですわよ、同じ場所にずっと立ち止まっていても良いように、通路の裏側には遮臭膜を張り付けていますから……だからそんなに怯えなくてもよろしくてよ?」
「お、怯えてないからね!?」
「嘘、だな」
う、嘘じゃないし! というルナーレに取り合わず、元令嬢と元軍人の二人は淡々と通路へと歩みを進み始めた。
ルナーレは慌てて、ちょ、ちょっとあんたたち訂正してよ! などと空元気を作って、二人に続く。
上層以上に辺りは薄暗く、沼からは異臭が漂っていた。
明かりは点々として、自前のカンテラや松明に点火を行っている者も珍しくない。それほどに闇が濃いのだ。
戦々恐々とした様子で不揃いな作りの木製通路の上を進む一四歳の新人冒険者に対して、レセもシチスケも、何ら気負うところなく進んでいる。
ときおりぐらぐらと揺れる木製の板、あるいは沼から沸き立つ謎の泡を見てルナーレは知らず心胆を寒からしめる。
辺りは静まり、遠くに見える灯りを頼りとして道行きは続く。
沈黙はしかし倦怠に、やがてその暇に飽いたのか、元令嬢が口を開く。
「……巡回所は、あとどれくらいですこと?」
「そう、遠くは、ない」
「巡回所? ええと……五階層ごとにあるんだっけ?」
「そう、だ、この階層、ならもう、少し、進んだ、浮島、に」
東区画迷宮の第五階層はかつて激戦地であった。
暗く視界が制限された中で、人を飲み込みかねない沼、沼に踏み込めば食らいついてくる魚、中空を駆ける怪物たち、対岸からの狙撃。
浮島に橋頭堡をあつらえるのに数年以上の激戦を経なければならなかったのも当然のことと言える悪条件。
見るものを引きずり込むように妖しげな泥の溜まりは、一寸先も見通すことの出来ぬ濠でもあった。
その沼には隠された道があるのではないかとも言われているが、しかしその視界の悪さ、その魚たちの脅威によって探索の目処は立っていない。
そもそもこの魚を全て駆逐することさえ難しく、結局放置するに任せている現状。
とはいえ、稀なことだが、突如として空に現れる怪物をのぞけば平和な階層であり、巡回所はそれなりの賑わいを保っている。
そうした暇つぶしをもかねた、シチスケの途切れ途切れの説明を聞くうちに、いつのまにかルナーレたちは浮島へと到着していた。
6
浮島は数十M四方の、巡回所と僅かに生えた暗黒樹の他にはなにもない空間であった。
巡回所――幾つかの小屋、貯蓄型魔導具の火炉の明かり、数十人の軍人たちが何かの作業に従事していた。
「へぇ、なんか不思議」
「不思議、とは?」
「迷宮の中なのに、こうして人が住んでるなんて」
「立ち話、疲れる、ここで、少し、休憩、を」
二時間ほどとはいえ、暗闇と緊張を強制する迷宮の雰囲気のなかで歩き続けることは、驚くほどに疲労を蓄積させる。
急ぐ旅でもないのだ、休めるときには休むものだ。と言われれば、未だ初心者冒険者に過ぎないルナーレなどはそういうものか、と頷くしかない。
そしてルナーレたちは幾つか設えられた机のうちの一つに囲むように座って、水筒で喉を潤す。
「一応、だが、紅茶やら、も、売ってるぞ」
「凄い割高ですけれどもね」
――阿漕なことですわよ
――手間賃、ぶん、だ。
ルナーレがふと見れば、巨大な荷車を引いた軍服の男たちが幾人も幾台も巡回所に止まっているのが見えた。
数十人の軍人の大半は、どうやらこの補給車群を運ぶためのものらしかった。
ルナーレが聞いたところによれば、迷宮の前線の維持、そして途中にある巡回所、営所、基地の維持と安全確認のための、つまりは地上と最前線を繋ぐ補給路と中継地の維持のための補給は、日に何度も、そして様々な規模で行われているとのことだった。
予め勉強しておいた知識が、こうして目前で形となって、それが確かなものであると確認できたときの満足感には、何やら麻薬的なものがあるとルナーレには思えた。
ルナーレが知らず知らずの内に満足を覚えている間にも、ぽつりぽつりとレセとシチスケが言葉を交わす。
「それで第七階層まではあとどれくらいでして?」
「第六は、短い」
「第七は?」
「小迷宮は、真ん中の、ほう、だ」
「本当に大丈夫でして?」
「迷宮に、安全な、ところなど、ない……危険度のこと、なら、まあ、低い」
「いいですこと? このおチビちゃんがいることも忘れないでくださいましね」
「わかって、る」
「誰がおちびちゃんなのよ! 誰が!?」
「貴方のほかにいまして?」
「うっさいこのモミアゲパーマっ!」
「も、モミアゲパーマ!? 流石の私も怒りを堪えきれませんわよっ!?」
女三人よれば姦しい、嘘をつけ、二人でも十分に姦しいではないか。
シチスケは騒ぐ二人を見ながらそう胸中でぼやくのだった。
7
迷宮の闇が辺りを覆っていた。
光りはない。明かりは後背で途切れている。
三人の冒険者はいよいよ緊張感を露わにする。
ここは迷宮第七階層、地上より数十Mもの地底にある異形どもの住処。
廃墟めいた雰囲気、荒廃した気配、暗闇こそが主たる世界である。
幾つもの部屋、通路、最短の道を歩く冒険者たちの数は未だに少なからずいるけれども、ルナーレたちのようにわざわざその道から外れるものは少ない。
そんな暗闇の入り口で、ルナーレの金の髪が、再び紅に染め上げられて、石畳と石壁に大きな影を生み出してはゆらめいていた。
「ここからは、警戒を怠ることのないように」
レセの声。元令嬢の、上品さを感じさせるような透き通った調子のその声が、今はどこか緊張の色合いを帯びているようにルナーレには感じられた。
灯りを持ったレセの左手。
灯り――松明。
非常用の小松明はルナーレの腰に、またカンテラがシチスケの背にある。
最低限の荷物。さりとて灯りだけは手放すことはできぬ。この闇の中を進む以上。光こそは何よりの武器であるのだから。
確認は短く、そして一行は進み始める。
石畳を叩く音。堅い響き。
レセの持つ灯りが、赤く燃え上がった火が、布と油が、迷宮のほこり臭い空間を切り開いていく。
「――警戒」
事前の符丁。短い合図。
切り詰められた言葉、走る緊張。
「――用意!」
先頭を歩くレセの声。
松明が地面に置かれる。レセが刺剣を抜き放つ。
ルナーレが黒刀を抜き構えて、シチスケは背に負ったスコップを槍のように両手で構えた。
「亜人か」
シチスケの声に応じるように三体のねじくれた角を生やした小鬼が、その姿を現した。
小鬼、しかしその短い腕は、筋肉の詰まったその腕は、凶器そのもの。
背こそルナーレの腰を越えるかどうかという程度。
だが油断はできない。してはならない。
ぎょろついた瞳の動き、光への萎縮、それを越えて、肉と女に対する邪悪にして粗末、陋劣きわまりない欲望の色が、その挙動の随所に表れているのだから。
「来るぞッッ!」
合図などはない、当然のように、こちらへと走りかかってくる。
飛び出し、その腕を、その鋭い爪を振るってくる。
――しかし遅い。
レセはそれを横に、そして後ろへと飛んで悠然と避ける。
避けながらも構えた刺剣は身体の正中に。
二匹目の小鬼が、避けたレセの隙を突こうと躍り掛かってくるが、しかしそれはレセに読まれている。
一匹目の小鬼が、その着地の隙を、ルナーレによって横一文字に斬り捨てられているのと時を同じくして、二匹目の小鬼は飛びかかって来たその中空で、レセの鋭い突きをその脳天に受けて果てた。
レセの闘法。畳み込むように丸められた身体。構えられた刺剣。
バネが弾けるように、地面を弾んでは飛び、踏み込んではえぐり出す――その鋭さ。
鋭さは小鬼を貫いて、小鬼は即死する。
レセとルナーレ、海月を相手取るうちに、無意識のうちに身についた阿吽の呼吸であった。
