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上 老いたる男の独白、日常と迷宮探索 蟹なし鍋


 灯籠がほのかに光を、しかしそれを覆い隠すような巨大な陽光の下で、無為に灯していた。

 

 象牙色の壁が連なる巨大な館、その東の外れにある窓近く。

 

 そこにいたのは一人の老いた男。

 白髪はおよそ腰まで伸びて、しかし艶はなく、汚れにまみれて乱雑な形で三つに編み込まれている。

 数多あまたの戦をくぐり抜けてきたのだろう、皺のよった顔には無数の戦傷、それを飾るように豊かな白い髪や髭が顔を囲む。

 その白さとは対照的に映えるのは外套――深い黒、あるいは紫ともつかぬ色合いに染め抜かれたそれを羽織り、黒光りする鞘に手を当て、見た目の齢にはそぐわぬような堂々とした動作で、老夫は壁によりかかっていた。


 ここは館である。

 そして館の周りには多くのものがある。

 

 その館が載った、島ほどの大きさの巨大な亀の背には、その他に夥しいほどの植物が生い茂る。

 

 赤い花びらは陽にその手を向けて、その首をそよがせては嬉しそうにさざめいている。

 あるいは新緑の木葉、新芽が雁首がんくびをそろえて涼やかな風に身を任せては木立のざわめきを巻き起こし、照りつける日の光はそれらの鮮やかな若草色に白く反射して、その煌めきは波のように輝き、白光に囲まれるように澄んだ青が、柔らかな黄色おうしょくの模様が、色とりどりに幸福を謳歌していた。

 

 「平和よのう」

 と老人の間延びした呟きが、ぽつんと何もない空間へと消えていった。

 日差しが熱を生み、温かな慈愛を種々(くさぐさ)に振りまけば、ひるがえっては生物を苦しめる。

 

 あるいは遠くこの生きた島とも呼べる亀の上で、その偉容が伺える神木――【木人】のたぐいは喜色に葉を騒がしいほどに揺らしているが。

 人の、あるいは温かな血潮を持つ生き物には、ちと厳しいだろうか。

 

 ゆえにこそ老人のつぶやきはどこか皮肉めいて聞こえた。


 そのぽつねんとした声音に、赤い肌に角を生やした巨魁が苛立たしげに、

 「何が平和だよ、クソジジイ」

 と粗暴に吐き捨てるのも無理はあるまい。

 

 低く、飢えた獣の威嚇を感じさせるような凶悪さをはらんだその響きは、老いた男の隣から聞こえてくる。

 やれやれ、血気に盛んなやつは、どうにも事を急き、そして物事を短絡的に考える。などと老人は考えながらも、億劫そうに隣の赤鬼へと目を向けた。

 

 


 亀の背に幾つも立ち並ぶのは、白、あるいは黒を基調とした荘厳な、もしく堅実な建物たち――それは工房であり、住居であり、食堂であり、魔導やら魔法の研究所であり、その他の薬草学やら素材学やら改造学やらを修めるための簡易な学問所でもあった。

 

 無計画に、必要になればその都度つど、必要になった物が『賢者』へと連絡され、有角人の『賢者』は苦笑を浮かべて、しかし真剣な眼差しで時間と材料と人足を勘案する。

 

 指示を受けた連中は、この暑さを憎み、ついでに偽神どもを罵って、死んだような目で材木やら石材を運び出す。

 

 明らかに建造の技には通じていないどころか、その生物的な構造上が物造りに適していないリザードマン『黒陽』などが木材を支えるのはまだいいほうで、『獅子王』が口を目一杯に広げて丸太をくわえている姿、自前の鼻を見事に操って四角い石材を運搬する白き『異空』の姿、あるいは海からはるばる伸ばされた『海王』の触手それぞれにノミやらカナヅチやらが括り付けられている姿などは、見るものの涙と哀れみを誘う。

 

 そして遠く山からの諸々の鋼鉄を背に負い大空を飛翔する『竜公』の姿を見よ! 海辺と森と沼を駆けめぐることとなった『大蟹』の汚れきった青銅色の甲羅を見よ! その巨体を生かして屋台骨やら大黒柱を支える百腕の巨人や、巨大な木人の汗にまみれた姿を見よ! (木人は汗をかかないが!)

 『人形師』はその美麗な女侍従たちを監督し、それと同時に『屍喰』が意志なきむくろ――骸骨スケルトンどもを操るなかで、『霧』が魔導を行使して、己の不定なる肉体を使って大小さまざまな道具を運ぶ姿はまるきりポルターガイストそのもの。

 

 日夜のこうした大工仕事に区別はなく、暇があれば修行か訓練か研究か、といったような連中が見境なくかり出されるのだ。


 そうした激務の合間を縫って抜け出した『老師』の後を追うように『鬼王』がいつのまにか傍におり、館から流れる冷房を肩に感じつつ、忌々しくも激しく空に在る太陽と緑の饗宴を、ぼうと眺めている次第であった。

 

 「ふむ、お二人さんは暇なのかね」

 

 そのサボタージュに蟹が加わった。


 『鬼王』ケップタイオスはその厳めしい顔をさらにしかめて、それだけで心臓の弱い人間を死へと追い込めるかもしれない凶顔きょうがんを蟹へと向けた。


 「みりゃわかんだろうよ……つうかヨ」

 「うん? なにかね」

 「おめぇ図体でかすぎなんだよ、バレる前にさっさと余所に行けヨ」

 「……本気で探されたら俺がいなくとも変わらないような気がするがな!」

 「ケッ」


 体高6M以上の『大蟹』――大鬼たる己よりも高い位置に顎のある甲殻類――を見上げて、つまらなさそうに『鬼王』は唾を吐いた。

 

 威圧感を感じさせる巨体を前にもいっさい動じた様子はなく『老師』と『鬼王』は改めて何をするでもなく沈黙のうちへともりはじめた。

 

 「今日はしかし珍しいではないか」

 「……なにがダ?」

 「いやはやいつもやれ訓練、やれ殴り合い、やれ勝負と五月蠅い連中が誰一人として広場にいない」

 「この暑さでか? 常識で考えろヨ」

 

 燦々と降り注ぐ太陽光線が、蟹の薄汚れた甲羅を鉄板のように熱していることを思い『大蟹』は納得したように、その巨体を座り込ませた。

 

 「ふむ、確かにな……いつも真っ赤な『鬼王』殿の顔が、いつも以上に……これがまたトマトのようにあかあかしく染まっている……尋常ではない暑さだ」

 「てめぇこそさっきから香ばしいイイ匂いが身体からすんゼ、旨そうだ」

 

 段々とピリピリしていくやりとりを尻目に、老戦士は変わらず空と緑林との境を熱心に眺めいてた。

 

 「で『老師』殿は先ほどから何をお悩みかな?」

 

 という蟹の問いかけに反応が遅れたのは、蟹が指摘したとおりに、彼が悩んでいたからだろうか。

 『鬼王』は先を越されたとでもいいたげに、牙の覗けるその口をもごもごとさせていた。

 

 「…………特にはな」

 「などと嘘を吐くものではないぞご老体?」

 

 ――おめぇのほうが俺たちよりも歳上じゃねえかカ。という『鬼王』の突っ込みは聞かなかったことにして蟹は続けた。

 老いたる戦士の渋い顔、その傷と皺にまみれた顔が苦しく歪む。

 

