後編;集団、覚悟を決める時、一つの羽化、蟹
7
黒い犬は魔獣と通常の獣の中間に位置するような存在であった。
素速く、強靭、身軽にして凶悪。
しかしこれはあくまでも露払いに過ぎないのだろう。
「気を取られすぎるな!」蟹が声を上げる。
その言が響くかどうかという合間に、充血した眼から殺気を迸らせ、黒犬が少女たちへと飛び込んできた。
「ふッ!」と鋭く吐き出された呼氣、レセの吐き出した裂帛の気合いだ。
その気合いとともに、無駄など一切ない鋭い突きが、犬に向かって打ち付けられる。
蟹は少女ルナーレを見守りながら、守る者があるからこそ生まれる集中力により、一瞬の隙を見逃さず、一匹の犬を切りつけた。
手元が霞んで見える蟹の鋏は、驚いたことに黒い犬の、全身これバネというように飛び上がる反応によって、僅かに足先をかするに留まった。
蟹の瞬断を奇跡的に躱すのは流石の野生本能と言うべきか。
強靭な筋と野生の本能を持つ動物は、相手取れば中々に厄介な存在である。
背筋を震わせるような緊張が、ルナーレやレセの身のこなしから感じられた。
喉を狙って繰り出される凶悪な噛み付きを間一髪でよけて、レセは小さく弧を描いて左足を犬にぶつける。
柔らかな内臓への蹴撃は、しかしごわごわとした毛皮に阻まれ、本来の威力の数分の一程度に減じている。
蟹は、内心の楽しい思い、闘争の喜悦を隠さない。
そもそも少女ルナーレのための任務、そして仕事。
が、些末とはいえ、久方ぶりの戦闘は蟹にとっては楽しいものである。
その陰で、少女が緊迫に満ちた死と生が紙一重に入り交じる舞踏劇を演じていても。
当のルナーレは一人、犬と対峙し、その犬の噛み付きを紙一重で避け続けていた。
鍛えられた動体視力。
ひたすらに叩き込まれた反復練習、身に染みついてきた、ただ避ける練習、その成果。
蟹の速さ、海月の触手、それを躱し、それを避けるために一体なんど煮え湯を飲んだか。
蟹に攻撃を当てることは未だ叶わない。
それでも海月の巧みな触手の連撃を、ここ最近になってようやく日に一回か二回躱せるようになった。
犬の噛み付きは素速いが、しかし一瞬の交錯の中でレセが読み取った犬の眼差しは、首を狙っているものと察することが出来た。
これもまた修錬の賜物。日々の肉体駆動の精華であった。
少女にとって、そもそも姿の捉えることのできない蟹に比べれば、
全くの無表情によって行動を読ませることのない海月に比べれば、犬の攻撃など児戯も同然。
地面を転がり、ときに跳ねて、少女は犬の攻撃を避け続けた。
外套をひるがえしては盾に、身を屈め、汗を滲ませ、鋭い眼差しは犬から逸らすことなく避けることに専念する。
避ける、躱す、そしてその内に機会が生まれる。
ルナーレはその機会を窺っていた。
蟹は、心地よい緊張感を感じさせる新兵ルナーレの挙動を横目で確認しつつ、ほっ、と安心を覚えた。
蟹は安心を覚えながらも、警戒は忘れない。
ルナーレが攻撃を避ける動作、その隙を突いて迫る異なる一匹の犬を発見すれば、
蟹は淡々と、その犬の後背へと追いつき、機械的な処理を施すようなぞんざいさで、その後ろ足を切り裂き、少女の危機を阻んだ。
瞬間的な犬の突進、その速さを超えての、蟹の機敏な追撃により、一匹の黒犬は哀れにも行動不能に陥った。
目線を少しずらして、重く尖った刺剣と己が肉体を駆使して戦うレセを見れば、こちらは順調。
レセは蹴りからの拳。刺剣の柄頭を使っての殴打。そして不安定な砂場をものともしない力強い踏み込みから繰り出す突き。
それらの華麗な連撃により、犬の厚く黒い胴から鮮血を迸らせていた。
太く重い細剣が、大地への踏み込みを支えに練り上げられた力を先端に抱える。
刺剣は犬の胴を射貫き、そのまま岩山に刺剣の刃が半ばまで埋まるほどの衝撃で犬の命を奪った。
残る一匹をルナーレが相手取る。
犬の動き/左右に小刻みに動き、鋤を逃すことなく襲いかかる俊敏な噛み付きに、ルナーレは苦戦を強いられる。
それでも少女は、かつて強くありたいと、蟹に語った少女は犬から目を離すことはない。
さて、そうして犬が襲いかかってから時間が少し経過したことを踏まえれば、その飼い主が到着するのも道理というもの。
それまで戦局を窺いながらも、犬が駆けてきた方角を高い岩場より監視していた執事ウォルトンが一声。
「弓4!」
少女の動向を親鳥のように注目していた蟹は、すぐさま振り向いて、意識を集中する。
意識――体内――儀式小家:想像法――導力――想像・属性性質操作・構築――発現
儀式小家;想像法『蟹の泡』
青みがかった歪な液球体が、空中をシャボン玉のようにふわふわと漂い始める。
蟹の口から吐き出された無数の泡。
高位冒険者程度では比較するのも烏滸がましいほどの小家の構築速度に、ウォルトンとレセは目を剥いた。
しかしその妙技はそこで終わらない。
漂う泡が円を描き、一定の規則性によって空中に浮かび、その座を占める。
洗練と修錬の妙技の果て、それら全ての泡、泡の配列というひとつの記号と見做し。
それを一種の紋章を基底におく。その後に蟹は、128個の泡全てに向かって、己の魂より汲み上げ、世界へと滲みだした【力】を導力する。
意識――体内:大気・前方一定範囲:蟹の泡
――導力;導力――紋章想定;起動・想像・属性性質・構築――発現
儀式小家;儀式法『大水壁』
蟹が吐き出した泡。
レセが一匹の犬を磔にした岩、執事ウォルトンの登る岩の傍を漂う泡の集合へ、蟹の【力】が想いとともに導力される。
蟹の泡、その配列が記号/擬似的な紋章として機能し、紋章と想像が組み合わさることによって複雑な効果が発現する。
そして現れた儀式小家の秘奥は、無数の泡を、絵の具で塗りたくったような青い液体の壁へと変幻させる。
幅は5m、高さも5mほどになるだろうか。
水壁が顕現した瞬間、放たれた矢が、その水壁にぶつかる。
最後に残った犬の首が、ルナーレによって切り落とされた。
言うに易いが行うには難い。
レセが手頃な石を残る一匹の犬へと投げつけて援護していたとはいえ、
犬の首を骨ごと飛ばすには、武器の鋭さ、そして力の踏み込み方、何よりも様々な姿勢からの十分な威力の攻撃が可能でなければならない。
鑑みれば、見事な一刀であった。
即席とはいえチームワークの生んだ結果でもある。
そのルナーレが顔を前に、敵の大軍が行軍してくる方向を見れば、そこには異樣に鮮やかな青色の水壁。
その蟹の拵えた水壁に次々と矢がぶつかり、取り込まれ、水壁内に矢が溜まっていく光景が目に映った。
どこぞで拾った質の良い矢、粗末な石製の矢尻から、手製のものまで、何本もの矢が水壁にぽちゃん、という音を鳴らしながら突き刺さる。
水が全てを受け止めて、その中に矢を閉じ込めていた。
「槍三,近接六!」とウォルトンが叫ぶと同時に、蟹の水壁が破裂した。
遠く、既に岩陰、巻き起こる砂の合間、木々の傍に姿が見えた犬人は、烏合の衆そのものといった態で走ってこちらへと向かってきている。
蟹がルナーレとレセを確認し、ウォルトンを見ると同時に破裂した水壁の爆発が、その烏合へと飛び散っていく。
指向性をもった破裂は、水壁の内に蓄えられた弓兵の放った矢、さらには硬く尖った水などを『蟹の泡』の爆発とともに、矢の持ち主たちの下へと反転させた。
「ッうぉん!?」「!?」「きゃんッ!」と犬人たちの鳴き声が響く。
飛んでいった矢や水が、こちらへ駆けてきていた犬人たちの腕や腹、脚や頭に傷を与え、損傷させたのだろう。
「参る」と囁くような小さな声を放ち、腰を低く、左手を相手に向けた執事が、次の瞬間には、その動揺を隠せない敵たちへと向かっていた。
脚か靴にはおそらく加速の紋章が入れられているのだろう、砂埃とともに、跳ねるようにウォルトンは疾駆して、混乱と渾沌に襲われ、
各々腕を押さえ、何が起こったのか分からないといった様子で痛みに呻いていた犬人たちへ突っ込んだ。
ウォルトンはその犬人たちの内の一匹――眼を押さえた一匹の犬人の頭を殴りつけた。
両腕の先、手を覆っている白手袋が、拳を保護しながら何かの紋章を作用させているのだろう。
【力】と紋章により十分な凶器と化した拳。速度が十分に乗った右腕。
それらが容赦なく犬人を吹き飛ばし、それと同時に傍にいた斧を持ち、腹から血を流している犬の腹に靴のつま先を突き刺さした。
ウォルトンの手早い打撃に犬人たちはなすすべもなく吹き飛ばされる。
未だ混乱醒めやらぬ犬人。そして一匹二匹混じっている豚人。
低身長で灰色な、ぼさぼさの毛並みの犬人と、飢えにより痩せたが、筋力だけは最低限保っているらしい無様な豚鼻。
しかしウォルトンの第一目標は、惨めに呻く彼らではなかった。
接敵とともに導力を脚の裏に刻み、跳躍力上昇の紋章に流し込んだウォルトンは、未だ弓を構える四匹の犬の元へと飛んだ。
蟹は火力を無力化せんと鮮やかに中空を跳躍したウォルトンを見ていた。
蟹の先制攻撃に合わせた、鮮やかな手並みの吶喊であった。
そのウォルトンの跳躍を合図として、ルナーレとレセに向かって、蟹は低く通るような響きで言った。
「行くぞ」
言った蟹は、次の瞬間には既に犬たちの傍にいる。
総崩れの犬、僅かな豚、動揺に蠢く相手を多人数戦闘の良い機会として、少女ルナーレの経験にしようと考えてもいるのだろう。
蟹の親馬鹿は、張り切って先陣を切って、豚の脚、そして胴を、鋏で切り刻んで、脅威を先んじて排除しようと考えている行為から窺えた。
しかしレセは走り始めると同時に、横目で見ていた。
少女ルナーレが震え、まるで何か昔の恐ろしき情景を思い出したように、
肩を抱えて、瞳から力を抜けさせて、顔を青くしているのを。
「ルナーレ!?」
とレセが思わず声を上げる。
するとルナーレの瞳に焦点が戻る。
己のかつてのトラウマを、あるいはトラウマになった相手、蟹との出会いの端緒ともなった、
野卑た犬たちの、飢えた眼差しを瞬間的に思い出してていたらしき少女は、
しかし歯を食いしばって、何かに耐えるように、迷いを切り捨てるように柄を握った。
顔を上げて、蟹と執事、そしてそこへ走って向かう元令嬢を見据え、
大きく息を吐いた後、己も全力で駆けだした。
黒刀を右手に駆け出す少女の見据える先には
蟹が二三の獣人をさらに相手取り、執事が手慣れた様子で拳に振るって、弓を持った、身長一三〇cmほどの小人どもを打ちのめしている情景。
あるいは未だ蟹の放り返した矢尻と水の衝撃にのたうち回る姿。
その傷ついて、胸やら腕やらを押さえている獣の一匹をレセは突撃で仕留めていた。
疾走が生んだ速度と慣性が、唸るような重みが乗せられた刺剣が、華麗に振るわれたのだろう。
まるきり犬の死に際の遠吠えにしか聞こえない犬人たち断末魔の呻きの中。
己が髮を波立たせ、武器を振るうレセ。
ぼさぼさの砂と、土と、何かの滓がこびり付いた汚れた毛並みの犬人たちが次々にその命を散らしている。
かつて自分を追い詰めたそうした獣を、ルナーレは正面に見据えて、心の内に浮かんだ迷いにも似た恐れを振り捨てて、
手に持った刃を振りかぶる。
健脚は速度を、怪力は威力を、砂地と石、疎らな草、足下の状況は決して良くはない。
それでも少女は、自らの意志で、目前の敵の命を奪うことを決意した。
おそらくはあれでも手加減しているのであろう、いつも自信に満ちた優しき蟹の強さ。
それに置いていかれたくないという一心は、いつまでも消えずにルナーレの心にあった。
だからこそ少女は獣人の肩へと刃を滑り込ませる。
しかし、
――防がれる。
僅かに他の獣人/犬人よりも大きな体躯を持った、鎧を纏った犬人。
見れば左腕には粗末ながらも丸い木製の盾。
右腕に持つのは、どこぞから盗んできたか、あるいは拾ったか、錆が纏わり付いている剣。
少女の加速された剣閃は、犬人の右の刃によりいなされていた。
少女は驚き、しかし体勢が崩れるまでには至らない。
視線を犬同然の毛皮に覆われた肩から外し、己の攻撃を防いだ脅威たる敵の身体全体へと広げる。
――慌てるなルナーレ! まずはよく見るのだぞ!