お互いの癖、攻撃のリズム、その速度、それを無意識のうちに読み合っているという事実。しかしそれを指摘するならば、二人が二人とも顔をっ真っ赤にしてそれを否定するだろうような見事な連携。
二人の攻撃は、しかし両者の隙である。
隙は殺されなければならない。
ルナーレは振り切った体勢から左の壁に転がり。
レセは武器を捨てて、地面に伏せる。
最後の一匹、小鬼は振りかぶった拳を破れかぶれに、少女のどちらかにぶつけようと考える。しかし目標は見失われている。
小鬼の隙――そして彼は、その小鬼は、次の瞬間、目前に何か見て――その瞬間に絶命した。
レセが武器を拾い、布で血と脳漿の欠片を拭い、ルナーレは外套の端で黒刀の血を拭う。
そしてシチスケは血に塗れたスコップの先端を手入れもせずに背に負いなおす。
「スコップって、剣だったんだ……」
「……冷静になりなさい、スコップはスコップですわよ?」
槍のような構えから、豹を思わせる加速とともに右腕一本で差し込まれたスコップの煌めきは、まさに一瞬の妙技と呼ぶのに相応しいものだった。
「我が、闘法を、見よ、ってな」
シチスケは外套を翻して、置いてあった灯りをレセに手渡し、レセは呆れたようにそれを受け取る。
ルナーレは心持ちキラキラした瞳で、シチスケを見ていた。
レセはそれを見てため息を吐く。
「スコップ、カッコイイんじゃない!?」
「正気に戻ったほうがよろしいのではなくて?」
歩みは進む。
迷宮を進む。
さて、広大なエミダリ数十KM四方の地下にある迷宮の広さを考えて見みよう。
東区画は、エミダリの東面。
北区画は、エミダリの北面。
南区画は、エミダリの南面。
西区画は、エミダリの西面。
それぞれに広がりをもち、その広がりは地上の都市の区切りを越えて地下で、それぞれの方角に広がっている。
階層によっては数KMにも及ぶ大迷宮は、地下で入り組み、広がり、複雑に重なっては絡まり合う。
中央迷宮がむしろその大きさにおいては最も小さいと呼ばれる由縁は、この外への広がりを持っていないためである。
地下への壮大にして精密な広がり。
四角い、あるいは丸い箱が敷き詰められ、土の中で区切られ作られた怨念の建築群の広がり。
彼女たちと彼、三人が進むのはそんな迷宮の広がりの一端。
初心者と下級冒険者のみでも対策を怠ることがなければ、そうは死に至ることのない、しかし完全に安心できるとは言えぬような区域。
「東区画、第一、小、迷宮、通称、湖水」
「で、その湖水まであとどれくらいなのよ」
「そう遠くはありません。まったく……あまりことを急くものではありませんわよ?」
レセは呆れたように言う。
その声にはかつてほど棘もなく、険もない、元令嬢本人がそれを自覚しているわけではないが、そこには気の許しが伺える。
シチスケは水筒から水を口へと運び、ルナーレは黒刀を撫でながら、周囲の警戒を怠ることはない。
石畳を照らす光、歩みを留めぬ足。
迷宮の光景はしかし画一的で、いま己がいる場所を見失わせるには十分である。
通路、曲がり角、部屋。。、また部屋、通路、大通路、足跡、食べ滓、何かの大きな骨。
「……あれって」
「人の大腿骨に見えますわね」
ルナーレは見なかったことにして進む。
埃を被った迷宮の片隅と同じような紋様が刻まれた道を進んでいく。
ときどきルナーレの視界に、壁に打ち付けられた板、あるいは色が確認された。
そして一行は何度めかわからぬ迷宮の角を曲がる。
幅の狭い通路、人が二人横に並べるかどうかというような通路。
ふと遠くに何かの灯りが、うすぼんやりとした光りが見えたような気がした。
ルナーレが目印かしら? と一人納得しているうちに、後方を確認しつつ歩いていたシチスケが声を放つ。
「――警戒」
事前の打ち合わせ通りとはいかぬ、先頭のルナーレ、後尾にシチスケ、挟まれるようにレセという隊形。
ルナーレとシチスケがお互いに背中を向け合うような形を咄嗟に作り、周囲を警戒して、レセがある意味では手持ちぶさたとなる。
レセは狭い通路に入ったときに、ルナーレと位置どりを変更しなかったことを悔やむことしかできない。
ルナーレが明らかに慣れていない様子で、あたりをきょろきょろと睥睨している。
「え、ええと……なんなのよ」
「音、だ」
――音?
――風切音、提灯付きですわね。
レセの言葉よりさほどの時を待たず、ルナーレの視界に何か淡く光る玉が宙に浮いているのが見えた。
さきほどの灯りだろうか、とても近い。
朧気なその光が、瞬くように揺れている。
「ひ、人魂!?」
「よく見なさい」
レセの灯りが掲げられる。
応じるようにシチスケがカンテラを起動させた。
貯蓄型の紋章魔具の光は、レセの掲げ持つ松明よりも鋭く、青く、鮮烈な光を生み出した。
ルナーレは見た。
黒い体毛を持った円錐状の、ぶよぶよとした肉の塊が、赤い一つ目を持った得体の知れない生物が、天井からぶらさがっているその姿を。
おそらくルナーレの腰ほどまでの高さしかないようなその円錐肉塊。
その頂点から何かこぶ付きの紐がぶらさがっており、その先で丸い球体が淡く光っているのを。
「き、気持ちわるっ!」
「……油断しないでくださいますこと?」
時は流れることを待つことはない。
ぶらぶらとぶら下がっていた丸い球体が突如として振り子運動を、あるいは円を描いて回転をはじめた。
ルナーレは黒刀を構え、通路の中央にいるレセの前方で敵に備える。
「こっちに2よ」
「こちらは、3、だ」
「球体を顔に当てないように、痺れますわっ、よっ!!」
レセが懐に納めていた小石を投げる。
それが戦いの始まりだった。
敵は天井、高さを持っている。
油断はしてはいけない。
紐による遠隔攻撃によって敵を麻痺させて、その後、円錐の底面に位置する口から酸を吐き付け、咀嚼をはじめる魔獣を相手にしているのだ。
光る玉は撒き餌、気づいた瞬間にはこちらが麻痺しているというれっきとした魔獣である。
「うう、気持ち悪いっ!」
ルナーレは呻きつつ、いよいよ加速して向かってきた光玉を躱す。
身を翻し、肢体が躍動し、外套がはためく。
未だ幼さの残るその身体は、いともたやすくその光を避ける。
――海月に比べれば、ぜんぜんおそいじゃないのよ!
とはいえその振り子、その伸縮する光の速度は予想以上に速く、ルナーレは黒刀を振り抜く隙を見つけられない。
そうしている内に二本目の紐と光が向かってくる、時間差的に、そしてまた同時的に、複雑な軌道を描き始める光の軌跡に難儀する少女は、それでもその身に紐をぶつけるような醜態はさらさない。
「ギリギリッ!」
綱渡りめいた文句、しかし言い換えればその言葉を吐く余裕があるということ。
その状況をレセは悔しげに見る。
――通路が狭い。
そのうえ高速で移動する球体を点で迎え撃つのは、線よりも難しい。
もちろん、レセは己があの程度の速度に当てられないとは思わない。しかし敵は二体、そのうえ外した場合はあえなく顔に球体をぶつけられるだろう。
「ふんっ!」
とレセは背後からの声に気づく。
見れば、球体をスコップで打ち返したシチスケの姿がそこにあった。
そして得られた隙を突き、スコップを捨てて跳躍、おそらく下肢か靴に導力したことによって得られたであろう高さだ。
そのまま空中で身体を仰け反らせたシチスケは右の腰に帯びた小太刀を左腕で抜刀して、円錐状の肉塊を見事に切り捨てた。
「レセッ!!」
「……ッ!?」
ルナーレの声にレセは振り返る。
そこあったのは床に落ちた一本の紐と、その先端の光玉。
そしてうずくまるように顔を押さえるルナーレの姿だった。
光線状に揺れる光の軌道の交差、その合間を縫って黒刀を一閃したのだろう。
とはいえ光を顔に受けたのか。
レセはしかし逡巡することなく、うずくまるルナーレの背へと駆ける。
――足場があれば!