 「なあ『老師』殿、みな気づいているのだ、そこの阿呆鬼も、あるいはいつも『老師』殿と打ち合っているタンドランやらシュテッツァにガル老、勇者殿からマーネンハイト、あの難物としかいいようのないガンジットまでもが日に日に険しくなる『老師』殿の顔を見ている」

 

 その蟹のことばを噛みしめるように『老師』はしばし目を瞑った。

 大鬼が蟹を睨んだあと、腕を組んで、己よりも頭三つ四つは下にいる老人を睨んだ。

 

 「ったくよぉ! そうだよ……爺さんよォ、てめぇ最近辛気くさいんだよ。

 り合ってる最中も気が散ってるしよォ、『吸血鬼』のやつなんかデル老はどうしたんですか? デル老はまだですか? デル老が最近へんです! とかよぉうっせえのなんの」

 「うむ、確かにリーリアは元気が有り余っているな」

 「ガルなんか最近落ち着いて絵も描けやしねぇって、露骨に助けを求めてきやがるしよォ」

 「ジュチャもなあ「『老師』サマ、サイキンゴハン、アンマリ食ベナイ」と……」


 『老師』は老いたる相貌を突如として破顔させ、

 

 「やれやれ」

 

 と、どこかあきれたように、そして笑いをかみ殺すように、疲れ切ったため息を吐き出した。

 蟹の黒い巨眼と、大鬼の丸太ほどもある巨大な首が老人に向けられた。

  

 「全く、すっかり仲間らしくなった」

 と温かな口調で老夫はことばを続ける。

 

 「……姫が、いきなり悪鬼羅刹としかいいようのない人外の類を「これらが、今日からの私たちの仲間である」などと紹介した折りは、人々に追われた直後でもあって、開いた口が塞がらなかったものよのう」

 

 鳥の鳴く声と、遠く遠く空を駆け抜けてきた風の、木立こだちをさざめかす音のみが、白く輝いた昼の世界を覆った。

 

 わずかな沈黙のあとで、『老師』はいよいよその顔を――皺がより、右目を縦断する刃傷とそのほかおびただしい数の戦いの証が刻まれた――その顔を、曇り一つないような笑みで上書きした。


 「それがほれ、こうして心配される。心配されるほどには信頼されておる。そしてのう、それはつまりワシらが仲間であるということでもある。まさか蟹やら、あるいは鬼やらを、この長い旅路の最後の道連れとすることになるとは、わしゃあ、夢にも思わぬかった!」

 

 「じいさんよお、あんまり恥ずかしいこと言うんじゃねぇゾ、ぶっ殺したくなっちまうじゃねぇカ。……見ろよ、蟹なんか鋏を甲羅に乗せて、丸くなってやがる、顔から火が出そうなぐらいダ」

 

 蟹は丸まり、大鬼は照れ隠しの乱暴さを見せつける。

 『老師』は、なにもかもわかっていると言いたげに大きくうなづき、そして遙か大空、紺碧の空、そこに堂々と座する太陽を見上げ、目を細めた。


 

 一拍の間をおいて、『老師』は言葉を続けた。

 「のう、お主たちは聞いたことがあるか?」


 その響きは冷たく、あるいは何かを堪えているように蟹には感じられ。

 そしてまた怒りと、恐怖にも満ちているように大鬼には感じられた。


 「黒と白の翼をもった大天使の存在を」

 「……天使だァ?」

 「ふむ」

 

 と蟹は興味深げに、大鬼は納得いかないというようにそれぞれ老人を見た。

 

 「そりゃあれか? 俺たちがよ、集まったときに襲ってきた連中か? それとも俺たちが集まったあとに潰してきた連中に関係あんのか? どいつもこいつも、駄天使も、天使も、大天使も、みんなみんなぶっ潰したじゃねぇカ」

 「……そやつらではないのう。儂が言いたいのは、いまだ現れず、今だその姿を察知もさせず、いるのかわからぬ、しかしいるはずの天使についてよ」


 蟹はその大きな体を揺すった。甲羅に留まっていた色とりどりの小鳥が飛び立ち、青銅の肌に反射した光が幾重にも重なった。

 大鬼は訝しげな顔を隠さず、その凶暴な牙が見える口を、不満気にいからせた。

 

 「むう、ようよう話が複雑になってきたな……どれデルバイアー、話してみろ……わざわざ口を開いたということは、そのつもりなのだろう?」

 「……そうじゃな、この話をするのはな、お主らが初めてじゃ、昔の仲間をのぞけばな……光栄に思うがよいな」

 「けっ、んだよ……もったいぶりやがってヨ」

 

 そういって大鬼も、その巨大な腕を組んで、腰を地面に落ち着けた。

 二匹が話を聞く構えになったのを見て、『老師』はいよいよ言葉を連ねはじめた。

 

 

 

 

 「知ってのとおりじゃがのう、儂は昔、勇者の仲間じゃった……別にシェンペルの仲間であったわけでもなく、あるいは姫の母親の仲間であったわけでもないがの。

 

 遠い昔、とはいってもそこの蟹にとってはたかだか一瞬の時間。それはだいたい50年前ほどのことじゃったな、儂がまだ20代で、この髪も黒々しかったころのことだのう。

 

 儂はいまよりも8代前の勇者であるエリアヌザ=リューワさまに仕えて追った、いや正しく言えば仲間であった。

 彼は美しい黄金の髪を持った聖騎士であって、そして鍛えられ引き締まったその肉体に、生まれもっての高貴さ、誇り高さを纏わせていた。その瞳は鋭く、また宝石のように輝き、同姓の儂の目から見てものう、その美しさは目を奪われるようなものであった。

 そんな彼、リューワさまに一番最初に仕えたのが儂じゃった。

 喜ばしいことじゃったよ、当時の儂はしかしな、尖った刃そのもので、その喜びを素直に認められず、一度はリューワさまに勝負を挑んだほどじゃった。負けたがの。

 

 彼に従ったのはその儂に、聖女ミラン……銀髪の綺麗な女性じゃった、弓騎士コルレイ……長耳族の男だったのう。

 そして鍛冶小人ドワーフのベオイ、厳めしくも頼りになる男でな、優しい奴だった。

 

 儂らはそうして、人間諸国の間で認められ、各地の魔獣と戦い、そして最終目標として打倒魔王を誓ったのじゃ。

 巨大な鹿との戦い、謎掛けを行う蛇、刃の触手を駆る馬、空を飛ぶ高位の魔族、激戦に次ぐ激戦、冒険に次ぐ冒険じゃった。

 大変だったが、そこには喜びがあった、達成感があり、世界のため、そして仲間のために戦っているという充実感があった。

 数年ののちに、儂らはいよいよここ幾代の中において、最強の勇者一行と呼ばれるようになった。

 

 ……さて本題はここからだのう、儂はそのとき戦士として勇者とともに魔王を、人に仇なすと信じていた魔族どもを打ち倒すために、とうとう魔王領へと入ることとなった。

 魔族の警戒は激しく、激戦が予想されたなか、勇者一行を後援していた教会が、天使からの預言を、いや神の僕たる天使が自ら言葉を下賜したいと話があったのじゃ。

 儂らは、とうていこの世のものとは思えぬほどに整った。それこそ作り物めいて、どこまでも神聖な、存在そのものに萎縮を覚えるような、天使と話をした。あの勇者リューワでさえも、彼の前では美の点において一歩霞おったものよのう。

 

 その彼は澄んだ声で、歌うように、語りかけてきたのじゃ、今でも覚えておる。

 