と蟹の幻聴が聞こえる。蟹ならこう言うだろうという言葉が内心に浮かび、少女は敵を見る。
怒りと恐怖、痛みと不安の入り交じった犬の哀れな瞳の色。
運良く蟹からの全体攻撃の被害が少なかったのだろうか、目立った外傷は見当たらない。
少女は防がれた刃の反発を弾みに後ろへ跳ぶ。
足場は滑りやすいが、少女は敵から目を逸らすことなく。
田舎育ちゆえの慣れもあるのか、地面に構うことなく、犬人が繰り出してきた左方の盾を押し出した突進を、ひらりと躱す。
盾による殴打。手慣れたような敵のシールドバッシュ。
それを巧みに回避して、少女は振り下ろす形になった剣を、そのまま突き込んだ。
レセの繰り出す見事な闘法――ステップとともに繰り出す見事な突き――のように、
少女ルナーレの刃が、跳ね上がるようにコボルトの胴、その正中へと吸い込まれていく。
――キャン! と傷ついた犬の鳴き声が、ルナーレの正面から響く。
犬の目に浮かんだ恐怖の色合いが濃くなる。
少女ルナーレの不完全な突きは、犬人が身をよじること。そして全身を覆う短い毛皮の上を滑ることにによって、僅かに傷を付ける程度に留まっていた。
しかし大きく身をよじり、そして後ろへ仰け反った犬人は、剣も盾も動かせるような状態ではない。
少女が、手に持った黒い刃を、突きの体勢から、その腕力でスナップを利かせるように振れば、
筋肉と毛皮に包まれた無防備な脇腹に、鋭利な斬撃が食い込むのは必然であった。
だが、これもまた無理な体勢が祟り、致命傷には及ばない。
蟹が鋏を使い、淡々と犬人を処理し、レセが容赦なく、躊躇なくその刺剣を振るう。
執事は拳を振るい、裏拳と肘、つま先を駆使して既に弓兵を全滅に追い込んでいた。
少女は滑らせるように刃を引き抜き、痛みと動揺により反撃など到底叶わぬ目前の犬人に、
今度こそ終わりの一撃を叩き込もうと振りかぶる。
そして犬の目と少女の目が再び合う。
死の間際の犬の眼差し。
不安と興奮と、覚悟と迷いの入り交じった少女の視線。
それらが、交差する。
少女は刃を振り切るつもりであった。
魔獣の命は奪った。己は冒険者だ。これからも命を奪う。
犬人は己の敵。迷っていては命が危ない。全て承知していた。
それでも、一瞬、その死に臨んだ犬の瞳に浮かんだ極限的な不安の色に、
少女は迷いを覚えた。
人に似た容貌をした者、町中でもよく見かける種族、知性と感情が窺える者。
――あらゆる暴力によって獲得されたものは、悪臭を伴う。
――しかしそれでも人は人を殺す、必ずだ。
――欲望、自己の利益、防衛、理由は多々あれど、嫌悪しながらも。
――人は人を殺す。そして多数は嫌悪を覚え、僅かな修羅のみがそれから逃れる。
――面白いものだよ、デンザロス。未だに僕には人間心理というものがよくわからないのさ!
『賢者』フィネルゥは満面の笑みを浮かべて『大蟹』にそう言った。
人を殺すことを楽しむ者も、特になんの感慨も抱かぬ者もいるだろう。
そして少女は、死とは遠く、平和な環境に居た。
冒険者になると決めたものの、そうしていざ人型の命を奪うことを目前として、少女は、ルナーレは、
迷い、そして今一度怯えるのだった。少女はそういう者であった。心優しき者、であった。
しかし怯えは僅か一瞬。
刃は緊張の頂点で、その内心の揺れに動ぜず、真っ直ぐに振り下ろされた。
筋を違うことなく、その首元へと迫る軌道を、ギリギリまで見据えたあと、少女は一瞬だけ目を瞑り、
己の腕の中で、首の骨が砕けるような衝撃と、命が朱い流れとして己の顔に降りかかるのを感じた。
8
戦闘は瞬く間に終わった。
蟹はいつものように口から吹いた泡のような、水のような液体で、鋏を拭い。
執事は白手袋の着け心地を直し、元令嬢レセは己の刺剣を布で拭う。
刃先の鋭さ、鋭利な尖りが欠けていないかを窺うのは、骨は硬く、武器が脆いことを知っているからであろう。
己のかつての専攻は、主要な魔獣や亜人、そして人間種に至るまでの敵の急所を熟知させた。
そうして少しでも武器を長持ちさせることがレセには出来たが、それでも油断は禁物であった。
ぴくぴくと震える屍の山、脳を頭骨ごと砕かれたものは執事ウォルトンが振るった攻撃によるものか。
胴や、頭部、あるいは脚が断たれたものは蟹。
そして比較的傷が少ないが、身体から血を大量に流しているのはレセが刺し殺したものだ。
最後にレセは、少し離れた地点にある一体の死体を見る。
腕に僅かな傷、胴に小さな切り傷、そして首の半ばほどを埋める、絶息と絶命の理由となったであろう傷。
それを行ったであろう少女、己よりも四歳ほど年下の少女は、その屍体の傍に、うずくまるように、
あるいはそう見えるほどに、姿勢を低くして、突き立てた上質な剣にもたれかかっていた。
吐き気を催しているのか? そう考えながらもレセはルナーレに近づいていた。
「どうしたのかしら?」
「…………なんでも、ないわよっ」言って、少女は顔を持ち上げた。
そこに作られた表情は、決して温かくない、白く、そして震えるような怯えが入り交じっていた。
迷いから脱するに今一歩足りないような、しかし目線は力に満ちて、己の行ったことに後悔を抱いてることはないことが分かった。
「そう、ならさっさと武器の手入れでもなさったらどうかしら?」
「言われなくてもっ……!」
蟹が、微笑むような慈愛を秘めて、その黒い眼を二人に注いでいた。
得難い経験を重ねた娘を見やるような蟹の眼差しに、少女は気付いて、
そして青みがかったその顔を、その頬を膨らませて、蟹を睨む。
「なによッ、そのにやけた顔はッ!」
「ハハハッ! 馬鹿なことを言うな少女ルナーレ、どうして蟹の表情が君に窺えるのか!」
「う、うざっ!」
ともかく戦闘は終了したのだった。
ふらつきを殺しきれないまま、それでも少女は血糊を拭い、
蟹は変わらずそれを見守る。
レセは溜息を吐きながら空を見上げた。
一面の惨状など、遙かな大空、淀んだような白い光雲を泳がせる青い空には何の関わりもないように見えた。
透き通るような一面の空から降り注ぐ光は変わらず、緑と砂色に満ちた地面を輝かせていたのだから。
……
…………
戦闘から少し経って、
一行は山を――緑と茶こけた土の入り交じる傾斜した大地を――登っていた。
思っていたよりは柔らかな、そしてなだらかな道だったが、時々見える白骨化した人の死体と、
何処か遠くから聞こえる何かの遠吠えが、荒漠とした印象をぬぐい去らない。
既に日も相当遠く、落ちるとは言えぬが、落ちかけていると言えるような昼の範囲の限界に達していた。
日の終わり一歩手前の、荘厳な印象を与える光が照り映えるように空に漲る。
日暮れ一歩手前の時分、これを良い機会としてパーティーは夜営を取ることとした。
連戦と徒歩の疲れを癒すための長い休息。
川のせせらぎがほど近いと、巨岩近くの窪みが丁度良い夜営の場所と見えた。
ロープを巡らし、簡易ながら警報機を造り、たき火の準備をする。
日が落ちてからでは遅すぎる、夕暮れにより赤が世界を染め上げるような時分に至ってから寝所を探すのでもまだ遅い。
マッフ機巧の高性能なランタンが幾つもあり、実力者のみによって構成されている集団ならばいざ知らず。
未だ素人にほど近い少女や、旅慣れぬ元令嬢などがいるパーティーにあっては、
このタイミングでのキャンプは必然であった。
大きな木々が川を覆い、岩が川底から覗いている。
空、極まった蒼穹の天蓋は、土色とも緑とも違って清々しい。
少女ルナーレは溜息を吐きながらも空を眺め、その眩しさに目を細めた。
既に西に落ちかかった日輪は、日の終わりを予感させた。
蟹と執事が周囲を探り、少女と元令嬢は水を汲むため川へと赴いていた。
先ほどの戦いでの感情の揺れが静まっていないのか、それを無理して取り繕ったような陰りを顔に浮かばせて、少女ルナーレは小川のせせらぎを、鳥の鳴き声を、水に輝き流れに揺れる白い光を、ぼうとした様子で見ていた。
手に当たる、水の流れの心地よさに軽く目を細めていたレセは嘆息した。
「迷いはさっさと捨てることですわよ?」
「……覚悟は決めたわよ」と少女ルナーレは呻くように答えた。
勿論、彼女には迷っているつもりはない、なかった。
しかし結果として見れば、彼女は、奪う命の種別によって動揺し、想定の不足を露呈した形になっているとも言えた。
またぞろ、蟹に心配をかけてしまう。そうした苦悩が、少女の顔の上を通り過ぎていた。
「……本当かしら?」と言葉に棘と、嘲りの色を込めたレセ。
見え透いた挑発であるが、ルナーレはそれに反応せざるを得ない。
「うるさいわねぇ!」
形の良い目尻を釣り上げて、白絹のような肌を赤に染め、ルナーレは声を荒げるが、レセは全く取り合わない。
平然と、何処か必要以上に冷たく聞こえる声音で言葉を続ける。
「命を奪うことが嫌なら、さっさと冒険者などやめたならどうですの?」
「……別に、いやってわけじゃっ!」
「なら、人型の存在を殺めるのがいやなのかしら?」
川に並ぶようにしゃがみ、遠く蟹の騒ぐ声が聞こえる。
――ふむ、これを燃やせばよいのだろう!?