風のように軽やかに、ルナーレの背を踏んだレセは中空に飛び出し、腰と腕、上体の捻りのみで二匹の円錐肉塊を刺し貫いた。
地面との接着の機能を失った肉塊が天井から床へと落ちていく。
レセは振り向いてルナーレへと駆け寄る。
「ルナーレっ!」
「……たい」
「え?」
「背中、すごい痛いんだかんね」
「……顔は?」
「……ちょっと掠っただけ」
「ちょっと、でも、危ない、ぞ?」
シチスケがスコップを肩に載せて二人によってくる。
背中を押さえつつ、顔を僅かにしかめ、それでいて力なく笑うルナーレの姿に、レセは知らず知らず拳を握っていた。
「……どこが掠ったのかしら」
「ちょ、かお、かお怖い」
「いいから! 見せなさい」
そうしてレセはルナーレの顔を左右から鷲掴み、じろりと眺める。
上品さと傲慢さが冷然と入り交じったその顔が、何処か鬼気迫るような真剣さに彩られていた。
ぺちぺちと、レセの顔、その左右に垂れ下がった螺旋形の髪がレセの横顔にあたる。
僅かなかぐわしさ、入念に手入れされたであろう髪のさらさらとした感触がルナーレの左頬頬を撫でた。
しかし右頬にはなんの感触もない、髪も、そしてレセの触る指の感触も、感じられない。
「このちょっと濡れてる部分ですわね?」
「……触ってるの、いま?」
「麻痺しているのではなくて!?」
言ってレセはポーチから布と液体の入った瓶を取りだして、その液体で布をわずかに湿らせ、ルナーレの患部へと当てつける。
「ちょっと、なんかピリッとするんだけど」
「中和液ですわよ。別にそのままでも命に別状はありませんのよ? ただ安静にしてれば痺れも抜けますわ、でもわざわざこれで上に戻るのも面倒ではありませんか」
「うぅ、……あ、ありがと」
「礼なんていりませんわよ、それよりも」
ひとまず軽傷であったことに、ほっとしたのだろう、レセはいつもの皮肉めいた笑みを浮かべて周囲を見渡した。
先ほどの小鬼と違い、この円錐肉塊の光玉は素材として売ることができる。
故にレセは、はぎ取りのために周囲を確認する。
「ん、終わらせて、おいた、ぞ」
小太刀を仕舞い、適当な袋に光玉を納めたシチスケが、それを己の外套に括り付けている姿が目に映った。
「流石、ですわね」
「……だいじょう、ぶ、か? ルナーレ」
「あ、なんか感覚が戻ってきた」
「よさそうですわね、っとそろそろ出発しなければ」
いつものような澄ました様子で言葉を作りながら、そそくさとレセは布を回収する。、
右頬の感触、大気の頬を撫でる感触を確かめながらルナーレは立ち上がり身体を払う。
そしてシチスケがスコップを背負いなおす。
「まったく、蟹さんもいないのですから、無理はなさりませんように」
「うぅ、……気をつけるわよ」
「行く、か」
冒険者たちは再び歩み始める。
己の顔を撫でているルナーレと、その姿を見るレセ、そしてその二人を見つめるシチスケ。
シチスケは己のポーチにも納められている小瓶と液体を思う。
円錐の魔獣、その光の玉から抽出された麻痺毒――系統だった薬学分析によってある成分と対抗する成分の中和によって解毒を行う類の薬。
一般に麻痺毒の治療には幾つかの種類が存在する。
対抗中和、切除再構成、浄化変化。
そのなかで最も安価な対抗中和薬は、あらかじめ入手した情報によって必要な物を準備することが多い。
レセとシチスケが同じようにポーチにそれを入れていることはそれ故におかしなことではなく、この場合はむしろ少女ルナーレが準備不足により、経験の不足を露呈したかたちである。
そうした説明を、さっそくルナーレに行っているレセを、そして真剣な表情でそれを聞いているルナーレを、シチスケはなにか温かなものを見るような優しい眼差しで見ていた。
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第七階層の中ほどを幾らか進めば、舗装された下り坂の通路が見えてくる。
大仰な門、あるいは地獄への大穴を思わせる入口をくぐり、三人の冒険者は小迷宮へと入っていく。
迷宮の静けさがより深まっていくように感じられるなかをゆっくりと下っていくと、やがて緑が、繁茂する雑草が、ステップのような草むらが群れ、生え広がり、まさに跋扈している空間へとたどり着く。
「うわぁ……というか臭い、草臭い」
「あら? 田舎の方は嗅ぎなれてると思いましたけれど」
「田舎、とは、いえ、限度が、ある」
言って、レセの松明に代わってシチスケのカンテラが光を放ち、辺りを覆っている草、その乱雑に伸びきっている様子を示す。
「進みましょう」
「うへぇ、まあいいけどさ、厚手の服でよかった」
「準備は、大切だ」
しめ縄のような複雑さをもった蔓が、天井から伸びている。
その蔓の根がある天井は、ルナーレの頭上に、大の男一人分は遠くあり、床は土、土の上には雑草。
入り口から左右を見ても壁は見えず。
一同はひたすらに前に進むことしかできない。
「ここってなんのための場所だったのかしら」
「噂によれば迷宮の魔獣飼育場、そして水飲み場、あるいは食料生産地だったのではないかとも言われてますわね」
「食料生産地?」
「迷宮、縦に、長い」
「そう、そのうえ彼らとて生物であることには変わりはありませんでしょう? 私たちがそうするように、彼らも彼らなりに補給なりなんなりを考えていたというわけですわね」
そうして喋っている間にも草が身体に当たって、ざわざわとざわめきを奏で、ときにルナーレの瑞々しい肌を刺激する。
風のない迷宮に、がそごそと自然の天幕をかき分けて進む冒険者たち。
シチスケからカンテラを預かったレセは、再び灯り番として、その白い光を、行く道へとかざす。
慣れぬ白光を厭うように濃緑の植物たちがその首を揺らす。
「なんか、不気味ね」
「怖い、の、か?」
「こ、怖くはないけど」
シチスケにからかうつもりはなかった。
しかしそのルナーレの虚勢、その見え透いた反応は、何処か嗜虐心をくすぐるものがある。
あの蟹がよくこの娘をからかうのもわかる。頷いてシチスケは周囲を見渡す。
「看板、あったぞ」
「そろそろですわね」
「……そろそろ?」
植物の群生が、突如としてその密度を緩める。
足が叩く感触が、柔らかさよりも堅さが強くなる。
暗黒樹たちが、一定の間隔で立ち並び、草はよりまばらに、蔓は僅かにしか垂れ下がらない。
いやよく見れば、それは異なる。
「……?」
蔓がルナーレのの頭よりも上の辺りで千切れているのだ。
それだけに限らず、レセの首のあたり、ルナーレの腰まで伸びているもの、シチスケの目線の高さにあるもの。
無数の異なる長さの蔓が、しかしそのどれも端が千切れた状態でぶらさがっていた。
「岩竜、だ」
「岩竜…………竜っ!?」
「うむ、竜だ」
「とはいってもここにいるのは竜亀とも呼ばれている、小さな竜ですわよ」
「じゃあこの蔓は……」
「彼らが口でむしりとった痕……そういうことですわね」
竜――魅惑の言葉である。
少なくともルナーレにとっては、ルナーレが読みあさった無数の冒険譚においては大物である存在。
それは伝説、それは強靱、それは偉大、それは叡智。
爬虫類を越えた威容の強者。
高位の魔獣。
己がいつか夢見た幻像そのものであった。
「竜、かー」
――予定よりも、だいぶ早く会えちゃうのかな
――竜の仲間は、そんなに珍しくもないですわよ?
とレセが呆れたように告げると、ルナーレは顔を赤くして、べ、別に夢くらい見てもいいじゃない! と訴える。
「待て」
シチスケの声が響いた。
噂をすればなんとやら、レセはシチスケが指さすあたりに目を凝らした。
「三匹、いるな」
「……えぇ!? 早速!?」
「まあ、このあたりには結構生息していますかわよね」
「迂回、しても、いいの、だが」
「小さいですわね」
シチスケとレセが話し合いながらも見つめている方向に、竜を見逃してはいけないとルナーレも目を細めた。
「いる?」
「いる、ぞ?」
「……あの岩、三つ並んでますわよね」
ルナーレは首を傾げる。
小気味よく切りそろえられた金髪が、白い光を反射しつつ、さらさらと揺れた。
闇と光、その合間のなかでいくつか密集した岩があることにルナーレは気づいた。
「あの近くってこと?」
「……あの岩の下のほうを見てみるとわかりますわよ」
「え、えっ? …………うん? …………!?」
目前の岩に、何か堅そうな手足、らしきものがくっついていることにルナーレは気づいた。
気づき驚く。
では、ではあの岩が。
「あれ竜なの!?」
「言いましたでしょう? 岩竜と……亀の甲羅のようなものですわよ」
「あの、大きさ、なら、ほぼ、幼体だ、な」
「……まあ迂回しましょう……無理して消耗することもありません」
「うむ」
「…………」
そして蔓と暗黒樹の織りなす空間を曲がりはじめる二人を、釈然としないようすでルナーレが茫然としていた。
「え、……ええー? な、ないわー」
何か夢が壊されてしまった気分だ。
ルナーレはそのまま、しばらくそのような気分で、二人の後に付いていき。レセがため息を吐いて、な、ないわー、やら、竜ってもっとこう? ねぇ? などと言うルナーレの姿をたしなめ、また慰めることとなるのだった。
9
山本七助――中央方言名シチスケ・ヤマモトは大和島とよばれる地域の出身である。
それこそ彼のいま着ているワフク、そして身につけている小太刀などはその島の特徴であり、その文化を表す。
言うなればこの世の涯の一つ、大陸最東端の魔王領よりもさらに東にあるその島で、シチスケ・ヤマモトは生を受けた。
彼の父親はパン屋であった。
おそらく大和島に数人しかいないパン屋である。
独自の文化と世界を形成していた大和島の出身者は、その住人の多くが大和島を出ることなく、その生を終える。
そのなかで若くして大陸に渡ったシチスケの父は、大陸北東のレーヘン公国とチミリ山岳共和国で修行した熟練のパン職人であり、その腕はおそらく大和島一番といえるほどに本格的なものであった。
温かく、おいしく、そして安価。
シチスケの父が売るパンは連日、瞬く間に売れ切れるほどの盛況を、米食文化が根強い大和島で博していた。
お幼きシチスケにとって、自慢の父であったことは言うまでもない。
シチスケは目の前を歩いている少女たちを見る。
未来に、時間に、夢に溢れた彼女たち。
暗闇にも負けず、日々の鍛錬をも飲み込んで前に進む少女たち。
たとえば未だ一四歳という少女、ルナーレ・ジュール。
奇妙な蟹につれられてやってきた、ひたむきな少女、伸びしろの固まりとしか思えないような少女。
夢と意志に溢れて、よい保護者にも恵まれて、そしておそらくは才能がある。