 曰く、魔族には知られず、その首へと一気に入ることの出来る道があるとのこと。

 

 曰く、その道には魔族さえも厭う禍々しい気が満ちていて、それにあわせせて、かつてその地に君臨した天使の気の名残が残るために、魔族は寄りつかない。

 

 曰く、それは洞窟、それは崖、それは川、それは地下である。

 そして森へと至り、山の険しい合間を縫って、一気に魔都へとたどり着くことのできる道である。

 

 これらの言葉に、儂等は感激した、歓喜した、この美しい存在に、そして天にある神に認められたことを、心の底から喜んだ。

 高貴なるリューワは胸を張り、聖女は涙を流し、弓騎士は祈り、鍛冶小人は酒を飲み干し、儂は胸を打ち震わせて咆哮した。

 そして天使の励ましの言葉を、王や各国の貴人の言葉を胸に抱き、人々に見送られて、儂らは旅に出たのじゃ。

 

 長い合間を歩いて、『賢者』殿の故郷であるダフトクローアへと到着した。

 そこで歓迎を受けてのち二日目に、儂らは指示されたとおりに、ダフトクローアと魔王領を分かつ険しき連峰の片隅の、沼と深い森と、禍々しき大気が垂れ込める道なき道へと入ることとなった。

 

 ……ん、と、すまんの、デンザロス、水を頼む。

 

 ……ああ、ありがとう。……この歳になると、のどが渇いてしょうがないものでな。

 

 ………………どうせ魔導で生み出すのなら、わざわざ口から吐き出さないでくれんかのう? ……うむ、そう、それでいい。

 

 ……さて、その道は険しく、空気を満足に吸うことも出来ず、雨は激しく、沼には毒が満ち、危険な野獣さえもいた。

 しかしな、天使の言ったとおり、そこには危険はなかった。

 儂らは2週間、襲撃もなく、空を行く魔族の姿さえも見ずに、魔王領の中を進んだ。

 のう、儂らは安心し始めていた、そろそろ魔王領も半ばにさしかかりはじめて、本当に消耗がなかったのだから。このまま楽な道のりを行くことができるものと、楽観しはじめておった。

 

 ……その楽観に足下をすくわれることになるとも知らずにのう。

 ことの始まりは名前も忘れたがある山の峠、そして渓谷へと入り込んだときのことだった。

 突如として、山の各所に、両側に、渓谷を見下ろすところに、無数の悪鬼が、魔人が、亜人が、小型の魔獣が現れたのじゃ。

 

 そう、まるで何もかも見通されていたように……そう、まるで待ち伏せをされていたように! のう、それはまさしく待ち伏せじゃった、儂らは誘い込まれた餌そのもので、心も緩み始めておった矢先のできごとであったのだ。

 

 戦いは突如として始まって、儂らは不意をつかれたうえに、物量が違った。

 ……それでも刃を抜き。弓を放ち、魔導を、時には魔法を放っては敵を蹴散らした。儂らはよく粘った。よく戦った。

 無数の負傷、戦傷にも関わらず、敵を睨みつけて、近づくものを切り捨て、遠くあるものを燃やし尽くした。

 儂の黒刀も、儂の黒い鞘も、二刀の闘法とともに振るわれて、来る敵を殺し尽くした。

 

 おそらく千の大台にも乗るほどに、儂は殺した。

 

 やがて終わると信じて、やがてこの戦いを切り抜けられると信じて、これは何かの間違いで、これを越えれば再び、天使さまのおっしゃったとおり敵など現れず、魔王の下へたどり着けると信じた。信じ続けた。

 

 やがて敵を皆殺しにして、その戦いは終わった、誰も彼もが消耗していた。儂は勇者があそこまで赤く血にまみれ、その美貌を汚している姿をはじめて見た……仲間たちもみな傷だらけで、血に塗れていて、息を切らしていた。

 

 ……のう、儂らの消耗は明らかだった。それでも疲れた身体に鞭を打ってな、儂らは進み、辺りを警戒しながら休みを得た。

 だが次の日もまた、襲撃にあった、待ち伏せにあった。

 そして……その次の日も、その次の日も、進むにつれて甚大になる被害、増える敵の勢力、その囲みはますます鋭く、その意気はますます軒昂であって、反比例するように儂等は士気がくじかれ、絶望に浸食されていった。

 

 のう、考えてもみよ、天使の言葉が間違いであったのは、我らの信じていた神そのものに裏切られたように思えることそのものだったのじゃよ。

 そしてとうとう鍛冶小人は倒れ、弓鬼子は崖から墜ちて、儂らは3人となった。

 

 なおも絶望は儂らを覆い尽くして、そのうえでのう、信じていた仲間たちの相次ぐ死、視界は闇にとざされて、全ての物事は信用もできない、次にその闇が我らを包み込むのも時間の問題としか思えない苦境。

 

 いま儂等はどこにいるのかもわからず、それでもひたすらに進み、どうにか休み、どうにか食を得ていた。

 それでものう、諦めずに深い森の中を進んでいたときのことだっただろうか。

 儂も聖女も、勇者も、傷のない部位などなく、すでに薬も尽きて、全身はあかあかと怪物どもの体液で汚れていた。

 

 そんなときじゃ!

 儂らの疲労困憊が極限に達したときにな、奴が現れたのじゃ。

 それは……そやつはのう。

 美しかった……それは儂らの知る天使よりも遙かに美しく荘厳であった。

 

 気高く傲慢そうで、その肢体は女性の形をしていた、瞳の色は左右で異なり、その翼の片方は雪のように白く、もう片方は闇のように黒かった。

 儂等は安堵した、天使が、天使が我らを助けにきてくれた、と。

 

 だがのう……そんなわけはなかった。

 その天使は、その偉大なる大天使は、その崇高にして強大なる白き大天使は、翼を広げて儂らを嘲った。

 

 「よい見世物だったぞ! 貴様ら! 神々も喜んでおられる!」

 

 一言一句思い出せる、その忌々しい響きを、その毒に満ちた皮肉げな笑みを、儂らは知った。全てが仕組まれていたことを!

 神の邪悪さを、彼らは儂らを見世物として、儂らが希望から絶望へと墜ちる瞬間を見世物として楽しんでいたのだ!

 進むたびに現われる敵の塊、その波にいったい幾度まで耐えられるのか、誰が死ぬのか、全滅するのか、あるいはみな助かるのか、それらで賭けていることを知った。身が震えた、勇者は絶望と怒りに剣を取り落とし、私は愕然の余り膝を着いた。聖女は心を折ってしまった。

 

 そしてその天使は、ケサエル=ウィキウスを名乗るその天使は、これが最後の見世物であることを邪悪な口振りで伝えてきた……儂らが信じていたもの、縋っていたもの、そして今までの常識、その全てを打ち壊されて絶望の淵、虚無の中に陥った姿とともに朽ちるところを見たい……との仰せが下されていることを。

 

 儂は怒りと憎しみ、恐れと絶望が混沌とした。

 そう混沌とした無数の感情に、母の腹から投げ出されたような虚無感に包まれ、天使がその腕を構える姿をただ呆然と、見るしかなかった。

 激情を通り越して、虚無に、つまりは死を覚悟していたのじゃ。

 

 だが……勇者は違った。

 儂等よりも、やはり彼は強かった。

 彼は、儂など足下にも及びつかないほどに気高く強かったのじゃ。

 

 儂は、何も出来なかった。

 しかし彼は戦った、戦えた。

 その襤褸ぼろにまみれた姿で、その刃の欠けた剣で、あの壮健にして荘厳そのものの天使へと向かって行ったのじゃ!