せせらぎから時々反響するのは魚の跳ねる音だろうか。
少女を川に送るとき、蟹がこれみよがしに鋏の開閉して、彼なりの元気付けをしてきたことを少女は思い出した。
俺はこの辺りを見回るぞ! などと言いながら空を見上げる蟹の姿は、いつもと変わらず、
あるいは冒険者としては初心者の彼は、どこか気を抜いていたのかもしれない。そんな楽しげな声だった。
今も僅かに、漏れるように響いてくる蟹の声のほかには、沈黙だけが辺りを覆っていた。
二人の少女が黙り込み、辺りを包む沈黙、虫と鳥の羽ばたきの饗宴が、大地の奏でるざわめきと交響する音の連なりのなかでの水汲み。
ちゃぷちゃぷと手が、竹筒が川を叩く音がした。
「……」
「魔獣を殺すのが嫌な人もいます、それは分かりますわ。
では、貴方は何処までなら許せるのかしら?」
「何を」
「殺すことを……獣までは殺せても、人型の命を奪うことはできないとおっしゃって?」
「……そこまで傲慢なことを言うつもりはないわよ。
ただ、そう、ただ……」
レセは小さな木桶と竹筒に水を汲み続ける。
隣、少し離れた地点で手を川に入れて、なんともなしにその流れを感じているルナーレを、細めた瞳で見ていた。
「……慣れていないだけ。
あたしは冒険者になる。……そう、そう決めたのよ、ならば何があっても冒険者になる」
「そのためには今日みたいに人型の、そしてさらに言えば人間そのものも殺すことになると分かっていまして?」
「……わかってるわよ」困ったように、深く考え、沈思に耽る無表情でルナーレは答える。
「本当に、殺すことになるのですわよ?
田舎での生活も、平和な暮らしも、捨てて、憧れだけで、冒険者になる。そこに何の意味があるのかしら」
レセは言葉を切る、とはいえ彼女も人それぞれに事情があることは十分に承知している。
その上で、この四歳も年下の少女の生き方に眩しさと、ある種の憤りを覚えるのだ。
ルナーレが口の裏、舌の上に溜めている反論めいた何かを、機先を制して壊すように、レセは言葉を続けた。
「……私は生活に困って冒険者になりましたわ。
元々シュウォウプの家は都市政府と迷宮軍の前主流派の貴族。
流れに取り残される。というのは、大変で、そして辛いもの。
暮らすためには家名にそぐわぬ仕事に手を染めることも珍しくないのです。
ええ、私だって、虫を殺したことない時代があったのでしてよ?」
「……それでも、私は」少女は、小さな、迷いの残る声で、レセの助言にも似た言葉へと応じた。
僅かな逡巡の後にルナーレの顔が上げられた。
言葉に滲む迷いの調子に反して、レセの瞳を見つめるルナーレの、その眼差しにはある種の決意が感じられた。
「それでもやっぱり、……私は、冒険者になる」
レセは、どうでもいい、と言うように少女に向けていた顔を川へと向けた。
「……ま、いいですわよ。
あなたの人生です、私が何かいうことではありませんわね」
そして風に揺れて顔にぶつかっている縦ロールを横に掻き分けた。
ルナーレもまた川の底に目を向ける、色とりどりの藻、苔、石、透明な水を時折かすめる小魚。
奇妙な沈黙が場に満ちていた。
おもむろに蟹の「ファイアー!」という声が聞こえてくる。
動揺を少しは収めた少女は、冷たい眼差しのまま、しかし何処か安心したように、川底を眺めるレセを見た。
少し、この先輩冒険者のことが理解できたように思える。
「…………あんた、不器用ねぇ」
「……貴方には、言われたくありませんわね」
そして二人は微かに苦笑した。
静かな空気。
せせらぎの音だけがそれを乱す。
本来ならば、このどこか和やかで、それでいて不器用な空気はもう少しの間、破られることはなかっただろう。
二人が僅かに微笑みあって、それぞれに水入れを手に持って、そして立ち上がったとき。
その瞬間を狙ったように、その静謐な平和が打ち砕かれなければ。
――それは予想だにもしない奇襲だった。
まるで図ったように、虚空から現れたように見えた、あるいは感じられた数人の男。
少女と元令嬢の口を押さえ、僅かな時間に、手足を縛り、混乱に蠢く少女たちを気にせず、淡々と持ち運ぶ所作。不条理さを感じるようなこの突然の乱入がなければ。
この奇妙な、暖かな時間は、もう少し続いていたであろう。
陰から隙を窺われていた二人の少女は、この瞬間、浚われた。
戦闘の終了、休息の油断を突いて、蟹の慢心の隙を突いて、隱形に優れた、あるいは紋章を使っているらしい男たちが、どこか寂しい緑、木々の群れと、ゴツゴツした灰色の巨岩が並ぶ川の傍を、そして砂色の地面を、今し方手に入れた荷物を運んで、進んでいく。
手慣れた速やかな、所業であった。
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違和感に蟹が気付いたのは、二人が浚われてから数分経ってからであった。
手慣れた様子で、大木の陰、岩の窪み、辺りにはロープを巻いて、簡易的な罠をこしらえていた執事を手伝い。集まった薪、そして燃えやすいように脂をしみこませた布を敷いて、それに魔導によって点火したあとのことだった。
川に水を汲みに行った二人の帰りが遅い、そして耳を澄ませてみれば声も聞こえてこない。
蟹が空気の振動を感じ取り、それを音として理解するための魔導、その紋章法――刻まれた紋章に力を注ぎ、より広範囲の音を拾おうと努力する。
「むむぅ? これは」
「いかがしました」と執事ウォルトンが蟹に振り向く、
蟹の纏っている雰囲気が、警戒のそれになったこと、不穏な気配を発していることに気付いたのだろう。
森と山にそぐわぬ黒服、そこから両腕の拳を覆う白手袋を調整した。
「不味いかもしれん」
蟹の欠点の一つには、強者ゆえの油断が上げられるかも知れない。
そしてもう一つ欠点を挙げるならそれは、蟹――『大蟹』デンザロス・デンザロス・ペンタレシアにとって、護るべき仲間、自らが庇護するべき仲間というものを持ったことがない、という事実である。
彼の同胞は、皆一流の戦士であった。
身の危険に対して、そして周囲の気配に対して敏感な彼ら、蟹はある意味では、己のことのみを考えれば良かった。
それ故の、油断、そしてそれ故の見積もりの甘さ。
少女や、元令嬢の身を狙うための姑息な手段。
音や、匂いを消しての誘拐などという小技は蟹にとっては余りに小さすぎる手段であった。
「……ぬぅ、不覚」
蟹は凄まじい自己嫌悪に襲われる。
こんな近場で、しかも一応少女たちには気を配っているつもりの己が、
犯した些細なミスは、それが些細であるが故に、蟹には耐え難く感じられる。
共感の情を持った蟹にとって、既に少女は護り見守るべき、この現世での無二の相棒であったのに。
執事は既に戦闘態勢を整えている。
蟹は、何も言わない。言う前に、既に彼は探索を開始している。
己の魂の器から【力】を引き出して、それを周囲一体に導力する。
気丈さと臆病さの入り交じる相棒を求め、蟹は周囲を急いで探索する。
「ペンタさま、敵はおそらくこの周辺を根城にする小規模な山賊かなにかかと。
旅人や、冒険者の金品を奪う慮外者でしょう」
言外に、急がなければ山と森の、迷宮のような渾沌の深きへと逃げられてしまうだろうことを匂わせるウォルトンの声。
蟹は呻き声を上げる。蟹の泡が顎から滲んだ。焦燥の泡だ。
少女の尻を叩いて、火を囲みながら、彼女の動揺を慰めるようにからかうようなつもりでいた蟹が、
焦燥に心を、魂を焼かれていく。
山は広い、小規模とはいえ山は山、そして見通しは悪い。
世界は広く、己の身体は既にかつてのように巨大ではない。
仲間に頼り切りで、肝心なときに、心配りが足りない、ああ、なんと悔しいことだろうか。
「執事」
「は、なんでしょうか」
「背中の荷物を降ろしてくれ」
一人では荷を降ろすことの叶わない蟹は、執事に助力を頼みそれを野営地の傍の物陰においておく。
儀式小家を使いそれを覆うように物体を隠蔽する液体を被せた。
「それで、次はいかがすれば?」と執事の問いに、
「うむ、それでは執事よ、背中に乗ってくれ……ッ」と蟹が言う、
言うが早いか、蟹は世界への干渉を始めた。
遙か天、そして己の奥深く、物質と存在を構成する【力】は遍く天より流れ落ちる。
己の肉体も、そこの吐き気を催すような木々の樹皮も、完全な六角形を形成する蜂の巣も、全ては【力】。
己の意識を可能とする魂も、魂を発生させる種も【力】。
そして大気に滲み、大気に潤沢に、しかし上天よりは密度薄く広がる、それらもまた【力】。
蟹の意識、魂に付随するそれが、世界全体を常に覆っている霧のような【力】へと伸ばされる。
人間が、大気に存在する煙を、素手で掴む、という奇跡。
あるいは霧を両手でこねくりまわして粘土のようにする。というような非現実的な瞑想と感覚制御の果てに、存在が行使しうる最高の御技が存在する。
蟹は【力】を行使した。
己の身にただ一つ残した刻印。
人間の背中、亜人の背中ならばおおよそ肩胛骨にあたる部位。
蟹ならば平べったい甲羅の、二つの盛り上がった部分に刻まれた、それ。
世界の理解、自らとは違う絶対的な他者である世界への理解と干渉を容易にする補助的な技術。
世界に偏在する【力】を集めて、現在、生きているあらゆる儀式大家行使者の中でも、おそらく最上位に位置するだろう手慣れた速さで、
曖昧な世界に満ちるそれらを、刻印に従い、背中に合わせていく。
一定の量の【力】を借りる形で、蟹の甲殻に劣化したその【力】が、特殊な物質として、蟹の異質な器官として形成される。
意識――世界=【力】――儀式大家・刻印法――定義:『蒼』
――;行使者『大蟹』デンザロス・デンザロス・ペンタレシア
――理解・刻印による補助・世界定義・支配もしくは借用・操作・一時再構成
――刻印内容:『天馬飛翔』
――【力】;『量・可』『純度・可』『支配領域・一時借用』『再構成・可』
――発現
儀式大家:刻印法『天馬飛翔』
執事の驚嘆の声が漏れるなか、そうして、蟹は羽ばたいた。
鳥たちが驚きとともに飛び上がる。白い翼を青い肌から生やした蟹が宙を舞う。
青い甲羅が紅い夕陽を背景に、白く飛翔する。
背中には黒い執事を乗せて、そして彼らは山を睥睨する。
それぞれの相棒を求めて。
10
少女は戸惑っていた。混乱していた、一種の狂躁に陥りかけていた。
自分たちが、どうして、こうなっているのか、そしてどこにいるのかがわからない。
ある意味では恥ずかしいような会話を、己よりも歳上の、綺麗な、芯と気品を持ち合わせた先輩の冒険者――いけ好かないが、しかし思っていたよりは優しい冒険者と行っていた筈で。
何処か暗い洞窟、その入り口に集まっている一〇人以上の男たち。
彼らの食事の痕、彼らが醸し出す異臭と汚辱、食い滓と、何かの染みがいたるところに乱れた、血の濃い匂い漂うような場所に、
まるで物でも、それも粗末で粗大な物を扱うように投げ捨てられている現状が分からない。
ニヤニヤと、たき火の周りに座る毛むくじゃらの男、汚い男、垢まみれの男、ぼろぼろの布をお情け程度に身体に巻き付けている男。
何人もの男、男、男たちに下世話な、下衆な、欲望に塗れた熱い眼差しで、舐めしゃぶられるようなギラギラとした眼差しで見られることの、意味が分からなかった。
たき火の向こうに見える洞窟には何か小動物の燻製、そして樽やらが積み重なって見える。
幾つかの岩、そして木製の椅子、丸太を使った椅子に机、野太い笑い声、ようやく夕暮れの段階に入り始めた太陽。
「は、見ろよ! どっちも上玉じゃねぇか!」
「俺はあっちの高慢ちきなアマをぐちゃぐちゃにしてやりてぇよ」
「へへ、ならおれは手前のガキでいいぜ?