どうにも傲慢な感じが拭えなかったレセ――軍人嫌いの元令嬢さえも最近は少し柔らかくなったように思えるが、それはおそらくこの少女の影響なのだろう。
ようやく岩竜への幻滅、あるいは驚きの境地から脱出したらしいルナーレのまぶしい笑顔を見て、シチスケは想う。
では己が、あの齢であったころは? あの時分には何者であったのか? 翻って、己の過去は? と。
シチスケの幸福はしかし長くは続かなかった。
いつか己も、父のようなパン職人になるという夢は、思わぬ内戦によって阻まれた。
国をいくつにも割る戦役。
シチスケのかつての同僚たち、現在の迷宮軍における士官たちにはこの時の戦乱の被害者が多い。
それはシチスケも同じであった。
彼らは難民として大陸へと渡り、そこで生きることとなった。
どんな過酷な仕事でも職を見つけられたものはまだ幸せであった。
戦火から離れるために逃れた大陸にも、しかし戦乱の火の手は上がり始めていたのだ。
東方最大の大国ゼ・トルゲーの皇位継承を端に発したその争いはいまもなお完全に収束したわけではない。
内海・蒼海南岸諸国とかつて魔王領の防波堤として知られたダフト=クローアが絡んだその戦のため、農奴、あるいは戦闘用・労働用の奴隷として使いつぶされる難民が、大陸の東方諸国中にあとを絶たずその境遇は悲惨を極めた。
それはシチスケが住まいを得たチミリ山岳共和国も同じことであった。
父の師筋を頼ろうにも身分の証明もなく、街は火に焼かれ、難民と現地民の争いまで表面化し、そこに光明は見えなかった。彼の夢はそこではすでに消え去っていたのだ。
あるのは日々を生き抜くための過酷な試練のみ。
益体もないことだとシチスケは思った。
それでもいま、己はここにいる。
夢を求めて、都合一〇年以上の付き合いとなったロッホの意に背いてまで、軍をやめ、暇を見つければパン工房に通い、そして日々の生活と将来のために依頼を受けて、迷宮に潜る。
やることは決まっている。
もとより若人を見て、昔を懐かしむならば、それは年老いた者の悪癖以外のなにものでもない。
シチスケは自嘲した。
己の相棒となってひさしいスコップの重みは変わらずそこにあり、夢を求める身となっても、結局こうして生きていくしかないのだから。
10
東区画第一小迷宮は、なだらかな傾斜を螺旋状に描きつつ終わりへと向かっている。
この広大な空間――植物が自生し、魔獣が住処を得ているような――箱を螺旋状に加工するその技術には畏怖しか覚えない。
少なくともルナーレは、それを思うと背筋が寒くなる。
「だいぶ歩いたみたい」
「そうですわね、もう少し、というところですわね」
「ま、いい加減なれてきたしね、これぐらい楽勝ってね」
暗黒樹の並木の陰に岩が隠れていないかどうかだけ注意して、最初のおびえはどうしたのかルナーレの意気は既に揚々としていた。
レセも同じように少しだけ気を抜いている。
故にそれに気づいたのはシチスケのみであった。
「静か、に、しろ」
とシチスケが二人の口を閉じさせる。
水の囁くような、風の辺りを撫でるような葉の擦れる音が、ルナーレたちの歩みに追従する。
ここでようやくルナーレとレセも違和感に気づく。
暗闇、木々、土。
草、呼吸、光。
そうした中で響く擦過の音の連なりに響く違和感。
「……多い?」
気のせいではない。
ルナーレは己の背中に冷や汗が、どっと噴出したのを知った。
「これは、何者かに追われているようですわね」
レセも同じようにその音――明らかに己たちの立てる音よりも多い音の存在に気がついた。
シチスケは首肯し、背後を探る。
しかし見えない、いまだその視界にのぞけぬほどの遠くからの音なのか、あるいは姿の見えぬ存在なのか。
視界は悪く、光は遮られ、そして傾斜する地面までもが敵の正体をつかませない。あるいは本当に敵であるのかどうかさえも。
「これは、たぶん、大きい」
「どうします? 迎撃いたしますこと?」
「うう、というか何ついてきてんの、ストーカーじゃない!」
「気楽なのか、本当に怖がってるのか、自意識過剰なのかしらねこの娘は」
「俺が、しんがり、レセが、先頭、ルナーレは真ん中……縦隊、で、走る」
――走る?
――なるほど。
とまさに対照的な反応を見せる金髪の少女たち。
説明するのももどかしいのか、レセが歩きながらもさっそく先頭に立ち、シチスケがルナーレを挟むように最後尾に付く。
「ここは、視界が、悪い」
「目的地で迎え撃ち、ということですわね」
急激な進展に、いまだ混乱を隠さないルナーレだったが、ここで錯乱するような段階はすでに通り越している。
二人の目をそれぞれ見てから、己の心の準備を終える。
「りょーかい!」
「それ、では、」
「いきますわよっ!」
疾駆が始まった。
並び立つ障害物を避けるために、全速力ではなく、しかし光を頼りに、背後の敵に追いつかれぬように。
時に岩竜がいれば、その動きの遅さを逆手にとって通り抜け、それが大型であるならば、遮蔽物を巧みに使って最低限の迂回で戦闘を回避する。
決して軽くはない武具を持っての疾走に、ルナーレもレセも息を切らせ始める。
それでも障害物への注意を怠らないレセ、そのレセの背中を信じて、懸命に走り続けるルナーレ。
背後と周囲への警戒を怠らず、悠然と走り続けるシチスケ。
一行はしばしの間、走り続けた。
心臓が高鳴り、周囲の木々や蔓、緑と暗闇、そしてレセの持つカンテラから溢れる光が走馬燈のように周囲を巡って見えるほどに疾駆を続けた。
やがて、一〇分ほどが経過しただろうか。
ふと傾斜が消失し、木々の暗闇、蔓と雑草の醸し出す草いきれの気配が消え去ったことをルナーレは体感した。
そこに現れたのは開けた砂の地面。
見渡す限りの、下手したら数百Mはありそうな横の広がりと、どこまでもどこまでも遠くにつながって見えるような先のない暗闇。
そして広大な天井が、それこそ第五階層を越えて広く奥まった天井がそこにあった。
広大な闇の世界――それは一面の湖であった。
「はっぁ、はぁはぁ……うぷ……はぁ、ふぅ…………うわぁっ!」
息を整えたルナーレが、水筒から水を摂取して、改めてその絶景に見ほれる。
迷宮の先、そこには水の溜まりが、暗闇の中でどこまでも広がって見える水のたまりがあった。
暗闇……しかしそこは完全な暗闇ではなかった。
ほのかに、本当にほのかであるが、目が慣れてきたならばわかる、この広大な水の空間は、何かによって照らされている。
まるで月光を思わせるようなおぼろな光。
ルナーレが天井を見上げれば、そこには丸い月が。
「……月?」
遠く、とてもではないが手の届かないような高みにあるその光は、月そのものに見えた。
ルナーレのつぶやきを、案の定というように笑って、それこそレセには珍しい、なんの邪気もないような笑みを浮かべて言った。
「あれは灯ですわよ」
「あれが?」
そんなまさか、というようなルナーレの顔は、あまりにも純粋に見えて、レセはまた小さな笑いをこぼす。
「この世の中で、最も高価な道具ですわよ……マッフ機巧、名前はご存じじゃありませんこと?」
言ってレセは、己より五歳も若い少女を見る。
「マッフ機巧?」
と少女が状況も忘れて言葉を作り出したところで、
「話は、あとに、しろ――そろそろ、来るぞ」
とシチスケが、敵に追われている緊張を追い払った少女たちに警戒を促す。
言われレセがルナーレの肩を叩き、そして篭手を締め直し、また刺剣を抜き放つ、そのカンテラは近くの岩場に置かれる。
シチスケがスコップを両手で構えて、いままさにレセたちが駆けてきた闇を見つめている。
ルナーレは二人のようすにようやく危機感と恐怖と緊張を取り戻し、そしてそれを己の内から払うために、大きく深呼吸をしてから、そのまま黒刀を構えた。
カンテラの光と、天井から僅かに届くマッフ機巧製の淡い灯の光。
そして音が、音の響きが、意識せずとも聞こえてくる。
草を、木をかき分けて、大地を押しつぶすかのような音が闇の向こうからかき鳴らされる。
ルナーレは唾を飲み込み、また口の中が乾いてきたことを知る。
己の手が汗ばみ、僅かに手首が震える。
そしてルナーレは、その瞬間に蟹が、あの愛するべき相棒ペンタがここにいないことを本当の意味で思い知った。
次にわき起こるのは相反する二つの感情。
それは恐怖であり、それはまたペンタがいなくても己の勇気を証立ててみせるという快く頑強な前進の意志あった。
蟹が、ペンタがいなくても、いや、いないからこそ戦ってみせる。というルナーレの覚悟。
辺りに戦いの匂いが、ピリピリとした戦いの気配が充満しはじめる。
間もなく、怪物は姿を現した。
11
突進のように思えた。
しかしそのあとでそれはただの足踏みであることに気づいた。
悠然とその巨体の怪物は、その姿を現す。
まるで見せつけるように。
それは四足の怪物であった。
象の如き足が四本、少女ルナーレなど簡単に覆ってしまえるほどの厚みと幅を持った胴体へとつながっている。
しかしまた胴体の上にも胴体が、その胴体の上には球体が。
ルナーレが確認した限りではそのようなシルエットを形作っていた。
そしてそれは事実そのとおりの姿であった。
巨大な瞳が浮かんだ球体がある。
瞳はルナーレたちと対面している正面に、そしておそらく側面と背面にもあるのだろう。
球体は大鬼らしき種族を思わせる上体へと接続されていた。
その胴体の胸部から二本の腕が、そして背部からも二本の腕が伸びて、さらにその胴体自体は、四足の下肢を持った下胴部分、そのちょうど中央部分へと接続している。
二本の腕には縦と斧が二組ずつ。
まさに異形の怪物、邪神の先遣、善なるものの敵以外の何者でもない。
ルナーレは腕が震え、足が震えているを知った。
「落ち着きなさい!」
レセの声。
縦に整えられロールした髪が揺れて、その軽い鎧の下にある心臓が、熱く脈打っているのがルナーレには感じられた。
「勝てぬ、相手。では、ない!」
シチスケの声。
ひらひらとシチスケの呼吸にあわせて揺れる外套、シチスケの短い黒髮、よくみれば首もとに幾つもの傷跡がのぞいていることにルナーレは気づいた。
――神よ、偉大なる至高神ネーベンハウス様
――神よ、神よ、闘争の神たるタンドラン様
――神々よ、あたしをお守りください、見守りください。
無意識のうちにルナーレは、口内で祈りを呟いていた。
しかしその祈りは、神に縋り敵の恐怖から逃げるためのものではない。
神に己の意志を、己の覚悟を見てもらいたいという誓約の如き祈り。
そしてルナーレは敵を見る。
敵の姿を余すところなく見つめる。
何もかも見逃さぬという気勢でもって。
見ないことが、知らぬことが、恐怖を形作る、いかな強大な存在であっても見ることによってまず戦うことだ。
「そうだよね、ペンタ」
――うむ、そのとおり!