 

 ただ呆然とするしかない儂に、リューワ殿はこう言った。

  

 「エメレを守れ、逃げろ!」

 

 そして勇者はその持てる全ての力を、闘法を、儀式小家を、儀式大家を使って、強大な天使へと立ち向かった。

 儂は悔しかった、でもそれ以上に死にたくなかったのだろうなぁ。

 

 儂は影に聖女を連れて潜り込み、その中から勇者を見守るしかできなかった。

 加勢もせず、瞳から光彩が消えて、ただ呼吸し、うめくことしか出来ぬ状態になっていた聖女を抱きしめることしかできなかった。

 

 あのときの儂が行使した儀式大家は、その集中は、儂の惨めな人生の内でもっとも鋭く、高く、そして深かった。

 

 その集中力を、しかし儂は逃げ隠れることにしか使えなかったのじゃ。

 やがて勇者は、天使に追いつめられた。

 儂の尊敬し、憧れた、そして友人でもあった彼の死を、儂は……儂は、儂は……ッッッ!!」

 

 気づけば、陽が傾き始めていた。

 僅かに、その陽光の醸し出す暑気が薄れ始めていた。

 蟹はただ黙って、その身体を陽に晒していた。

 大鬼は腕を組んだまま微動だにしない。

 そして『老師』は息を荒げ、そののちに、身体から力を抜いて、うつろな顔で天を見上げた。

 

 海の匂いが、風とともに彼らの身体を包み込んだ。

 やがて『老師』は首をふって、自嘲するように、その老いた、その過酷な人生を、いや、過酷であることを己に強い続けた人生を想うが故に、その顔を暗く沈み込ませて嘆息した。

 

 「あとは知ってのとおりじゃよ……儂は逃げた、逃げ続けた、天使は儂の影を発見できなかったのか、見逃したのか、儂は心の壊れた聖女を連れて故国へと戻ることが出来た。

 ……まあ、儂は既に死んだこととなっていたがの。

 はたして神は儂を見つけることが出来るのか、神の目を通せば、そして天使の、天使と神の手下たる信徒どもの目を通せば、儂など簡単に見つけられてしまうのではないか。

 彼らは全能なのか、そうでないのか。そうした疑心暗鬼に駆られながらも、名を変え、姿を隠して、儂はいままで生きてきた。

 聖女の心がついぞ戻らず、哀れにも死んだときも、儂は生きることをやめず、果たして捨て置かれているのか、見逃されているのか、忘れ去られているのか、それすらもわからずに、ひたすらに逃げたのじゃ。

 そして後年、姫が神に反逆したおりに詳しい話を、詳しい話を『智慧』に聞くことが出来たとき、儂の逃亡は終わり、そして地軍が生まれた時、儂の復讐は始まった……そう、復讐がのう」

 

 冥く燻った炎が、『老師』の瞳に爛々と輝いていた。

 蟹は全てを悟り、大鬼は直感で理解した。

 そしてまた蟹は、一人の人間を容易く叩き潰すことの出来る己の鋏を掲げて、『老師』へと囁くように呟いた。

 

 「つまり、デル老よ、お主の憂いは、憂いではなく……焦りであるということか?」

 「うむ、来る大儀式、開戦のときは既に半年に迫っている。

 儂は助かるかどうかもわからぬ激戦へとぶつかることとなる。

 その前にな……その前に、奴を、あの天使を、この手で」

 

 大鬼は、蟹の問いと老夫の答えに苛立たしさを感じたのか、その肩を身震いさせて、不機嫌な色合いを瞳に浮かべていた。

 

 「ふん……復讐、復讐、まったくしめっぽくて、嫌らしい理由だゼ、その戦いは純粋じゃねぇ、……そりゃ楽しくねぇんだヨ」

 

 と大鬼はぼやく……彼にとって、逃走とは悦楽であり、憂い無き、純粋な行為であったからこそ。

 

 「んな理由でよォ、ねえさんを煩わせるとかヨォ!」

 ぎりぎりと、歯を軋らせる大鬼を見て、『老師』は苦笑した。

 ――この鬼にとっては、そうであろうなぁ。と『老師』は『鬼王』のその単純な情念へ羨望の念さえ覚えた。


 「そうかもしれぬ……だが、だがのう。

 夢に……夢に見るのじゃ、あの美貌の天使が。

 夢にのう……それに儂は『白焔』殿に聞いた」


 革命キチガイの堕天使の名がここで登場するのもおかしなことではなかった、蟹と大鬼は、かの堕天使がかつて第八天において高位の大天使であったことを知っている。

 故に大鬼は不機嫌さを隠そうともせず、しかし邪魔をすることなく、『老師』の言葉を待つ。


 「かの大天使ウィキウスは地上にいるはずであると、奴めはのう、地上の天使たちを束ねる立場の一人であるとな、だからのう儂は知っておる……今だ奴が隠れていると、今だに奴がこの地上のどこかに息を潜めていると。

 だからこそ、そうだからこそだ……儂の憎しみはのう、奴を求めて、憂うのじゃ」


 そして『老師』は沈み込むように沈黙した。

 ただ日の光のみが、変わらず降り注ぎ、その無数の光の線の中で、蟹は無常を感じて、大鬼は己の義姉を思った。


 鳥の鳴き声が、憐れむようにかぼそげに、どこか遠くから聞こえてきた。









 2



 「祈りの先導! ありがとうございました神父さま」

 「……暇だったからな」

 初老に足を踏み入れたかどうかというような齢の、黒色の祭司服に身を包んだ男は、対面の部屋に住む少女に、いかにも面倒そうにそう告げた。

 

 キラキラと顔を輝かせ、爛々と若さみなぎる笑顔を浮かべて、瑞々しく煌めくその金髪を揺らしつつ、少女ルナーレはもう一度大きく礼をした。

 

 今日はこれから迷宮に潜るのだ。

 念の為、いつもよりも入念な祈りを行うために、断られることを覚悟して、隣に住む神父に先導を頼んだ甲斐があった。

 そう考える少女の顔には、これから行う冒険への期待と不安が、僅かな鼻歌に滲み、その吐息に溢れうかがえた。

 

 「それでも、ありがとうございます、神父」

 「……礼には及ばんと言っておる。

 ……ふん、それよりもお前の騒がしい連れはどうした?」

 

 蟹のことを言っているのかな、と少女は苦笑した。

 ――確かに騒がしい、騒がしすぎたかもしれない、あたしとペンタは。

 今度から気を付けようと思いつつ、ルナーレは老神父の言葉を待つ。

 

 「今日は用事、予定があるとかで……」

 「ほう、珍しい……。いつもいつも朝、昼、夕と、それこそカルガモのように一緒にいるように思えたがな」

 「そ、そこまでですか」

 「……ふん、すこしは慎むがよかろう」

 

 あちゃー、と頭を掻いてルナーレはぶつぶつと呟く。

 まったく、ペンタのせいだ、あの蟹は、もう、挑発ばっかするせいだ――云々と言葉を口内でもごもごと吐き出して、やがて正気に返ったように、少女はもう一度大きく神父に礼をして己の住まう部屋へと帰って行った。