たまにゃあ、ああいう若ぇのもいい」
「おいおい、拾ってきたのは俺たちだぜ?」
「やべぇ、何かもうたまんねぇ」
「ば、おめぇ早いよ、まだ始まってもねぇぜ!?」
ガハハ、やら、ゲヒャ、やらよく分からない。
分からないなりに不快な笑い声を聞いて、己の立場をルナーレは悟った。
レセは芋虫のような体勢で、しかしキッと目を細めて、上目遣いに射殺さんばかりの眼差しで男たちを睨み付けていた。
「ああぁ゛!?」
といかにも短気そうな、灰色に汚れたシャツを着た男が、レセの眼差しに気付いたのか、不快そうな声で凄んだ。
それをなだめるように、両手で灰シャツの男の肩を押さえる巨漢の股間が膨らんでることに気付いて、
少女は、ルナーレは急激な吐き気を催した。
理解出来ない、急激な事態の変化。
蟹を一瞬探す、しかし見当たらない。
少女は芋虫のように呻いた。
呻きを上げ続ける二人の少女をニヤニヤと見据えて、
男たちは、悠然と、これからの慰みを想像しながら、酒と肉に齧り付いていた。
少女は、両腕を背中に回されて、同時に脚を、二つの脛と足首を両腕、両手首と一緒に縛られていた。
「おいおい、苦しそうじゃねえか」
見れば、少女たちの視界、騒ぎ立て、めいめいの欲望に瞳を輝かせた男たちの壁の奧。
一人の青年が――おそらく歳の頃20代の後半だろう男が――酒を飲んでいることに気付いた。
濃い熱気/匂い立つ男たちの欲望の熱気を切り裂くように、その一人の青年の声が辺りに響いた。
「けっ、中々、上玉じゃねぇか!」
無精な印象を与える髭が見えた、耳にはイヤリング、金色に光るそれに、
腰にはゴテゴテとしたしかし見るからに高級そうな黄金色の武具を携えた男。
男の言葉に反応して、辺り一面は、急激に静まり返った。
場に漂うのは畏れ、それは支配者への傅き、それは首領への敬意に満ちた沈黙だった。
口辺にいやらしい笑みを浮かべた有象無象、烏合の衆、精々腕に覚えのある悪漢崩れの中にあって、
その男と、その男を囲むようにして立っている男たち――揃いの籠手と靴と履いた男たちの気配はより洗練されていた。
洗練された悪意をその身に湛えて見えた。
そして見下すように、まるでウジ虫を、あるいは物を見るような目で、その男が、近くにいる己よりも歳上だろう男に顎で何かの合図をする。
すると、非常に速やかな動き、恐怖ゆえの迅速さで、命令された男が近づいて来て、
ルナーレとレセの口を押さえていた轡を外した。
顔には朱い痣、きつく縛られた轡から解放された、金髪の少女と金髪の元令嬢。
見事な黄金髮を、いまは横たえられた地面の土によって汚している少女たちの喘ぐように呼吸する音が響いた。
命の素を文字通り吸い込んでいるような、二人の反応を満足そうに見る首領格らしき男。
ようやく呼吸が落ち着いたらしい少女が、自分たちから離れて、しかし取り囲むように作られた壁に向かって叫んだ。
「あんたたちはッ!」という意味のない問い。
急激な事態の変転、生じる混乱、束縛、欲望の牢獄。
脳は怯え、精神は萎縮し、恐れと臆病さが心の中で踊り狂う。
それでも少女ルナーレは、全てを一時保留して、歯を噛みしめて、食いしばるように、
搾り出したような声音で問いにもなっていない問いを投げかけた。
極限状況における意外な少女の反応、気の強さに、首領格らしき男は、
明確に鍛えられた逞しい筋肉をもった男は、喜悦の表情を浮かべていた。
「へぇ、いいなぁ!」
「なにが……ッ!」
「いやさ、こういう気の強そうな女は久しぶりでさ、
調教すんのがすげぇ楽しそうってことだよ。
すんげーぐちゃぐちゃにしてやるからな!」
楽しみにしておけよ! と言った男は
満面の笑みを浮かべていた。
絶句、とともに僅かな恐怖とそれ以上の怒りがルナーレの中で踊った。
少女よりもさらに冷静に、周囲を見渡していたレセが、呻くように呟いた。
「ゲスが」
「へぇ、いいなぁ、本当にいいなぁ!!
じゃあ、そろそろはじめるか」
にこやかな笑顔でそう呟いた首領は、
おそらく男たちの前で、少女たちを嬲るつもりなのだろう。
「どっちから始めるか、なんかどっちも生娘くせぇんだよな。
ま、どっちでもおまえらが飯を食い終わるまでには穴開けとくよ、とりあえず使いたいだろう?」
舌なめずりが聞こえてきそうなほどの蜥蜴にも似た瞳。
少女は恐ろしく、かつて犬人に取り囲まれた恐怖を思い出した。
震え、そして恐ろしく思うが、しかしいま、少女は、それ以上に一矢報いたかった。
この男たちを暴力で痛めつけてやりたいという気持ちに溢れていた。
元令嬢も同じように考えているのだろう、気炎を立ち上らせて、凄絶なまでの憎しみが眼光に凝結していた。
ルナーレは己のこの気持ちを不思議に思いつつも、それを頼もしく思って、目前の敵を睨み付けた。
犬人を殺めた悔根は失せているわけではない、逆境に挫けそうにならないわけがない。
どこか迷いの多い少女が、かつての苦境と同じような状況において、怯えよりも怒りに身を震わせたのは、紛う事なき変化、それも成長と呼ばれる類の変化であった。
酒を、木製の杯で口に運んでいた首領は、二人を見比べ、舐めるような眼差しで選別に悩むうちに、
ふと、少女の腰に未だ武器が結い付けられていることに気付く。
見るからに高価そうな灰色の鞘に収められた黒い刃。
――初心者だろうに、生意気なアマだぜ、金持ちは糞だな、糞。
ん? 最後にゃお互いの糞を食わせ合うのも面白いな。などと考えながら首領は、傍に立っていた部下を見る。
「おい」
「へぇ」
「運んできた奴だれだよ! ったく、武器没収し忘れてるじゃねぇかよ」
そうして男の眼光を真っ向で受けた、男の近衛兵らしき男たちは、慌ててさらに下位の男たちを見る。
その中の少女たちの誘拐の実行者らしい男たちに目を留めると、萎縮した彼らを睨みつけた。
誘拐役だったらしい男の内一人が、慌てて少女に駆け寄ってくる。
武器をいよいよ剥ぎ取られてしまう中、レセは気丈にも現状を分析しようとしていた。
――おそらく、あの男と、籠手を身に付けた者たちは冒険者崩れですわね。
悔しさで歯を、さらに噛みしめ、唇から血が流れるレセの脳裏には、極限状態においても分析が働いていた。
一般的には、冒険者ほど、冒険者の恐ろしさを知っている。
その上、冒険者とは仕事に困らない。
冒険者、それも高位の冒険者ほどアウトサイダーが少なくなるのはそのためだ。
勿論、最高位冒険者の傭兵集団や、暗殺者組織など存在するが、それは組織だっているという強みがある。
そうした事例を鑑みれば、目前の首領は、ちびちびと仕事をこなすのに嫌気がさして、こうした手っ取り早い悪行に手を染めた質であろう。
一定数いるそうした悪党のうちの一人が敵である。
数は敵が有利、おそらく技量においてもこちらは負けているかも知れない。
そこまで考えて、レセは男たちに嬲られ、そして何処ぞに売り飛ばされる己の姿を幻視してしまった。
レセは、こんな状況なのに、予想とは違い、恐れよりも、怒りを表に強く出して、前を向いて気丈に敵を睨み付けている少女ルナーレを見る。
少し心強い。予想よりも、想定よりも、打たれ強いのが。
人は極限状況において変貌するのではない、隠された正体を表すのだ。
そんなことを考えつつ、レセは歯がみしながら、少女に駆け寄って、その腰に帯びた武器に手を掛ける手下の男を見た。
少女は悔しかった。
己の初めての重要な任務がこのような結果になったことも。
己の油断がまたこのような事態の進展を招いたことも。
未だ己の中に多くの未熟があることも。
歯を食いしばって、人型の命を殺めることに初めて直面しての微妙な動揺も。
そしていま、こうして己の人格を一切無視して、いけすかない男たちにイヤらしい目で見られるのも、
それら全てが悔しかった。
極めつけには、己が蟹、あの奇妙で、愉快で、頼りなる蟹から送られた外套を剥がれ、
粗末だが頑丈な布の服のみになっていること。
そして何よりも蟹が己に贈った武器、この記念すべき黒い刃が、奪われつつある現状が、耐え難かった。
男の汚い腕、籠手から見える手が、黒い刃の武器に手を掛けた。
腰に帯びた、巻き付けられた紐が外されるのを、ルナーレは歯がみしながら、凄まじい屈辱の念の中で、ただただ見つめるしかなかった。
ああ! 黒剣が、己の武器が、蟹からの贈り物が。
そして男が握って、それを持ち上げる。
極限の悔しさの中で、脳裏に浮かぶのは蟹の悪戯混じりの挙動、優しい蟹の鋏。
鋏、強き蟹の鋏。魔導を教える蟹の姿。
念じることを、己の心の器から力を導き、そして想像することを説く蟹の姿。
己を村から救い出すように、エミダリへと連れてきてくれた彼。
ルナーレにとっての蟹の王子さま。
青い肌の師匠、愉快な相棒、心許ない己の保護者。
そうしてルナーレは、極限の中で、蟹を願い、ただただ蟹を想像した。
旅に己を誘った愉快な彼の大きな鋏。
優しさだけではなく厳しさも持った蟹の鋭い鋏。
陽の下に長くいると鉄板のようになる時がある蟹の象徴たる鋏。
頼りないようで頼りになる、奇怪なだけでなく頼もしい蟹の青銅色の鋏。
少女はそれを、純粋に、ただただ魂の底から純粋に【想像した】。
蟹の、【その鋏】を。
意識
――体内
――想像法
――導力
――想像
――構成
――構築
――発現
――そう、あの、いつもわたしをみまもる、あのはさみを!