最後に蟹の声が聞こえた気がした。
青く堅い肌、ところどころについた傷、鋭い脚、泡を吐く口と顎、つぶらな黒い瞳、そしてその陽気な性格の彼の声。
知らずルナーレは奮い立つ、そして怪物が――
――オオオオオォォォォォォォォォォンンッッッッ!!!!
――四足四腕の怪物が咆哮した。
「援護を、頼むっ!」
突進を開始した怪物。
それに対し、シチスケが向かっていく。
シチスケの素の体躯では突進の勢いを殺す手段はない。
では道具をつかえばよい。
意識――紋章符――紋章法――導力――発現:【盾】
その長く太い腕を振るう怪物の軌道上に紋章符を起動して、大気を凝固させて、その移動を阻む。
とはいえその巨体の衝撃によって大気の盾は一撃で打ち破られる。
だが足止めには十分。
木っ端に攻撃を阻まれたことが悔しいのだろうか、怪物はその巨大な瞳、そこに映る瞳孔を細めて、シチスケへと斧と盾を振るう。
シチスケ・ヤマモトの闘法は我流である。
斧が唸りを上げて宙を泳ぐ。
しかし実戦で培ってきた闘法である。
当たればおそらく体中が砕けてしまうような斧と盾の二連撃を伏せて躱し、その隙を突いてスコップを突き刺す程度には練られた闘法である。
怪物が象脚を振り上げてシチスケを威嚇するも、四足体の側面からの突きに対しては威嚇以上のものにはなりえない。
そちらに気を取られていると判断したレセも神速の踏み込みと形容して差し支えないような妙技をもって、シチスケとは反対側の側面から上体を狙う。
「ぬぅ!?」
「っ! 堅い!?」
しかしスコップは、その磨き抜かれた黒い刃先は、怪物の上体に僅かに傷をつけるのみであり、その威力を点に集約したレセの突きでさえもその胴に半分以上は刺さらない。
怪物の瞳が怨念で妖しく輝いて見えた。
ついで四本の腕がそれぞれスイングバックを行う。
レセは刺剣を抜く衝撃を利用してのバックステップを行い、シチスケは四足のおそらく後ろ足のほうへと転がり避ける。
レセは見る……怪物の頭部、己を見つめる側面の眼球に光が充ちて輝き始めるのを。
シチスケは見る、己へ向かって放たれる象の如き巨大な後ろ足を。
しかしそれらの目を眩ますような衝撃が怪物へと放たれた。
一面に赤く輝き爆音をかき鳴らす大きな衝撃。
意識――魔導書:第五頁――紋章法――導力――発現:大火球
怪物の上体を飲み込みかねない巨大な火の塊が、怪物を襲った。
「はぁっ、ふぅっ」
時間こそかかったが、この威力ならば。
とルナーレは魔導書を左手に持ち、その表面を右手で撫でつつ視線を怪物へと向けたままそらさない。
その巨体は、爆発によって煙に覆われている。
やがて煙が晴れゆくなか、ルナーレはいつのまにか全力で疾走してきたレセに、刺剣を捨ててまで走ってきたレセに押し倒されたことを知った。
その腕から魔導書が、宙へと取り落とされて飛んでいく。
意識――体内――儀式小家:想像法――導力:眼球――想像・構築:発現:『熱線』
「――っっっつぁ!?」
そして聞こえるレセの痛みに呻く声。
堅い鎧と、押し倒された衝撃が、ルナーレの上体と下半身を襲い、その顔を歪めさせる。
それでもルナーレは意識を失うことなく苦痛に呻くレセを見る。
こちらの魔導に対応する敵の魔導、その危機を救われたことを知る。
そのときルナーレは己を覆うレセの黄金の髪がほつれて、血が滲んでいるのを見た。そしてその苦痛に震えるレセの身体の隙間から、こちらへと突進を敢行しようとしている巨体の姿をも見た、見てしまった。
死が、深淵より身近に、その姿を現したような慄然が、ルナーレの背中を刺し貫いた。
ここが勘所であると山本七助は悟った。
歴戦の経験はそう告げていた。
行かせてはならない。
留めねばならない。
ルナーレの絶妙な援護に報いなければならない。
直前の動作を手がかりに、その意味を瞬時に理解して、ルナーレの身を護ったレセのように、俺も報いなければならない。
七助はそう確信して、上体を起こす。
怪物の前足が上がる。
山本七助の戦い方は我流である。
そしてまたそれは高みにあるとは言えない。
おそらく彼は己のかつての上司であり親友でもあったアルトゥール・V・ロッホの足下にも及ばぬ力しか持たぬだろう。
あるいは全軍最強の誉れを賜る、同郷のカイエン・ムドウに至っては比べるのも烏滸がましい。
それどころか、あの巡回隊長カルロス・カルタタンにさえも己は敗北するであろう。
しかしそれでも彼には、山本七助には自負があった。
いかに強大な彼らが相手であっても、この俺ならば数分の遅滞をもって負けることができると。
いかな大軍、いかな強敵であっても、ただでは負けはせぬと。
どのような強者をもかき回して混乱へと陥れ、敗北が濃厚でも幻惑を続け、援軍がなくとも敵の足を留めてきた自負がある。
幾たびの戦いで、無数の戦場で、東方で、ゼ・トルゲーで一〇年近く戦い抜いてきた死地で、己は死なず敵を一心に止めてきた自負が。
少なくとも誇りたいと思えるような戦いの経歴が、彼には僅かなりとはいえあった。
それこそが東方の戦役で、数多の軍人から『停滞の幻影』と仮にも称され、恐れられた己のたった一つの誇りであるとも。
それは軍を率いた己に対する誉れである。
だが生身の戦いとはいえ、その誉れにそぐわぬのは、その誉れに泥を塗るのは耐え難い。
だからこそ七助は行動する。
土に汚れて、半ば伏した状態から行動する。
巨大な瞳と、二本の腕と、そしてその象のような後ろ足を睨みつつ、右手に握ったスコップへと左手、そこに握った紙をあてがう。
意識――紋章符――紋章法――導力――発動:鋭斬;強化加護
それは早業であった。
スコップの先端にあてがわれた紋章符が、その力の効果を触れ合ったスコップに与える。
しかしそれでは留まらない、終わることはない。
意識――紋章符――紋章法――導力――発動:概念属性操作;速度加算
握られた二枚目の紋章符によって、想定された速度への概念的な加算が行われる。
すでに何度も何度も、それこそ何十回も繰り返したゆえに一切の淀みなき紋章法の連続行使。
山本七助の同時導力可能数はたった一。
しかしそれは、そのたった一を極限まで加速させたような動きであった。
この一秒に至るかどうかという合間に、山本七助が手に握ったスコップは、強靱なる槍へと華麗なる変化を遂げた。
助走は必要ない。
七助は握った柄を、いままでに何度も行ってきた動作を、なんの気負いもなく行った。
苦痛に顔を歪めたレセと魔導書を取り落としたルナーレがお互いの身体から離れ、そして立ち上がろうとしはじめた瞬間。
既に加速を始めていた怪物が、おそらくあと半秒でその二者を圧壊させるだろう怪物の巨体が、突如として、つんのめった。
ルナーレとレセには見えていない。
一条の銀閃が、怪物の四足の胴体を貫きながら、その前足を地面に射抜いた瞬間を。
ルナーレとレセには見えていない。
しかし銀に光るスコップ、紫の体液が滂沱の勢いであふれ出して、その焼け焦げた上体をひっしに捻り、うめき上げる怪物の姿を見れば、何が起こったかは瞬時に想像できた。
そしてその想像するという行為よりも速くレセとルナーレが走り出す。
背を焼かれながらも、しかし懸命に走るレセ。
そのレセに護られたがゆえに、レセよりも速く四足の怪物へと到達するルナーレ。
怪物は理性を失っている、痛みと突如の出来事が生んだ混乱によって脳を灼かれている。
ならば、あの熱線を撃たれえぬ今こそが勝機にほかならなかった。
大きく体を揺るがせているその巨体。
巨大な穴が下肢に穿たれてありながらも、なお健在たるその巨躯。
ルナーレはその暴れよう、その斧を振り廻す腕を見る。
下肢は麻痺している。
ならば狙うべきは――
「――ここしかないでしょッッ!!」
意識――黒刀;表面紋章――紋章法――導力――紋章法:『漆黒刃・鋭斬』起動
ルナーレの相棒ペンタから贈られた、これもまた相棒の黒刀。
その表面が波打って、一切の光を通さぬ黒曜の色合いを帯び始めた。
極度の興奮と集中、持ち主たるルナーレのその気持ちに答えるかのように、刃に刻まれた紋章が薄く光を放つ。
海月との訓練、蟹との訓練、混乱と激情による敵の粗雑な大振り、ルナーレに向かいその大振りの刃と盾が当たる道理はなく。