 神父はそれを見て、改めて嘆息する。

 「かしましい年頃とは、まさに言ったものだな」と。




 侍女ケントゥムのエプロンは変わらず純白で、その美貌の損なわれるところは一切なかった。

 少女ルナーレは一介のおなご、その端くれとして、幾度となくその美貌の秘訣について聞いたが、実のある答えが返ってきたことはない。

 ケントゥムの輝く髪、硝子細工を思わせる瞳、人形を感じさせる佇まいにため息を吐いて、そして出された朝食――トーストにハム、卵に、コーヒーを腹に納める。

 

 相も変わらず微動だにしない、その挙措、佇まい、一挙手一投足を注視されるようなその凝視にも、もはや慣れきったというようにルナーレは別段なんら反応を返さない。

 ルナーレの内心には、この後の冒険のこと、そして蟹が記者エイナと何をしているのか、何をするつもりなのか、そのことに対しての疑問のみがある。

 ――この前、帰ってこなかったときも、エイナさんと何かしてた訳だし。

 

 そうして物思いに耽っていると、ひんやりと冷たい風が窓から吹き込んできて、鴉がいま目を覚ましたかのように、本日はじめての鋭い鳴き声を部屋に響かせた。

 それに促されたように侍女ケントゥムが、鈴鳴りそのものというような涼しげな声でルナーレへと声を掛ける。


 「ルナ様、そろそろお時間のほうは、出発に丁度よいのでは?」

 「……あれ、もうそんな時間?」

 「ええ」

 「カー!」

 

 鴉にまで同意されては少女も腰を上げざるを得ない。

 身体に密着するような褐色の下履き、上半身を覆うシャツにベスト、その上から蟹からの贈り物である外套。

 同じく黒刀――外套は素材学の研究成果が用いられた高級なものであるし、黒刀は紋章が焼き付けられている特注品であって、蟹の親ばか具合が伺える――そして小さなバックパック、腰に付けるベルト、納めるのはロープや布、腰に帯びるのは薬に――魔導書。

 

 ルナーレは改めて腰にさげたその魔道書の表面を撫でて、ほくそ笑む。

 しかしそれも一瞬、首をぶんぶんと振って、無骨ながらも頑丈で、それでいてある程度は運動性に優れたブーツを履いていよいよ全身に意気を漲らせる。

 

 「じゃあ、行ってくるからね!」


 ケントゥムは少女の姿を、その力強い意志に溢れたその姿を一瞥して、大きくうなづいた後に、思わず見とれてしまうような美しい所作で頭を下げた。

 「行ってらっしゃいませ」

 「ガァー!!」

 

 鴉が止まり木の上で、大きく羽ばたいて追従し、その二重の音に見送られて、少女は外へと出発した。


 閉じられた扉をケントゥムはじっと眺める。

 透明に、それこそ透き通ったような白い肌を、微動だにさせず、その姿勢のまましばしの時を過ごす、余韻を味わうように沈黙が辺りを包み込んでいた。

 

 鴉の鳴き声がようやく漏れるに至って、ケントゥムは少女ルナーレの眠った寝床のシーツを取り替えるために、あるいは食器を洗い、部屋の埃を落としては掃いて、日常を完璧に保つための作業をはじめた。










 3


 「ええ!? じゃあいまからですか?」

 

 柔らかな声だった。

 その声に応じてルナーレは大きく頷いた。

 己と同じくらいの背格好ながら、その年齢は幾分のところ上である花屋プチャルの柔らかな笑み、その穏やかな微笑みのなかにも驚嘆と賞賛の感情がのぞけていた。

 

 「そんなところ」

 

 などと言葉を続けるルナーレは、何処か照れたところがあるようにも見えて、幼さの残るその顔を赤らめていた。

 赤みの残る頬を隠しきれないまま、ルナーレは改めて花屋プチャルを見つめて、そしてそのあとできょろきょろと辺りを――プチャルの屋台の内側を見渡す。

 

 花々の色彩、それらを整えるための紐、皮、紙――ハサミとお釣り用の小銭入れ、幾本もそそり立つ水筒には新鮮な水。

 ルナーレはそのうえでに、言いにくそうにプチャルを見た。 


 「……それはそうとして、いいのかしらね」

 「……何が、ですか?」

 

 子犬みたいね、とルナーレは歳上にも関わらず、素直に感情を表して、小首を傾げている花屋プチャルを見る。

 ここのところ、ちょくちょく話していたためだろうか、出会った当初の気弱さ、つまり人見知りから来る臆病さが鳴りを潜め、穏やかな、自然とも呼べる表情を示すようになっていた。

 

 それこそ、人なつこい大型犬を思わせる挙動で首を傾げて、こちらの返事を待っているその姿に和まざるをえない。

 まあ、そんなことを考えるのも失礼なんだけどさ、と思いつつルナーレは口を開く、

 

 「……あたしたち二人……というか、あなたが海月くんだりに店頭を任せて、裏に引っ込んでていいのか……ってことよ」

 「…………そう、ですよねぇ」

 

 心外と言いたげなその反応に、ルナーレは目を瞬かせる。

 

 「そうですよねぇ、って……看板娘じゃなのよ、もう少しがんばりなさいよ」

 「……やっぱり、その、怖い、ですし……」

 

 その言葉ににルナーレが口を開く前に、プチャルは言葉を継いで言う。

 

 「あとその、なんというか、ちょっと前は確かに悩んでたんですけど……最近は、私じゃなくてもいいんじゃないかなと、思い始めて」

 「えぇー?」

 

 今度はルナーレが首を傾げた。

 この人は臆病で、小心者で、できるかぎり人と触れ合いたくないらしいけど、なぜかそれでいて花屋……客商売がやりたいらしく、なら可愛らしいその見た目と愛らしい雰囲気を生かせば、とルナーレは度々思っていた。

 思っていただけに、いつのまにやらの、この諦めは解せない。

 どうして? とルナーレの心持ちが顔に出ていたのか、それを察したらしいプチャルは、そっと表側――つまり花屋台の前面を見る。

 ルナーレの視線もその後を辿った。

 

 「あぁ、……そうね、たしかに」

 というルナーレの納得の顔が向けられた先には、一匹の魔獣がいた。

 

 「わぁ、海月さん可愛いー!!」

 「ぷよぷよしてるー」

 「回って! ねぇ、回ってー!」

 「……うわぁ、早い早いよ海月さん!」

 「すっげー回ってる!!」

 

 子供たちに囲まれ、その子供たちの保護者や、道行く冒険者に囲まれて盛況を博している一匹の海月がそこにいた。

 

 成人男性の胴体を覆うことができるような巨大な傘に、幾本もの触手が垂れ下がっているその姿は、いまは色とりどりの花、赤い花弁や黄色、青、紫、桃、薄紅、そのほかの微妙な色合いで装飾されていて、何か得体の知れないオブジェと化していた。

 化していたのだが……。

 

 「大人気ね」

 「ですよね」

 

 元々エミダリ市民の感性がおかしいのか、あるいは彼らの感性が麻痺してしまったのか、いつのまにやら花屋の手伝いであった海月は――そのふよふよとした触手を上下にぶんぶんと振り廻している海月は――驚くほどに受け入れられてしまっていた。

 

 ――口を開けて呆然とするしかないわね。

 そしてルナーレは、頭が痛いというようにこめかみを押さえる。

 

 「私も、やっぱり思ってはいたんですよ? なんというかこのままで本当に良いのかって……で、懸命にチャレンジしてみたんですよ、接客に……そしたら」

 

 もし頭に耳があったら萎れさせていたと思わせるようにプチャルは俯いて、己の愛と心を一心に注いで、それこそ丹精を込めて育てた花々を見ながら呟いた。

 

 「……今日は海月はいないのか、海月さんはいないの? あれ海月は? くらげ、くらげ……くらげ、……クチャータトさんを求める声が、たくさん……たくさん」

 

 いつにまにかこの界隈の名物になってやがる! 