そうして空中に突如あらわれた、蟹の鋏は、彼女の縄を切り捨てた。
11
多くの者には何が起こったのか分からなかった。
ただ分かったことは、少女の身体を縛っていた縄が、急に外れたこと。
そしてその少女が俊敏なサルのように、身を持ち上げて、
思いも寄らぬ速さで、少女たちを囲む壁、首領に向かって歩いていく男が手に取った武器を奪い返したことだけだった。
朱く染まった空の下、パチパチと爆ぜるたき火の赤と、紅い斜光が入り交じり、少女の髮をこの世の物とは思えない荘厳な美しさで彩っていた。
粗末な、しかし頑丈そうなズボンを纏った足が地面に迷いなく立ち、少女の身体を支えている。
少女は奪い返した黒剣をそのまま抜き放つ。
気高い意志の強さが現れて、一切の逡巡も、迷いも全て打ち捨てさせ、一人の少女が鋭い剣閃を放つことを助けた。
人を殺すこと、暴力と不快の権化が相手とはいえ、必然的に、少女の性格的に浮かばざるをえない一瞬の迷いも、先ほどまでの動揺も、全て飲み込んで、全て棚上げして、全てを認める。
その勢いのまま、少女は柄を握り、眼差しをそらすことなく、
油断と無警戒のまま無防備極まりなく、少女に剣を奪い返されたことを把握できず、動揺のまま、未だ背を向けている男の首裏に、真一文字の一刀を放った。
それは覚悟と決意の充満した一刀であった。
血が吹き出すと同時に、少女は大きく飛び退いて、
未だ何が起こったのか、一瞬の内に何が起きているのか理解できず、動揺と混乱のうちで呆気にとられている山賊たちを尻目に、レセの身体を縛り上げている縄を切り捨てた。
洗練、言葉が浮かぶとするならばその一語しかないと言うような少女の一連の動作。
異常状態においても、最後には自らを見失わない意志。
それは前を向く意志、蟹が少女に見た、一つの才能。
多くの人間が少女に見た、垣間見て、片鱗を認めた、天性の才能。
挫けず、極限において、覚悟を決めて何かを選び取ることができるということ。
これこそが、少女、ジュール・ルナーレであった。
それこそが、「強くありたい」と願った一人の少女の天性であった。
蟹が見抜いたその素質に、レセは息を呑みながらも、感謝の眼差しでルナーレを見る。
同時に、首領の声が響く。
「腱を切れッ!!」
響くや否や、レセは己の囲む壁、その最も薄い地点へ突貫した。
僅かに逡巡したものの迷うことなく後に続くルナーレ。
直感により、分断と各個撃破を避ける本能が働いた。
敵に動揺と混乱が残っている今、乱戦に持ち込むのが上策であると、レセは判断し、ルナーレはそれに従った。
ハッ、というような鋭く押し出された呼氣が生む、少女の鋭い一刀が、碌な装備も持たず、
未だ何が起こったのか理解出来ていないような一人の蛮族の腹を斬る。
蟹が教えたこと、首よりも胴、小さい物を狙うことの難しさを脳裏に浮かべながら、刃を振るう度に生まれる呵責を胸の奥底に沈めながらも、少女ルナーレは黒く、そして朱く光る刃を振るっていた。
何が起こったのか分からない、ここで俺は死ぬことになるのか。そう言いたげな男の呆然とした顔に、
一瞬の心の呻きを覚えない訳ではない、それでも今の少女はそれら全てを心の底に押し込めることができた。
未だ混乱抜けきらぬ男の首に、レセの、執事仕込みの体術が見舞われている。
数の前には不利、レセは少女ルナーレの隣にいたことから事態を十分に理解出来ていた。
この極限において彼女は、ルナーレは儀式小家を行使した。
未だ紋章さえも使用が覚束ないということを大きな欠点と見ているレセにとって、
少女のその技能は、羨望と尊敬の念を覚えさせるようなものであった。
(勿論、日々の瞑想、導力の鍛錬が、強い情念によってここで花開いたルナーレの努力の賜物ではあるのだが)
少女の隠し札、切り札、それが切られ、こうしてどうにか逃げ出す機会を得たものの。
未だ数の利では、そしてことによっては闘法やその他の戦闘技術において相手が上回っていることは理解していた。
混乱と動揺が抜けきらず、敵が束になっている、しかし横に広がっていたこの現状、
全精力を、一点に集中し、この石の囲み、山賊のアジトからの脱出を図る。
それがレセが瞬間的に思いついた流れであった。
逃げる。ウォルトンを信じて。
地の利は敵に、それでも逃げて、逃げ切る。
レセは覚悟を決めた。
殺意の気迫が匂い立つ。
喝破の怒声とともに、重い拳が、よく錬られた蹴りが男の囲みを破壊する。
きょとんと、間の抜けた灰色シャツの男、その脇腹に叩きつけた拳は、骨を砕く感触を伝えた。
少女たちを囲むように、立ち、座っていたのが男たちの運の悪さであった。
そして動揺と混乱、少女の奇襲は期せずして男たちに驚きという間を与えたのだった。
所詮、強いボス猿に従って甘い蜜を吸うのが精一杯の烏合の男たちである。
何かの倉庫らしき洞窟、たき火、卓に座る首領格の男は遠い。
立ち上がり、戦闘態勢を整えつつあるその男の周囲。
親衛隊のような黒い外套を身に纏い、紋章が刻まれた籠手やら靴が見える数人の男たちが、
慌てふためきながらも少女二人を取り囲むように移動する。
それに従い、一〇人を超える男たちも少女たちを取り囲む。
木々の陰、岩山の窪み、川の音。
山から落ちてきた、崖から落下してきたであろう白い巨岩に囲まれた、この男たちのたまり場には、
生憎のこととして出口は数えるほどしかなかった。
木々の連なり、森とも林ともつかないその出口へと走り抜けようとする二人。
「ふっ」とレセが声を上げて、拳を振るえば、
「やっ」と叫んで振りかぶられた斧に刃を打ち付けて、
そしてルナーレが、その男の斧の一振りを避ける。
さらに斧をかいくぐった動作から、逆袈裟――胴から肩へと抜けるような斬撃を放つ。
絶命にまでは至らないが致命傷。
迸る鮮血に少女の灰色服が真っ赤に染まる。
岩を背に転がされていた少女たちは、正面に洞窟。
そして首領の卓。
このたまり場を円形に囲むようなその空間の、二つある逃げ道、少女たちから見て右方向へと、二人は駆ける。
最初は突破したように見えたが、背を向ける二人に向けて籠手の男たちが弓を放つ。
遠距離の火力は恐ろしい。
隙を突いて駈け抜けようとした少女たちは身を屈め、運良くそれから逃れることができた。
だが、その硬直を突かれて、少女二人は男たちに逃げ道を回り込まれてしまった。
己の命が惜しいために、どうしても鈍い動作の雑魚――先ほどまでの欲望に満ちた顔色の欠片も見えない男たち――へと、レセとルナーレは突撃を行い、回り込まれた側とは反対の元来た側へと逃げ込み、そこにある石を背に、どうにか三六〇度を敵で囲まれる状況だけは避ける。
とはいえ囲まれている現状に変わりはない。
初動、そのまま逃げ切ることが出来なかったために、
じわじわと押し込まれ、結局、少女ルナーレと元令嬢レセは最初に縛り上げられて転がされていた地点に押し込まれることとなった。
なめらかな白と灰色の巨岩、あるいは砂色の巨岩を背後に、二人の少女は息を上がらせて、
じりじりとにじり寄って来る目の前の敵を睨み付けた。
「おい、何を手間取ってんだよ!」と、驚きから脱し、自らの絶対的優位を確信した首領がニヤニヤとした笑みを浮かべて、囲まれる形になった少女たちを見ていた。
「いい気にならないでッ!」少女の精一杯の気勢だった。
「はぁ? 逃げたいなら、さっきやったのをもう一度やってみりゃいいだろうがよ! ……何もできないみてぇだなぁ」
「ッく!」
レセは飛びかかって来た二人の男、小汚い身なりの男たちを蹴り、あるいは躱し、投げ返す。
刺剣は手元になく、そもそもあったとしても隙が大きく使うことが出来ない。
少女はじりじりと近づいてくる男たち、そしてその背後に立つ首領を懸命に睨み続ける。
「ま、最後に聞いておくぜ」
「……何よ」
「命だけは助けて、いや、いまなら腱くらいで済ませてやってもいいぜ?」
「ッ、どういう了見でッ!」近づく巨漢、嫌らしい光沢を放つイヤリングを触る首領を睨み付けるルナーレの視線はどこまでも真っ直ぐだった。
「いま降伏するならよ、俺たち全員の雌便器として飼ってやるってことだよ!!」
喜悦、自らよりも弱い存在を踏みにじることに快感を滲ませて、
首領格の男はこちらを見下した。
思った通りの答えに、少女は動揺することもなく、その眼光を強める。
「……糞喰らえッ!!」
少女ルナーレは、剣を振るい、粗末な剣を、粗末な軌道で振り下ろしてきた烏合の男の腹に向けて刃を振るう。
レセとともに、来る敵、散発的に襲ってくる三下を蹴散らす内に体力が切れてきたことがわかった。
これは嬲っているのだ。絶対的な優位を楽しむために、舌なめずりをしながら、じわじわと己の駒をけしかける。
首領の笑みが悪魔のように見えた。
それでも少女は、土壇場で諦めることはない。
かつて犬人に囲まれ襲われたときには諦めた。
もしかしたらこの後に、待ち構えている苦難を思えば諦めることもあるかもしれない。
だが、いまは、薪から燃え立つ火の灯り、照らし出された少女の顔、その眼差しには覚悟が満ちていた。
決死の覚悟に満ちたその顔は、凄絶な美を、未だ幼さ残るこの少女に与えていた。
首領は、このまま二人を嬲るのはとても楽しいことだと考える。
それでも部下の手前、その消耗を考えて、速やかにこの状況を終了させることとした。
首領が手を上げると同時に、囲みに向かって気丈にも剣を構えるルナーレと、必死に拳を振り上げる二人に向かって弓が構えられた。
弓とは高度な訓練が必要な道具である。
素人が放ってもそうそう当たらない。
とはいえ首領子飼いの男たちは元々冒険者であり、
この距離ならば、幾本も放てば、身体の何処かしらに当てる程度のことは容易かった。
願わくばそれが顔以外であり、さらには命を奪うことがないのならとても嬉しいのだが。
そう考えながらも首領は、上げた手を振り下ろす。
――まあ、死ななければ儲けもの。あるいは良い声で啼きながら死んでいく女を抱くのも、それはそれで。
12
息が切れる、次々に飛びかかる男。
あるいは飛びかかろうにも命が惜しいのか身を竦める碌でもない山賊たち。
その中で、少女ルナーレは自分たちに向かって矢が放たれることに気付いた。
鋭い矢尻から滲む殺気、当たればただでは済まないだろう。
しかしどうしようもない。
首領――嫌らしい顔、若さに暴力の陰惨な香りの染みついた男――が手を振り下ろすのが見えた。
第一斉射は運の良いことに外れる。
この距離から放たれる矢の速さに対応することなど少女にはできなかった。
だから、これは天運、しかも長続きのしない類の天運であることはルナーレにも理解出来ていた。
悔しさに昂ぶる顔の熱。
自分に向けられたのではない矢が、怒りに滾った赤い視界の隅に見えた。
それは少女ルナーレではなくレセに向けられた矢。
少女よりも矢に近く、そして少女よりも消耗の激しいレセは、
倒れ込むように、地に伏しかけていた。
携えられた矢、第二斉射の直前、少女の身体は咄嗟に動いていた。