――そしてまたルナーレの放った刃が阻まれる道理もなかった。
それは見事な逆袈裟一閃の踏み込みであった。
地に落ちた怪物の両手は、おそらく怪物が痛みを覚えるよりも速く、その両腕から切り落とされたであろう。
そしてルナーレは、今度は意識して、背中を丸めて屈む。
「これでッッ!!!!」
レセ・ド・シュウォウプがルナーレの背を足場として怪物の上体に向かって跳ぶ。
跳躍ののちには着地――着地とはまた踏み込み。
飛翔のエネルギーが一度両脚、そして腰に蓄えられ、一拍の後に、それが爆発する。
足裏、脚、ひねられて回転しつつ腰、胸、背、腕、さらに回転を加速させて、レセは筆舌に尽くしがたく見事な左ストレートを怪物の見開かれた巨大な眼球へと抉り込んだ。
――アアォオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォン!!
歪な絶唱をものともせず、回転しながら爆発した力腕が、螺旋機械のように眼球を脳を、そして上体の内蔵を破壊する。
火傷に顔をしかめながら、しかしそれでも凛と澄ました顔をできうる限り崩すことはない。
怪物の体液と臓物の欠片に汚されながらも、拳を怪物の体内へと差し込んでいる状態にも関わらず、微動だにもしないレセのその姿は、ルナーレにはどこか女神を思わせて見える。昏き戦女神を。
――ァァァァァァァァァァァァ……
怪物の断末魔が、か細く消えていく。
そして沈黙が辺りを覆いはじめる。
静寂をかき消すように、明るい声で、疲れと安堵が入り交じりながらも確かに明るい声が、ルナーレの口より思わず漏れ出た。
「というか、こいつの口ってどこにあんのよ!」
ルナーレの冗談めいた呟きに、
「たぶん、下の、胴、の、腹、見てみろ」
「……うわぁ、きもい」
とスコップを回収に近づいて来たシチスケが和やかなに返す。
紫がかった怪物の体液にまみれたレセは、とてもではないが見てはいられない姿で、ようやく顔をしかめて拳を引き抜いているところだった。
怪物は痙攣し、内蔵の脈動を消失させて、下半身が小刻みに震え急速にその命を枯らしていく。
「まったく、臭いなんてものではありませんわね」
そしてレセはぼやいた。
「いやぁ、死ぬかと思った……もう【力】も残ってないし」
「正直なところ、私もですわね」
苦笑いをするルナーレに、いよいよぶり返してきた痛みに顔をしかめているレセも、なんとか同じように苦笑いで返す。
その横では怪物の巨体にはまりこんだスコップを、シチスケがどうにか回収しようと四苦八苦しているところであった。
「終わった……のよね」
「まあ、そのようですわね」
「った…………」
「? 何かいいまして?」
「やった! やったよ! ペンタ!! あたしやったよ!!」
ルナーレは、初心者冒険者の少女は、ようやく喜びを――蟹に頼らず、己と、己の仲間の力だけで冒険を行ったことの喜び――を実感したのか、喜色を満面にする。
「ペンタ、ペンタってあなたはあの蟹のことが本当にお好きなようですわね」
「うん! …………って、そ、そんなことないわよ!」
白々しくもかわいらしい反応に、レセは吹き出しそうになったがどうにかそれをかみ殺す。
そして目の前でわいわい騒いでいる少女を見つめてこう言った。
「まあ、なんでもいいですわよ……それより、ちょっと怪我の手当を手伝ってくれませんこと?」
そうして一行は、緊張をいよいよ解いたのだった。
13
水辺にある砂場、そして幾つかの岩のそばに三人は腰掛けて、なにをするでもなくぼうっと闇色の湖を見ていた。
まるで月明かりのようにマッフ機巧の灯火が、上方から柔らかく降り注いで、土と怪物の紫じみた体液で汚された少女の顔を照らし出していた。
その彼女はいま、己を庇い負傷したレセの、剥き出しの背を前にしていた。
シチスケは二人を見ないように、辺りを警戒しつつ、怪物の死骸を吟味する。
「ええと、これでいいのね?」
「あまり大量に付けないことですわ……ええ、それぐらいで」
ルナーレの腕と手にはレセの装備していた手袋と篭手が身につけられている。
そしてその手には丸い球体、それは先ほどまで淡く光っていた、円錐魔獣の光球体であった。
その内の一つを握り絞って、ぽたぽたと滴る液体を右手に持った布に染み込ませたルナーレは、レセに目で確認を促す。
改めてレセが首肯したのを確認して、ルナーレはその布をレセの患部にあてがった。
「っ、――はぁ…………ぁ」
「へ、へんな声出さないでよね!」
「痺れのせいですわよ」
毒と薬とは表裏一体。
ルナーレはこの、適量の麻痺毒を薄く塗り込むことによって、一時的に痛覚を麻痺させる案を聞かされたときには、思わずレセの正気を疑った。
しかし毒とハサミは使いようと言われれば、納得するほかはない。
「これ、本当に大丈夫なの?」
「あまり量がなければ数時間で抜けますわよ。
肢体や骨髄にまで影響が出るほどの量は危険ですけれども。
表皮と患部を撫でる程度なら、痛み止めとして重宝しますのよ?」
「勉強になるわね」
「使えるものは利用する、冒険者の基本ですわよ」
言いながらレセは、痛みがひとまずは消えたことに安堵する。
ルナーレは己に向かって晒されたレセの艶めかしさを覚えるような白い肌。僅かに赤みがかった肩とうなじに広がるなめらかな肌。
そしてそれより下にのぞく、じくじくと湧いた火傷の痕とのコントラストに、何か目眩を覚えそうな背徳感を感じた。
感じたが危険な何かへの扉であるように思えたので思考からそれを懸命に追い出す。
レセはルナーレに肌を預ける形で、その間に回収した刺剣を撫でつつその調子を確認している。
堅いものへの衝撃は、見えぬ歪みを作り出しているかもしれない。
――どっちみち、私も、武器も、帰ったなら点検と処置が必要ということですわね。
そうしてレセは億劫そうに背後に振り向く、
「ありがとうございました。それぐらいでよろしくてよ?」
「……え、あ、うん」
「なにか、顔が赤くなくて?」
言われたルナーレは、慌てて布の替わりとして患部に包帯をあてがう。
レセははだけた服を着直して、そしてひとまず行動に支障が出ないことを確認したうえで立ち上がる。
「とまあ、思った以上の激闘でしたけれども、なんとかなりましたわね」
「本当、に、な」
シチスケが無表情のまま、怪物の死骸を検分して、はぎ取れる箇所を探す。
ルナーレも顔をしかめつつそれを手伝うために死骸へと近づく。
肌が泡立つような異臭と、醜悪な死骸。
「うげぇ、というかもうくたくたなんですけど」
「【力】は、精神力、【魂】、の、疲労」
「あら? これは心臓がいけそうですわね」
「誰が、切り開くのよ誰が」
「刀、貸して、もらえれば、俺が」
【力】のほとんど枯渇したルナーレに代わって黒刀を駆使してシチスケがこの上鬼下象の怪物に刃を入れる。その隣でレセが、怪物の四足肢体の腹にある口を指して……あら、こちらの牙もいただけるのではなくて?……などと気軽にのたまっている。
節々の痛みと、土に汚れた己の髪を撫でつつルナーレは遠く空にも似た冥い天井に備わった、マッフ機巧の灯を見ていた。
視線をおとせば、波立つことのないのが不思議に思えるような濃く黒い水の広がり。
岩にこしかけ、ルナーレはその驚異の光景を心行くまで堪能した。
やがてはぎ取りの行為、怪物解体の見せ物が終わって、シチスケからルナーレに黒刀が返却される。
己の鎧の背後の部分が焼けて焦げ、そして融けたためにシチスケから外套を借り受けたレセが目下のルナーレの横に立って、同じように湖水を見る。
「かつて冒険者たちは、この湖水で、巨大なイカの魔獣と戦ったそうですわ」
「イカ?」
「激闘に際してあの高みに付けられたいくつもの灯りの中で、ただ一つ、その戦いを忘れえぬように、ああしてそのままにしてあるのが、あのマッフ機巧なのですわ」
「へぇぇ! 浪漫ってやつかしら」
「まあ、そういうことですわね……それから冒険者たちがこの水溜まりに潜って、隅々までを探し続けたそうですわ」
「えと、じゃあもしかしてこの水溜まりって」