 と、ルナーレは戦慄を禁じ得なかった。

 屋台の外では、くるりと回転して、浮遊と着地を繰り返し、花を四方に差し出すクチャータトのパフォーマンスに万雷を思わせる拍手と歓声が響く。

 「……もう、私いらないかなって」

 「…………」

 

 自信なくなっちゃてるじゃないのよ!? とルナーレはこめかみを押さえる。

 蟹がいなくてよかった、もしいたらさらにひっかき回されただろう。

 人に慣れないが、だからこそ少しでも人に慣れようとしているらしいプチャルの努力の前に立ちはだかったのが、よもや海月とは。

 

 ルナーレは複雑な気持ちを抱く、おそらく海月に悪気はなく、単純に気に入った人間を手助けしたいだけなのだろう。人にびくびくと怯えている少女を気に入って、気まぐれもあるのかもしれないが、その喧噪から守ろうしているだけなのだろう。

 

 ……ペンタ、これあたしには複雑すぎるよ。

 ルナーレは、いまは隣にいない甲殻類に今度、相談しておく必要があることを思った。

 思ったが、いまはどうしようもないことも事実の為、そっと目を伏せるしかないのだった。

 僅かにため息を漏らすと、ルナーレは何か気づいたというように腰を上げた。

 

 「……あたしそろそろ時間だから」

 「あっ……がんばってくださいね」

 

 少し話しすぎてしまったと思ったのだろうか、プチャルの顔が心配で陰った。

 だいぶ親しくなったと思ったが、こういうふとしたときに覗く顔に、やはりプチャルの――愛らしいこの花屋の弱さが見えるようにルナーレには思えた。

 思えたが、それは14歳の少女にはとても重く感じられるもので、自らのふがいなさ、経験の薄さを自覚せざるをえない要因でもあった。

 それこそ……あたしがもっと、人と巧く話せたら、いやそれだけじゃなくて、色々な経験を積んだ大人であったなら……プチャルさんともっと上手く話せて、こういうときにも、上手く立ち回れるのだろうな……と考えるような。


 ともあれルナーレは立ち上がり、外套を身につけて、屋台を出る。

 

 冒険者と商人、労働者と主婦、亜人と人間。

 賑やかな喧噪に包まれた青い空の下で、ルナーレは振り返り、どこか悄然として見えたプチャルを見る。

 

 「また来るね、プチャルさん」

 「…………あ、またの、おこしを、お待ちしております?」

 

 ちょっと笑った。やはり可愛い人だと、ルナーレは改めて思った。

 ルナーレは手を振りかえして、通り道で踊っている海月の傘を2、3回軽く叩いて、迷宮の入り口へと向かった。

 

 陽が眩しい、春も盛りを過ぎつつ、すでに初夏とも言える暑さの中で、今日の迷宮を思う。

 そして想いを迷宮へとさまよわせ始めたルナーレに、ふと、後ろからこえがした。


 「……またきてくださいねぇー!」

 プチャルにしては大きな声だった。

 少なくともルナーレには聞き覚えがない。

 プチャルにとっては最大限の勇気を振り絞ったものだということは、想像に難くない。僅かとはいえ人の注目を集めることを苦手にする、花屋にとっては、それこそ最大限のものだろう。

 

 ルナーレは振り返る、すると案の定、屋台の陰に隠れて、その柔らかな和毛めいた茶色の髪だけが見えるというような状態で、おそらく恥ずかしがっている姿が見えた。

 ルナーレはその姿に、何かくすぐったい気持ちになりながらも、前をむき直して、道を進むのだった。









 4

 


 エミダリの五区画において、中央区はその全ての区画と隣接する。

 

 初めての迷宮探索は中央区のそれであった、今日の予定は東区の迷宮である。

 世界最初の迷宮、禍々しき奈落、都市を飲み込まんと欲する邪悪の巣窟、エミダリにおける迷宮は、その規模も、その難易度も、余所の迷宮とは比較をとらない。

 

 それは始まりの迷宮でありながらも、未だに遅々として進まぬその攻略の進捗を見れば明らかであろう。

 五つの入り口は、内部で合流するらしいことは確認されているが、未だどの区画の入り口――迷宮も、前線をその深さまで押し進めることはできていない。

 合流自体の確認は、危険を危険とも思わぬような冒険者によって行われているが、最深踏破階層と、前線構築階層がここまで大きくずれ、そしてそのずれがほぼ変わらずに数百年を経た迷宮は、他に類を見ない。 

 

 中央区迷宮における前線は37階、踏破は47、到達は60。

 

 前線はほぼ恒常的な支援を受けることのできる、都市側の支配区域の限界点。

 踏破は軍と冒険者の侵攻と探索の限界点。

 踏破とは一般的には冒険者の探索後生還が可能な領域を表すが、それに対して到達は未生還を含めた侵攻の限界点。

 

 一組のパーティーが、その最後の力を、そして【力】を振り絞り、当時の最前線に交信を行ったことにより判明した事実は一つ。

 各区画の合流階層は60であるという事実。

 そのときからはや数十年が過ぎようとしているが、しかし未だに都市側は降着していた。

 そんな冒険者と軍人の血に塗れた迷宮に、今日も今日とて冒険者は挑む。

 

 冒険者――その仕事は多岐に渡り、都市住民の生活に強く根付いたなんでも屋。

 だがやはりその本願は、その本来の仕事は、迷宮の探索、侵攻、踏破にある。

 

 迷宮の治安を維持し、そこに棲む魔物や亜人を、あるいは迷宮側の作り送り出す怪物を倒し、あるいはその特別な植生、あるいは彼らの生活跡から使える物を発掘する。

 命という多大なリスクを天秤に、数多の素材を金貨銀貨に替えるものども、それこそが冒険者であろう。

 

 

 そんな冒険者の端くれとしての少女ルナーレと、元令嬢レセは、東区画の迷宮前広場で、本日の冒険のための要員、その最後の一人を待ちわびていた。

 柵に囲まれた広場、出入り口にある検問所に並んだ大小さまざまな階級の冒険者たち、何人もの人足を雇い入れ、深い階層に潜ることを目的としたらしい上級以上の冒険者のパーティーから、小遣い稼ぎ程度の冒険を目的とした集団、あるいは今日は今までよりも少しだけ冒険をしようかなと考えているらしい下級冒険者らしき人々、如何にも高価そうな武具を身に付けた高位以上らしき冒険者。

 

 無数の荷物、なにに使うのか分からない道具、武具、剣に槍、弓に杖、斧に短剣、鞭に銃、貯蓄型の魔具――疑似的な【器】を拵えた道具、道の杖と呼ばれる物。

 

 それら膨大な情報を、活気を、どこかそわそわと落ち着かないようすでルナーレは見つめていた。

 あまり高くはない身長に、しかし身に付けられた冒険者らしい荷物の数々、そ己が金の髪を振るわせつつ、未だあどけなさの残るその顔を輝かせて楽しそうなルナーレの姿を、元令嬢レセは呆れたように見つめている。


 「すこしは落ち着いていられませんこと?」

 「落ち着いてるわよっ!」


 ――何処が?