レセの前に立つルナーレの姿。
赤い黄金の長髪がなみなみと揺れる中で、毅然とした表情で、押し殺した怯えを瞳に滲ませながらも、
矢を、男たちを、首領を殺意の極限で睨み付けていた。
前を向く、前を向くのは気丈な少女。
赤く染まりし黄金の、鋭く気丈な戦乙女。
死の淵に、少女は退かず、ただそこに。
在れるその覚悟や価値は如何ほど。
レセは歯がみしながら、ルナーレを睨み付ける。
何処か愕然としているようにも思えた。
少女の行為が、レセにとっては屈辱でもあり、そして尊敬に値する行為にも思えた。
そのあいだにも、弓は引き絞られ、
無情にも――放たれた。
……
…………
矢尻が己の肉体に届く直前に瞼を閉じ、目を瞑った少女は、少しして違和感に気付く。
暖かな空気に包まれているような気がした。
まるで母なる海に抱かれているような空気の変化。
目を開ければ、そこには水の壁があった。
いや、正しくは水の小部屋に囲まれていた。
青い色の水であった。
奇妙な、それでいて見る者に郷愁を覚えさせるような水。
ルナーレは空を見上げる。
見れば、男たち、矢を放った冒険者崩れから、首領、果ては雑魚までもが空を、
遙か遠方の山脈に消え行く真紅の太陽を背景にそこにあった彼を、驚愕の眼差しで見つめていた。
「……ペンタ」
呟きに応えたように、蟹は下方を見据えた。
彼が導力した魔導は空気に水の壁を生じさせ、間一髪少女を護っていた。
天を泳ぐように、青い甲殻に朱い光を漂わせて、白く荘厳な六枚羽を羽ばたかせて『大蟹』デンザロス・デンザロス・ペンタレシアは呟いた。
「間に合ったか」
そして安堵の溜息を吐いた、蟹が水の小部屋を囲むように、しかし今は呆然と立ち尽くす男たちをみる。
「……ふむ」
そして蟹は、鋏をシャン、と掻き鳴らした。
次の瞬間、圧倒的な殺気が下方の男たちを押し潰す。
文字通り、押し潰されたかのように、男たちはへたりこみ、回らない呂律のまま、空を見上げる。
彼らは直感的に理解してしまった。
あるいは蟹の甲殻の上にしゃがむ老執事も、かつての令嬢も、そして少女さえも理解してしまった。
これは、違う。
自分たちの知っている、何もかもと違う。
これと対峙するのは闘争でさえない。
これと闘うことは生存競争でさえない。
これとの間には、決定的な存在の格、その根源的な違いがあることを彼らは理解してしまった。
遙か過去、旧神『焔』が死の直前に見た姿。
それは神代の殺意。
神さえも殺した者の、絶対的な敵意であった。
瞬く間に男たちのうち数人が気絶したのことも、もしくは発狂の淵に追い込まれたのも無理のない憤怒。元が冒険者であった近衛らしき男たちも泡を吹いて地にひれ伏すような凝縮された。
不甲斐ない自らへの、そして何よりも敵への、紛う事なき極限の憤激であった。
それはかつて『侍女』ヅュチャ・エヴァングの片羽と二十二本の脚をもぎ取った怒り、
『賢者』フィネルゥを一度はねじ伏せた儀式大家の怒り、
『海王』ペンデュークに敬意さえ抱かせた怒りであり、
数多の天使を屠り、魔獣を葬り、旧神を溺れ殺した怒りを前に、豚にも似た凡愚は死を悟るしかない。
即ち、インザーディヨ・サヴォーナの王たる魔獣の風格。
それを前には蒼白な顔を作ることも、腰を抜かすことも、ショックで気絶をすることも、気が狂うことさえも必然であった。
水のベールに包まれた少女たちでさえ絶句とともに、身を縮こまらせる気配が場に満ちる。
「……っ、っひぃ」
男たちが無理矢理ひねり出したのは、呻くような情けない声だった。
失禁を催した者さえもいる。口から蟹のように泡を吹くものも。
むしろ情けない声を出すことの出来た者は、まだ心が強いと言えただろう。
悠然とそこに現れた巨大な蟹の魔獣が放つ気配は、それほどまでに脳を揺さぶった。
そのとき、辺りを包んだ空気を打ち壊すように溢れんばかりの炎が、突如として現れた。
舞い散る火花と波打つ赤熱が舐めるように蟹の眼下を覆った。
見れば歯を恐怖に食いしばりながら、ひときわ身なりのよい男がその手に持った黄金に輝く刃からその豪炎を表しているようだった。
蟹は僅かに驚く。強者の気配を感じなかった者が、最上位の儀式小家か、儀式大家にも匹敵せん火炎を操るその姿に。
突如として現れた災厄――空を悠々と白く輝く翼で漂う蟹――に気圧されぬように、
己の眼の前に現れた水の小屋――少女たちを守るそれ――に向かってせめてもの反抗のつもりだろうか。
「カッ! ど、どうだ、おらぁ!!」などと取り澄ました顔の名残もなく。
己の部下さえも巻き込んで火勢が辺り一面を包み込み、少女たちを守る水を蒸発させた。
――ふむ、あの黄金の刃、神器か。
蟹がそう考える間にも、首領は再び己の手に持つその武器に【力】を流し込んでいた。
既に震え、既に闘う意志を、あるいは生きる意志さえも失いかけた男たち、屑にも似た烏合の衆に比べれば、部下ごと少女たちを焼き払い、錯乱と混乱を打ち払い、恐怖と闘う気勢を見せた首領は戦士であったのかもしれない。
蟹は見る。蟹は考える。そして蟹は言葉を作る。
「執事殿、二人を」
その言葉だけで十分であった。
高度およそ20Mにもなるだろう空中から躊躇うことなく執事は飛び降りた。
遠く山脈に、落ちゆく夕陽の残響が見えて、空は初春の空気を吸ってどこか甘やかに澄んでいる。
眼下、洞窟、森、林、いくつもの岩、巧みに囲まれた男たちの住み処。
囲まれた少女たちを発見して、蟹は咄嗟に激情を、様々なものへの激情を――己の不明と、愚かな敵への――留めることができなかった。
既に幾人かの男たちは意識を喪失し地面に倒れている。
災難だったのは混乱のなかで立ち尽くしていた男たち。
少女たちを半円に囲んだ彼らは、首領らしき男が震った炎に巻き込まれて、瞬く間に焼き尽くされていた。
蟹には分からなかったが、地上ではおそらく人の焼ける匂い、肉と血の蒸発する匂い、充満する脂の匂いに満ちているのだろう。
幾人かの男たちは、既に倉庫らしき洞窟、あるいはこの広場から逃げ出している。
――長生きのしそうな連中だ。
そして先ほど、己の背に載っていた執事が地面に着地し、倒れ伏すレセと、それを覆うように伏せていた少女たちの前に立つ。
おそらく何が起きているのか、めまぐるしい変遷のなかで、完全に理解していないだろう。
命の危機、水の囲み、そして消失、空から降る執事。
眼下の少女が改めて、頭上を見上げれば、そこには蟹。
少女が呆然と、しかし瞳に安堵を滲ませて、口元をほころばせたのが見えた。
間抜けにも守るべきものを失うことはなく、そのことに蟹は一心地を覚えた。
そして彼は翼を羽ばたかせ、滲む真紅の夕焼けを、纏うように大地へと滑空する。
14
山賊の首領――本名エルシモージョ・セイエス――は狼狽を隠せなかった。
セイエスかつては一角の冒険者を夢見ながらも素行不良により仲間内より追い出された男で、
都市の闇に落ちて、その果てにエミダリを追い出された男でもあった。
一度は高位冒険者への昇進試験さえも受験した上級冒険者はその末路として山賊となった。
山に潜み、自分と同じような、そしてそれよりももっとどうしようもないカスどもを率いて商人や旅人を襲う男。
彼はここ最近、失敗知らずだった。
ときには亜人たちの群れを追い散らし。旅人を襲い。
高位冒険者からは逃げながらも、経験の浅い冒険者は罠に嵌め。
しょぼくれた護衛の隊商や、対人戦には慣れていない上級冒険者たちさえも打ち破った。
その最中でこうして神器――あの暗く深い、そして命の危険と隣り合わせの迷宮の中にいるのでは、とてもではないが手に入ることなどなかっただろう宝物――さえも手に入れた、
部下には宝を与え、隊商に紛れ込んでいた女――年増の隊商の妻らしき女、10代の半ばも超えない娘らしき女を陵辱して、適当に部下に与えたりもした。
あるいは傷を負った冒険者――高慢な、いかにも武芸に精通した堅そうな上級冒険者の女を捕らえたときには、ここにいる二〇人以上の男たち全員で犯したこともあった。
飽きた女、心の壊れた女は、亜人の巣の近くに放置して、そしてまたやる気を見せた部下たちとともに新たな獲物を襲う。
順風満帆、快調な人生、率直に言ってセイエスは何もかも上手くいっていたのだ。
部下の男たちが、川辺で無防備にしていた女たちを捕らえた、と言ってアジトに連れてきたそのときまでは。
無音の紋章術を行使した人攫いなど、部下たちの暇つぶしのようなもので、
あるいは首領子飼いの武器や技術が優れている男たちがいれば失敗など、そうそうありえず。
いつものようになすすべもない少女を嬲り、汚し、壊す楽しみに耽るつもりでいたセイエスの汚らしい人生は、その時、壊れた。それはもう呆気なく。
セイエスは震える肉体を押し留め、唾を地面に吐き付けた。
不作法に切られた髮の下、厳しい眼差しで、目前の異形を見据えた。
それは……蟹。
セイエスが今までに見たことない魔物であった。
高位の魔獣か、先ほどの気配は、セイエスがかつて迷宮を攻略する冒険者であったころ、
時折、迷宮深くから送り込まれてくる怪物にさえも感じなかった、圧倒的な存在感があった。
濃密な死の気配を前に、セイエスは叫んだ。
「……ふざけるなッ!!」
「何が、かね?」と蟹は言った。
数瞬前に地面に降りたった甲殻類の青い甲羅が、夕暮れの光と焚き火、そして先ほどセイエスの放った炎の残り火――幾つもの朱に照らされていた。
赤い蟹と見紛うばかりの甲羅の照り返しが、セイエスの目を灼いた。
恐怖と憤怒のないまぜになった破れかぶれの感情に頬が熱くなる。
黒く感情の窺えない不気味な瞳がこちらを見ている。
「お前が、お前がッ、俺を……!!」
意味のないことばの羅列。
勢いだけの言葉には意味は窺えず。
セイエスの混乱だけが口から音として溢れ出したように見えた。
蟹は得心した、と言いたげに頷く。
そして蟹は鋏を――セイエスが見たこともない巨大な、鋭い、輝かんばかりの鋏を振り上げる。
両方の鋏が、やれやれだと言わんばかりに開かれて、蟹の鋭角的な顎から嘆息が聞こえた。
「……ふむ、どうやら貴様は怒りを覚えているようだな」
セイエスは答えない、ただ蟹を睨む。
「……俺からしてみれば、貴様はただの障害物、ここでこのような目に会うのも自業自得なのだがね」
セイエスは答えない、蟹を睨みつつ唾を飲み込む。
「うむ、ただ運が悪かった。いやはや手を出したのが他の人間であれば、わざわざ俺も手を出そうとは思わなかったよ。
見ず知らずの人間種の生存競争に、誰が好きこのんで顔を突っ込むものか」
「……ッ!!」
セイエスは答えない、黄金の剣の柄を握りしめる。
汗が滲む、絶句したまま、蟹の言葉を必死で理解しようとする。
「だが彼女は、あの気丈な少女は、俺の相棒だった」
「それが……」
セイエスは歯を食いしばり、筋肉を震わせて、目前の存在を睨み付けた。
「それゆえに、貴様はここで死ぬ」
「それだけのことでッ!!」
そしてセイエスは、己に死をもたらすだろう巨大な存在へと突進した。