「お察しのとおり、いまは何もいない、茫漠とした水の溜まり、それ意外の何者でもないのですわよ」
そうして二人は水を、動きのない、くらやみのたちこめた虚ろな湖を見ていた。
頃合いを見計らってシチスケが何かを袋から取り出した。
それを二人に差し出す。
「これって……パン?」
「あら、よろしいのでして?」
「食べて、くれ、自信、作」
言って黒髮の男、柔らかな肌の色をした東方の男は、くねった形のパンにかぶりついて、少女たちも似たようなそれを口に運ぶ。
「うわぁ! もちもちしてるぅ」
「悔しいですけれども、美味ですわね」
「修行、の、成果」
「もう、すぐにでも店が開けるんじゃないのこれ?」
ルナーレの素朴な疑問に、しかしシチスケは静かに首を左右に振った。
「父の、パン、は、こんなもの、では、なかった」
言って、何処か遠くを見つめるように、シチスケは記憶のなかのその味を思い出す。
もちもちとしてて、温かく、そして柔らかで甘い、ほどよい弾力の快いその感触と味を。
その記憶のなかにある味へとたどり着くことが、この先あるのだろうかと、シチスケはふと思うことがある。
それでもこうして誰かに美味と言われれば、いつかたどり着けるのではないかと、信じてみようと思える。
何か穏やかな空気が、副迷宮の底で、水の溜まりの前で、三人を慈しむように包み込んでいた。
柔らかな静寂が、和やかな心臓の鼓動と入り交じって、闇におりたほのかな光の幕が、どこまでも湖を照らし出している。
14
そうして快い達成感に包まれていると、やがてルナーレが口を開いた。
「なんか、良いわね、こういうの」
「ええ」
ルナーレとレセの金の髪が、呼吸に応えるように穏やかなに揺れている。
心地よい疲労感と、素晴らしい達成感が二人を包み込み、シチスケがその光景を何か眩しいものを見るように見ていた。
そのまましばらく見ていると、
――っと、ようやくですかぁ。
――ようやくッスよ。
空耳のようなものがルナーレの耳に届いた気がした。
ルナーレはレセを見て、そして振り返ってシチスケを見る。
二人とも同じように、警戒の混じったような態度で、その音の方向を見つめていた。
「……気をつけなさい」
「ええと、なにか来てる?」
「おそ、らく、冒険、者」
難易度の低い名所ということで、冒険者が思わぬ鉢合わせをすることは珍しくない。
珍しくないうえに、見知らぬ冒険者同士というのは多くの点で警戒が必要である。
深い迷宮の闇のなかでは、追い剥ぎも、辻斬りも何もかもが隠されてしまうのだから。
(その逆もまた然り、困ったおりに助け合うことも冒険者の一つの文化ではあるのだが……)
身を堅くした三人をものともせず、声はどんどんと大きくなっていった。
「はぁー、ここがもしかして!」
「そうっスよ、とりあえずのゴールッスね」
現れた姿は男と女――というには若い、おそらく一〇代半ばを越えたかどうかというような少女――の冒険者であった。
「あれっ? ロッドさん人がいるみたいですよ?」
「ああ、先客ッスね」
柔らかな笑顔、天真爛漫な微笑みを浮かべた赤毛の少女が、これまた素直に首を傾げて、ロッドと呼んだ青年を見上げた。
丸っこい子犬みたい。ルナーレがそうなんともなしに思ったその顔に応えて、ロッドと呼ばれた男は言葉を作る。
「まあここは名所みたいなもんッスからね、先客も珍しくないんスよ」
その口調は朗らか、その言葉は軽妙、しかしロッドのその金髪、その下にある瞳に油断の色はない。軽佻浮薄にも思える浮いた調子の声の響きと、どこかへらへらして見えるその身のこなしは、しかし見る者が見れば油断の欠片もないことに感づくであろう。
にこやかな少女と軽い感じの青年を見て、レセが、そしてシチスケが警戒の念を強くしたのは、そのためである。
「はぁ、すごいですよぉ! 見てくださいロッドさん!! 水がぁ」
「ねぇ、まあ名所ッスからね」
湖に駆け寄っていく赤毛の少女、外套に運動用ローブ、そして何冊もの魔導書を身につけた少女。
それを慈愛と信頼に満ちたまなざしで見つめながらロッドは、先客三人を横目で確認する。
――勝てないことはない、ッスね。
両腰に帯びた短刀、身のこなし、その態度、余裕さえ感じるロッドの物腰に警戒の念を強めるレセとシチスケ。
そして場が見えない緊張感に包まれる間にも、周囲をとてとてと散策している赤毛の少女が、突如として驚きの声を上げた。
「うわぁ、なんですかぁ!?」
それは先ほどルナーレたちが打ち倒した、醜き怪物の死骸であった。
興味津々といった様子の少女の言葉に応えて、その少女に一番近くに居た少女ルナーレが、レセの止める間もなくそれに答える。
「……あたしたちが倒した奴よ」
「ええぇ! あなたたち三人で!?」
「ま、こんなもの。あたしたちにかかったら大したことない案山子みたいなものだけどね」
緊張感のない赤毛の丸顔少女に、これまた緊張感なく金髪の少女ルナーレがドヤ顔でそう説明していた。
……気まずい空気が、シチスケとレセ、そしてロッドの間に流れ出す。
やがて咳を一つ吐いて、ロッドが緊張を僅かに解いた。
「やめるッスね」
「そう、だ、な」
「まったく、あの子は」
こうして辺りを覆った警戒は、穏やかに通常の空気へとほどけていき、そうしている間にも、他人の心配もなんのそのといったルナーレと赤毛の少女の笑い声が響いていた。
……
…………
「ええと、わたしの名前はメイニー・ランチェットと申します、よろしくおねがいします」
「ロッド・エヴァンス、ッス上級冒険者ッスね……一応」
「あ、ええとわたしは下級冒険者です」
昼行灯を気取っているのか、ニヤニヤとした笑いが顔にこびりついたロッドと、その隣で精一杯といった様子で懸命に声を上げているメイニーはまさに対照的なコンビをなしていた。
「ええと、ルナーレ。ルナーレ・ジュール……初心者冒険者なんだけど。よろしくメイニーさん、あとロッドさん」
「レセ・ド・シュウォウプ、下級冒険者」
「シチスケ、ヤマ、モト、中級」
「よ、よろしくです」
なぜか焦って、それでも笑顔を忘れずに初対面のルナーレたちに深々と頭を下げるメイニーの姿に、警戒の念を覚えろというのも無理な話。
そこにはどこまで純粋な心持ちだけがある。
レセは疲れたように嘆息して言った。
「それで、そのメイニーさんとロッドさんとおっしゃったかしら、お二方はカップルでいらして?」
「カ、カップルぅ!? ……デートだぁ!」
顔を赤くして、そうまくし立てるルナーレに、少し落ち着きなさいと言ってレセが頭を押さえる。
――子供そのものですわよ? その反応。
そのルナーレに負けずメイニーも、幼気なその顔を、見ていると誰もが笑顔になるようなその純真さに満ちた顔を、みるみる真っ赤に染め上げていく。
「で、でーと……ええと。その、かっぷるぅ? かかか、かっぷるぅ?」
「ごーや、ちゃんぷるぅ」
シチスケの謎のつぶやきは、しかし無視された。
メイニーは刹那のうちに顔を林檎のように真紅に染めて、口元をあわあわと雛鳥のように揺り動かしている。
ロッドは苦笑してその少女の頭を撫でて、レセの顔を見る。
「あまりからかわないでくださいよ、メイニーさんには耐性がないんッスから」
「あら、心外ですこと。からかっているつもりはなくてよ?」
「か、かっぷるぅ……わたしとロッドさんって、そ、そう見えますか!」
「まあ見えなくもないですわよ? むしろ兄妹のように見えますけどね」
「きょ、兄妹かぁ」
と急にトーンダウンしてメイニーは顔を僅かに沈ませた。
――難儀な年頃というやつかしらね。
レセは家のこと、その没落を逃れるために努力を重ねた幼年。あるいはすべての周囲が敵に見えて、その矜持を驕らせ続けた少女の時代。恋どころか友情さえも遠かった己が思い起こされて、ふと尋常ではなく侘びしい気持ちに襲われた。
そもそも恋も、友も、自分には禄にいなかったことを思えば、素直な気持ちに振り廻されている目の前の少女、そして自分の隣にいる金髪の少女のことを羨ましく思わないと言えば嘘になる。
つり目にのぞける高慢さが、幾分和らぐ……いやぁメイニーさんは可愛いなぁ……か、かわいいってなんですかぁ……そこに、お、おっとなぁ!!というルナーレの上擦った声が響く。