 とレセは思うが、その高貴な生まれは野暮なことを彼女に言わせない。

 見事に手入れされたその黄金の髪は、くるくると端々に螺旋を描き、匂い豊かな香水が上品に周囲に振りまかれる。

 生家は破産したとはいえ、己が生きるうえでの矜持は失わない。

 己の上品さを保つためのその香水は、かつてよりもかなり安いものだが、限られた予算のなかで最大限にその魅力を引き立てるためのものである。

 レセは己よりもいくぶん低い位置にある頭を見ながら再びため息を吐いた。

 吐いたのだが、浮かれたルナーレがそれに気づくことはない。


 ――この落ち着きのなさは、やはり……。

 レセは思案する……迷宮への進入が、今回でもまだ三度目という事実。そして彼女が冒険に憧れているらしいという事実。

 それら加えて、やはり蟹の不在が、彼女をこうまで高ぶらせているのだろう……と。

 

 頬の横を通り、僅かに膨らんだ頬の上に降りたその螺旋の髪を撫でつつ、レセはそんなことを思いながら、今回の冒険のための備えを改めて確認しなおす。

 自らの闘法を生かすことの出来る身軽な皮の胸当てに、軽やかながらもそれなりに頑丈な籠手と具足。

 そして愛用の刺剣。

 幾つかの道具を収めたポーチと松明。

 

 己はこれだけだ。

 ここでレセは――最近になって海月に……よりにもよって海月に師事しはじめてまで、【力】を認識するために訓練を受けている――レセは、それがためにふとルナーレの、その外套の下、そこに備わった魔導書を見る。

 

 ねぇ、見てよ、ふふん! などとルナーレがあまりにも年相応に見せてきたそれ。

 そのときの少女のルナーレのあどけない喜びようは、いつも斜に構えたところのあるレセをもってしても素直に、

 「ええ、よかったことですわね」などと微笑み返すことしかできないようなものだった。

 

 思えばこうしてルナーレという名のこの少女と、こうして一緒に冒険に行くようになるなどとは、数ヶ月前のレセならば夢にも思わなかっただろう。

 そのことに対してレセは、時折不思議な気持ちを覚える。

 覚えるが、それを表だって誰かに言ったことはない。

 不思議に思い、こうしてとりとめのない考えに身を任せるままである。

 

 そうしている内に、ルナーレはますます焦れている。

 

 「あぁー、遅くないかしらねシチスケさん」

 「そうですわね……軍人など三角四角と杓子定規に動くぐらいしか能がありませんのにね。にも関わらず、この遅さ……問題外ですわね」

 「あんたキツイわね、言い方が」

 

 そう言われてもレセは肩を竦めるだけである。

 二人の取り留めのない会話に、しかし思わぬ反応があった。

  

 「そうだ、ここをどこだと思っている」

 と低く野太い声が、二人の会話に割り込んできたのだ。

 

 ルナーレは声の主に察しをつけて、レセは勝手に会話に割り込んできた不埒な男の正体を求めて振り向いた。


 「カルロスさん!」

 「おう、お嬢ん、久しぶりだ」

 「最近、会ったじゃないの!」

 「そうかだったか? ……そうだったかもしれんな」

 

 そこにいた男を見てレセは僅かに顔を曇らせた。

 男の名はカルロス・カルタタン、都市迷宮軍所属の軍人であった。

 

 知り合いの少女を見かけたからか、その大柄な肉体と短く刈り上げられた金の髪にそぐわない、朗らかな笑顔を口辺に浮かべている。

 その鍛え上げられた逞しい肉体は、青と金の鎧の上からでも鍛え上げられていることがうかがえた。

 

 レセとて理解はしている、己の家の没落が不可避であったこと、そしてそもそもの原因は己が肉親たちの不明、憎むべき怠惰と世情に流れる空気を感知することのできない、その無能であったことを。

 それでもレセは、軍人を見たときに、理性と知性では押さえ切れぬ無意識のざわめき、魂の僅かな軋みの音が心の内に漏れ出るのを防ぐことができない。

 

 「今日は迷宮探索か」

 「まあ、そんなとこ……ってどうしたのよあんた」

 「なんでもありませんわよ……それでその軍人さんは、お暇なのかしら?」

 「暇に見えるか」

 「ええ、わざわざこんなところで油を売っているのですから、……巡回でもなさればよろしいのではないこと?」

 「ちょっとレセ、あんたってばそんな」

 わたふたするルナーレを尻目に、いつも以上に傲慢そうな口ぶりでレセは凛とすましている。

 が、カルロスは対して動じた様子も、あるいは気分を害した様子も全く見せない。

 

 「まあ落ち着けお嬢ちゃん、そっちのお嬢さんもだ……俺はいま休憩中なんだ、ここのところの捜査で疲れていてな、すこしは休んだって罰は当たらないだろう」

 「捜査……?」

 

 レセの問いかけ、揺れる螺旋形の黄金髪。

 ルナーレは見るからに疲れに満ちたカルロスの目元、その隈と充血しはじめている瞳を見る。

 

 「聞いた事はあるだろう、例の連続吸精事件だ」

 

 ――吸精って、最近話題の?

 ――そんなものもありましたわね

 納得の意を瞳に浮かべる少女二人を見て、警邏隊長カルロスは皮肉そうに笑う。

 

 「被害者には男性もいるが、むしろ多いのは」

 「多いのは?」

 「お前らのような若い女だよ」

 「怖いこと言わないでくださりますこと?」

 「嘘じゃない、犯人さまの好みというやつだよ」

 

 途端に気弱げに少し震えたルナーレを横に置いて、レセは口を尖らせた。

 

 「まさか尻尾も掴めていないことはない、ですわよね? もしそうでしたら、なんのために市民から税金を徴収していらっしゃるのかしら、私には全く理解できませんわ」

 「あんたさっきから本当にぶれないわね!?」

 

 されども警邏隊長は動じることもなく、その冷静そうに瞬く瞳はそのままに、皮肉めいた笑みを浮かべるのみ。


 「生憎と捜査の進捗は漏らせなくて、ただまあ、言うじゃないかお嬢さん」

 「ふん」

 「ああもう、っとカルロスさんだって忙しく頑張ってるんでしょう? 何をそんなに噛みつくのよあんた」

 

 ルナーレの呟きが聞こえてるのか、聞こえていないかレセは違う方向に向き直ってしまう。

 呆れる少女の様子を尻目に、カルロスは煙草に火を付けて、微かに笑みを浮かべてから、それをくわえた。


 「で、お前たちは待ち人か?」

 「あ、そうです、最後の一人を」

 「実力者か」

 「……確かにあたしたちよりも位階は上ですけど」

 「だろうな……お前たち二人で潜るなら止めるところだ」

 

 カルロスはそうして喉を鳴らすように短く笑って二人を見下ろしていた。

 そのときレセは視界に同じ酒場仲間である一人の男――今日の待ち人が来たことに気づいた。

 

 「まったく、レディを待たせるなんて、なんと不作法なことかしらね」

 「――あれ? 来たのシチスケさん」

 「……シチスケさん?」

 とカルロスが疑問符を差し挟んだところで、レセの視界に映っていたワフクの男――黒い髪を湛え凛と済ました表情の男が、カルロスとルナーレの視界にまで入ってきた。

 待ち人きたれり。

 ワフクに身を包んだ男、かく言いたり、

 「待たせた」

 「遅いって、シチスケさん」

 と言うルナーレに対して、レセはふん、と鼻を鳴らして、さも傲慢そうに髪をかきあげた。

 