蟹は無精髭を張り付けた首領らしき男が、こちらへと駆けてくるのを見た。
背後には守るべき存在。
注意すべきは先ほどの炎。
もう一度、水で少女たちを覆うのは容易い。
しかし焔で消される可能性がある。
かの神器は導力さえ可能ならば誰でも扱うことの出来る兵器。
己の友たる存在たちが頭を働かせ、そして協力しあってようやく造り上げた世界を変えた武器。
その利便性は、蟹がなによりも知っていた。
「――シャッ!!」と蛇の唸るような音とともに、鋭い斬撃が振り下ろされる。
鍛え上げられた武芸、おそらく冒険者だったころにこの男が培った闘法。
蟹はしかしそれを容易く受け止める。
首領らしき男は今までに叩いてきた、どんな物よりも鈍い感触に、絶望を感じる。
それでもそのまま蟹の瞳――直感的に判断して、柔らかそうな部分に蹴りをぶつける。
蟹はすかさずスウェー、瞬間的に姿を消す。
男は直感的に脚に導力を行い、飛び上がる。
そして間一髪、蟹の高速斬撃が、男の靴の踵を切り裂いた。
「――ほう!」と蟹の喜ぶような声。
闘争に喜悦を感じているのだろう。
男は蟹の甲羅をたたき割って、その蟹味噌をぶちまけたいほどの怒りに駆られる。
――この蟹野郎、遊んでやがる。
男――セイエスの同時導力可能数は三、位階を鑑みれば多いほうであった。
右に握り込んだ朱黄の剣、それが大気に偏在する【力】を吸収し終わるまでの合間を、生き延びる。
既に焦りも、不安も、その全てがセイエスにとっては過去のもの。
彼はとうに悟っていた。
……これが、己の人生における最大の試練だと。
迷宮において闘う機会のあった、おおよそ全ての魔物と怪物を超えた存在との激闘であると。
「ふむ、ではこれはどうかね?」
そして蟹の口腔から無数の泡が吐き出された。
朧気に光を抱き込んで、儚い夕の朱を鏡の如く閉じ込めた無数の泡。
シャボン玉のように空中に散布されるそれ。
男は、その危険性を直感する。
着地。ざらざらとした砂の上、広場、呻き声。
死闘に滲む汗、男は覚悟していた。背後には空から降ってきたいかにも執事という男。
この執事の実力もおそらく己を上回っているだろう。
それを知りながらも手を出してくる気配のない執事をとりあえずは脳裏から外して、男は蟹を見る。
先ほどまで男が座っていたテーブルが目に入る。呻き声のもとは地面に倒れて、あるいは涙を流して頭を抱えている部下たち。
殺気に当てられ身を縮こめている連中、逃げ出した連中。
元より頼りにしていたつもりはないが、それでも歯がみせざるをえない。
砂上の楼閣は崩れきっていた。
瞬く間に広がった泡、その背後にそびえるのは、巨大な、男が座ってもまだ余るような広さの甲羅を持つ蟹。
男は思い出す、極限状態において、かつて迷宮で培った経験を。
直感こそがなによりも重要視されるあの暗く深い最前線を。
そして男はかがみ込み、地面から砂を集めて、それを宙にばらまいた。
「ハハハッ! 正解だぞ人間!! うむ冒険者! これが人間の冒険者か!!」
蟹の笑い声に混じるように、銃弾が弾けるような音が溢れ出て、空中で次々と泡が破裂し、連鎖した。
砂の衝撃で割れる空間、ちりちりと首筋が焼けるような感覚。
無様で汚らわしい山賊の首領とはいえ彼は冒険者だった。
冒険者として幾多の仕事をこなした彼は蘇った経験に従って、そのまま蟹へと直進する。
怒りよりも愉しみが強く感じられる蟹。
せめて一矢報いて、隙を作らねば、己の命はないだろう。
そう考えて男は弾け飛んだ泡と、辺りを煙幕のように覆った微かな砂煙を切り裂いて、
蟹の傍へと飛び込んだ。
そして刃を振るうような挙動。
蟹はそれを戯れのように受けようと、鋏を掲げる。
油断はない、怒りはある。
思わぬ闘争、思えば、これがこの時代において、初めての戦いらしい戦い。
正しく云えば、この姿となって久しぶりの戦いらしい戦い。
加減しているとはいえ、一瞬で終わらぬ戦い。
己が眠ってから流れたおよそ一五〇〇年の時の流れ、その時間は、かつての時代ではたかだか雑兵にしか過ぎなかっただろうような男に、ここまでの力を着けさせる。
デンザロスはそのことに喜びを感じる。
蟹の身体を流れるその喜びは、練り上げられた闘法、多様な儀式小家を、忌まわしい天上の神が消えたことによって、世界の誰であっても享受するできるようになったことが、実感できたゆえのもの。
かつての仕事が、充分にその実を成したということの喜び。
それを感じたがゆえに、蟹は目前の男の刃をあえて受けようとした。
しかし、振りかぶった刃は振り下ろされず。
男が懐から投げつけた短剣が投擲され、そして蟹の至近で爆発した。
蟹には被害はない、軽微な爆発、それは目眩まし。
爆風が晴れたとき、そこに男の姿はない。
――今の一瞬でこの広場から、逃げたと?
有り得そうにない推論、蟹が固執することはない。
蟹は至近の気配を感じ取り、そして頭上を見上げた。
「くたばれよッ!! この蟹野郎ッッ!!」叫び声が響く。ひび割れたような感情が滲む必死な音だった。
燈色が僅かに混じった蒼空、宙に、そこに浮かんでるらしき透明な足場に男はいた。
歯を怒らせ、憎しみと恐れの入り交じった皺が顔に見える。
構えた刃が、蟹へと向けられ、そして輝く。
――神器から獄炎が放たれた。
渦巻くような火炎の波、巻き上がり、爆発するような、何もかも喰らい尽くす龍の顎のような火炎流が蟹を包み込んだ。
「……ペンタっ!」
戦いに巻き込まれないように、広場の隅へといつのまにか移っていたらしい少女の、悲痛な声が聞こえる。
しかしその音には、僅かに期待も含まれていた。蟹への信頼が含まれていた。
身体中に付いた砂汚れ、砂埃、泥を執事に払われながら、元令嬢レセも固唾を呑んで、眼の前の光景を見ている。
あかあかと燃え上がる炎。
おそらく先ほどの充填よりも長い、これが本来の威力らしい神器の焔の威力。
高く巻き上がる炎が、そのまま空へと昇りそうなほどに燃え続ける。
【力】を原料に、燈色と鮮烈な朱の入り交じった炎が空中から生まれ続ける。
見えない大気を固めたらしいもの足場にしているらしい首領の男が、広場の上方から下方へ向けて炎を吐き出している光景。
そして足場が、【力】によって構築されたらしい大気の塊が、【力】の減衰とともに消失して、
男が地面へと降り立ったのに合わせるように、男の握る黄金剣から炎が止み。
喜びと興奮に顔を充満させた男は、未だ消失せずに、燃え立つ炎の尖塔を見ていた。
「は、おらぁッ! やったぞ!!」
首領は汗を脱ぎながら、唸るように、叫ぶように、獣そのものの顔で喜びを表した。
「――うむ、何をやったのかな?」……声が響くと同時に、その笑みを凍らせた。
広間を貫くように、逆巻く焔の中から声が聞こえてきた。
慄然とするのは男。
当然、というように頷くのは少女。
今日何度目か分からぬ驚愕を覚えるのは元令嬢と執事。
そして蟹が縮みゆく炎のなかから、のっそりと、
その姿を表した。
「…………なッ!?」
「危うく、焼き上げられてしまうところだったぞ?
焼き蟹というのも、中々おつなものだがな!」
そして高らかに笑いを上げて、蟹はのそりのそりと、炎から男へと近づいてゆく。
赤い炎に照らされた蒼の深い青銅色には傷がなく、それはどこまでも威圧的に見えた。
男――セイエスは全身を震わせて、恐怖に顔面を蒼白にさせた。
己の勝利を確信した後の、それら全てが絶望への序曲に過ぎなかった事実が、彼を打ちのめした。
顎を震わせて、瞼をぴくぴくと強ばらせて、少し前に少女を悠然と嬲り、脅した男の影は、どこにもなくなっていた。
「あ……あ……!? ひ、ひぃ!」
そして男は背中を蟹に向けて、右手に握った神器さえも放り捨てて、そのまま逃げ出した。
小さくなった背中、既に事切れた部下、あるいは意識を失った部下たち、そして岩場を背に一部始終を見ていた部下たちを振り捨てて、
彼は、地面を覚束ない足取りで、必死に駆けた。
「どこにいくのかね?」
蟹の声が、男のすぐ隣から聞こえた。
炎に焼き上げられた筈なのに、一分の傷も負っていない蟹の姿。
「ば、化け物ッ」
「うむ、おっしゃるとおり!!」
蟹は、皮肉めいた雰囲気で、しゃらんと鋏を鳴らした。
なめらかな甲羅が、後背の炎に舐められてちろちろと光っていた。
「……た、助け」
「俺の不覚を突く、これは己の油断への、いい教訓にもなった。
確かに怒りはしたがな……うむ、無駄な時間ではなかったぞ!
この世で生きるうえでの一つの指標となった」
「……や、やめ……やめ」
呻きに対して蟹は鷹揚に頷く。
「それではな」
そうして蟹の鋏が、男の首に当てられる。
蟹はくりくりとした眼を輝かせていた。様々な感情の窺える瞳。
そこには一分の迷いもなく、一厘の躊躇いもなく。
「うむ」
そして男は息絶えた。
15
「おい、ルナ、ルナ嬢、大丈夫か?」
蟹が近づく、少女は眼の前に、自分の腰や膝ほどの高さにある蟹の甲羅を見ていた。
「……ペンタ」
「うん? なんだ」
「……ありがとう、助けてくれて」
少女が、頼りになる相棒へと喜びの微笑みを見せた。
鬼気迫るような雰囲気も、男たちへの怯えも今はなく、蟹への信頼が窺えた。
蟹は照れたように、甲羅を鋏で掻いた。
照れの余りその三対の脚がリズミカルに地面を叩いていた。
そして少女は、安堵の溜息とともに崩れ落ちた。
「あ、あれ?」
と首を傾げる少女、とはいえ身体の何処かに大怪我を負ったわけではない。
精神的な緩急、急激に襲った疲れ、さまざまな要因のせいだろう。
全身を覆うような返り血も冷たくなって、少女の体温を奪いつつあるように見えた。
しかし蟹は、その黒く堅そうな眼を瞬かせて、鋏をわたわたと振り廻す。
「ど、どうしたルナ嬢! ど、どこか痛むのか!?」
「いや、ちょ……ちょっと」
「むむむ、これは不味いか?
ルナ嬢、はよう! はよう俺の背中に」蟹は加速する
「はようって……ま、待って、別にそんなに……ちょ」
少女が全身を震わせ、安堵の余りに腰が抜けたことに思い至らず。
蟹は少女の全身を隈無く鋏で叩き、触り、そして持ち運ぼうと、少女の腰と尻を鋏で持ち上げた。
「えう、あ、あんたどこ触ってんの!?」
「……うむ、ルナ嬢、おお……よしよし……怖かったろうな……混乱するのも無理はない。
そうだ飛翔でエミダリに帰らなければな、急がねば後遺症がっ!!」
少女が汚れた金髪と赤面した顔を震わせている。
蟹が慌てに慌てて、口から泡を吹き出して、少女を抱えたまま左右に意味もなく反復横跳びする。
少女が耐えきれずに言葉を作る前に、呆れたような声音が響いた。
「落ち着きなさい」とレセの声。
冷たい印象を与えるその美貌も、茶色に汚れながらも見事な存在感を放つ金髪を触りながら、
蟹を呆れたように見つめていた。
執事のウォルトンは蟹を可笑しげ見やり、白い手袋で髭を触っていた。
「傷は別にないはずでしてよ?」
「う、うん? ではどうしていきなり地面に倒れたのだ」
「安心したのでしょう?、というかそれくらいわかりませんこと?