羨ましい……か? レセは一寸前の己の前言を撤回したくなった。
気づいてみれば先ほどまでの、余韻に満ちた穏やかな空気はどこかへと消え去っていた。
それもこれもこの姦しい少女たちのにぎわいが関係しているのだろう。
「ええと、メイニーさんは、その何歳?」
「わたしですか? わたしは……」
少女たちがすぐに打ち解けていくのを見つめるロッドの顔には笑顔。
どこか眩しいものを見るようにレセのいつもの高慢さもなりをひそめて、シチスケも無骨なその顔を変わらず少女たちに向けていた。
暴走をはじめ、ある意味ではいやになるほど噛み合った少女たちを後目に、レセはロッド――軽薄そうな笑みを浮かべつつも、一切の隙のない佇まいを見せる男――へと視線を転じた。
「……あなた、相当できますわね」
「いやいや、お二方とも、特にそちらのお嬢さんはかなり闘法に磨きをかけてるんじゃないッスかね」
「本当、に、上級、か?」
幾多の迷宮での戦闘から、冒険者の実力を計ることに関しては自信のあるシチスケがロッドに対して忌憚なき疑問をぶつけるも、
「いやいや、おれはしがない冒険者ッスよ」とはぐらかされて終わる。
「まったく……胡散臭いですわね」
「ハハハ! よくいわれるッスよ……っとこいつのはぎ取り終わってます?」
ロッドの質問にレセは肩をすくめる。
「私たちの人数分なら……余った分ならいいですわよ、このまま腐らせるのも勿体ないですし、はぎ取っても」
「お、いいんスか」
――ええぇ本当に!? わたしは魔導だけは得意なんですよぉ!――なにごとかを話し合っている少女たちの笑い声。
急ににぎやかに、まるで喧噪に満ちた市場の一角を思わせるような華やかさに包まれた副迷宮の奥底で、こうして一つの冒険が終わろうとしていた。
怪物の体液に注意しながらレセとシチスケがロッドに取り残した臓物の位置を指し示している。
「いやぁありがたいッスね、一杯おごるッスよ」
「酒場、は、どこだ?」
「……それがまだ決まってないんスよね」
「上級で決まってない……余所の迷宮から移動してきましたのかしら」
「……なの、に、一杯、おごる、と?」
「まあ、そんなところッス……正しくは出戻りなんスけどね……っあ、じゃあ、あんたたちの酒場に連れて行ってください、そこで奢るッスよ!!」
「了解」
そうして短刀に【力】を込め始めたロッドと、同じように紋章符(便利であるが決して安くはない魔具――安価なものだと一回、高価なものでも数回導力を行えば劣化してしまう魔具)に【力】を込めるシチスケ。
レセは男二人をとりあえず置いておき少女たちの方向へと歩いていく。
「あれが、マッフ機巧の灯りらしいわよ」
「あ、あの神さまのおかげで出来た!?」
「らしいわね……聞いた事ある? むかしここでイカの怪物が……」
「それは私からの受け売りじゃあありませんこと?」
「べ、別にいいじゃないのよ!」
「ど、どっちでもいいですから、話を聞かせてください!」
賑やかな一幕。
この後、突如として五人組となった一行は、和やかな空気のまま、ときおり訪れる危険など物ともせずに帰路へと就く。
地上に戻ればいくつもの素材を、換金し、ついで素材買い取り証明書をもらい、風呂を浴びて、そしてエルガーの待つ白シャツ亭へとたどり着く。
メイニーとルナーレ、そしてレセはあまり強くない酒を祝いとして飲み。
シチスケはそこにいた蛇人スピネルや鍛冶小人のポーレムと一緒に火のように強い酒に酔う。
しかし問題はロッド・エヴァンス。
絶句した彼の前には、己のかつての師匠、あるいはチームのリーダーであった男、禿頭のエルガーの姿が。
同じように絶句していたエルガーは、やがて顔を蛸のよう赤く染め上げて、ロッドにつかみかかる。
泣き笑いのようなエルガーの怒りを、ロッドはただ受け止めるしかない。
そのあとの騒ぎはここに書き記すことのできないほどの喧しさであった。
そして少女は蟹の姿を探す、約束の時間をとうに過ぎて、いまだに酒場に姿を現さない蟹の姿を。
賑やかな、五月蠅いほどに賑やかな酒場の喧噪に包まれつつ、今日あった無数の冒険のことを、そして蟹がいなくても、蟹に護られなくても、曲がりなりにもうまくやれたことを、誇らしげに蟹に報告することを思うと、ルナーレの顔を緩んでしょうがない。
そう、土産話は沢山……ペンタには何から話せばいいのかした……そう少女が思い煩うのもまた楽しい時間。
賑わいのなかで少女は酒に顔を赤らめて、蟹を待つ。
……だが、その日ペンタは帰ってこなかった。
そして次の日も。
また次の日も。
そのまた次の日も。
ペンタは、あの青銅色の肌をした蟹は、帰ってこなかった。
列伝
『妖精』――――
東方、大和島の出身
運気を司るという伝承で高名な大和島固有妖精族の出身。
東方方言名では――という。
その姿はあどけない黒髮の幼女であり、また商機を逃すことのない根っからの商人でもある。
大和島を出奔し、大陸の妖精族のように羽を生やし、ときに小さな人形のように、とき童子の姿をもって世界を巡った――――は、旧暦時代の終わりには世界の多くの富を秘密裏に操る大豪商であった。
天上戦争の折りには旧神が自らの富を損ないうるという可能性から、至高神に従い、地軍の財を一手に担い、その経済面を支え、また儀式大家としても優れており旧神二柱を滅ぼした。
新暦においては大和島唯一の地軍出身ということもあり大和島の片隅にて祀られているが、余り知られていない。
本人はいまも世界を駆け巡る大豪商であり、その経済と生活における地軍の支援を一手に引き受けていると伝わる。
エミダリ中央区画の東南域にある古びれた石造ビル、その五階。
無数の本棚と机が並び、製図のための巨大な机と、会議のための大机、そしてそれらに縦横無尽というしかない様で散らばった無数の紙資料。
幾人もの冒険者らしき人物や、あるいはシャツに身を包んだ男女が、目の下に隈を作って、作業に勤しんでいた。
フロア全体を見回して、その片隅にある休憩スペースで一人の男、二〇代も半ばほど――貴族を思わせるような気障な挙動がふしぶしに伺える――青年がコーヒーを優雅に嗜んでいた。
そこにようやく何かの作業が終わったという体で、ひどく疲れた顔を隠さずに緑がかった髪の女がコップを片手に近づいてきた。
その顔には素朴な疑問符が浮かんでいた。
優雅にコーヒーを飲んでいる男が、何かの本を片手に書き物をしていたためである、
「……どうしましたか? エボルフさん」
「ああエイナ君、この本なんだけど」
「迷宮録? バッキオスの?」
「うん、学術的にも、そして読み物としてもおもしろいのだけどね、ところどころ誤字と脱字、そして乱丁があるのだよ」
「はぁ、確かに、特に後半になると増えてくるあれですよね」
「そうなんだ……それでね、僕はそこに何かのパターンがあるのではないかと思ってね」
「パターン?」
「考えてもみたまえよ、何度も出版社に修正を依頼して、また改版するように言っても音沙汰はない、それどころか著者の意向により云々というおきまりのあれだよ?」
「……うーん、出資者の問題かもしれませんね」
「いやさ、それでは浪漫がない……そこで僕はここに何か隠されたパターンがあるのではないかと思ってね」
「それで、というわけですね」
「うん、これが解き明かせた暁には、書評コーナーで大々的にこれをやろうと思ってね」
「へぇ、というか今月の書評書き終われたんですね」
――まずいまずいとばかり言っていたのに。
そうして頭に括られた緑髪を左右に揺らめかせて、エイナは目前にいる最高位冒険者の無駄に整った顔をみる。
最高位冒険者はコーヒーを啜る。
「……まだ終わってないんだね、これが」
「へぇ…………っえ?」
「ああ、コーヒーはおいしいなぁ!」
「ちょ、ちょっと待ってください、もう明日の朝にはレイアウト完成ですよ? 最終締め切りですよ!?」
「ああ、コーヒーはおいしいなぁ!」
「へんしゅうちょー! へんしゅうちょう!! やばい、やばいです!? ちょっと聞いてください」
「ああ、おいしいなぁ」
それは少女がシチスケとレセの二人と冒険に出発する前日の、エミダリにおける一つの日常の場面であった。