 それに比すればカルロスの咄嗟の反応は、まさに劇的なものであり、また見事な敬礼であった。

 シチスケのいつも通りの表情に乏しく見える顔も、これには流石に歪んだ。

 

 「……敬礼は、やめろ」

 「は、ですが」

 

 ルナーレとレセ、あるいは周囲の好奇心と興味に満ちたまなざしに辟易するようにシチスケはかぶりをふった。

 

 「俺は、もう、軍人では、ない」

 「……そうかもしれませんが、私にとって貴方は、そうしたものを越えて敬意を捧げるべき御人なのです」

 「大層な、ことを」

 「大層ではありません、ロッホ中将の右腕であらせられた貴兄の如きに対して、我々東域より付き従いこの街に入った者としては、貴方に命を助けられたものも少なくない者たちの一人としては、軍籍を脱したとはいえ、決して無碍むげなる対応をしてよいものではないのです」

 「……昔の、話は、よせ」

 「…………私の敬礼を止めないと言うのならば」

 「……好きに、しろ」

 カルロスの気合い勝ちであった。

 己のかつての部下であったらしい男に対して、結局のところシチスケが甘かったともいえる。

 

 「中佐……いえシチスケ殿がこの小娘たちと今日、迷宮に?」

 「まあ、そう、だ」

 

 ――小娘って誰よ

 ――わたくしたちのことではなくて?

 途端に顔を膨らませたルナーレとレセを尻目にカルロスは再び敬礼をとって言った。


 「御武運を!」


 シチスケは顔を歪めつつ、頷くことしか出来なかった。

 会話の終わり、あるいは一つの空気の弛緩を感じてルナーレとレセがシチスケに出発を促す。

 黒刀を提げた少女と、刺剣を吊った元令嬢、そしてワフクの上に黒地の外套を羽織り、なぜかスコップを背に負った和装の男の、短い冒険はこうして始まった。







 爛々と輝く貯蓄型のカンテラがその部屋の四方を覆っていた。

 あるいは何らかの布と金属――おそらくは素材学の知識がふんだんに使用され作られた――道具が部屋の壁と床、そして天井、目に見える範囲の全てに張り巡らされている。


 部屋の中央には一人の女がいた。

 黒地に金と緑の刺繍が施された軍服を身にまとい、左胸には無数の勲章が煌めいている。

 

 高慢さと高潔さ、意志の強さがにじみ出るその気高き瞳の輝きは、エメラルドのような翠緑で、彫りの深い顔立ちが合わさってさながら何処かの国の姫君を思わせる。

 髪の色は白銀、そして一房の金。

 腰まで届くその髪を撫でつけながらその将校は、忌々し気に机の上を見ていた。


 「ロッホさま」

 背後からの声に対しても振り向くことはせず、ロッホと呼ばれた女は机上を見つめていた。

 「……ロッホさま」

 さしずめ女奴隷の哀願であろうか、そう錯覚してしまうようなか弱い声が、ロッホの耳朶を何度も叩いた。


 「ロッホさま、ロッホさま、ロッホさ――」

 「聞こえている」

 「は、情報局と総司令部、行政府からの連名での命令状が届いておりますが」

 「……いやな予感しかせんではないか!」

 

 そういってしっ、しっ、と手を振る将校にめげず、副官は言葉を続ける。

 白髪にも見えるその髪は、疲れか何かで色艶をなくしているのか、四方からの光に儚げにたなびく。

 

 「至急、第三師団より三大隊を率いて、エミダリア平原東北部、カウナス=エミダリアへと出向してほしいとのことです」

 「……迷宮はどうなる」

 「第二師団よりアウギレアさまが代わるそうです」

 「東区画の状況は?」

 「ここ一年変化はなく、『水潜り』どので問題はないかと」

 「第二軍はそんなに人材が不足しているのか?」

 「スフェロトとチチェク、アウナスがきな臭い現状、兵員はともかく将に不足がでるのはしょうがないことかと」

 「それゆえにグローリアーへの備えとしての私か……いざとなったときの遅滞戦術も期待されているのであろうな」

 「ご明察のとおりパレツトレフスキ委員長からの伝言です「いざというときのゲリラ戦、楽しみ」とのことです」

 「雌狐めっ!」


 白妙というに相応しいその髪が、怒りか、屈辱か、あるいはその両方で揺れているのを見て、副官は嘆息するほかない。


 「第三軍はタンボルグと都市北方、さらに内海への備えを怠るわけにはいきませんし、中央迷宮は常に激戦、南と西は先頃の大攻勢で苦境にあります……」

 「わかっている、しかしその大攻勢、次は北かもしれないではないか」

 「少なくともパレツトレフスキ委員ならばその辺りも折り込みずみかと」

 「くそっ、折角練った侵攻案が無駄になってしまうではないか」

 「……それは三三階層の?」

 「ああ、冒険者どもはよくやってくれている。

 そもそもこの発案は連中だ、こちらは後詰めで、しかし瞬く間に展開せねば話にはならないからな」

 「…………まさか折角の戦闘の機会を奪われたから不満なのでは?」

 「……………………まさか」


 なんなのですか、その間は、と副官は罰の悪そうなロッホの顔を見る


 「出立と到着の予定時間は」

 「出立が今夜の8刻、到着が一週間以内とのことです」

 「いますぐにでも出なければ間に合わないではないか!」

 「そのようです」


 そうしてロッホと呼ばれた将校は忌々し気に立ち上がって、先端に紺碧の宝玉と、まるで稲妻のような黄色に輝いた宝玉が付けられた杖。

 そして壮麗な飾りが着いた外套を取り出して、副官に預けた。


 「ポーターの準備は」

 「あとすこしです」

 「装備のほうも頼むぞ」

 「御意に」

 「それとヤマモトにもこの話を急いで……」

 「あの」

 「何だ?」

 「ヤマモト中佐は既に離隊なされて」

 「ああもう、あいつめ、くそっ」

 「あの」

 「糞、輜重も行政も、攪乱も、野戦も、当てが外れるという話じゃないぞ!!」

 「どうなされますか?」

 「糞っ、上で誰か借りる」

 「は」

 「アウギレアの到着まではゲイル准佐、貴官を臨時指揮官と任じておく。また現在当直中の三大隊の交代は休暇中の連中ではなく、第六師団と第二の非番連中を使うようにかけあっておく」

 「了解いたしました」


 そして余った時間を、苛立たしげな様子で己の頭髪をかきむしり過ごすロッホを、呆れたような目でゲイルが見ていると、やがてロッホは怨嗟にも似た呻きを上げた。


 「なによりも私が気にくわないのは、だ」

 「はい」

 「あいつがパン屋を始めたいから、その修行のために軍をやめるということだ!!」

 「はあ」

 「パンなら幾らでも軍で作れるだろう、というか作ってきたではないか」

 「あの」

 「それをいまさら、ここにきて、しかも私が忙しいときにだぞ」

 「あの、そろそろ」

 「思えばトレスタン平野での戦で、あいつが敵の側面を攻めたときもそうだった、あいつは肝心なところで」

 「そろそろお時間です中将!!」

 

 迷宮の奥深く、そこよりもなお深きはあれど、人が生息する最も深き迷宮の一つ、そんな場所での出来事であった。

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