まったく……親馬鹿な蟹ですわね」
「ええ……過保護な蟹ですな!」と執事が呟く。
「むう、俺が過保護? 親馬鹿ぁ? まさかぁ!」と蟹は鼻で笑う。
レセとウォルトンが同じタイミングで顔を合わせる。
――自覚がないのかしら。
――そのようで。
とアイコンタクトしてる間にも蟹は少女を気遣う。
己の傍に見える黒い眼に向かって、ついに耐えきれなくなった少女が声を荒げた。
「い、いいから、いい加減に離してくれない!?」
「むう、しかし」
「しかしも案山子もないから、ったく、大丈夫よ」
「ほんとかー? ほんとうにほんとかー?」
「しつこいっ!」
そして少女が真っ赤な顔を怒らせて、どうにか立ち上がる。
傍に落ちている黒い刃に気付き、それを拾うために屈む。
蟹は、その姿を見つめている。
どうやら少女の言が真であるらしいと判断して、やがて落ち着いたような声を出す。
鋏をこれ見よがしに、人間であったなら両腕を組んでいるように顎と額の前で交差させる。
「ふむ、流石ルナーレだ、心配するまでもなかったな、いやはや、俺は信じていたぞっ!!」
「あ、あんたねぇ」と少女が振り向いて呆れたような声を出す。
元令嬢レセはじと目で蟹を見つめる。
蟹は鼻歌を歌っている。
青い肌とすべすべした甲羅が惚けたように光を放っていた。
少女はいつもどおりの蟹の巫山戯たようすに溜息を吐く。
ようやくの安堵と安心。どっと疲れが押し寄せてきたように感じる。
周りには呻き声、唖然としたような未だ生きている山賊の男たちの声が響いていた。
これからどうすべきなのかしら、と少女が首を捻る。
未だ感謝と照れの心持ちから頬に赤みが差している。
元令嬢レセが全身をほぐし、付き従う執事とともに、未だ命のある男たちを荷袋に収めていたロープで縛り上げていた。
……
…………
「……しかしまあ、今回の件は俺の落ち度だ、久方ぶりの外の世界。
勘が鈍っていたかのか……許せルナーレ」
場が落ち着いたの見計らってか蟹がそう言った。
「まさか! 油断してたのはあたしだって同じじゃないの!」
「それはわたくしだって同じことですことよ?」とレセが言った。
「執事の私めも、本来ならお嬢様の一挙手一投足、見守っているべき立場」同じくウォルトン。
三者と一匹は、現在、山賊たちの残していったテーブルの前に座っていた。
倒れていた男たち、戦意喪失していた者たちは軒並み縛り上げて、今は倉庫らしき洞窟へと放り込んでいた。
「埒があかないから、やめましょうよこの流れ」
「そうか、だが最後に一言言わせてもらえればなルナ嬢」
「……? なによ」
「よく頑張ったな」
蟹の声はどこまでも温かだった。
そして少女は今日一日を思い起こす。
間違いなく人生で一番長い日だった。
既に沈みきった太陽が、深い蒼の夜に隠れているこの一日は、とても密度の濃い一日だった。
魔獣、亜人、そして人。
この手で命を奪った。
人の容貌をした者の命を奪った。
思い起こせば、震えそうになる。
なぜならば弱い心が死んだ訳ではないから。
それでも、こうして蟹の声を聞いて、そっと鋏を労うように膝の上に置かれると。
大変だった一日の、何かが報われたような気がした。
恐怖からも、動揺からも、襲われたことのショックからも抜けだした訳ではない。
だけれども今だけは、蟹のその黒い眼――慈愛に満ちた眼差しを見つめて、
「大したことなかったわよ」と強がることが、ルナーレには出来た。
レセがその光景を眩しそうに眺め、執事が微笑ましそうに笑みを浮かべる。
そして蟹と少女は、しばし見つめ合う。
そこには友情。そこには信頼。そこにはいつしか確固とあった絆。
――そこあるのは温かな心地。
心配性の蟹――心配性の相棒を見つめて、少女は、今日一日を絶対に忘れないと、心に誓った。
16
ここまでの長い長い一日が、今回の蟹と少女の冒険の全てであった。
得るモノは多く、失うモノも多少なりともあったが、前者に比べれば、後者は塵芥に過ぎないだろう。
この先にあるのは簡単なやりとりだけ。
例えば、
「どうするの?」と少女が問いかけ。
「今日はここに泊まればよい」と蟹が答える。
「ここに?」とレセが言い。
「ふむ、危険ではないですかね?」と執事が泰然と給仕する。
四者が干し肉と、黒パン、キュウリの塩漬け、キャベツの酢漬けをサンドイッチのようにした者を腹に収め。
火を利用して、鍋で香草と塩、野草、干した茸などに山賊のアジトに蓄えられていた肉を煮込んだ汁物を啜り。
夜の澄んだ空気のなか、寒さと温かさの同居する食卓に着いて。
霞むように遠くに見える月、そばに無数の雲を漂わせた月を見やるだけ。
どこまでも見通せるような空気――森からは獣の声。魔獣か、鳥か、得体のしれない鳴き声が響くような世界。
ふわふわと綿のように、鍋からの湯気が肉の旨みとともに香り出して。
香草が浮かぶスープの表面には肉汁――僅かに黄色がかったスープには鳥の旨みが充分に染みこんでいることが窺え。
少女が腹の音を鳴らしてしまったのも無理のないできばえのそれに四人が舌鼓を打つ光景。
「ふむ、いい色だ」
「ええ、執事特製スープ、お嬢様の好物でございます」
「蟹の君……ペンタ様は、お強いのですね」と好奇心に満ちあふれたレセが危険な色合いの眼光を潜ませる。
このようなやりとり。
あるいはその後で、
縛り上げた男たちを放り込んだ洞窟を前に蟹は仁王立ちをして。
蟹が己の全精力を注ぎ込み周囲を警戒して、ここで夜は明かされる。
そして翌日には、予定通りの時刻までに、彼らはウィンダムへと到着する。
驚くほどに呆気なく、平坦な道のりを行くように。
山間の村に到着して、依頼人に荷物が渡されて、少女は満面の笑みを浮かべながらも、感極まって涙を流す。
蟹は微笑ましそうにそれを見て、そして元令嬢レセは眩しそうにそれを見る。
執事ウォルトンも負けず劣らず優しさを表して、彼らはその任を終える。
そのような場面があるのだろう。
それだけの単純な時間ながらも温かな時間を、私はここに記さない。
それはとても単純で、とても温かで、簡単なことだから。
だからこそここで記憶を終わろうと思う。
少女と蟹の初めての特殊任務は、このように幕を降ろしたのだった。
『大きな蟹がお歌を歌って泡をぶくぶく
大きな魚と闘った。
最後にゃ蟹が、打ち勝って、そいつを腹に、収めちまう!
大きな蟹は、さらに大きく、蟹はさいごにゃ河の主!
世界を覆った海の主、偉大な海王さえも一目おいた!
海の散歩し、河を散歩す、我らが蒼の、賢者様!
彼こそ河の主なり!
そして一匹海を散歩して、向かうところに敵はない。
泡をぶくぶく、泡をぶくぶく。
我らが蟹の主様! そいつは偉大な河の主!
大きな蟹はお歌を歌って泡をぶくぶく
大きな蟲と闘った。
巨大な蟲が、やってきて、河と山を、食べちまう!
大きな蟹は、怒り出し、大きな蟲と一騎打ち!
三日三晩の戦いは、山を削って川が削れて、一大事!
最後にゃぁ蟹は蟲の皇、驕れる敵をやっつけた!
彼こそ河の主なり!
そして世界を散歩して、今日も彼は、楽しそう!
泡をぶくぶく、泡をぶくぶく、何回も!
彼は河の主様、偉大な偉大な王子様。
いつでもどこでも王子様、泡をぶくぶく、泡をぶくぶく』
「ナンデスカ、ソレハ?」
「うん? 俺のことを歌った唄だよ」
「……ソレヲ自分デツクッタノデスカ? デンザロス」
緑がかった皮膚、キチン質とタンパク質の滑らかさ、擬態的とはいえ人型を作っている『侍女』の佇まいは文字通り侍女そのものであった。
清楚なエプロンドレス、目もとを覆う青色の髮はパッツンと切られ、その下に窺えるのはダイヤモンド型の瞳、そして人型そっくりの顔つき。
『勇者』シェンペルをして、地軍の女性陣の中で最も清楚とした魔将であった。
「まさか! ……うむ、俺の地元の人間やら亜人やらが歌ってくれたのだよ」
「ソウデスカ……ソノ」
「ん?」
「コノ蟲トイウノハ、モシカシテ」
「……うん、まあお前のことだな」
巨大な、館ほどもある大きな蟹を見上げる侍女は、どこか不満げな雰囲気を纏わせた。
かつて『侍女』が初めてまみえたときよりもさらに大きな偉容の蟹。
侍女は鋭角な両腕を白いエプロンの前で上品に組んで、そこはかとなく不満を表す。
「ふむ、もしや不満……なのかねジュチャ」
「マサカ! デンザロス、ソンナコトハナイデスヨ?」
そして首を傾げる『侍女』。ぱらぱらと揺れる侍女の髮は美しい体毛を織ったものだ。
「もしやあの時の傷をまだ恨みに思っているのではあるまいな」
「……デンザロス、アナタニ切ラレタ脚ト腕ハ全部再生シテイマス!
ソシテ、アレハスベテ一〇〇〇ネン以上マエノコトデス! オコッテナドイマセン!!」
「うむ、分かった、分かったから……やっぱり根に持ってるじゃないか、うむ」
「モッテイマセン!! デンザロス、ワカッテマスカ! デンザロス」
甲高い、鈴虫や蝉を思わせるような声音は、紋章により不思議と不快ではないような音色に調整されている。
ぷんすかぷんすかと、膨らんだ胸部部分を上下させて、彼女は硬質な雰囲気をますます強める。
『大蟹』デンザロス苦笑のような音を作って、優しく『侍女』に語りかけた。
「ううむ、それを言うならば俺だって脚を5本も自切したのはあれが最初で最後だぞ?
ほれみろ、この部分、少し色が違うだろう?」
「……女性ノキズト男ノキズヲ一緒ニスルモノデハアリマセン」
「やっぱり気にしてるんじゃ……」
「シテマセンッ!! シツコイデスヨデンザロス」
蟹は鋏を打ち鳴らす。
巨大な鋏が綺麗な音、木琴を思わせるような音を鳴らす。
「……でも、俺はこの傷が嫌いではない」
蟹の言葉に意表を突かれたように姿勢良く、背後に蝶のような羽を生やした『侍女』は再び首を傾げる。
「お前と出会った証であるからな……」
「……デンザロス」
「我が宿敵と、今は友ではあるがな、ジュチャ、今思えばな、言葉こそなかったが、
俺はお前との戦いを、愉しんでいたのだよジュチャ」
「……ホントウ、デスカ?」
「こうして姿の変わったお前と再会するまでの四〇〇年間、俺は常に寂しさを感じてたように思う」
『侍女』は、かつての姿を封印し、今は人型に変じている蟲の女王は、リンと吐息を漏らして、
無意識的に胸の前で手を組んでいた。
彼女の脳裏に浮かぶのはかつての蟹。
猛々しく、敵などないと驕っていた己を魔導と魔法、そして肉体的にも互角の能力をもって打ち破った蟹の姿。
無数の腕がもがれ、節足が、鎌が、そして羽がもがれた。
それは彼女の前に初めて現れた偉容、そして敵だった。
強大な魔獣どもを相手取り、己の強さを傲慢にも誇っていた未だ若き魔獣だった頃に、その傲慢を挫いた相手。
「アノトキハ、死ヲ、覚悟シマシタ……」
「ふむ、俺にも殺せるだけの余力などなかっただけなのだがな」
「何度モリベンジ、シマシタ」
「強かったぞ、ジュチャお前は」
「カッコヨカッタデスヨ、デンザロスハイツモ……アナタノオ陰デワタシハ、イマ此処ニイマス」
いつしか『侍女』は微笑んで、蟹の巨大な眼を見つめていた。
背中から現れた幾つもの手や足が、蟹の鋏に伸ばされ。
空から降り注ぐ光を受けて優しく光る蟹の鋏はそっとその幾つもの腕に伸ばされた。
「アリガトウゴザイマス、デンザロス」
「楽しい日々だったぞ、ジュチャ」
「コレカラモ」
「うむ、願わくはいつまでも」
「エエ、イツマデモ」
「友達でいたいなぁ」
「ハイ」
そして亀の甲羅の上で、蟹と侍女は友情を誓い合う。
そこにあるのは特別な友情、一匹の蟹と、一匹の蟲の、変わることなき永遠の友情であった。